今日の散歩は飛鳥山、渋沢栄一旧邸の界隈(北区)・渋沢翁ゆかりの館と偉業!
春ともなると飛鳥山は桜一色!
江戸時代から王子の一帯は江戸っ子にとって極めつけの行楽地でした。
なかでも西ヶ原村の飛鳥山は花見の名所として知られていました。いまは北区を代表する公園として桜の季節は凄い人出になります。
ソメイヨシノを中心に約650本が植えられてあるそうです。
そもそもは享保年間に8代将軍・徳川吉宗の発案によって植えられた桜樹がル-ツということですから、長い歴史をもった桜山ということになります。
「品川御殿山」や「墨田堤」などと同じですね。
『江戸切絵図』の色濃いところが王子・飛鳥山の行楽地でした。左の山は筑波山ですね。
ということで、以下、そんな歴史背景をもつ散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
德川吉宗の心意気がそそがれた江戸の三大花名所のひとつ飛鳥山!
ちなみにこのコ-スは、「JOINT・SANPO」(ジョイント散歩)が可能です。近接のコ-スと合わせぜひワイドな散歩をお楽しみください!
JR王子駅の中央口を出て左折すると目の前が「飛鳥山公園入り口」です。
飛鳥山モノレ-ル(あすかパ-クレ-ル)が公園入り口から山頂まで2分で結んでいます。
車両の形がかたつむりに似ていることから「アスカルゴ」という愛称がつけられています。子供には喜ばれそうな乗り物です。
飛鳥山モノレ-ルを横目にして左の坂道をのぼることにしましょう。
左手には雑然とした堂宇らしきものが得体を押し隠すかのように並んでいます。
ずっと何年も変わらない景色です。通るたび摩訶不思議な光景としてみていたのですが、ある日、地元の人にたずねたら、「昔はお寺だったみたいですよ」とのこと。
飛鳥山観音とも、聖徳院ともいわれていたらしいです。こんなふうにある経緯は何なのかわかりませんが、せっかくなら寺院らしき佇まいに整備したらよいのにと、もったいない気がしています。
『江戸名所図会』 右手を流れる石神井川によって分断されています。飛鳥山に回り込む道は「日光御成街道」。
飛鳥山 低地から仰ぐと、確かにこんもりとした山にみえますが、山という概念からするとややオ-バ-で、小丘陵ですね。
飛鳥山( 25.4メ-トル)は武蔵野台地の中でもっとも東側にあり、上野から日暮里、田端を経て続く丘陵地の一角を成しており、石神井川(このあたりでは音無川)によって分断されたところに位置しています。
飛鳥 山その ものは元享年間(1320~1324)、に豊島(としま)氏が飛鳥伺(紀州新宮の飛鳥明神の分霊)を 建てたとされ、それが山の名の 由来であるといわれています。
山そのものはケヤ キ主体の雑木林 であ ったようです。
江戸時代の※『江戸名所花暦』(えどめいしょはなごよみ)にも、
「八重一重の桜数千株を植えさせられ、花盛りのころは、木の間に仮の茶店をしつらいて群集す。遥かに東北をながむれば、足立郡の広地、眼下に見えて、荒川のながれ白布を引くごとく、佳景いふばかりなし」
と書かれています。
※『江戸名所花暦』 文政10年(1872)に刊行された、江戸の代表的な行楽ガイドブック。岡山鳥(おかやまとり)が花鳥風月の名所を四季に分けて紹介し、『江戸名所図会』どうように、長谷川雪旦が挿絵を描いています。ワタシの必見参考書のひとつです!
