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今日の散歩は深川森下の界隈(江東区)・芭蕉庵は隅田川のほとりにあった!

竹屋

江戸時代から続く竹屋さん。竹の姿、艶やかさにひかれパチリ!

「深川」…というと、なんとなく広いイメ-ジでバクゼンととらえている人が多いのではないでしょうか。
まず頭に浮かぶのは「深川八幡社」(冨岡町)とか「門仲」と通称される「門前仲町」(門前仲町)。

そのあたりを指して「深川」と思っているのがごく一般的であり、それもハズレではなくアタリなんです。
が、本来はもっと広いエリアを含んでいます。

昭和22年(1947)まで「深川区」というのがありました。
その「深川区」は「城東区」と合併し今の江東区に生まれかわりました。
つまりかつての「深川区」を「深川」というのが正解というところでしようか。とても広いです。

が、今回は「深川」の発祥地としての「深川」をテ-マにしたいわけで、
じゃ、それはどのあたりなんだということになりますが、地名でいうと「江東区森下」周辺なんです。
深川のイメ-ジとややかけはなれたところのように思いますが、深川の地名はそこから誕生しました。

というわけで、以下、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

散歩して、歩いてわかる深川の広さと、平たい町の歴史的な背景!

地下通路の芭蕉

どの顔がいちばん芭蕉本人に似ているのでしよう!

都営新宿線の「森下」駅から歩くことにしましょう。
A3出口から地上に出ると広い新大橋通り(東京都道・千葉県道50号・東京市川線)が東西に通じています。

古図

点々と中洲と島。下部中央に亀戸(亀島)がみえます。

江戸の初期のころは、
遠浅の海が干上がってゆき、ところどころに干潟ができ、中洲や島が点々と残り、
陸地は茫々とした湿地帯、葦や茅野がはびこる荒野でした。
そんなイメ-ジを抱いてもいいようなところが、このあたり一帯の原風景でした。

深川切絵図

深川ではじめて開拓が進められた中心エリア

将軍・德川家康と開拓者・深川八郎右衛門の歴史的な遭遇!

そんなところに、摂津国(大阪)方面から深川八郎右衛門ほか6人の開拓者があらわれました。

徳川家康は天正18年(1590)ころから新土地開発を積極的に進めてゆきました。
輸送ル-トとしての「小名木川」の開削もそのひとつでした。

あるとき家康は、
小名木川の見聞がてら、北岸一帯の開拓村も視察しました。
家康は開拓の労をねぎらいつつ、
深川八郎右衛門に、

「おお、ところで、ここは何という村であるか?」
と訊問した。その問いに八郎右衛門、

「へぇ、怖れ多くも新開地で、いまだ名なしの村でございます」
「おお、さようか、それではお主の苗字の深川をとり、深川村にするがよかろうぞ」

こうして「深川村」が誕生したといわれています。慶長元年(1596)のことでした。
現在の町名で示すと森下を中心に常盤、新大橋、猿江、住吉あたりだったでしょう。
そのころは海がぐっと奥まで走り込み、総武線のあたりが海岸線であったといわれます。いまでは想像しがたい風景です。

新大橋通りを大橋の方に向かいましょう。

一つ目の新大橋通りを南北に横切る通りは堀割の跡を道路にしたもので、かつては小名木川から分流した六間堀がここを流れていました。大通りの北側に堀の名を残す、六間堀児童遊園があり、そのさきに五間堀公園があります。堀を埋めて整地したもので緑の繁る公園になっています。

※六間堀・五間堀   隅田川の東、小名木川と竪川を結んでいた人工の入堀。川幅が6間( 10・9メ-トル)あったことに由来しています。
主に船の係留・補修のための堀だったといいます。途中から五間堀が派生していました。こちらは川幅が5間(約9メ-トル)だったことによるものでした。

どちらも家康の大江戸と開発の一環であり、開削の時期は竪川の開削された万治2年(1659)あたりでははないかといわれています。ここもよくあったケ-スで、戦後の戦災瓦礫処理のため二つともに埋められてしまったといいます。しかし、その堀筋の跡は公園に見出すことができます。

森下   深川村の一部でした。この地の酒井左衛門尉の屋敷に樹林が繁茂し、そのため周囲の町屋が森の下にあるかのようにみえたので森下と呼んだといいます。

次の「新大橋3丁目」の信号を左にゆくと右手に「八名川(やながわ)小学校」があります。学校の北側の塀に沿って右にゆくと、塀の内側に「新大橋」の橋名板が保存されています。

新大橋 

日本語とロ-マ字の表記に注目!

