今日の散歩は江戸の川~小名木川(塩の道)~界隈(江東区)・芭蕉も乗船の行徳船が往来した!
江東区を東西に流れる一本の川(人工河川)があります。運河といってもいいでしよう。
隅田川から旧中川まで一直線で結ぶ長さ5キロほどの一級河川で、途中で 横十間川、大横川と交差しています。
俗に「塩の道」とも呼ばれ、もともと行徳(千葉県市川市)の塩を江戸城に運ぶため天正18年(1590)に開通されたものでした。
江戸の建設物資を関東各地から運ぶため、江戸川(当時の利根川)流域と江戸を結ぶ水路として開かれた川でもあり、その名称の由来は開削に携わった「小名木四郎兵衛」にあると言われます。
のちの寛永6年(1629)、小名木川からさきに新川(船堀川)が開削されたことによって、江戸川、利根川を経由する航路となり、生活物資や東北地方の年貢米などを輸送する大動脈に発展しました。
さらには物資輸送のみならず旅客輸送として成田山新勝寺や鹿島神宮、香取神社にお参りする人でも賑わいました。
乗合船が江戸小網町の行徳河岸から本行徳の船場を往復したところから「行徳船」と呼ばれ、小名木川は新川とあわせ「行徳川」とも呼ばれるようになりました。
芭蕉も『鹿島紀行』で,行徳船に乗り鹿島詣での船旅をしています。
やがて竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進む中で、最大の重要船路として機能していました。
といったような歴史背景をもつ小名木川です。その川散歩コ-スを画像と拙文でお届けします。
ちなみにこのコースは小名木川の先の「新川」コースとジョイントできます。ワイドで広域なお散歩もどうぞ!
*ジョイント『新川』界隈
小名木川を往来した乗合船(行徳船)。松尾芭蕉も 『鹿島紀行(鹿島詣)』で乗船しています!
小名木川は全長約5キロメートル、川幅は最大約50メートル、最小約26メートル。
西端は隅田川で、東端は旧中川、この両河川を結ぶ江戸時代の最大運河です。
正面は隅田川。手前に流れ込むのが小名木川です。ここかせ小名木川の起点になります。
芭蕉庵は万年橋に近いところにありました。
芭蕉庵については☛コチラでご覧ください。一帯をくわしく案内しています。
隅田川が、右(上流)から左(下流)へと流れています。橋は清洲橋。手前への流れが小名木川となります。
右手、上流方面。正面の橋は「新大橋」です。右手角が「芭蕉庵史跡展望庭園」。公園からほど近いところに「芭蕉庵」がありました。
「芭蕉庵史跡展望庭園」に座す芭蕉像.
貞享4年(1688)8月、芭蕉は門人の曽良と僧の宗波(そは)を伴い、常陸鹿島(茨城県鹿嶋市)の月見に出かけました。
深川から舟で行徳に出て、鎌ケ谷から布佐までは歩き、夜舟で鹿島に到着ています。
芭蕉庵からは船で小名木川~新川~旧江戸川とぬけて行徳河岸に到着したかたちです。
このときの旅をまとめたものが寛政2年(1690))刊行された『鹿島紀行』です。
文中には、
門(かど)よりふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
とあります。「ほそはぎ」は「細脛」。弱い脚の力をためそうと、徒歩(かち)でゆく、という心持は、我々の気持ちと同じですね。
わたしが注目するのは、ここに徒歩(かち)という言葉が出でくることです。
さて、徒歩ingとゆこうか。歩いて行くとしょう。芭蕉の気持ちがよくわかりますね。このとき芭蕉44歳でした。
小名木川がほとんど江戸湾沿いに開かれたことがわかります。墨田川河口から中川河口まで一直線の水路でした。後背の低湿地の大島は小名木川の開削のあと開拓されています。(図・『江戸の川・東京の川』鈴木理生著より)
小名木川(塩の道) 隅田川の清洲橋の近くから分流している小名木川。隅田川河口から東砂町あたりまでの約5キロが、ほぼ一直線に開削されました。
潮の干満によって水位が変化はありますが、どの方向へ流れているのかの定めはないようです。いちおう河川法上は、荒川水系にはいり、荒川側を上流、隅田川側を下流と呼んでいます。