飛鳥山そのものは、元来、地元滝野川村の領主であった旗本・野間氏の所有地でしたが、吉宗は桜山にする目的でこれを召し上げ、それも官地では庶民も肩苦しかろうと、さらにそれ王子権現(別当・金輪寺)に寄進するという凝りようだったといいます。
そしていよいよ享保6年(1721)、飛鳥山の全山に1000本の桜を植えさせたのでした。
桜の花見というと上野のお山も有名でしたが、あちらは将軍家の菩提寺である寛永寺の境内でしたから、歌舞音曲が禁じられていました。
つまり、派手などんちゃん騒ぎができませんでした。それに比べると、飛鳥山は「飲めや歌え」の花見ができました。茶屋や娯楽施設もありました。
德川吉宗の目論見通り、江戸庶民のための花見の名所となりました。つまり江戸っ子の憂さ晴らし、ガスぬき場の意味合いをもたせたものでした。
我が意を得たり!と 吉宗は、元文2年(1737)3月11日、自ら進めた業績を寿ぐかのごとく、飛鳥山で酒宴を催したといいます。
そして同年の閏11月には吉宗の強い意向もあり、その事蹟を顕彰するため「飛鳥山碑」を建立させたのでした。
それが今日公園の中央部あたりに風化せず残っています。
本来覆いはありませんでした。碑の前に立つわたしたちも、昔の人と同じ…ウ~ン、難解!
飛鳥山碑 元亨年間( 1321~24)に豊島氏が熊野の飛鳥明神を勧請したといった、紀州・熊野につながる飛鳥山の言い伝えや、将軍・徳川吉宗による桜の植樹、野間氏が所領替えしてくれた事績など、多くは紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味をもたせたものとなっていました。
王子権現別当・金輪寺の住職・宥衛(ゆうえい)が、幕府の儒臣・成島道筑( なるしまどうちく)をして建立させました。見識のある道筑は中国の五経のひとつ、尚書( しょうしょ)の文体を取り入格調高いものに仕上げました。
『江戸名所図会』 上段は「飛鳥山八景」の紹介で、下段は「飛鳥山碑」の挿絵。お花見の気分がよく出ていますね。
そんなことで、ともかく素人にはなかなか読めないしろもので、建立当初からズバリ読める者はほとんどおらず、江戸っ子たちには何ともチンプンカンプンなものとなっていました。
「飛鳥山 何と読んだか 拝むなり」
「この花を 折るなだろうと 石碑みる」
とか、したり顔でわかった風にいつまでも眺めている者など、川柳や絵画の格好のネタにされたといわれます。
こんなことを想像しつつ『江戸名所図会』の挿絵を眺めると何とも微笑ましいですね。
碑に用いた石は、江戸城吹上庭園にあった紀州特産の青石を使ったといいます。これまた吉宗のこだわりでした。
「飛鳥山碑」は江戸時代を通じて飛鳥山のランドマークとなり、芝山と桜と石碑を描けば、それは飛鳥山と即答されるほど江戸っ子に周知されたものになっていました。
飛鳥山の東方に広がった眺望は見事でした。
眼下に広がる三河島田圃から関東平野が見渡すことができ、さらに遠くには右の男体と左の女体の二つの頂をもつ筑波山が見えました。
近くに佐久間象山の詩文を刻んだ名碑があります。
桜賦の詩碑(さくらふのしひ)
佐久間象山の「 桜賦」の詩歌が刻まれています。象山50歳の万延元年(1860)の作といわれています。
勝海舟ら門弟によって明治14年(1881)に建立されたものです。
当時、象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座し、信州松代に蟄居(ちっきょ)中の身でした。
馥郁とした桜花に重ねて、幽閉の身であるが、自ら愛国の志は堅いことを詩文にしています。
京都で攘夷派に暗殺されたときの遺品。血染めの袋が埋められているそうです。
聖観音菩薩像 彫刻家・赤堀信氏が昭和51年(1976)に飛鳥山公園に建立し北区へ寄贈したもの。
朝倉文夫に師事し、肖像彫刻にすぐれた作品を残しています。尾崎咢堂(がくどう)胸像、鶴見区総持寺の「桜木観音」などが有名なところです。
山の端から※土器投げ(かわられなげ)に興じる人が浮世絵に描かれています。飛鳥山は「かわらけ投げ」(瓦投げ)が有名でした。