橋名板

橋の上部中央にかかげてあるのが見えます!

橋名板   旧新大橋の橋の上に掲げられていた大きな橋名板。鋳鉄製で、中央に横書きで「志ん於ほはし」の文字が見て取れます。
明治45年(1912)に新大橋が鋼鉄橋に架け替えられた際に江東区側に掲げられたものです。昭和48年(1973)に新大橋の架け替えで橋名板が撤去されることになったことから、八名川小学校PTAを中心とした地域の方々の費用負担で同校に移設されました。

近くに面白い名の公園があります。

八名川(やながわ)公園    江戸の初期には幕府の軍船・安宅丸の停泊所となっていたそうですが、のちに埋立られました。そのあと、神田八名川町に住んでいた三河国八名川村出身の御旗組の22名が、火事で焼け出されたことから、ここに代地を与えられ移住してきたのがその名の由来となっています。.

ふたたび新大橋通りにもどり、左側の歩道を大橋のほうへ歩いてゆくと隅田川に架かる「新大橋」にゆきあたります。

新大橋   明治45年(1912)、
東京市は江戸期以来の木橋から鋼鉄橋に架け替えました。
長さ173.3メ-トル、幅18.7メ-トルのピントラス橋として竣工しました。
さらに昭和52年(1977)現在の橋になりましたが、旧鉄橋は土木遺産として 愛知県の明治村へ移され保存されています。

江戸時代の「新大橋」は 隅田川に架かる3番目の橋として 元禄6年(1693)に、
現位置より約200メ-トルほど下流に架けられました。52日間という短期間で完成したもので、

両国橋が俗に「大橋」と呼ばれたことから、こちらは「新大橋」とわれるようになりました。近くに住んでいた松尾芭蕉は工事中の橋を目にして、「 初雪や架けかかりたる橋の上」の句をよみ、また橋の完成を見て「 ありがたや戴いて踏む橋の霜」の句をよんでいます。

新大橋東詰は小公園になっています。
このあたりには幕府が有する船を管理する船蔵(軍港)があったようです。
説明板がありますのでそれに基づくことにしましょう。

御船蔵跡 (みふなくらあと)

はじめ 寛永9年(1632)この付近に 幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し 天和2年(1682)にいたって解体したが のちに ここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので 御船蔵と称し またこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和33年10月1日   江東区第10号

ということは、このあたりから、さきほどの八名川公園のあたりまで船堀が入り込んでいたのでしよう。

小公園内の公衆トイレの外壁(というのも、なんだか侘しい!)に広重の浮世絵が備えられています。
『名所江戸百景』のうち最も人気の高い浮世絵のひとつ「大はしあたけの夕立」(大橋安宅の夕立)です。

ゴッホが模写したことでも知られています。土砂降りの雨の中をそれぞれに逃げ急ぐ人々。斜めの黒い線で表現している雨が傑作とされています。
画題「大はしあたけの夕立」の「あたけ」は日本一の木造軍艦・安宅丸に由来する地名からとったものです。

明治時代に架けられた(前)新大橋の親柱が残されています。

隅田川テラス

隅田川テラス

新大橋横の石段を下り川べりの隅田川テラス(東岸)を歩いてゆくことにしましょう。

「芭蕉庵」のあった深川、芭蕉が愛した深川は隅田川沿いの町でした!

