今日の散歩は南青山の界隈(港区)・「青山百人町」与力、同心傘はり屋敷!

かつての青山一帯は、なだらかな丘陵地に雑木林などが広がるような牧歌的なところでした。この広大な土地を徳川家康から拝領したのが青山忠成(青山氏9代)でした。この青山氏の名から「青山」の地名が生まれたものといわれています。

家康の鷹狩に随行した信濃高遠藩の内藤清成が家康から、「馬で走り回っただけの土地を与える」といわれ新宿御苑一帯を拝領したといわれていますが、青山屋敷の拝領にもこれとまったく同じ伝説があります。

大山街道(青山通り)の東側には「青山百人町」があり、ここには幕府の与力・同心の組屋敷が集中していました。

下級武士の彼らは生活を補助するため、拝領地の一部を富裕な町人に貸して家計の足しにしたりしていましたが、たいていは傘はりの内職などに精を出していたといわれます。

医者で蘭学者の高野長英は、長い逃亡のすえそんな武家地の一角に潜伏していたのですが、奉行役人に踏み込まれ、捕縛されそうになり自害しています。

というようなことで、そんな南青山の散歩コ-スを写真と拙文でお届します。

ちなみにこのコ-スは、「JOINT・SANPO」(ジョイント散歩)が可能です。近接のコ-スと合わせワイドな散歩をお楽しみください!

ジョイントコ-ス①  ジョイントコ-ス②

ちょっといつもより装って青山のうちの南青山を歩いてみたいと思います。といって南青山もこれまた1丁目~7丁目までありますから、6、7丁目あたりということになるでしょうか。
地下鉄・表参道駅のB3出口から地上に出ることにしましょう。

外に出ると青山通り(246号)、かつての大山街道が南北に走っており、右手には原宿方面に表参道がのびています。

渋谷方面に170メ-トルほど進むと左手に「青山スパイラルビル」があります。そのビルの柱の壁面下のほうを見て下さい。

壁面の一部を長方形にくりぬいて、そこに石碑がおさまっています。長英がひそんてだいたことを物語っているのでしょうか。まるでひっそりと、人に知られたくないように建てられているようです。

 

高野長英終焉の地   この地は与力・小島家が質屋の「伊勢屋」に貸していた土地でした。伊勢屋の別宅があったといいます。切絵図に「小島勘次郎」とあるのがそれでしょうか。
高野長英は小伝馬町に投獄されたのち脱走し、各地に潜伏、やがて江戸にもどり、青山百人町の借家を借りて沢三白と名乗り、町医者を営み捕方の追跡をくらましていました。

しかし、逃亡すること6年余、おそらく密告されたのでしよう。嘉永3年(1850)5月14日の夜、南町奉行所の捕方に踏み込まれ自決に至ったといわれます。人相が見破らないよう硝酸で顔を焼いて形相を変えていたといいますが、それでも露呈してしまったのでした。享年47歳でした。

〇高野長英・投獄・逃亡・逮捕・自害
鎖国政策を批判した『夢物語』を書いたことから、幕府にマ-クされ※「蛮社の獄」(言論弾圧)で逮捕され投獄。36歳でした。その後小伝馬町の牢獄で火事に乗じて脱出し、以後東北から鹿児島まで各地に逃亡。

※蛮社の獄   「蛮社」は洋学仲間の意。天保10年(1839)、幕府が渡辺崋山、高野長英ら洋学者に加えた言論弾圧事件。外国船モリソン号事件における幕府の対策を批判した罪などにより、崋山は国元での蟄居(のち自殺)、長英は永牢に処された。

宇和島藩の伊達宗城にかくまわれしばらく安定した生活をしていたが、幕府が気づいたのではないかと疑心暗鬼にかかり、宇和島を逃げ出し、ふたび江戸にもどりました。しかし、そこは終焉を迎える地ともなりました。

獄中で詠んだ歌があります。≪嘆かるる身よりも嘆く老いの身を嘆きこそ嘆げかる身に≫と母親にあてた一首でした。もうひとつ母親に宛て『是非もう一度会いし、申し訳致し候。すべてはせつとお許し下さい』と手紙を書き残しています。

