小名木川のその先の新川へ、旧江戸川へ。行徳航路の景色をたどる。
都営新宿線の「東大島」駅からスタートします。
駅が中川に跨って設けられおり、改札が東西の両端にあります。
川は続くよ利根川へ。物資を運ぶ大動脈となった江戸の川!
隅田川~小名木川~新川~江戸川~利根川のチエーンルート!
ちなみにこのコースは小名木川のコースとジョイントできます。ワイドで広域なお散歩もどうぞ!
*ジョイント『小名木川』界隈
見逃しがちだが、かつては小名木川から新川にさしかかると小松川の流れも注いでいた!
上図のように小松川が新川に注いでいました。
東西に分かれていた小松川村の境を流れていたので、「小松川境川」ともよばれ、江戸時代には、灌漑や物資を運ぶ川として重要な役割を果たしていました。特産品の小松菜なども大量に運ばれたことでしょう。今日、下流は荒川・中川の放水路により消滅していますが、上流は「小松川境川親水公園」として親水公園化されています。
元禄5年(1692)ですが、松尾芭蕉は「秋に添うて 行かばや末は 小松川」という句を詠んでいます。深川の芭蕉庵から小名木川、新川にそって秋の景色をたずね、末は小松川まで行ってみようかというもの。
*小松川境川親水公園 古川親水公園に続く江戸川区内で2番目にできた親水公園。菅原橋から中川までの全長3,930メートルが整備されている。
新川開削 寛永6年(1629)、小名木川からさきに新川が開削され、これによって江戸川、利根川を経由する大航路となり、生活物資や東北地方の年貢米などを輸送する大動脈に発展しました。
さらには物資の輸送だけでなく旅客航路として成田山新勝寺や、東国三社の鹿島神宮、香取神社,息栖神社にお参りする人でも賑わいました。
そんな大航路の川筋を新川から江戸川べりにあった行徳船場までたどってみましよう。
ちなみに、小名木川と新川(船堀川)の二川合わせて行徳川とも呼ばれていたようです。
大島小松川公園 東京都江戸川区小松川と江東区大島にまたがってある都立公園。江東地区の防災市街地再開発事業により開設されたもので、荒川に沿っており、平常時は憩いの場として利用され、災害時には約7万人の避難広場となります。
運動施設を中心としたスポーツ広場、自由の広場、季節の広場、風の広場、わんさか広場等が整備されている。開園年月日:平成9年8月1日 開園面積:249,282.77㎡(「東京イーストパーク」より)
こちら高台です。小名木川が旧中川に合流する景色がみられます。広重の描いた川の四つ辻が失われてしまったのが残念です。
水上交通における江戸の玄関口だった小名木川の中川口を行き交う舟と人々を描いた一枚。.
*歌川広重『名所江戸百景』 左右が中川、手前が小名木川、正面が新川。新川は荒川までの間が埋め立てられてしまった。
正面に小名木川。かつては川の十字路で、航路の要衝でした。
しかし、荒川放水路の開削でこのような往時の景色は分断され消滅してしまいました。
公園でひときは異彩を放つのがこれ!
人面魚のようなふしぎ感のあるオブジェ。
海底に沈んだとされるムー大陸。そこからの、幻想!
第27回UBEビエンナーレ出展作品。山口県宇部市の「ときわ公園」からこちらに移設されたようです。
どこか、懐かしさをよび覚ます風景です。
そんな風景のなかに忽然と遺跡が!