隅田川テラス    東京都を流れる隅田川両岸に沿って整備された親水テラスの総称です。舗装や緑化が施されています。

大川端芭蕉句選  句碑のプレ-トが8ケ所に配置されています。どれも芭蕉が芭蕉庵で詠んだ句で、年代順に並べてあり、上流側が新しい句となっています。そのうちのいくつか。

  • 名月や池をめぐりて夜もすがら
  • 名月や門に指(さ)しくる潮頭
  • 芭蕉葉を柱にかけん庵(いほ)の月
  • 芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞夜哉
  • しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉
  • 花の雲鐘は上野か浅草か

テラスの通りはいったん小名木川で途切れ、
さらにその先へと続き、前方の隅田川には美しい清洲橋が架かっています。

清洲橋

正面に清洲橋。左下から小名木川が分流している。

※清洲橋   関東大震災の震災復興事業として、男性的な永代橋と対で女性的な橋として計画された橋で、
そのころ世界で最も美しい橋と呼ばれたドイツケルン市のヒンデンブルク橋」大吊橋をモデルにしたものだそうです。
当時の深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから清洲橋と名付けられたといいます。永代橋とともに国の重要文化財に指定されています。

小名木川(おなぎがわ)   江東区の北部を東西に横断する、
隅田川と旧中川を結ぶ運河(人工河川、水路)で、全長 約5キロありました。

小名木川が掘られた頃は、川のラインが海岸線だったといいます。そもそもは兵糧としての塩(行徳塩田)を運ぶために開削されたもので、
のちに成田参詣客なども運ぶようになって、行き交う物量が増大してゆくようになりました。

川の名称はこの川の開削を命じられた「小名木四郎兵衛」の名からとったものといわれます。小名木川、新川、江戸川、利根川を経由する航路として整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となりました。

小名木川入口、北詰めのところがやや高くなり、
その一角に小庭園があり「芭蕉像」が建てられています。ここには「芭蕉庵」側から入ることにし、ひとまず「万年橋」まで進みましょう。

浮世絵

葛飾北斎『富嶽三十六景』」のうち、「深川万年橋下」。遠近法を取り入れた傑作。

広重『名所江戸百景』から「深川万年橋」。大胆な構図。手桶の取っ手に吊るされた亀。亀が謎…さて。正解は?

萬年橋   「 元番所のはし」ともいわれました。通航を妨げないように橋桁を高くした高橋で、道路から階段で上がり下りするようになっていたようです。
橋からの富士の眺望は素晴らしく広重や北斎の浮世絵により橋の優美な姿が描かれています。

橋の由来は、永代橋になぞらえ、末永く残るようにの思いを込め「萬年橋」と呼ばれるようになったといいます。
現在の鉄橋は昭和5年(1930)に関東大震災復興計画により架け替えられたものです。実に頑丈そう。

※ケルンの眺め   清洲橋は萬年橋のたもとから眺めるのがもっとも美しく見える角度とされ、その清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから、ここからの眺めは「ケルンの眺め」と呼ばれているんだそうです。

万年橋のたもとには川番所がありました。

川番所跡  江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めや監視の番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。

万年橋通りを北に、次の信号(万年橋北)を左に入ってゆくと右手に稲荷社がみえます。この場所が「芭蕉庵」跡とされています。

芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)   芭蕉は、延宝8年(1680)、芭蕉門下の杉山杉風(すぎやま・さんぷふ)の世話で、杉風の経営する養魚池(生簀)の番屋を改造した草庵を住いとしました。

移り住んで2年目、天和2年(1682)、大火(俗に八百屋お七の火事)により焼失してしまい、その2年後に元の草庵近くに新居が完成しました。

第2次芭蕉庵といわれるもので、その5年後、この草庵を他人に譲り「おくのほそ道」の旅に出立したところです。

庭に俳句仲間が「芭蕉」樹を植えたことから、俳号を「芭蕉」とし住まいも「芭蕉庵」と名付けたのもここでした。

芭蕉が愛好したといわれる青石造りの蛙がここで発見され、地元の人々の尽力により芭蕉稲荷が祀られたのだそうです。
しかし芭蕉庵の旧地説は2説あるといわれています。

芭蕉没後、この一帯は武家屋地となり幕末から明治にかけたびたび焼失したといいます。そんなことで、かつてこのあたりのどこかに芭蕉庵があったことは確かなのですが、それがここと特定できませんでした。