長英の故郷、岩手県水沢市(いまは奥州市)には『高野長英記念館』があります。そこにはいろんな資料があります。機会があれば行ってみてください。


高野長英を描いた小説に吉村昭氏の長編『長英逃亡』(新潮社・上下)があります。関心のある人には最適な作品になろうかと思います。

青山スパイラルビル   江戸時代は質屋「伊勢屋」の敷地でしたでしょう。青山の新しい文化拠点として、株式会社ワコ-ルが、昭和60年(1985)にオープンした複合文化施設です。ギャラリーや多目的ホール、レストラン・バー、生活雑貨ショップなどが入っています。スパイラルは「螺旋」の意といいます。
※設計者・槇 文彦(まき ふみひこ)/建築家。代官山ヒルサイドテラスの設計で注目されました。モダニズム建築の作品や、「幕張メッセ」などのメタリックな作品で知られています。東京体育館、テレビ朝日(六本木ヒルズ)、朱鷺メッセ( 新潟コンベンションセンター)などがあります。

かつての武家地を通る青山骨董通り(高樹町通り)を散歩してみましよう!

青山骨董通り   青山通りの南青山5丁目交差点から六本木通りの高樹町交差点を結ぶ道路の通称です。かつては「高樹町(たかぎちょう)通り」と呼ばれ都電の走る電車通りでした。昭和55年(1980)ころから、この通りに古美術・骨董店が集まるようになり、だれ言うともなく「骨董通り」の愛称がついたようです

昭和51年(1976)、古美術商・エッセイストの中島誠之助氏が「からくさ」の屋号で古伊万里の専門店を出店(2000年撤退)し、のちに「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)の鑑定士として有名になったことが、骨董通りの知名度の向上に一役かったところがあるといえるでしょう。

「骨董通り」の界隈には、「根津美術館」を筆頭に、「岡本太郎記念館」、ジャズのライブハウス「ブルーノート」などがあり、広い青山の中でもカルチャ-な大人の街になっています。

小原流会館   華道の池坊、草月と並ぶ三大流派のひとつ。東京の拠点。

ニッカウヰスキー本社   昭和9年(1934)、寿屋でウィスキー製造に従事していた竹鶴政孝が北海道余市で創業した大日本果汁(略して日果)が前身。竹鶴は品質にこだわったウィスキーを作り続けた。昭和27年(1952)に東京移転。現在はアサヒビールグループの子会社。

さて、ここでちょっと寄り道しましょう。

きょうの散歩、南青山といったら、お土産は、コレ!(リニューアルオ-プンしました)

南青山  菊屋/唐衣・青山

 南青山5丁目5−20 表参道駅より7分くらい

作家の故・向田邦子さんご贔屓のお店のひとつです。

昭和10年(1935)創業という老舗の和菓子屋さん。宮家の御用や作家の故向田邦子さんも愛用していたといいます。お菓子はどれひとつとっても五感に香(かぐわ)しくて愛らしく、、どことなく華やかでモダン!茶席菓子に技を感ますが、妙にとりすましていない造形がイイ。中で「黄味しぐれ」は絶品です。姉妹でやっているところがまたイイ。

カラフル「唐衣」は、表面は乾いてシャリシャリ、中は柔らか~ひと粒口に含んで噛んだときのくずれの食感がたまらない。色によりそれぞれの味が目でも楽しめる。向田邦子さんが好んだという逸品です。

丹波の黒豆を砂糖で衣がけした「青山」はワタシの大好物。これまた口溶けと豆の歯ざわりがいい。
※立て直しがすみ、これまでの民家風の店舗からビルになりました。それも最上階の9階です。エエエ!~でも斬新ですね。

ほどなくゆくと左手にちょっと華やかな入口のあるビル。

紅ミュ-ジアム    文政8年(1825)、日本橋で創業した「伊勢半」本店は、伝統製法を守り現代まで紅を商ってきました。紅ミュージアムでは資料の展示や企画展などを催しています。

「紅」といえば黄色い「紅花」。その花びらにわずかに含まれる赤色色素があの深紅の紅になるという不思議。紅に関していろいろな物語を教えてもらえます。
無料、10:00〜18:00、月曜、休、03-5467-3735

南青山6丁目の交差点をすぎ、100メ-トルほど歩くと左手に長谷寺(ちょうこくじ)の長い参道がみえます。

 

大本山永平寺別院、長谷寺専門僧堂

長谷寺

僧侶の修行道場iにもなっています。

長谷寺(ちょうこくじ)

曹洞宗。大名・山口重政が天正19年(1591)家康から「渋谷ケ原」といわれたここに下屋敷を拝領し、慶長3年(1598)邸内に観音堂を建て、それを基に菩提寺としたのがはじまりといわれています。