旧小松川閘門 荒川と中川の両放水路の開削により水路が遮断されることを防ぐため、荒川と旧中川の最大で3.1メートルの異なる水位を調節するため、昭和5年(1903)に完成されたものだが、現在は水上交通んの衰退により廃止され、近代土木遺産としてここに保存されることになりました。
閘門は全体の3分の1ほどで、残りの3分の2は、閘室、運河などとともに土のなかに埋まっていろのだそうです。
より多くの船を通航させるために閘門が3つ設置されました。
いまはすべてが廃止され、平成17年(2005)に完成した荒川ロックゲート(閘門)が異なる水位調節を一手にひきうけています。
荒川(荒川放水路) 明治44年(1911)、荒川放水路の工事が開始されました。これと同時に中川の開削も行われ、工事は20年の歳月を要し、昭和5年(1930)に荒川放水路・中川放水路として完成しました。
*中川放水路 中川の洪水を防ぐために行われた改修工事によってできた人工の放水路。
中川の護岸に沿ってゆく。
船堀稲荷神社 当地を開拓した七戸の家が元禄4年(1691)に創建したもので、旧船堀村西組の鎮守だった。荒川放水路開削のため、大正4年(1915)、ここに遷座したという。
行く手に大きな櫓が見えてくる。
西水門からの新川。
川の両岸は「新川千本桜」と銘打った桜並木になっている。
新川の全長約3キロメートル。両岸に桜を植え、新しい桜の名所を作った。
水門と櫓を核にして周りが公園化されている。
新川に架かる橋は二つを除いてすべて木造の橋。
江戸川区の新川にかける取り組みのほどがうかがえる。
新川の通運の変遷がわかるようになっている。
立派な末に育ってほしですね。
一之江境川親水公園がほど近い。かってはこのあたりに一之江川が注ぎ込んでいたのだろう。
石垣の護岸がすすめられている。花
江戸川区 新川さくら館 新川の全長約3キロの中間にある。
花下の裸婦像。
新川橋から「古川親水公園」が近い。
かつての新川は、新川橋付近で古川(古川親水公園)を通じて江戸川とつながっていた。蛇行の激し川で、たびたび不祥事が起こった。
そんなことから幕府は、寛永6年(1629)、新川の「三角」から東の江戸川まで一直線の川を新たに開削した。そこから元の川筋を「古川」、新しい川筋を「新川」とよぶようになったのだという。
古川親水公園 昭和47年(1629)、江戸川区は古川の水路を清流に再生させる『江戸川区内河川整備計画』を策定し、古川親水公園の整備を行いました。こうして昭和49年(1974)4月に誕生したのが「古川親水公園」、親水公園第1号、日本初の親水公園でした。
いまでは、江戸川区内に親水公園7路線・親水緑道11路線が整備されているそうです。
このあたりからの新川はほぼ東の河口まで一直線。
いよいよ東水門が見えてくる。新川が旧江戸川と合流するところだ。
水門の裏は工事中で覗きこめない。
ボラのレリーフでしょうか。
新川に出た行徳船は旧江戸川に沿って行徳河岸までさかのぼった!
旧江戸川に出て川筋に沿った土手上の道をゆく。
人気のない児童遊園の隣に、広い境内を持つわりには小さな社が左手にみえる。
土手下の児童遊園地をぬけ境内に入ってみた。
下今井稲荷神社 宝永4年(1707年)、下今井村の香取社(下今井香取神社)の摂社として祀られたのが、始まりという。神仏分離する以前は観音寺が別寺だった。
その観音寺は熊野神社裏にあったが、廃寺となり真福寺と合併している。
しばらく歩くとこんどはこぶりながら厳かな社があった。
*おくまんだしの水 「本神社前の江戸川は、「おくまんだし」とよばれ、水流の関係で深い瀬となっています。ここの水は、とくにきれいで、こなれていたために、昔は徳川将軍家の茶の湯につかわれていたと伝えられています。野田の醤油の製造をはじめ、本所、深川、大島あたりでもこの水を買って飲んだといわれています。」(江戸川区教育委員会掲示より)
川の水流が土手を壊すのを防ぐために、一帯にたくさんの「だし杭」が打ってあった。つまり「熊野神社のだし杭が打たれたあたりの水」と、いうことだろう。
芭蕉句碑 境内の左隅。「茶水汲むおくまんだしや松の花」
