司馬遼太郎『峠』にみる「北越戊申戦争」、長岡・小千谷のゆかり散歩!

幕末、北越戊辰戦争で戦場と化した越後の城下町・長岡。その長岡藩に一人のサムライがいた。幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩家老・河井継之助。

その河井継之助の生き様を描いたのが司馬遼太郎の『峠』。それが映画化されました。映画のタイトルは『峠 最後のサムライ』。(監督:小泉堯史監督、主演:役所広司)

昭和41年(1966)11月から昭和43年(1968)5月まで『毎日新聞』に連載され、その年の10月に新潮社で刊行され、ベストセラーになった作品で、 河井継之助の名を、一躍世間に広めることとなったといわれる歴史小説の映画化です。

https://movie.jorudan.co.jp/cinema/39829/

完成作品はコロナ禍の影響により、およそ2年半にわたり延期を繰り返してきたのですが、ようやく上映が実りました。超歴史大作です。(小泉監督おめでとう!)

その河井継之助がどんな男にしてどのように生きたのかなどは作品と映画にまかせるとして、ここでは、4年ほど前に信濃川(千曲川)の源流遡行をやったとき、その途中で寄り道した長岡・小千谷界隈の『峠』ゆかりの舞台や史跡を眺めてみようかと思うわけです。
ということで、以下、そのときの撮影写真に拙文を加えてお届けします。

司馬遼太郎『峠』にみる「北越戊申戦争」、長岡・小千谷のゆかり散歩!

長岡市立中央図書館より
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JR長岡駅から徒歩約3分ほどのところ。長岡市シティホールプラザアオーレ長岡付近にある「長岡城址(二の丸跡)」へ行ってみましよう。
長岡城はまさに戊辰戦争の中央舞台となった場所。駅前の交差点を渡ると、二の丸跡の碑が見えてきます。当時の城は第二次世界大戦で木っ端微塵になって風化してしまいました。
長岡城はだだっぴろい平野に建てられており、城を守備するにはとても不利な状況であったといわれています。

倒幕寸前の時代に全国諸藩を巻き込んだ戊辰戦争がありました。

映画は、将軍の大権を天皇に返上するという「大政奉還」の意志を、徳川慶喜が大名たちに告げるところから始まります。

大手通りを行くと「大手饅頭」の老舗「紅屋重正」があります。古くからのわたしの大好物!つい、ふらりと。だが早朝でまだお店が開いていませんでした。

お酒がほのかに香る酒元饅頭。長岡藩牧野家の御用を承った老舗菓舗。

全てが「原理」に忠実に、それが継之助の生き方でした。
なんのために、その目的が曖昧でなく、非常に明確な男でした。
家老をやりたいということではなく、やる宿命にあるとまで言ってのけた男でした。家禄120石の武士が家老に上り詰めるため、長岡藩を存命させるため獅子粉塵、必死に思慮し尽力しました。

市街地を流れる柿川。城下町の豊かさと戦場の雄叫びを知っている川です。

長岡藩は官軍、幕府軍のどちらにも肩入れせず、長岡藩が存続する方法として中立の立場を堅持しました。継之助が考えたものです。

滔々と流れる大河・信濃川!戦場となった時代を知っている川です。

戦争なんぞはしたくないものだ、それが継之助の「原理」でした。

しかし、幕末の世はそうはさせませんでした。
武士という身分はもういらない!ということで、すでに武士を捨てたいと思う継之助に、武士にならざるを得ない最後の戦が押し寄せてきます。

長岡藩は河井継之助の手配した近代兵器であるガトリング砲や、最新式の銃で官軍と戦いました。

越後長岡の由緒あるお寺を三つ訪ねました!

西福寺に残る維新の暁鐘!

柿川の近くに「西福寺」があります。

合図の梵鐘
「維新の暁鐘」

新政府軍が信濃川を渡って長岡場へ攻め入ろうとしたのを城下に知らせた梵鐘。かつての姿のまま残っています。長岡の歴史にとって近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれています。

長興寺に二人の偉人!   
長岡藩大隊長として活躍した山本帯刀をはじめ、長岡藩士家族の墓があります。
中に二人の偉人、連合艦隊司令長官・山本五十六と詩人・堀口大学が眠っています。

山本家は武士の家柄
山本五十六の墓
堀口家は代々の長岡藩士。「新春  人間に」の詩が掲げてあります。

ちなみに、我が母校(新潟県立十日町高等学校)の校歌の作詞も堀口大學(作曲・團 伊玖磨)。懐かしくて、つい口をついたものの、途中で有耶無耶、雲散霧消!「大學さんに失礼だ!このうすボケ」と頭に拳骨をくらわしてしまいました。

新春   人間に

分かち合え 君はいま立っている

譲り合え 二〇〇万年の進化の先端

そして武器を捨てよ 宇宙の断崖に

人間よ 君はいま立っている

存亡の岐れ目に

君は原子炉に

太陽を飼いならした 原爆をふところに

君は見た 月の裏側 滅亡の怖れにわななきながら

表面には降り立った 信じられない自分自身に

石までも持って帰った おそれわななきながら…

君は科学の手で 人間よ

神を殺すことが出来た 分かち合え

おかげで君が頼れるのは 譲り合え

君以外になくなった そして武器を捨てよ

いまがその決意の時だ
堀口大學

昭和45年(1970)に書かれた詩。翌年正月、福島第一原子力発電所が稼働した年の産経新聞・1月1日号の特別版用に書かれた詩とのこと。

懐かしいような雁木が残っていました。

最後のサムライ河井継之助ここに眠る!長岡市内栄涼寺!