名称の由来は開削に携わった「小名木四郎兵衛」にあるといいます。
行徳船・行徳河岸跡 ここに江戸と下総国の行徳を結んだ乗合船の発着がありました。
江戸小網町の行徳河岸から本行徳の船着場を往復するところから「行徳船」と名づけられました。
本行徳の河岸で積み込まれた行徳塩や各地からの物資がこの河岸で陸揚げされ、ここからは成田や鹿島詣でに出かける江戸の旅人が乗り込みました。
行徳船の発着所。江戸時代には高速の下あたりに箱崎川が流れていました。
隅田川の河口から中川の合流地点まで真一文字に流れる小名木川。さきに見える橋は東深川橋です。いかにも運河という感じがしますね。
小名木川のさきは、江戸川区に入り新川の3キロ、旧江戸川の4.7キロ、本行徳河岸まで合わせると総延長で約13キロあまりありました。
というその起点となる隅田川との合流地点への最寄り駅は、都営地下鉄新宿線「森下駅となります。
ということなんですが、この散歩案内は都営地下鉄新宿線「住吉駅」で下車し、小名木川橋から中川方面へと歩くコ-スに仕立てられています。
隅田川河口から高橋あたりまでの小名木川散歩はよかったら☛コチラを覧ください。
で、その「住吉駅」に下車することにしましょう。
A1出口に向かうと南北に走る新大橋通りと東西に走る四つ目通りの大きな交差点に出ます。
小名木川に出るまえに、ちょっと迂回することになりますが、「猿江恩賜公園」に寄ってみてもいいですね。
そこへは新大橋通りを北に100メ-トルほど歩くと右手に「猿江恩賜公園」への入口があります。
猿江材木蔵跡 深川元木場(佐賀町一帯)にあった木場を一時ここに移し幕府の貯木場としましたが、のちに木場に再移転しています
明治以降は皇室所有の貯木場となり大正13年(1924)その一部が猿江恩賜公園となりました。
元木場に関しては☛コチラのコ-スで案内しています。ここに最初「木場」が開かれたんだ、がわかります!
猿江恩賜公園の入口になっています。
猿江恩賜公園 江東区住吉・毛利にまたがる都立公園です。江戸時代は幕府の貯木場として、明治以降は明治政府及び皇室御用達の貯木場になっていました。
大正13年(1924)、 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念し、貯木場の一部(南園)が東京市に下賜されました。
昭和7年(1932) 、そこが「猿江恩賜公園」として開園。
のち貯木場廃止にともない、東京都が跡地を買収(北園)、昭和58年(1983) 北園の完成に伴い、全面開園されました。
「猿江恩賜公園」内の散歩コ-スは☛コチラでご案内しています。和風公園(南園)がめぐれます。北園はこの散歩コ-スの途中で立ち寄っています。
ひとまず、公園の北側から四つ目通りに出たら左に、江東西税務署の信号まで歩きましょう。
この信号で四つ目通りを越え、そのまままっすぐ歩いてゆくと150メ-トルほどのところ左手に猿江・稲荷神社があります。
猿江神社 平安時代、源頼義・義家の奥州遠征(前九年の役)で手柄をたて武勇の士と讃えられてた家臣・『猿藤太』(さるのとうた)が、近くの入江で命尽きてしまいました。その亡骸を漁師達が手厚く葬り塚を建て葬ったのが、この社のところで、猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名になったと伝えられています。
境内にはお稲荷さんが多いです。
猿江稲荷神社 法華宗(本門流)本覺山妙壽寺(世田谷区烏山)が別当寺院を務めてきたもので、御神体は「猿藤太木像」といいます。法華の題目によって祀られた稲荷社とは珍しいですね。
藤森稲荷神社 猿江神社の境内社。江戸幕府の御用材木蔵に祀られていたもので、のち猿江に遷座され、明治以降は宮内省所管となり、猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされてきたといいます。