ところが、

大正9年(1917)の大津波の後、ここで芭蕉遺愛の「石の蛙(伝)」が見つかったことからこの地を「芭蕉庵跡」とし、地元の有志が芭蕉稲荷神社を建て、東京府もここを旧跡に指定しました。しかし場所があまりに狭いので江東区は別に「芭蕉記念館」を建てたという次第です。

文京区の「関口芭蕉庵」はそれなりの格調をもっていますが、深川芭蕉庵は俳聖・芭蕉のメッカにしてはいささか風情を欠いています。慕って訪れた人はがっかりするのではないでしょうか。といって狭い一角ですから、これ以上どうにもならないのが実情かもしれません。

芭蕉稲荷のはす向かいにもうひとつ稲荷があります。

正木稲荷  柾木稲荷ともいわれたようです。
境内に柾木の大木が聳えており、隅田川から小名木川へ入る船の目標ともされていたそうです。万年橋際に鎮座していたので俗に「 万年橋稲荷」とも称されたといいます。柾木の葉は腫物によく効いたことから、「おでき腫物に効く神様」として知られ、病の全快まで「 蕎麦」を断ち、平癒したら「 蕎麦」を献じる信仰習俗があったそうです。

稲荷の裏手に石段があり、そこから展望庭園に入ることができるようになっています。

芭蕉庵史跡展望庭園( 芭蕉記念館別館)   小名木川と隅田川の合流点(分岐点)の北詰にある芭蕉だけにしぼった個性的な小公園。
平成7年(1955)4月6日に開設されたもので、隅田川の眺望がよく、四季折々の水辺の風景が楽しめるところです。

銅像の芭蕉翁が隅田川を眺めています。「おくのほそ道」もこの場所から舟を漕ぎ出し千住に向かって旅が始まった。
その時に詠んだ矢立初めの句が「行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪」でした。

17時になると芭蕉翁像が回転する仕掛けになっています。しかし閉園が16時30分となっているため間近で回転ほをみることは叶いません。
22時までライトアップされてますので、隅田川の遊歩道から見ることができます。

〇松尾芭蕉像   説明によると、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風が描き、京都の画家・吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により( 原画 岐阜県高山市 加藤功氏蔵)制作されたとあります。一番似ている芭蕉画像ともいわれます。

芭蕉庵のある一帯は常盤町になります。

常盤町   古くは深川村のうちの松代町でした。この地に代替地が与えられたとき、町名を付けるにあたり、もとの松代町の「 松」にちなんで目出度い吉名の常盤町を選んだのだそうです。

万年橋北の信号までもどりましょう。
左に進むとすぐ右に標柱が建てられています。

旧新大橋跡   本来の「新大橋」の架橋地点はこのあたりだったといいます。芭蕉庵からは至近距離だつたことがわかります。

江東区芭蕉記念館  入り口の大きなバシヨウの樹が印象的です。
昭和56年(1981)4月19日開館したもので、芭蕉自筆の短冊や掛軸など常設展示しているほが、年間通していくつかの企画展も行っています。

芭蕉及び俳句文学関係の資料が多く展示されています。

記念館の裏口からは隅田川の堤防に出ることができます。

深川芭蕉庵

『江戸名所図会』に描かれた深川芭蕉庵

境内に昔の芭蕉庵を模した小さな庵があって、中に芭蕉の石の座像がおさまっています。
何をもとに模造したものか、まったく小さな草庵にしかみえませんが、実際の芭蕉庵とはどれほでのものだったのでしょう。

〇石造りの蛙   芭蕉43歳の貞享3年( 1686)春、深川芭蕉庵において吟じた「古池や…」の句が、名吟として評判をとり、俳友から石造りの蛙が寄贈され、芭蕉はこれを大いに気に入り愛蔵していたといいます。記念館に展示されているものがそれで、小松石で出来たものです。