開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある(※)門庵宗関禅師(もんなんそうかんぜんじ)。曹洞宗大本山永平寺の東京別院となっており、また宗門の専門僧堂がある修行道場とされています。

※門庵宗関   今川義元公の孫で家康と幼な馴じみ。赤穂義士で有名な高輪泉岳寺などいくつかのお寺を江戸に開いています。

麻布大観音

一本彫りの大観音

麻布大観音堂
日本三大長谷観音のひとつ。大和・鎌倉の長谷観音を彫像した同じ木片から作ったと言われる小観音を宝冠に収めた大観音像は、正徳6年(1715)の建立で、「麻布大観音」として親しまれたものでしたが、堂宇、観音ともにに戦災にみまわれてしまいました。

そのご、昭和52年(1977)に高さが約10メ -トルの巨大な像が完成しました。再建に9年の歳月を要したといいます。一本彫りとしては世界一だそうです。

十一面観世音菩薩像   左手に蓮華の宝瓶を、右手には数珠をかけ錫杖を持ち、左足は半歩前進する独特の姿で、観音と地蔵両方の徳を持つとされています。高さ3丈3尺(約10m)にも及ぶ楠一木彫りの十一面観音像。(日本芸術院会員・大内青圃の作)。

一本彫りとしては世界一といわれています。一説にはざいかい、モデルは昭和天皇の皇后、香淳皇后(こうじゅんこうごう)さまといわれています。

≪境内の諸堂≫
〇法堂   総檜造りの壮麗な法堂(はっとう)です。 須弥壇には、釈迦牟尼を中心に、文殊菩薩・普賢菩薩が安置されています。 また、開山堂には道元禅師・瑩山禅師・門庵宗関大和尚の尊像が安置されています。

〇僧堂   雲水が坐禅をする場。文殊菩薩(聖僧)を囲むように、一人一畳ずつ与えられています。禅刹に於いて最も重要で厳粛な修行の場です。

〇鐘楼   昭和50年に再建された鎌倉様式の鐘楼です。鐘点役の修行僧が、一撞一礼(ひと撞き毎に礼拝)し、撞きます。

〇地蔵尊   十世円海本説師の代に造立された青銅の地蔵尊です。法衣の隅々にまで、多くの戒名が刻まれています。人々の祈りを身にまとい、境内にたたずんでいます

 

墓地に入らせていただきましよう。(かならず一礼・合掌しましょう)

財界人・文化人・芸能人など著名人の墓がたくさんあります。

森鴎外は小説『澤蘭軒』を書くために、墓のあり場所を探すために都内の墓地を方々をさまよい歩いたといいます。

中央が蘭軒の墓

中央が蘭軒の墓

伊沢蘭軒(いざわ・らんけん)墓   江戸末期の儒者で医師・文化人、古書籍の考証に深い見識があった。文政12年(1829)没。享年53歳。法名・芳桜軒自安心恬居士。菅茶山や学者の頼山陽・作家の大田南畝・書家の亀田鵬斎・考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかったといいます。

森鴎外が蘭軒・磐安父子の埋没していた業績を明らかにした史伝小説『伊澤蘭軒』を執筆し、歴史小説に新境地を開いたことでも知られています。

 

黒田清輝墓

黒田清輝墓

黒田清輝の墓は本堂左手の奥になります。そちらの墓所の奥にみえる緑は「根津美術館」の森です。

清涼な青い湖面(箱根芦ノ湖)を背景にたたずむ女性を描いた『湖畔』が有名ですね。目を閉じただけで浮かびあがってきます。

黒田清輝墓   黒田清兼の子として鹿児島に生れ、のち伯父・清綱の養嗣子となりました。政治家を志しフランスにゆき、かたわら油絵を習い、山本芳翠(やまもと・ほうすい)に認められて洋画に専念するようになりました。

東京美術学校教授となり、のち白馬会を結成し後進を指導し、洋画壇に新風を送りこみました。明治、大正における美術界の長老でした。麻布笄町の自邸で大正13年(1924)7月15日に没しました。享年59歳。

墓は黒田 清綱(右)・清輝(左)で親子が並んでいます。墓は昭和62年(1987)に改装され、その際に出土した眼鏡、パイプなどの埋葬品は港区郷土資料館に寄贈されています。

根津美術館の森

墓地の裏手は「杜松美術館」の庭と緑。池があるから窪地です。

 

こちらの墓は境内左手に広がる墓地です。

大河ドラマ「青天を衝く」の主役・渋沢栄一とウマが合った鹿鳴館の主役・井上馨はここに眠っています!