社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われていた事から、いつしか「藤森神社」と称されるようになったもので、古くから材木業に従事する人々の守護神として厚い信仰を享けてきたといいます。
神猿像 「魔が去る」とかけているようです。かわいい猿がぐっと手を合わせで祈ってくれています。きっと開運、運気、厄除に御利益があでしょう。
猿江神社前という交差点を渡った右手に重願寺(じゅうがんじ)があります。
重願寺 不虚山当知院と号する浄土宗の寺院。
日本橋馬喰町に開かれ、のちに新大橋近くに移転し、次いで猿江の地に移転してきたといいます。
開基は千葉邦胤(ちば・くにたね)娘・不虚大禅尼であるとされます。
千葉邦胤は戦国の武将で千葉氏の第29代当主。家臣の放屁をとがめたことで恨みをかい刺殺されたといわれる武将です。
墓地に入り「奥田家」の墓で合掌しましょう。ここに関根正二が眠っています。
関根 正二(せきね しょうじ)明治32年(1899)~大正8年(1919)
夭折画家のひとりとして知られています。深川時代、小学校の同級生に伊東深水がいました。
ほぼ独学で絵画を学び、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。
19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれました。
しかしこの頃より結核の病がすすみ、翌年、20歳で夭折しました。まさに夭折の画家です。
絶筆の「慰められつゝ悩む」は紛失し作品を写した絵葉書のみが残されています。
代表作の「信仰の悲しみ」は日本の近代洋画史を画する傑作として評され、重要文化財の指定を受けています。
同じ夭折の画家に、村山槐多(むらやま・かいた)、野田英夫、松本竣介らがいます。
こうした夭折画家の名を知ったのは信州別所にある「信濃デッサン館」(現「KAITA EPITAPH 残照館」)でのことでした。もう40年ほど前になりますか。そのときの偶然から夭折画家の名がずっと心に巣食っていました。
そのひとり関根正二の墓に、ここ重願寺で偶然にも出会うことができたわけです。信州でのあのとき、はじめて目にした関根の自画像、少し横目にした物憂いような表情がゆるやかに蘇ってきました。
信濃デッサン館 近年「KAITA EPITAPH 残照館」という館名にかわったようです。「 EPITAPH(エピタフ」=墓碑銘 。
館主の窪島誠一郎氏が夭折画家のコレクション館として昭和54年(1919)に開館したもので、戦没画学生の絵を集めた美術館「無言館」も併設されています。
窪島氏については、明大前にあった小劇場の草分け的な存在の「キッド・アイラック・アート・ホール」のオ-ナとして既知のことで、何度かお世話にもなりました。その小屋主が「信濃デッサン館」の館主とわかり、また執念で探しあてた父親が作家・水上勉氏だったという奇跡の邂逅なども重なって、いまはあの一時代が懐かしく点描されます。
関根正二に関しては☛コチラ(森下文化センタ-)にちょっとしたものが案内されていますので、のぞいてみるのもいいでしよう。。
十字路から小名木川の方に向かいましよう。
5分ほどで「小松橋」のたもとに出ます。
川沿いに出て右手のほうに行くと有名な「扇橋閘門」があり、大横川との川交差点があります。このあたり川筋の道が途切れるところがあります。
扇橋閘門(こうもん) 江東区の東は西に比べて地盤が低いので、小松橋と新扇橋の間に水門があります。水位差のある箇所をふたつの水門で囲い、片方の水門を開けて船を入れる。次に水門を閉じ反対側の水位と合わせ、水位が合うと水門を開き船を通す、というもの。パナマ運河の小規模版といったものといいます。
小松橋は鉄骨組みのトラス橋。
それでは小松橋から中川方面に歩くことにしましょう。
隅田川と小松橋の間に隅田川河口にむかい新扇橋・新高橋・大富橋・新深川橋・西深川橋・高橋・万年橋があります。
のんびり歩くにはもってこい散歩道です!