芭蕉の句と伝えられている。氏子によって建てられたもの。
古川親水公園の江戸川側の口を見てみたいので、ちょいと寄り道。
宇田川家 先祖は宇喜新田を開拓した宇田川喜兵衛定氏で、二之江村の村役人を務めた。宇喜田町にその名を残しています。
旧江戸川と繋がっているのだろうが、開渠はここからのようである。
もとにもどり進むと、瑞江大橋のところで旧江戸川は右に急カーブする。
*旧江戸川 大正8年(1919)に江戸川放水路が開削されたのち、昭和40年(1965)以降は、放水路を江戸川の本流とし、元の川のほうは「旧江戸川」という名称になりました。
*新中川(新中川放水路) 昭和6年(1931)に掘削された中川放水路(中川)とは別の新しい放水路をつくることになりました。昭和19年(1944)末に戦争で一時中断。昭和22年(1947)9月のカスリン台風の被害で放水路の必要性があらためて認識され、昭和24年(1949)に工事が再開されました。
昭和38年(1963)3月16日、今井水門の工事が竣工し、新中川放水路(現新中川)の工事が完了しました(延長8,884メートル、幅員123メートル)。
葛飾区高砂一丁目と二丁目の間で中川から分流し、江戸川区の中央を流れ江戸川四丁目先で旧江戸川に合流しています。
*瑞江大橋 新中川の最下流(旧江戸川との合流部)部に架かる橋。
はじめは昭和35年(1960)、新中川掘削工事に伴い架橋され、平成23年(2011)新し橋にかけ替えられた。
*今井水門 江戸川区を高潮・津波被害から守る水門の一つで、新中川をまたぐ今井水門には門扉が7門もあります。
瑞江大橋をわたると道は今井橋の通りにまじわります。
右に進み今井橋をわたります。
今井橋 東京都江戸川区と千葉県市川市を結ぶ旧江戸川に架かる東京都道・千葉県道50号東京市川線の橋。昭和54年(1979)に完成。
現在の橋の50メートルほど上流に昭和26年(1951)完成]の片側一車線のコンクリート製の橋があった。
今井の渡し場跡 大正元年(1912)まで渡し場はおかれました。
歴史的にみると、徳川家康は東金に鷹狩に行く際には今井の渡しで下総行徳に入り、権現道を通ったと伝えられています。
行徳街道が平行していますが、川べりの道をゆきます。
行徳河岸(祭礼河岸)跡 市川市湊は中世から近世にかけての船津(港)で、各地の産物を積んだ船の発着場、物資の集積所でした。江戸時代になってその役割はさらに高まった。
そんなことから元禄3年(1690)、本来あった場所からここに移したとされる。このとき常夜灯が残るところに人を乗せた船の発着場を作った。これが新河岸ということになる。
で、もともとの船の発着場は、江戸川べりより奥まった教信寺裏の内匠跡辺りから徳蔵寺裏手辺りと考えられており、『鹿島紀行』での芭蕉もそこで船を降りている。
さあ、行徳河岸の常夜灯が見えてきました。行徳船の航路の終点です。
ここは下総・市川市行徳。元禄3年(1690)、祭礼河岸とは別に新たな河岸がここに整備されました。
*行徳船場 江戸と行徳を往来する行徳船の船着場とされ、以来、総武鉄道や京成電車が開通する明治43年ころまで、200年間ほどは行徳船の全盛期であった
*新河岸 常夜灯が立つ場所は新河岸と呼ばれ、房総と常陸への街道の起点であり、北関東や東北からの水運による江戸への物資輸送の中継点でもありました。
輸送はまず行徳塩田の塩を江戸城に運ぶことからはじまりました。
常夜灯 文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路の安全を祈願して成田山に奉納したものである。
図会をみると河岸はそうと広かったようだ。正面の広い通りを行くと行徳街道に出る。
船を降りた旅人はみなこの道を歩いて、行徳街道にでた。
このあたり一帯をさまざまな船が埋め尽くしたことだろう。
常夜灯公園の対岸は江戸川区の東篠崎。
街道に出たところにあった街道名物の「笹屋うどん」。安政元年(1854)の建物(部分)が現存している。
かつては、行徳の村や空を眺めれば、塩焚く煙もたなびいていただろう。
海は遙か彼方に退いてしまった。
コメントを残す