公園の茶店があるあたりの高台から線路の方をめがけで投げたようです。
その場所に立って崖下を見下ろすと、東北本線・京浜東北線・東北新幹線・上越新幹線・長野新幹線の列車たちが分刻みで通過してゆきます。
※土器投げ 厄よけなどの願を掛けて、高い場所から素焼の土器(かわらけ)を投げる遊び。古くからの観光地や、高いところにある花見の名所などでは、いまもかわらけ投げの場所が残っています。
茶店の横の眺望のいいところから線路の方めがけてエィッと投げたのでしょう。
茶店の近くに上部の一部が欠けた碑文があります。
船津伝次平の碑 明治32年( 1889)建立。大久保利通の招きで駒場農学校農場監督となり、後に西ヶ原の農事試験場技師として農業の発展に努めた船津伝次平の功績を顕彰したものです。やはり飛鳥山では由緒ある碑のひとつと言えるでしょう。
この碑の裏手にまわると「飛鳥山古墳」があります。これからさきはかつての渋沢栄一邸の庭の範囲ということになります。
古墳に隣接して、児童エリアありがあり、その一角に都電とか機関車が展示されています。
D51・都電車輌 かつて都電荒川線を走った6000形電車と、デゴイチの名で親しまれたD51蒸気機関車が保存されています。どちらも中に入れます。
D51 昭和47年6月まで現役で走っていた。昭和18年の製造。配属(吹田機関区→梅小路機関区→姫路機関区→長岡機関区→坂田機関区)となっています。走行距離1.942.471.3Kメ-トル。(案内板から)
飛鳥山1号古墳 円墳が合計6基見つかっています。飛鳥山1号古墳といい、古墳時代後期の円墳で、直径は31メ-トル、周囲に3.8メ-トルの周溝が発見されています。
切石を利用した横穴式石室が発見され、その石室部分からは太刀の一部、切子玉、ガラス小玉、鉄鏃、耳環、管玉、切子玉などが出土したといいます。
6世紀頃の開拓者の、主張クラスの古墳群であるらしいと考えられています。
渋沢邸内にも築山と呼ばれる盛土がいくつかみられます。
まだ武蔵国が、藤原宮の木簡にみる「无耶志国」(むさしこく)と記されていた時代。
无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)配下の豪族が、このあたりを統治していたと推察できる古墳のようです。
「北区飛鳥山博物館」では、発掘品などの詳しい解説を読むことができます。
広い飛鳥山をめぐるのにとても重宝する一冊です。ハンドブックとしてどうぞ!
大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一が晩年をすごした飛鳥山邸!
渋沢栄一のプフィ-ル
天保11年(1840)~昭和6年(1931)、埼玉県深谷市血洗島の豪農の家で生れました。
農民から尊攘志士へ、徳川慶喜との出会いをもって家臣・幕臣となった。27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟(水戸藩主・徳川昭武)に随行しパリの万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情を見聞、先進諸国の社会の内情に広く通ずることになりました。
帰国後は明治政府に奉仕し、大蔵大輔・井上馨のもとで財政政策を遂行。
退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立・経営に関わり、商法講習所(現・一橋大学)の設立にも尽力し、
それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称され、また論語を通じての経営哲学が有名です。
2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は渋沢栄一。放送によりにわかに注目されているのが渋沢栄一の著した『論語と算盤』。
関連本がたくさんありますが、まずはこの一冊でしょう!
『論語と算盤』こちら↓で耳で聴くこともできます!