先方にみえるのは小名木川橋。
小名木川橋 四ツ目通り(東陽町~錦糸町~押上)上にあります。
小名木川橋の北詰め。
広重『名所江戸百景』の五本松
『江戸名所図会』 旅客を大勢乗せている様子からみると船は行徳船でしょう
五本松跡 小名木川のほぼ中間の北岸に5本の松があったそうです。
丹波綾部藩・九鬼氏の下屋敷内にあった松の枝が、伸びに伸びて小名木川の水を覆っていたといいます。
その景観がすばらしく、また月見の名所でもあったことから、舟を浮かべ川面に映る月をながめることが風流人にたいへん好まれていました。
芭蕉庵の近く 「芭蕉庵史跡展望庭園」にある芭蕉句碑「川上とこの川下や月の友」。もともとは五本松にあったもの。ここに本社をおいた「住友セメントシステム開発」(スミテム)が創立20周年記念に本社内に建立したもので、本社移転後に江東区に寄贈したものです。
川上とこの川下や月の友~(今宵は月がきれいだね。川上の門人たちも川下に住むわたしと同じじ気持ちで、月をながめているだろうな…)~
心かきたてられ、ここはひとつ舟で訪ねてみるのもいいだう。と、芭蕉は船に乗ったものらしいです。
元禄6年(1693)、五本松あたりで詠んだ句といわれています。
小名木川の隅田川の河口に住んだ芭蕉は船に乗り、たびたび小名木川沿いに住む門人たちの家を訪ねては句会を催したようです。
五百羅漢道標 亀戸天神と五百羅漢に行くみちしるべ。レリーフには「小奈木川」の文字で表記されています。
遠くにみえるのはX状にクロスしたデザインのクロ-バ-橋。
快適に歩ける遊歩道がずっと続いています。
小名木川クロバー橋 横十間川との交差点。交差点をクロスするX型の橋。南は横十間川親水公園となっています 平成6年(1994)12月に完成したもので、人と文化の交流をシンホライズしたものといいます。
川の北側に広がる大島地区は低湿地で、小名木川の開削ののちに開拓が進められたといいます。
川岸からみたクロ-バ-橋
下から仰ぎみたクロ-バ-橋。
のどかにパドルをたたいてカヌ-を漕ぐ人。
X構造の中心の橋上広場。
中川方面の小名木川。みごとな一直線。みえる橋は小名木川橋梁。東日本旅客鉄道(JR東日本)越中島支線の鉄道橋です。白いトラスト桁が特徴です。
しぶきを上げる堰。高低差があるので堰が設けられている。
ここから「横十間川」沿いにむかい、ぐるっと迂回して丸八橋でふたたび小名木に出ることにしますので、この間にある小名木川橋梁、進開橋、砂島橋は観察できません。
横十間川方面。
横十間川。みえる橋は「大島橋」
横十間川 小名木川が開削されたことによって竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み横十間川も重要な運河の一つとして機能しました。
名称は江戸城に対し横に流れ、川幅が十間(18メ-トル)あったことからといいます。天神川、釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれていました。天神川というのは亀戸天神の横を流れていたことによるものです。
グリ-のところがかつて渋沢栄一らによっ開かれた東京瓦斯深川製造所。
釜屋堀公園・釜屋跡 大島橋の北詰め「小さな釜屋堀公園」になっています。
三代将軍家光のころ、滋賀県近江の太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は釜六、釜七と呼ばれ、この付近でナベ、カマといった日用品、大きいものでは梵鐘、仏像、天水桶といっ鋳物を生産していたといいます。
製品の輸送に使われた横十間川が「釜屋堀」といわれるゆえんともなりました。
江戸時代から大正ころまでは釜屋堀通りの両側には鋳物工場が建ち並んでいたといいますが、今日、その面影をとどめるものは何もありません。
釜屋堀公園にはもうひとつ近代産業の歴史を物語る碑があります。
江東区の地で渋沢栄一がかかわった近代産業の跡を巡ってみましょう!
渋沢栄一、渋沢喜作、益田孝らが推進した科学肥料の国産化の地!
東京人造肥料株式会社(国立国会図書館デジタルコレクションより)
明治のはじめ、タカジアスターゼの発明者として有名な高峰譲吉は、近代農業の発展のため、リン肥料に着目し、渋沢栄一、益田孝、浅野総一郎ら財界有力者の支援を得て、釜屋に 「東京人造肥料会社」を設立し、 自ら 社長 兼 技師長となって 日本最初の化学肥料製造にあたりました。
渋沢栄一は創立委員となり、途中の経営困難に陥った工場の再建に力を尽くしたといいいます。