長岡藩主・牧野家の菩提寺でもあります。

戊申戦争時は12代・牧野忠訓(まきのただくに)の時でした。

牧野家の墓

牧野忠訓は婿養子

河井継之助の墓  継之助のように腰の据わった墓石ですね!

城下町の越後長岡ならではの異色な記念館がふたつあります!

生家の庭が語りかける河井継之助記念館!

河井継之助記念館  河井継之助の自邸跡に記念館が開かれています。 
継之助の旅日記や、司馬遼太郎の小説『峠』の自筆原稿など、ゆかりの品がおよそ約30点展示されています。

歩いてる途上に山本五十六の生家があったので寄ってみました。こちらも記念館になっています。

見学しながら脳裏にあったのは、山本五十六が戊申戦争に遭遇していたらどんな行動をとったであろ,ということでした。継之助と五十六、長岡の両雄を謁(まみえ)させてみたかったですね。
ですが、長岡市大黒町に五十六の思いをしのぶことができます。
ここは長岡藩軍と長州藩、薩摩藩を主力とする新政府軍の北越戊辰戦争の激戦地となったところ。
その一角が大黒古戦場パークで、そこに「大黒戊辰戦績記念碑」(昭和12年建立)があります。
山本五十六の残した漢詩が自筆で刻まれています。

「君仕忠勤三百年 勇猛至誠鉄石心 鋸嶽山頂名月夜 誰語維新大黒戦」

大黒戊辰戦績記念碑

五十六の胸の内が伝わってきますね。

山本五十六記記念館  
「山本五十六」の生涯の足跡をたどり、その「人となり」がわかりやすく紹介されています。異色の展示品としては、連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機の左翼部分がある。

旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。文武両道、質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神の持主だった。
昭和14年(1939) 連合艦隊司令長官に就任。昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を敢行。未曾有の大戦の指揮をとった。
昭和18年(1943) ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死。死後、元帥府に列せられた。

左・和館の建物が「山本五十六記念館」
山本五十六の生家
山本元帥誕生之地

西軍が上陸した地がありましたのでそこにも寄ってみました。と、言っても今じゃ街中。

劣勢に立たされていた西軍(新政府軍)は、裏をかいて増水する信濃川を強行渡河。
中島に上陸すると、周辺の民家などに火を放ちながら城下を進軍したそうです。
長岡藩は城の南に本隊を置いていましたが、兵力に乏しく必死に応戦しましたが、長岡城は落城してしまいました。

西軍が上陸した付近の信濃川に佇んでみました。

河畔は夏の「長岡まつり」での「花火大会」の会場となるところ。
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市内中心部から南に約4km先には、北越戊辰戦争時に長岡藩の本陣が置かれた「光福寺」があります。小千谷の慈眼寺での交渉が実らなかった翌朝、継之助は開戦を決断ひmした。藩の諸隊長を光福寺に集め、みなの士気を高めました。
寺の敷地内には「戊辰戦争長岡藩本陣」記念碑があります。
ここは以前に訪れたことがあり、時間の都合もあって省きました。

で、信濃川に沿って隣町の小千谷に向かいました。小千谷談判の地です。

美しい越後の野面が戦場となった北越戊申戦争の現場のひとつを訪ねる!

司馬遼太郎『峠』のタイトル名ともなったと思われる榎峠が望まれます。
しかし,司馬さんは、
継之助の外交を一個の峠とすれば、談判というのは峠の頂上であろう。(司馬遼太郎「峠」より)
とも書いています。

が、わたしは素朴な自然「榎峠」を取りたい。

榎峠は長岡と小千谷の藩境近くに位置する峠で、慈眼寺の会談が決裂した直後、辛苦を舐める北越戊申戦争の火蓋が切られた場所なんですね。

峠の西側は直接信濃川に落ち込み、『峠』文学碑から見るとその場所が戦略的な重要拠点であることがよくわかります。

開戦を決意した長岡軍は、会津藩、桑名藩などの同盟軍と連携し一旦は明け渡していた榎峠の奪取に動きました。

しかし榎峠を登る同盟軍に対し、信濃川ごしに対岸の三仏生から新政府軍の大砲が火を噴いたのです。

では、これからその「峠」に行ってみることにしましょう。

越の大橋  西詰めから

新潟県小千谷市と長岡市の信濃川に架かる国道17号の橋長519.384メートルの桁橋。



司馬遼太郎の『峠』文学碑

信濃川にかかる「越の大橋「の西詰めの広場に、北越戊辰戦争の舞台となった榎峠の古戦場を見守るように司馬遼太郎の文学碑が建っています。

碑の裏には、司馬遼太郎氏の直筆で、「『峠』のこと」と題する河井継之助への思いが紹介されています。
文学碑の石の中には、「鎮め物」として、旧幕府軍と新政府軍両軍の銃弾が納められているのだそうです。

碑裏の一文

江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。

ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

平成5年11月 司馬遼太郎

直筆による『峠』の一文

   峠                  司馬遼太郎

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。

 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばして   きた。この川越の砲弾が、その方面の戦争の第一弾になった。

正面、「榎峠」。右手遠くに見えるのが「朝日山」(戊申の古戦場)

北越戊申戦争のキーポイントとなった小千谷談判!決裂!