〇句碑  「草の戸に 住み替わる代ぞ ひなの家」。
「おくのほそ道」へと旅立つ前に芭蕉が詠んだ句。芭蕉の命日の昭和59年10月12日に建立されたものです。

〇句碑  「ふる池や 蛙飛びこむ 水の音」
要津寺に残る江戸中期の書家・三井親和の書を模写し、昭和30年6月、芭蕉稲荷神社に建立、さらに昭和56年ここに移築したもの。

〇句碑  「川上とこの川しもや月の友」
小名木川に舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」という前書きで詠まれた一句。友とは「目には青葉山ほととぎす初がつお」の句で知られる山口素堂のことだと言われています。

山口素堂の墓
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江東区芭蕉記念館
200円(小・中学生50円)、9;00~17:00、第2・4月曜日(ただし祝日の場合は翌日が休館)、03-3631-1448

箭弓(やきゅう)稲荷神社   創祀・創建年代、由緒などは不詳ですが、
一説にはここの主が武州(埼玉県)東松山市の出身で、そこにある本社から勧請したものではないかといわれています。
つまり屋敷神として祀ったのでしよう。、野球と音が同じことから東松山にある本社には野球選手がお参りするので人気稲荷になっています。

万年橋北の信号から東に向かう通りは「芭蕉通り」となっており、さきでは「高橋夜店通り」へと続いています。


芭蕉通りを進み最初の信号が「常盤橋一丁目」。この十字路あたりを南北に「六間堀」が流れていました。

近くに竹竿をたてかけた「竹屋」さんがありますが、江戸時代から続く竹商いの老舗です。
この竹屋さんの話しでは、家屋の裏手が堀で竹を荷揚げしていたといいますから、今の道路とは数メ-トルのズレがあります。
この猿子橋あたりに「芭蕉庵」があったのではないかという説もみられます。

猿子橋跡   小名木川から分流する六間堀に架かっていた橋。創架年や橋名の由来は判りません。橋の名を有名にしたのは母娘の仇討物語でした。

※猿子橋の仇討   三遊亭円朝作の人情噺『敵討ち札所の霊験』」です。舞台は寛政10年のころ。母と娘が猿子橋で、夫・父の仇を討ったという実話をもとにしたもの。西国三十三ヶ所巡りと仇討を織り込んだ道中ものとしても評判をとったという。発端の「根津遊郭」から巡って「猿子橋」で大団円むかえる物語です。

ここで十字路を右手に曲り小名木川のほうに歩いてゆきましょう。
しばらく歩いた右手あたりに幕府管理の備蓄米の保管倉庫があったようです。とくに説明版のようなものはみあたりませんが、設けてほしいですね!

御籾蔵跡   不時の災害に備え籾を貯蔵した幕府の備蓄倉庫。寛政10年( 1798)、11棟の籾蔵が建てられたといいます。寛政の改革の一環「 七分積金制」の積金で市中各所に設けたもので、その内の1つだろうといわれています。

次の十字路を左へ、右へとクランク状に進むと小名木川のたもと出ます。
このあたりが六間堀の分流点にあたるようです。ここから川沿いの土手道を「高橋」まで歩くことにしましょう。

六間堀入堀跡  竪川と小名木川を結んでいた六間堀はここから分流していました。

土手道をゆくと「高橋」があり、階段をのぼると右手に河岸の説明版があります。

芝翫(しかん)河岸   荷上場です。近くに歌舞伎役者2代目中村芝翫( 後の四代目歌右衛門)の邸宅があったことによる命名といいます。

〇中村芝翫   江戸に生れで江戸・大阪の両都で活躍した名優。天保2年( 1831)3月に初演した名作所作事「 六歌仙」の喜撰法師のくだりの清元に、辰巳、つまり深川を読み込み、「 我が庵は芝居の辰巳常盤町しかも浮世を離れ里」とうたったといいます。

川からはなれ高橋通りを右に大きな十字路のところまで歩きましょう。下町の古い商店街の名残りが漂う通りがあります。

下町深川散歩、漫画・「のらくろ」の散歩道・のらくろ-ドヘ!