工場は 大正時代まで続きましたが 関東大震災で壊滅してしまいました。
現在の「日産化学株式会社」につながるものです。
化学肥料創業記念碑
植物が栄養とする肥料の 成分は 窒素 燐酸 加里 か主 てあって 之を三要素と称 へ 窒素は主として葉を 燐 酸は果実を 加里は幹根を 形成するものてある 肥料 には古来 動植物質の腐熟 したものを多く用ゐたか 近代科学の発達は 化学的 に 窒素 燐酸 加里の各肥料 を 多量且つ廉価に生産す ることに成功し 是に依っ て 農作物等の収穫は画期 的躍進を見るに至った。 此の處一体は 実に我国化 学肥料の先駆たる 過燐酸 石灰製造工業創始の地で ある。
農尊の碑
先覚 渋沢栄一 益田孝等ノ諸氏ハ 維新当 初ニ於テ 我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口 ノ激増ヲ来シ 食糧問題ハ 実ニ邦家将来 ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ 農業ノ発 達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ 之カ増 収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ 欧米ニ 於ケル化学肥料ノ研鑽者タル 高峰譲吉 氏ノ協力ヲ得テ 明治二十年 初メテ此ノ 地ニ 東京人造肥料会社ヲ設立シ 過燐酸 肥料ノ製造ヲ開始セリ 是レ我国ニ於ケ ル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ
本事業ハ 官民ノ協力二因リテ漸次進展 シ 後更ニ 空中窒素固定工業ノ勃興スル ニ及ヒ 農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナ ル貢献ヲ為スニ至レリ 今ヤ曠古ノ非常 時局ニ際会セルモ 能ク一億国民ノ食糧 ハ 蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ 多シト謂フヘシ
同社ハ後ニ 大日本人造肥料株式会社ト 改称シ 此ノ地ハ 釜屋堀工場 トナリシモ 不幸大正十二年ノ関東大震災ニ壊滅シ 爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ 之ヲ顧 謀リ 碑ヲ其ノ址ニ建テテ 由来ヲ刻シ 永 ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ 我国農業ノ興 隆ヲ期シ以テ 皇国ノ盛運ヲ奉頌ス
昭和十八年十一月 化学肥料創業記念碑建設会
農尊の碑台座に刻まれた野菜のデザイン。
大島橋を渡りましょう。
大島橋が最初に架けられたのは、元禄13年(1700)で、場所は今より南の横十間川が小名木川に合流するところだったそうです。
大島橋を渡ると左詰が小さな公園になっており、そこに頑丈そうな地蔵堂がぽつんとあります。いつきてもまわりがきれいに掃き清められています。
釜屋堀子育て地蔵堂 小名木川沿いからここに移されたのは昭和2年(1927)7月のことで、慶安4年(1651) に建立された三体の石地蔵がだいじに祀られています。江戸初期のものとしては貴重ですね。
渋沢栄一が江東区でかかわった近代産業のひとつに瓦斯産業が、ここで開かれました!
橋を渡った右手の敷地は広く東京ガスが占有しています。
東京ガス深川営業所、東京ガス深川グランドを含む一帯にはかつて東京府瓦斯局(現東京ガス株式会社)が開かれました。
裏手には「猿江恩賜公園」が広がっています。
寛政の改革をすすめた老中ろ松平定信が命じた江戸町会所の非常時用の積立金(七分積立)が明治政府に引き継がれました。その共有金で東京会議所は明治5年(1872)ロンンドンから瓦斯製造機を購入しました。
明治9年(1876)東京瓦斯局設立、会議所会頭の渋沢栄一が事務局長、そのご社長として経営に尽力しました。
明治31年(1898)猿江に瓦斯第三製造所が建設され、燃料が生産されました。(「江東区 栄一と江東区の近代産業」参考)
東京瓦斯株式会社深川製造所(「江東区 栄一と江東区の近代産業」より)
ここからふたたび大島橋にもどり横十間川沿いを新大橋通りに架かる「本村橋」の方へと歩きます。
橋上からのスカイツリ-。左手は「猿江恩賜公園」。
「猿江恩賜公園」の北園。
ミニ木蔵(きぐら) かつてこの場所にあった『猿江貯木場』を再現したもの。こういった貯水の中に丸太を沈めて保管したわけですね。