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また「養育園」を通じ近代福祉にも大きな貢献をしました。
昭和4年(1929) 90歳のとき、インドのの詩人タゴールを飛鳥山の自邸に迎えています。
昭和6年(1931)11月11日、 92歳で飛鳥山の自邸で永眠しました。
そしていよいよ、令和6年(2024)より新紙幣一万円札の顔となります。
現在、渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送されています。
そのタイトル『青天を衝け』は、
若き栄一が「藍玉」(あいだま)を売るために信州に旅したとき、険しい内山峡で読んだ漢詩の一節『勢衝青天攘臂躋気穿白雲唾手征』(青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む)からとられたといいます。
渋沢栄一旧邸・庭園 渋沢栄一は明治11年( 1878)、飛鳥山の南側の一角に土地を買い求め、日本橋兜町の邸宅(兜町邸)から翌年ここに移り住みました。
初めは接待用の別荘( 本邸は子息のいた三田綱町)として使っていましたが、明治34年( 1901)、61歳からは本邸として使用し、昭和6年( 1931)、92歳で亡くなるまで、30年間ここで暮らしていました。江戸時代に生まれ、昭和6年まで生きたというのは、凄いのひとことですね。
茶席待合跡 茶席「無心庵」への途中に待合がありました。ちょっと腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。軒下の踏石、礎石などが当時のまま残されています。
茶席「無心庵」跡 茶室の設計は茶人としても有名な実業家・益田孝の弟、益田克徳と柏木貨一郎といわれています。京都裏千家の茶室などを参考にして明治32年(1899)年に建てられました。
栄一はさっそく茶室披露の茶会を催しています。日記をみるとそのときの顔ぶれがわかります。
『渋沢栄一伝記資料』に基ずく「渋沢栄一詳細年譜」には、
明治32年(1899)7月18日
「是日、益田孝・下条正雄・馬越恭平・益田英作・浅田正文を、翌十九日、大倉喜八郎・近藤廉平・梅浦精一・皆川四郎・高橋義雄を、次いで二十六日、佐々木勇之助、市原盛宏・佐々木清麿・西園寺亀次郎・清水泰吉・足立太郎を飛鳥山別邸に招きて、茶室披露の茶会を催す。爾後栄一、数年に亘り時に同所に茶会を開き、又、招かれて安田邸・益田克徳・益田孝等の催せる茶会に出席す。
そうそうたる面々ですね。
何人のゲストが茶室に至るこの飛び石を踏んだことであろう?
茶席「無心庵」へは飛び石づたいに招かれる。飛び石がずっと続いています。不揃いながら趣深い敷石の配置とその形のよさ。
数多のゲストわ招いてゆかしき茶室も今は夢幻
茶室・無心庵の中心がこのあたりだったでしょうか。
兼田昌尚 萩刳貫珈琲器
言問えば茶するが価値か。萩焼に「刳貫」の技法を取り入れ、国内外で一躍注目を集めている作家。
器の外側の姿とカタチ。カンナで刳り貫いて器の内側を成形してゆく技法!
名器でいっぱい、至福のひととき!
渋沢栄一が徳川慶喜らいずれも茶の湯好きを招いた茶会も無心庵でした!
明治38年(1905)7月22日
「是日栄一、王子飛鳥山別邸に、徳川慶喜・伊藤博文・井上馨・桂太郎・益田孝・下条正雄・三井八郎次郎を招き、茶室に於て午餐を供す。尚是年、飛鳥山邸内茶室に於て、外国貴賓に抹茶の手前を見せしむる等の催しをなす。」
渋沢栄一が德川慶喜を伊藤博文・大隈重信に引き合わせたのはこの茶会席でのようです。徳川慶喜は渋沢栄一にとっては大恩人で、慶喜最後の寵臣でした。名列に大隈重信の顔がみえないのは抜け落ちたのでしょうか。
それにしても豪華な茶人たち。どんな名器が用いられたのてしょう。
侘び寂び茶室にくらべると外野は豪壮さを備えていたのだろうか
主なきあとの大きな石、無造作に置かれた灯篭や石枠。茶人たちが集った茶席空間はいまは夢幻が漂うだけ。
昭和20年(1945)の空襲で茶室をはじめ多くの建物が灰燼に帰してしまいました。焼失を免れて現存するのがこれから行く青淵文庫、晩香廬です。
邀月台(ようげつだい)跡 案内板によると、無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台があったそうです。
その当時、ここからは渋沢栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く下総の国府台や、さらにその北には、筑波山の雄姿を望むこともできたといいます。
名月をして茶を喫する。そんなときもあったのでしょう。侘び寂びの極み、まさに醍醐味です。
兜稲荷社跡 渋沢家の屋敷の守護神でした。
案内板によると、日本橋兜町の第一銀行構内にあったもので、洋風の珍しい社です。
明治30年(1897)、第一銀行改築時に現在地に移築。昭和41年(1966)、いったん取り壊されたのですが、基壇部分や灯籠等はそのまま残されたといいます。
三井の守護神である向島の「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)から分霊を勧請し、「兜社」と名付けられ、その後に第一国立銀行に引き継がれたとあります。
迎賓館ともなった「晩香廬」と書庫「 青淵文庫」・喫亭「山形亭跡」などをしのぶ!