慶応4年(1868年)、旧暦5月2日(新暦6月21日)、梅雨の降る中、小千谷市船岡山のふもとにある真言宗の古刹、慈眼寺(じげんじ)において、歴史にいう「小千谷談判」が行われました。

 

河井継之助は、長岡藩を民衆のために中立を貫こうと、武装中立決めます。
かれには、どうすれば、日本がよい方向へ向かっていくのか、それがもうそこに見えていました。
だから、この国を思って行動を起こさなければならない!そいう使命感が継之助にはありました!

長岡藩は、旧幕府派でも新政府派でもなく、武力は行使せず、中立の立場を保ち続けました。
新政府軍の侵攻に、継之助は戦いの意思がないことを主張する嘆願書を、ここ小千谷の慈眼寺で新政府軍に提出しました。
最後まで戦わない方策で官軍と和睦をしようとの水際の会談でした。裃姿で談判に臨んだといいます。

慈眼寺山門

ところが、相手は、予測していた北陸道参謀の山県狂介(有朋)でも黒田了介(清隆)でもなく、若干24歳の軍監・岩村精一郎でした。

やむなく継之助は岩村に対し、藩主・牧野忠訓公の名による嘆願書を手に訴えました。これに対し驕り高ぶる岩村は、取りすがる継之助を振り払ってその場を立ち去りました、

談判は30分ほどで決裂!

全く取り合ってもらえませんでした。武装中立は官軍が許さず!その一点張り。

そのことで、止む無く無駄な戦争に突入していくことになります。これが、戊申の北越戦争です。
継之助は苦渋の決断を下しました。この悲劇!
「ついにやむを得ざる。我が藩領を侵し、我が民を駆り、我が農事を妨げし者は奸賊なり」
継之助は起ちました。
敵軍50,000人に対したった690人。最後のサムライ・河井継之助が官軍挑むことになったのでした。

本堂の入り口
「会見の間」のある本堂

この談判で継之助との対面を果たせなかった山県有朋は、のちの回顧録『越の山風』の中で、そのことを遺憾とし、そうなった結末を悔やんだといいます。

「慈眼寺」のホームページはこちら。(「会見の間」画像あり)

越後長岡百景「慈眼寺(小千谷)」はこちら

長岡戊申戦争の火ぶたを切った、三国街道の難所・榎峠の戦い!

信濃川の妙見堰

長岡城下から南へ約四里。三国街道の難所・榎峠がありました。

旧国道17号(三国街道)

街道の西は断崖。真下に信濃川の流れを見下すところで、そのすさまじさに旅人の足がすくんだ難所でした。

激戦、榎峠

榎峠は長岡藩領の南端の要衝でした。

この一帯は戊辰戦争の最大の戦いとなった北越戦争の戦場となりました。

北越戊辰戦争での長岡藩の戦いは、ここ榎峠で始まりました。

1868年(慶応4年)旧暦5月10日(新暦6月29日)、長岡藩は、新政府軍に占拠された三国街道の難所である榎峠の奪還に向かいます。

信濃川対岸からの新政府軍の砲撃に苦戦しますが、作戦通り迂回していた別働隊が側面、背後から新政府軍を包囲して攻め、榎峠を奪還しました。

長岡藩をはじめとする同盟軍が勝利すると、戦いは南側に位置するもう一つの要地、朝日山の争奪戦へ移っていきました。

「榎峠古戦場パーク」

所在地:長岡市妙見町
交通:長岡駅からバス30分(小千谷駅からバス7分)、浦柄三叉路下車で徒歩5分

官軍との戦争に突入した長岡藩は近代兵器を駆使し戦い続けます。
兵力、兵器ともに官軍の方が有利でしたが、堂々と立ち向かいました。
結果は歴史が示しているとおり。敗れ、長岡城は灰塵となったのでした。

そんな戦争の最前線で戦ってゆく河井継之助の、その最後は…。

⁂北越戊申戦争の遺跡はまだまだ沢山ありますが、ここでは信濃川に沿った、それも一部のみの見分となりました。機会をみてまた再訪してみたいとおもいます。

長岡一帯をざっと俯瞰すると、両軍問わず、諸藩戦死者の墓が実に多いことに瞠目させられます。それほどに、激しい戦だったと言えるでしょう。

参考資料・稲川明雄 『決定版 河井継之助』/長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』

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