江古田浅間神社の例祭に立ち寄り富士塚・通称「江古田富士」に~登る!!

江古田浅間神社 富士塚の鳥居

毎年9月の第2土曜・日曜に開催される江古田の「浅間神社例祭」。
練馬のお祭りの中でも特に盛大なお祭りです。
この日は境内にある「富士塚」(国重要文化財)に登れるということでこのところ人気が高まっているようです。

この日、偶然近く通ったのでその富士塚に登ることができました。

だいぶ前に一度登ったことがあるのですが、その日も偶然で、富士の山開きの7月1日でした。


偶然の重なりで縁起がいいので験(げん)を担(かつ)いで、その日の模様を写真でお届けしてみます。あいにくカメラを持ってなかったので、みな携帯で撮影したものです。

江古田駅
右手の空いたところが参道

西武池袋線の江古田駅北口から徒歩1分ほどのところにある「浅間神社」。

浅間神社  浅間(あさま)は広義で火山を意味するもの。
浅間信仰は富士山そのものをご神体とする信仰で、古来からの自然信仰といえるものです。

江古田浅間神社

全国の浅間神社の総本宮は、「富士山本宮浅間大社」で、祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)。女神である。

手水鉢

手水舎・手水

作法 1・右手に柄杓 を持ちたっぷりと水をくみ、左手を清めます。 2・ 柄杓を左手に持ち替え右手を清めます。 3 ・再び柄杓を右手で持ち、左手のひらに水を受け、口をすすぎます。 4 ・改めて左手を清めます。 5 柄を縦にし残った水で柄を洗い清め元に戻します。

浅間神社 本殿

若い人のお参りが目立ちました。

浅間神社の境内
社殿奥の緑が富士塚。

広い境内に樹齢を持つ太い欅が2本聳えています。

神楽殿

2日目にはお神楽も催されるようです。

神輿が町内を練り回るのも2日目

富士山の自然崇拝から生まれた富士信仰とその拠り所・富士塚!

江古田富士  高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田富士”と呼ばれています。小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)という講中によって天保10年(1839年)に築かれたものと考えられています。大正12年(1923年)関東大震災によって損壊しましたが、その後、復旧工事が行なわれ復元。塚の一部が富士山の溶岩で覆われています。

説明板

富士山 「不二」(ふたつとない)、「不尽}(つきることがない)」などとも記される富士山。 

古く富士山は男性のみが登山でき、女性は登れない女人禁制の山でした。

ですがどうにか2合目、さらに3合目まで登れるようにはなりました。だがこれが限界でした。

登れない境遇の人や女・子供には富士山は崇高にして憧れの山でした。

そうした人たちの霊峰願望。

そんなことから生まれたのが富士講による富士塚でした。

ちなみに女人禁制が解かれたのは明治5年(1872)3月のこと。

明治政府の太政官布告第98号「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣を随意とす」によって多くの山で「女人禁制」が解かれるようになりました。

石碑
国指定重要有形民俗文化財・練馬区登録有形民俗文化財

富士講 霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたもので、年ごとに講の代表者として参拝するものが選ばれ、その費用を講員全員で負担する組織。江戸の文化・文政期になると俗に江戸八百八十講といわれるほど数多くの講が組織されたといいます。

富士塚  富士講がさかんになると、石や土を盛って富士山に似せた富士塚(ミニ富士山。自然の山を代用することもあった)が各地に築かれました。富士山に準ずるものとされ、そこに富士山の神を祀っり信仰の拠りどころとしました。

だれでも富士山に登れる!富士山に登ったと同じ御利益がある!

ということから大流行し、「お富士さん」などと愛称を持って親しまれました。

鳥居

富士塚には注連縄のかかる厳かな鳥居をくぐります。ここが富士塚の結界。

法被姿

講マークの染抜かれたいきな法被を着た男衆たちが登山道の要所ゝで上る人下る人を丁寧に采配していました。

富士塚
教えられて唯一、頂上が見通せるところから、パチリ。だが、ナカナカ。

高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称「江古田富士」と呼ばれ、都内の富士塚の中では規模の大きいものとされています。

全面と左右の三方に裾を広げ、後ろのみ傾斜が急になっています。

神猿

申(さる)の日に富士山が現れたとの故事から、「猿」が富士講の神使とされています。
また、山王信仰や庚申信仰、道祖神信仰の影響を受け「猿」が富士講の神使とされたともいわれます。
浅間神社の祭日は申(さる)の日で、特に初申祭は例大祭として盛大に行われます。