池の周りの石組は、丸太の「重し」として使われていた切石を再利用したものだそうです。
「猿江恩賜公園」北園のスカイツリ-のみえる風景。
新大橋通りの左手には文化ホ-ルの「ティアラこうとう」があります。裏手が猿江恩賜公園の和風な南園です。
クロ-バ-橋方面をのぞむ。右手は「猿江恩賜公園」の和風公園エリア。
新大橋通りを「西大島駅」方面に歩き、一つ目ノ十字路、大島一丁目信号で左に曲ります。
170メ-トルほど歩くと右手に愛宕神社があります。
愛宕神社 火防の神。本来は墨田区本所(元武蔵国葛飾群中之郷村)の成就院の境内にまつられていたもので、寛永年間(1624~44)中之郷の村民の新開地への移住とともに大島へ移転したものといいます。
小林一茶旧居跡 江戸後期の俳人、小林一茶は、享和3年(1803)、41歳のとき句帳や日記に「大島愛宕さん別当」と記していることから、この一時期を愛宕神社に仮住い(祭礼用の道具小屋}していたといわれます。「井戸にさえ錠のかかりし寒さかな」はこのころの句といわれます。
小林一茶句碑 そんなゆかりから境内によく知られる一句「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る 一茶」の句碑があります。
一茶の『享和句帖』には「江戸本所五ツ目大島 愛宕山別当一茶園雲外」という署名があることから、
ここでいう愛宕山は、近年の研究では、小名木川沿いにある大島稲荷神社とみられ、一茶のいたころは神仏習合で、稲荷社と愛宕社のほかに別当愛宕山大島寺勝智院があったといいます。一茶はここに間借りしていたのではないかとみられています。
神社から新大橋通りまでもどり、先へ進むと通り沿い左手に羅漢禅寺がみえます。
かつてこの一帯に五百羅漢で有名だった羅漢寺がありました。羅漢寺のはすむかい、「総合区民センタ-」の一角に羅漢寺跡があり礎石がみられます。
五百羅漢跡
五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
当寺の三匝堂は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年(1998)に建てられたものです。
平成20年(2008)3月 江東区教育委員会
いまは目黒区にある目黒不動の近くにありますが、それはそれはみごとな五百羅漢が拝めます。
いつか散歩でご案内します。
一面の畑。街道沿いには茶店がみえます。
人間の描写に比べるとそうとう大きな建造物だったことがうかがえます。
『江戸名所図会』の伽藍配置をみても、大寺であったことが一目瞭然ですね。左下に「さざえ堂」がみえます。絵をみるとまわり一帯は田圃、畑だったことがわかります。
広重が『名所江戸百景』や『江戸土産』に描いているように、かつてはこの一帯のランドマ-クになっていといわれます。
礎石をみても大伽藍だったことがうかがえますね、
羅漢禅寺 かつてあった黄檗宗天恩山羅漢寺が移転した跡地に、明治36年(1903)、西多摩郡奥多摩町氷川より曹洞宗祥安寺が移転してきて、昭和11年(1936)に羅漢寺と改称したといいます。
羅漢禅寺をあとに新大橋通りを大島駅方面に進むと左右に「大島緑道公園]が広がっています。
その一帯にかつて製鋼所がありました。
渋沢栄一の江東区でかかわった近代産業のひとつ、大島製鋼所がここにあった!
団地一帯に製鋼所の工場がありました。
大島製鋼所跡 東京製綱会社の分工場を譲りうけ、「関東唯一の大製鋼所」として創立しました。発起人に浅野総一郎、初代社長に栄一の甥大川平三郎、栄一の次男・武之助が調査役をつとめました。つまり同族が株主となっていました。今日の「日本曹達株式会社」((ニホンソーダ))につながるものです。
昭和30年(1955)ころ。(「江東区 栄一と江東区の近代産業」より)か
関東大震災後、市電の車台、浅野セメントの復旧工事に取り組み、昭和12年(1937)、日曹製鋼となりました。
さらに新大橋通りを゜すすむと、左手に鳥居がみえます。
公園と一体化しているから境内が広い
亀出神社(かめでじんじゃ) 亀出稲荷神社と愛宕神社のふたつが合祀されたものです。
ひとつは松平定儀(まつだいら・さだのり/越後国高田藩4代藩主)が別邸の鬼門除として創祀した亀出稲荷神社。もうひとつは亀戸出村にあった霊巌寺領の鎮守として創建された愛宕神社。こ二社が昭和31(19566)に合祀して成立したものだそうです。さらに昭和48年(1973)に近くの草分稲荷神社も境内へ合祀されました。
竪川が造られたため、亀戸村から切り離された当地周辺は亀戸出村と称されていました。また霊厳寺領だったことから念仏堂があったといいます。
