実業家をめざした渋沢栄一の別邸と江東区(下町深川)ゆかり、かかわり!

東京・江東区の中川・小名木川の合流地にある「中川船番所資料館」というところで(好評で会期延長とか…)

特別展『渋沢栄一と江東~實業 栄一 揺籃(ハジマリ)の地~』というのをやっているというので、行ってきました!

「中川番所資料館」でというのが、内容にしてはちょっとしっくりこないですけど、

いまやたらともてはやされている渋沢栄一のことで、ちょっと内容が気にもなるので足をのばしてみました。

というわけで、以下そんな見学行の模様を写真と拙文でお届けします。

小名木川と中川の合流地点、絶好の晴天、のんびりとカヌ-を漕ぐ人たちもいる!

小名木川は江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ運河(人工河川、水路)で、江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されたものであり、全長 約5キロメ-トルでした。

「行徳の塩」(行徳塩)を江戸に運ぶための航路として小名木四郎兵衛に命じ開削させたので、その名がついたといわれ、俗に「塩の道」ともいわれたりします。

江戸の重要な物流河川としての名を高め、近郊農村で採れた野菜を運んだり、成田参詣客などの船客の輸送もになう川になりました。

さらには新川~江戸川~利根川を経由する航路が整備されると、東北地方の年貢米などが積荷として行き交う大航路に成長しました。

はじめ隅田川口の万年橋の北岸に「川船番所」が開かれました

そうした賑わいをみて、寛文元年(1661)、出入りする船を取り締まるため小名木川の隅田川口に「深川口人改之御番所」を開きました。

のちにそれが格上げされ、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」といわれるようになりました。

安藤広重画『名所江戸百景』「中川口」。手前が「小名木川」、奥が「船堀川(新川)」、左右に「中川」が流れる、運河と川が交差する場所で、左手下に「中川番所」が描かれています

『江戸名所図会』の「中川口」の図。三艘の船の下るところが小名木川。合流する川が「中川」。左手に「中川御番所」(川関所)。

小名木川が中川に合流する左側一帯が「中川番所跡」。正面は大島小松川公園。

「中川船番所資料館」は、この番所跡より北へ50メートルほど離れた土手上に建てられています。

実はこのときは小名木川沿いの散歩がてらということだったのですが、その散歩のところは飛ばしまして、

やってきました「中川番所資料館」!

常設展では江戸の水運、江東区の歴史、昭和の暮らし、江戸和竿などといったものがコ-ナごとに紹介・展示されています。

中でも「船番所」関連の資料は楽しめます。何度もみているのですが、ひとまずざっとみてみてみました。

数分おきに昼夜が交互に切り替わる照明の仕掛け。雷が鳴ったり、猫の鳴き声が聞こえてきたりと音響の仕掛もあり、楽しめます!゜

酒樽を摘んだ船が停泊しているところではり、番所の取り締まりを想像してしまいますね。

ジオラマで中川番所の一部が再現されたりしています。

役人の人型がおかれたところでは、ドラマ仕立ての会話が流れたりします。

商人「今日中に届けなければいけませんのでお早めにお願いします」

役人「文句を言うな!文句を!こちらとて急いでおるのじゃ。これから手形と相違ないか調べを書き写して・・・」

商人「そのような話よりも早くしてくださいませ」

役人「わかったわかった!

道中の往来に絶対必要だった、関所手形が展示されています。

ざっとこのような常設展示を一通り目にしまして、

めざしたのは2階の企画展・特別展の展示コ-ナ。

渋沢栄一は明治9年(1876)から12年間、深川福住町(現・永代2-37)に居を構え、ここを拠点に実業家として動きはじめました。

特別展のタイトル通り渋沢栄一にとってはまさに「揺籃」の地といえるところでした。

明治中期の渋沢家住宅(渋沢史料館蔵)江東区下町文化バンフレットより

深川の地に建てられた旧渋沢家住宅(深川邸)の変遷が写真で紹介されています。

この渋沢家住宅は、明治から昭和にかけ、渋沢栄一とその家族が暮らした住宅です。

この家屋が江東区の潮見に移築復元される予定で工事が進んでいるんだそうです。

青森県六戸町へ移築された旧渋沢家住宅(清水建設株式会社蔵)江東区下町文化より

渋沢栄一は設立した東京株式取引所が近い兜町に明治6年(1873)から9年まで住んでいましたが、その後、深川に移りました。

しかし多忙になってきて職住接近を合理としたのか、明治21年(1888)再び兜町に戻りました。ここは深川別邸長男・篤二居住)となりました。

だが居を移した後も深川区(のち江東区)の初代区会議長、深川区教育会会長を務めるなど江東区と深いつながりをもっていました。

そうしたなかで、明治33年(1900)、德川慶喜を深川邸に招いています。

そして61歳の明治34年(1901)5月、德川慶喜の功績を正しく世に伝えようと奮起し、慶喜の伝記編纂(『德川慶喜公伝』)に取り組むため深川邸をその編纂事務賞にしています。またこのときを契機に飛鳥山の邸宅を渋沢家飛鳥山本邸としました。

『德川慶喜公伝』は渋沢栄一の発願から25年の歳月をかけ、慶喜没後の大正7年(1918)に出版されました。渋沢栄一78歳の1月でした。

徳川慶喜公伝1/徳川慶喜公伝2/徳川慶喜公伝3(全3冊)

このような江東区とのゆかりと、かかわり。展示はそんな面を強く打ちだした内容になっています。

パネル画像や写真が主ななので、飛びぬけ目をみはるものはありませんが、渋沢栄一の人となりと人生のあらすじを知るにはとても役立つ渋沢栄一展となっています。

深川本店と鉄筋コンクリ-ト倉庫/渋沢倉庫株式会社蔵(特別展チラシから)

渋沢栄一が設立にかかわった江東区の近代産業が写真入りで解説されています。いやはや、その数に圧倒されますね。

渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。

渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

コノヨウニパネルにされた内容はすべて無料配布されているカタログにそのままのっています。

これはありがだい!

この無料カタログを手に入れれるだけでも十分に来館の価値があります。12頁ものですぞ!

こんどこれを携えて諸所めぐってみょうかとおもっています。

その模様はいずまたお届けします!

見終わって残念におもうのは、これほど濃密な土地なのに渋沢栄一の銅像がないことですね。

ということで、渋沢栄一の小さな特別展にでかけた模様をお届けしました。

関連記事:小名木川の隅田川入口みたければ!

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中川船番所資料館

大人200円/小・中学生50円 特別展・常設展

9:30~17:00まで(入館は午後4:30まで)

休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日及び振替休日のときはその翌日)年末年始、展示替え期間等

03-3636-9091

≪交通≫

電車*都営地下鉄新宿線「東大島」駅下車(大島口)より徒歩5分

バス:錦糸町駅(錦28系統)錦糸町駅~東大島駅 「第五大島小」下車徒歩2分

中川船番所資料館

これ役立つ→「こうとう区報」(渋沢栄一特集

 

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