神猿
対で合掌してます。
神猿
こちら、足の部分は折れたのかしら。

神猿  狛犬ならぬ二匹の神猿が登り口に畏まっています。

富士塚や富士山の登り口付近におかれた神猿は、合掌して富士山(山頂)を拝む姿のもの。

山頂の社祠の前に置かれたものは、御幣や鈴を持ち社祠を参拝する姿をしているといわれます。

あいにく山頂では見つけられませんでした。

碑
上部の刻みは講の紋章でしょう。

富士の登山記念に建てたもので、同行(どうぎょう)、とは講の仲間という意味でしょう。これに関して宮司さんに尋ねたら回答が出ませんでした。

富士塚

全面にはジグザグの参道(登山道)が1合目から8合目まで作られています。

石は富士山の溶岩で俗に「クロボイシ」といわれるもの。

*今日では、富士山の溶岩は勿論、石・砂まで採取持ち帰りは自然公園法で禁止されています。昭和32年にできた法律です。ちなみに富士山及び富士山麓は「富士箱根伊豆国立公園」にふくまれます。

赤い鳥居のある二合目

富士塚は女、子供でも登れるお山として親しまれました。

下から上まで登山道に見立てて作られた往時の道がそのまま維持されています。

富士塚

富士山頂の七号目です。

「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)を唱えながら、富士山に登る思い込めて登れば、どこか神々しさが感得され、霊験あらたかであるともされていました。

昔の人はみなそうした気持ちを抱いて登ったのでしょう。

昔人の疑似体験ですね。そんな富士信仰の文化を受け継いでいる気持ちで登ってみるのもいいでしょう。

富士塚

いよいよ頂上が見えてきました。

富士塚 山頂

富士山の山頂にある浅間神社の奥宮に対応するように、富士塚の山頂にもお宮が設けられています。

唐破風屋根のついた石祠は天保10年(1840)に建立されたもの。

基本的には富士塚の上から富士山をのぞむことができるように築造されたものですが(下記の広重の絵がよくそれをあらわしている)、今日、富士山を直接仰げるものはほとんどありません。
 

広重 浮世絵
歌川広重「名所江戸百景」/『目黒新富士』

目黒の富士塚と本物の富士山を対比。満開の桜が彩る。川は三田用水だろう。

天狗
烏天狗(からすてんぐ)

下山するとすぐ天狗に出会います。烏天狗、大天狗。

烏天狗   山伏 装束で、 烏 のような 嘴 を持った 顔 をしており、自在に飛翔することが可能だとされる 伝説上の生物 。 青天狗 、小天狗とも呼ばれます。

迂闊!神猿もあるはずなのですが見逃してしまいました。

天狗石像
山岳信仰の象徴である山伏 装束。

大天狗  強力な神通力を持つとされる天狗。天狗パワーの親分です。大きな念力を授けてくれるそうです。

大山不動 滝
大山不動尊

下山寸前でどこからか水の音。ンン?

なんと木立の蔭に滝があり、不動尊が祀られていました。見逃すところでした

往時は富士をめぐり、合わせて相模(神奈川県)の大山を参拝する人も多かったそうです。そんな人たちが浄財を持ち寄って作ったのでしょう。 

大山不動

数年前に大山街道を歩いて大山参詣をしているので喜びもひとしお!

千川堤植櫻楓碑

一礼をして境内を出ようとしたところで目にとまりました。かつてはすぐ近くを千川上水が流れていました。いまの「千川通り」が、その跡です。

説明板

千川堤桜楓碑  大正4年(1915)建立。千川上水沿いにあったが、上水の暗渠化に伴う道路拡張により境内に移されたとあります。碑には千川上水沿い7キロにわたり桜と楓1200本を植えたことが記されています。

板橋区の時代から江古田の村を鎮護してきた神社ですね。欅もそうかな。
明日の例祭が謹がなく済みますことを!

境内の外郭を玉石垣がかこむ。その数や屋号をみると往時の江古田の賑わいが彷彿とします。

補足・まとめ 江戸市中と言われた範囲には大小いくつもの富士塚が残っています。

その中で秀でたものが以下。

江戸七富士  都内に江戸七富士と呼ばれる七つの富士塚があります。「江戸七富士巡り」はどう!

  • 品川富士(品川神社境内)
  • 千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
  • 下谷坂本富士(小野照崎神社境内) – 重要有形民俗文化財「下谷坂本の富士塚」
  • 江古田富士(浅間神社境内) – 重要有形民俗文化財「江古田の富士塚」
  • 十条富士(十条冨士神社境内) – 整備工事中
  • 音羽富士(護国寺境内)
  • 高松富士(富士浅間神社境内) – 重要有形民俗文化財「豊島長崎の富士塚」

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