のらくろ-ド(もと高橋夜店通り)   森下文化センタ-にある。田河水泡ゆかりの「のらくろ型」にちなんで命名されたもの。

森下3丁目の信号を過ぎると右手に森下文化センタ-があります。


森下文化センタ-   江東区文化センターの姉妹館で、区民の文化活動の拠点になっています。

伊東深水の娘・朝丘雪路のサイン色紙

ライブラリ-があり、ほかに江東区にゆかりの深い画家ふたり、伊東深水、関口正二の画業コ-ナもあります。
時間と興味があれば二階にある工芸館も寄ってみてはいかがでしよう。江東区に住む工芸職人の作品がみられます。

のらくろ館    文化センタ-の一階に「のらくろ館」が設けられており、
漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の遺族から寄贈された作品や遺品を展示されています。

田河 水泡(たがわ すいほう)  明治32年(1899)~平成元年(1989)
昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』は国民的なキャラクターとなりました。

のらくろに関連したさまざまなのらくろグッズが売り出され、それがキャラクターグッズの走りともいわれています。
田河水泡の門下生には『サザエさん』で有名な長谷川町子、杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼、山根赤鬼らがいます。

のらくろ館
無料、9:00~21:00、毎月第1・第3月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)、03-5600-8666

のらくろ-ドをもどり、高橋通りの信号を渡ったら右手にすすみ、最初の十字路を左にはいると神明宮がみえます。

神明宮の門前に伊東深水の居宅があったようで、説明板が建てられてあります。

伊東深水誕生の地   女優朝丘雪路の実父。明治31年、森下町の深川神明宮門前で生まれました。
鏑木清方に入門し、画壇にデビュ-。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものだそうです。

深川地名発祥の神社・深川神明宮をお参りしましょう!

神明鳥居をくぐると、さらに神殿の前にも風変りな鳥居のようなものがあります。

なんなんでしょう?しめ縄のようなものが巻かれていますから、これも鳥居のひとつとみていいのでしょう。深川神明宮

神社としてはあまり見かけないユニ-クな造りになっています。手前にのびた庇のようなものは、雨除けでしょうか?

深川神明宮   深川の地を初めて開いた深川八郎右衛門が自邸に創建したもので、「深川地名発祥の神社」となっています。つまり、「深川」の名のル-ツはここということになっています。ご祭神は伊勢の皇大神宮のご分霊・天照大御神です。

境内の「寿老神社」には深川七福神の1つ寿老神さまがお祀りされています。
3年に一度行われる本祭りは「宮神輿の巡幸」と「町神輿の勢ぞろい」が盛大に行われます。

門前の通りを右にゆき、最初の通り(六間堀)を左にゆくと、左手に古風な構えをみせる、「深川めし」で有名な「みや古」(常盤2丁目7−1)があります。
ここで「深川めし」の味覚を楽しむのも深川ならではの食の思い出になるでしょう。

そのあとは、店の前の通り(六間堀)を新大橋通りのほうにぶらぶら歩いてゆけば、ものの数分で森下駅(新宿線・都営大江戸線)です。

それではこのあたりで手〆といたしましょう、

ではまた。    

  今日の散歩土産は、コレ!

彦九郎  新大橋店 /江東区新大橋1-4-16  新大橋そば/都営地下鉄新宿線・都営地下鉄大江戸線「森下駅」徒歩6分

まずは「彦九郎のわらび餅」です。
ぷるぷるした大粒のわらび餅がだいたんに入っています。
味はくせがなくあっさりとしていて、口どけがよく何個でもいけちゃうのが、ヤバイ!
冷やして食べると葛の味がしっとりと舌にしみてきた、またウマ!

夏に立ち寄ったら、夏場しかない「水まんじゅう」もいいです。
葛寒天でさらし餡を品よく包んだ外観。ヤワヤワでくずれそうだがわりとしっかりしている。
プルンプルンとした姿形が涼しげで、やっぱり夏のものだと納得できる。
ともかく冷やしてころあいのときに食べるのがいい。

皮も餡も美味しいどら焼き、ここでは「虎やき」です。これも逸品です。

 

 

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