敷地面積、約2・8ヘクタ-ルほどの敷地に和館と洋館を繋いだ母屋を中心にさまざまな建物が建てられ、庭園は「曖依村荘( あいいそんそう)」と名付けられていました。大好きな陶淵明の詩「帰田園居」にちなんで名付けられたものといいます、
現在は「晩香廬」と「 青淵文庫」、この二つの建物を中心に旧庭園部分を残した区画が、飛鳥山公園内の 旧渋沢庭園」となっています。
では庭と建物を散策してみましょう。
青淵文庫( せいえんぶんこ) 「 青淵」は渋沢の雅号。大正14年( 1925)竣工。渋沢栄一の米寿の祝いと男爵から子爵に昇爵した祝いを兼ねて門下生の団体である「 竜門社」(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)から贈呈されたものです。
伊豆産の白い安山岩の外壁と煉瓦構造の洋館二階建てで、渋沢栄一の論語関係の書物の保管庫とされていました。よって資料を火の手から守るため、防火扉も使われ全体的に堅牢に出来ています。
外壁の家紋をモチーフにしたタイル装飾が象徴的です。渋沢家の家紋「丸に違い柏」はステンドグラスにも使われています。
渋沢栄一が収集した論語関連の書籍の収蔵と閲覧を目的としたものでしたが、関東大震災で焼失した書籍も多く、実際には賓客の接待などに使用されていたといいます。
余談になりますが、渋沢栄一が飛鳥山に別荘を構えたのが渋沢栄一39歳のとき。この同じ時期に、飛鳥山からわずか1キロたらずの西ヶ原に、※「旧古河庭園」が開かれています。これはまったくの偶然ではないようです。
渋沢栄一と古河財閥との結びつきが濃いこともありましたが、何よりも陸奥宗光は渋沢栄一に私淑しており、何としても飛鳥山の渋沢家に近いところに邸宅を構えたかった。それと東京から足尾銅山に行く通り(日光御成街道)にあたっているので好都合だったからとも解されています。
※古河庭園 陸奥宗光(外務大臣・条約改正に貢献)の邸宅でしたが、宗光の次男・潤吉が古河市兵衛(足尾銅山を有し「鉱山王」といわれた)の養子となった時から古河家の所有となり、今日「古河庭園」と称されています。
以下、お手数ですが、クリックしてご覧ください。
晩香廬(ばんこうろ) 晩香廬は「バンガロ-」の音から命名したものたのだそうです。
洒脱なネ-ミングをもつ小さな山小屋風の洋風茶室、ゲストル-ムです。時には内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとしても使用されました。
渋沢栄一の喜寿を祝して清水組(現・清水建設)の清水満之助が寄贈したものです。
清水組にとり渋沢栄一は大恩人。長年の清水建設への支援に対する お礼の気持ちを込めてのものでしょう。
以下、お手数ですが、クリックしてワイドにご覧ください。
淡いクリーム色の外壁。隅々に用いられた茶褐色のタイル。内部の暖炉・薪入れ・火鉢など、机・椅子といった家具にも、設計者の心遣いが見られます。
以上みてきた晩香廬・青淵文庫の建物、ともに田辺 淳吉(たなべ じゅんきち)の設計です。
田辺淳吉 明治12年(1879年6月26日~大正15年(1926)7月13日。大正期に活躍した建築家。清水組(現清水建設)の技師として銀行、学校、邸宅等を設計し、後に独立。
現存する建物では深谷の誠之堂、目白の日本女子大学成瀬記念講堂、富山銀行本店本館(旧 高岡共立銀行)など。略歴をおうと、建築学的には「田園趣味など、ア-ツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けた建築作品として位置づけられている」とあります。
深谷の渋沢栄一生誕地にある「誠之堂」。あの建物をみるとア-ツ・アンド・クラフツの思想の一端がわかるような気がします。晩香廬・青淵文庫にもやはりその思想が流れているようです。
アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)
イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834年~1896)が主導したデザイン運動で、美術工芸運動ともいわれるようです。
「山形亭」跡にある六角堂を模した藤棚。
かつては建物がありました。渋沢栄一がいちばんくつろげる場所だったとか。ひとりのんびり庭を眺めながらお茶でもすすっていたのでしょう。
渋沢栄一の還暦の記念銅像です。
渋沢栄一銅像 「晩香廬」脇の庭に立つ台座付きの立像。フロックコート姿は渋沢栄らしい。表情は若さを感じさせます。コートの裾や腰に手を当て紳士風にやや古風に制作されています。
明治34年(1901)11月、渋沢栄一の還暦を祝し第一銀行(兜町)の中庭に建立されました。明治の彫刻家・長沼守敬(ながぬま・もりよし)の手になるもので、のち転々としたあと、飛鳥山に移されたといいます。
都内には顕著なものとして常磐橋公園の銅像・板橋養育園跡の銅像といくつかありますが、一番古い銅像がこれでしょう。
都内にある渋沢栄一像の総まとめはこちら→東京の渋沢栄一像をめぐり~新1万円札の顔、日本資本主義の父~に会う!
渋沢栄一詳細年賦をみると、明治34年11月23日のところに、
賀寿/還暦]
是日栄一、王子飛鳥山別邸に於て還暦内祝の園遊会を催す。
とあります。この年に兜町邸を事務所として、飛鳥山邸を本邸としています。
飛鳥山公園の多目的エリア
ここは幻のオリンピックグランド跡です。
昭和2年(1972)、 来るべき(※)東京オリンピックの会場を想定し、運動場を整備しましたが、開催中止となったため、空地のまま放置されていました。のちにそこを公園化したものです。山肌を削っていますので公園より一段低くなっています。
(※)1940東京オリンピックは、昭和15年(1940)9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックでしたが、戦時下に入り中止となりました。よく「幻のオリンピック」といわれます。
飛鳥山公園内には3つの博物館があります。好きなように見学するのがいいですね。
3館共通券がありますから利用するのがお得です。
紙の博物館
北区堀船にあった「王子製紙王子工場」は、明治初期、渋沢栄一によって日本最初の洋紙工場として開業しました。その跡地に「製紙記念館」として設立されたものです。昭和25年(1950)、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示する紙の総合博物館として誕生しました。
平成10年(1998)年、飛鳥山公園内に移転。
紙に関する資料は50.000点を超え、紙に関しては世界有数の専門性を誇っています。博物館の所蔵物は、平成19年iに経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されました。
製造用の機械の展示、製造工程の紹介、和紙・洋紙の歴史の紹介、紙幣のことなど学ぶことが出来ま。
毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、大変人気があります。
渋沢史料館
飛鳥山に本邸を構えていた実業家・渋沢栄一に関する資料を収蔵・展示するため昭和57年(1982)に開館しました。渋沢栄一の活動歴や生涯が分かるようになっています。
「晩香廬」「青淵文庫」の内部公開も行っています。管理・運営は「公益財団法人渋沢栄一記念財団」がやっています。
入口左手に渋沢栄一の顔像があります(制作者:小倉右一郎)
北区飛鳥山博物館
北区の郷土資料の保存ほか、考古・歴史・民俗・自然などの常設展示をしている。平成10年(1998)3月に開館。飛鳥山付近で発見された縄文人の骨格や、土偶、土器、貝塚、丸木舟などを展示。「律令時代と豊島郡衙」のコ-ナは充実しています。