亀出子育地蔵堂 念仏堂があったころの名残りとしての子育地蔵尊といわれています。
新大橋通りをさらに進み、大島駅を過ぎると丸八通りが交叉します。
この大八通りを右折します。
丸八通り 墨田区立花から江東区南砂までの都道の名で、由来は明治時代、この通り沿いにあった丸八線香店にちなむものといわれています。そうとう名の通ったお店だったので゛しょうね。
丸八通りを小名木川のほうに進むと橋の北詰から側道がわかれます。
その側道を200メ-トルほど行く左手に華やかな社がみえます。
大島稲荷神社 創建は慶安2年(1649)とされ、江戸時代から大島村の鎮守として祀られてきた稲荷で、明治30年(1897)に浅草光月町の入谷田圃にあった太郎稲荷(旧柳川藩立花家下屋敷邸内社)、さらに昭和19年(1944)に、丸八橋付近にあった愛宕神社を合祀しています。往時は広大な境内地をもっていたようです。
由緒には、
慶安年間創建。由来同地海辺小名木川近く数々の津波により耕地荒廃甚しきため、村人相謀り京都山城の國伏見稲荷大社ご分霊奉遷し産土神として奉る。災除衣食住出世開運あらゆる産業の大祖神として、ご神徳広大輝き崇敬拝厚受け大島神社と呼んでおります。
芭蕉句碑・女木塚(おなぎづか) 元禄5年(1692)9月29日、芭蕉f深川の芭蕉庵から小名木川を下って、門弟の桐奚(とうけい)宅を訪ねる途中で社に参拝し、その集まりで「秋に添て行はや末は小松川」の句を披露したといいます。芭蕉このとき50歳。
『芭蕉句選年考』には、「九月尽の日、女木三野に舟さし下して」の前書があり、桐奚(とうけい)・珍碩(ちんせき)の三人の句会だったことがわかります。
珍碩(酒堂) 近江蕉門の重鎮。大阪で俳諧の勢力争いをおこし、このごたごたを仲裁するため芭蕉は大阪にむかい、大阪で命を落とすことになった。
明治42年(1999)年8月より佐竹清太郎氏が神職になり、以降佐竹家が奉仕しています。
佐竹神社 神紋が梅鉢紋で、御神徳が「神官・学問」とあることからみて、菅公(菅原道真)と佐竹家の祖霊を祀っている社とみていいでしょう。
大島稲荷神社の裏手には別当寺だった勝智院がありました。いまは東京出張所として使われています。
勝智院 慶安元年(1648)創立の真言宗の寺院。愛宕山勝智院と称し大島稲荷神社の別当寺でした。
昭和41年1966)、佐倉市上座(ユーカリが丘)へ移転、当地は出張所として使われています。
境内に天保期に建造された「醤油業者供養塔」(醤油塚)がありました。この地域では醤油醸造がおこなわれ、醤油蔵がならんでいたのだそうです。
そんな気配は微塵も感じられないところですが、歴史上ではそういうことになっているわけです。
一茶寓居跡(勝智院出張所) 小林一茶が仮住いしたのはこの別当寺だった勝智院という説も有力視されています。
よく整備された遊歩道が中川まで続いています。
塩の道橋 仙台堀川親水公園の合流点にかかる人と自転車の専用橋。江戸まで塩を運ぶ道であった小名木川にちなんでつけられた名称です。
南(正面)方向に仙台堀川公園が分岐しています。
仙台堀川公園 かつての仙台堀の跡。都内最大の親水公園となっています。約3.7キロの親水公園で大横川との交差地点からは仙台堀川となっています。
もうすぐ小名木川が中川に結ばれます。遠くにみえるのが小名木川で最後の橋、番所橋です。
橋の先方にみえる緑は「大島小松川公園」。
定規で引いたような直線の川。往時は護岸にもっと風情があったことでしょう。
川筋の道路をゆくと左手に真言宗の宝塔寺がみえます。
本堂前にある左右の階段を上ってから正面の階段に出るかたちになっています。
境内に「塩舐地蔵」という石地蔵がまつられています。小名木川沿いにあったので昭和初期に境内に移されたそうです。
江戸時代、小名木川を往来する商人たちが航行の安全、商売繁盛を願って建立したもので、人々の厚い崇敬を集めていたといいます。
小名木川の沿岸は行徳との往来道だったので、行商人たちが地蔵の前で休憩しました。そのとき商いの塩を少しずつ地蔵に備えたのが起源とされています。
いつもお供えの塩がどっさり山積みにされています。信仰の厚さがわかりますね。
お供えの塩をつけると疣(いぼ)が取れるので、別名「いぼとり地蔵」とも呼ばれていたようです。
行徳の塩 江戸では「行徳塩」と呼ばれた塩ですが、江戸城に入った徳川家康は、籠城のさいの塩を自領内で確保するため、塩の生産が盛んな行徳の地を所領に組み込み、「御手浜」としてこの地の塩業を保護しました。