この「飛鳥山博物館」内に、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の大河ドラマ館が、2021年2月20日(土)にオープンしました。
あまり関心ないものですから延ばしのばしにしていたのですが、ようやく重い腰をあげ行ってきました。
※ここのところは追加記事で、幕が閉じたら削除いたします。
館内はドラマのタイトル「青」を基調としたデザインで統一されています。
渋沢役の吉沢亮、徳川慶喜役の草彅剛ら出演者が使用した衣装、撮影等で使用された小道具などが展示されています。
重文でもあれば別ですが、そういったものはないですから、ほとほと退屈しました。
ドラマ好きにはいいかもしれませんね。
開設期間 2021年12月26日(日)
開館時間 通常9時〜17時(最終入館は16時30分)
休館日 毎週月曜日(国民の祝日・休日の場合は開館し、直後の平日が振替休館)
料金:大人(18歳以上)800円(640円)、小中高生400円320円)、未就学児 無料
※カッコ内は、団体入場券・前売券の料金
住所 東京都北区王子1-1-3 北区飛鳥山博物館内
近況の状況など詳しくは公式サイトでお調べください。
公式サイト:https://taiga-shibusawa.tokyo/
飛鳥山公園の東側が渋沢邸の表玄関でした。
本郷通り(日光御成街道・岩槻道)に面していました。
これから本郷通りを南北線・「西ヶ原」駅まで歩きましょう。
本郷通りを数分も歩くと左手に枝を広げた樹木が聳えています。江戸時代の一里塚です。
西ヶ原一里塚 日光御成道( 岩槻街道)の2番目の一理塚です。
大正のはじめ市電の延長のため撤去される運命に遭ったとき、渋沢栄一や地元町民たちが保存を要請、そのことから一里塚をさけて軌道がつくられたといいます。
道路がここだけ左右二又に分かれているのはそのためです。こうしたいきさつは「 二本榎保存碑」に刻まれています。
最後に神社をお参りしておわることにします。
飛鳥山邸を本邸とした渋沢栄一は西ヶ原の鎮守・七社神社の氏子でした!
七社神社(ななしゃじんじゃ) かつては、この近くにある無量寺境内に、七所明神社として祀られていたといいます。
高野山四社明神と天照大神・春日・八幡の7柱を祀っていることから、七所明神と呼ばれ、西ヶ原村の鎮守でした。
明治の神仏分離令により、無量寺境内から、西ヶ原神明宮の社地(当地)へ遷座、神明宮を末社とし、七社神社として祀られています。
飛鳥山に本邸を構えた渋沢栄一は七社神社の氏子となり鎮守神を崇敬しました。
拝殿の渋沢栄一揮毫の社額
神社には渋沢栄一の揮毫した社額、掛け軸、論語の一節「以友輔仁」を墨書した書額などが残されています。
「江戸名所図会」・無量寺境内の旧七社神社が挿絵がみえる
大きな杉があり俗に「一本杉神明社」といわれていましたが、七社神社が移ってきたことからも神明社は「天祖神社」となりました。伐採された杉の切り株がご神木として残されています。
境内を出て本郷通りにもどり、東に3分ほど歩くと地下鉄・南北線の「西ヶ原」駅があります。
さて「飛鳥山散歩」はどうだったでしょう。
近代の黎明期をかけぬけた渋沢栄一の人脈をしての活躍にはすごいものがありますね。
それを公のものとしたところがさらにすごい。
飛鳥山にきてわかることですが、資料館がこれほど充実したところはありませんね。
そして飛鳥山というとやはり桜です。ですが桜満開のときは花を見るより人の波を除けなければなりませんから、満開日はさけたいですね。あえて桜の季節でない飛鳥山を訪れてみるのもいいでしょう。
渋沢栄一邸は飛鳥山が有名ですが、下町にも邸宅がありました。そちらに関しては☞コチラからどうぞ!
地下鉄・南北線の「西ヶ原」駅がすぐそこです。
では、そういうことで、このあたりで〆にさせてもらいますね。
それではまた。
足裏を鍛えることが歩く力のトレ-ニングにつながります!