行徳は古くから製塩が盛んで、生産量では瀬戸内や北九州には及びませんでしたが、関東随一を誇っていました。
墨田川の河口から中川口まで安全な遊歩道がついていますので、とても快適な散歩ができます。
番所橋に到着です。いうまでもなく江戸時代にあった「中川番所」にちなむものです。
しばらくすると、川の交差点ともいえる小名木川・中川・新川の合流地点。
旧中川 江戸川区と墨田区、江東区の境界を流れる全長6.68キロメ-トルの荒川水系の一級河川です。昭和6年に中川放水路(現中川)が完成したことにより、旧中川と呼ばれるようになりました。
広重『名所江戸百景』・「中川口」 ここが小名木川の終点。左右に流れるのが中川、手前が小名木川。正面を奥へ流れるのが船堀川(新川)。左下が「中川船番所」。
小名木川と旧中川が交差するところから正面奥方向に新川(船堀川)がぬけていました。
地図に「旧小松川閘門」とあるあたりがその流路になるはずです。
中川番所跡(東京近郊名所図会)
『江戸名所図会』中川口 左手に石垣の護岸をもった御番所がみえる
中川御番所 寛文元年(1661)に、江戸を出入りする船を取り締まるため小名木川の隅田川口、万年橋北詰めに「深川口人改之御番所」という名称で設けられました。川関所といわれるものです。
川関所ともいわれるもので、その後、深川が江戸市中に組み込まれたことから、万治4年(1661年)、遠く離れた(旧)中川・小名木川・船堀川(新川)の交差する大島に移され「中川御番所」と呼ばれるようになりました。
ところが通船がふえるにつれ、めんどうくさい手続きは形骸化していったようです。
江戸川柳に「通ります通れ葛西のあふむ石」というのがあります。通行を揶揄されたことを物語っているものです。
もうひとつ小名木川の船改め番所としては川の途中、大横川が交差する新扇橋の北詰にも「猿江船改番所」がおかれました。こちらは中川番所と異なり、川船改役による関門で、主に幕府や諸藩の船荷などを取り締まるものでした。
番所を通過すると船は中川を横切って向かいの新川(船堀川)に入りましたこ。現在は荒川、中川によっで分断されています。
小松川公園から中川(左右)、小名木川(正面)のぞむ
船堀川(新川) 小名木川と中川の合流地点あたりでつながっていましたが、荒川放水路(現・荒川)と中川放水路(現・中川)によって隔てられてしまいました。
上の景色から船堀川(新川)と小名木川、中川の水路がかつてここでつながっていたこを想像するしかありません。
おおよそは、手前方向、小松川公園を横切るかたちで船堀川(新川)が流れていたことが想定できます。
ここで目を転じて、行徳船の終着点・下総行徳河岸をみてみましょう。
行徳船場 新河岸ともよばれ、ここで出船、入船がありました。
『江戸名所図会』・「行徳船場」/行徳船の発着で賑わう船着き場。
行徳船は毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。
常夜灯 文化9年(1812)に、江戸日本橋の成田講(成田山新勝寺をお参りする仲間)の人たちが、航路の安全を祈願して建てたものです。
高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。
文化・文政期(1804~1830)になると、物流のほか、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなりました。当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増えたといわれます。往来がますます盛んになったことがうかがえますね。
さて、ゴ-ルの東大島駅へと向かうことにしましょう。
小名木川の終点から駅に向かう途中に「中川船番所資料館」というものがあります。
小名木川の中川口に設置されていた「中川番所」と水運に関わる展示を古写真を中心に展示していねる区立資料館です。
「中川番所」がジオラマで再現されおり、出土遺物や番所に関する資料をみることができます。
2階には「釣具展示室」があるのもここならではの資料といえます。
ちょっとのぞきたいなら☛コチラから。館内の一部をご案内しています。
駅前は広い公園になっています。右手に見える茶色い建物が「中川関所資料館」です。
さて、都営新宿線・「東大島」駅に到着です。
小名木川の川散歩コ-スですが、一部、迂回しましたので完全な川歩きにはなっていませんが、いつか違った形でご案内してみたいとおもいます。
では、そういうことにしまして、
ここで〆にいたします。
それではまた!