大蔵省時代の渋沢栄一の上司だったのが井上馨でした。ふたりはたいへんウマが合いました。

というか、井上馨は栄一に全幅の信頼を寄せていました。

大蔵省時代、ふたりは予算編成、財政改革、貨幣の発行、銀行制度の確立などを共に手掛けました。

で、井上が辞職すると、渋沢も歩調をあわせて辞職しました。

ここが渋沢栄一の政界・官界との縁切れとなりました。井上は止めませんでした。

井上馨はふたたび政界にもどり、明治35年(1902)、組閣人事のとき、大蔵大臣に渋沢を起用しようとしましたが、渋沢は頑として応じませんでした。

井上は渋沢がいないことには自信が持てないと、組閣を断念したといわれます。

井上馨の墓   長州藩士。高杉晋作らとともに尊王攘夷運動で活躍初代外務大臣で明治の元老。不平等条約改正のため、鹿鳴館に代表される欧化政策を発案したことで知られます。邸宅は麻布にありました。大正4年(1915)、79歳で逝きました。
墓所面積は長谷寺で最大のものとなっています。

エノケンの墓   日本の喜劇王こと榎本健一。日本喜劇人協会の初代会長。青山南町(南青山)のかばん屋に生まれ、その後、父親が笄町(西麻布)で煎餅屋を営み、のちに店は麻布十番に移転したといいます。昭和45年(1970)逝く、享年65歳。戒名は「天真院殿喜王如春大居士」。

最晩年、「自分の持ち味に似ている」と、自分の歌や芸を坂本九に譲ると公言したといいます。そういえば、九ちゃんの芸風はどことなくエノケンに似ています。その九ちゃんの墓が近くにあるのも不思議な機縁といえるでしょう。

「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」など数多くのヒット曲を出した歌手。作詞の永六輔、作曲の中村八大による作品が多く「六八九トリオ」と呼ばれました。

坂本九の墓   昭和38年(1963)、「上を向いて歩こう」が『SUKIYAKI』というタイトルに改題され、日本国外で大ヒット。昭和46年(1971))女優・柏木由紀子と結婚。

昭和60年(1985)8月12日に発生した日本航空123便墜落事故により帰らぬ人となった。享年43歳。戒名「天真院九心玄聲居士」。

阿久悠は若いころ黄疸にかかり心細い思いで過ごしていたとき、坂本九の「上を向いて歩こう」を聴いて慰められ、涙したこともあると自著に記しています。その九ちゃんの眠るところに移葬されたのだから、彼も本望であろう。

「また逢う日まで」、「ジョニイへの伝言」、「舟歌」、「北の宿から」、「勝手にしやがれ」、「UFO」など数々のヒット曲が目白押しにあります。

ワタシなどは阿久悠の歌とともに歩んだ人生ですね。

いま、灰汁悠のあとを継ぐ作詞家はいるかな~ちょっとみあたらないですね。

墓碑銘には「天翔院詞想悠久居士」とあります。自然石に「君の唇に色あせぬ言葉を」が直筆で刻まれています。

阿久悠の墓   作詞家・小説家。明治大学卒。演歌、歌謡曲からポップス、アニメソングやCMまで、生涯五千曲あまりを作詞。日本レコード大賞受賞は史上最多の5回、シングルレコードの売り上げは6.800万枚を越るといわれています。

小説も手がけ『瀬戸内少年野球団』は直木賞候補になり、篠田正浩監督によって映画化されて話題になりました。また『殺人狂時代ユリエ』では横溝正史賞を受賞、第45回菊池寛賞も受賞しています。ほとばしるような才能をもつ、類稀なる表現者でした。

「悠久」の二文字が刻まれた墓碑の傍らに、直筆による「君の唇に色あせぬ言葉を」が自然石に刻まれています。享年70歳。

ずっと伊豆の宇佐美に住み、そちらにある墓に葬られたのですが、七回忌に長谷寺の墓地に移したといいます。

〇阿久悠記念館   御茶ノ水駅の近くにある明治大学駿河台キャンパスの一角、「明治大学アカデミ-コモン」地下1階にあります。阿久悠の業績、自筆原稿をはじめとする資料にふれることができます。

俳優・沖雅也の墓

沖雅也墓   イケメン俳優として、「必殺仕置人』の棺桶の錠、「太陽にほえろ」などの活躍で一躍その名を高めました。

市川崑、岡本喜八ら巨匠監督の起用も受け、将来性を期待されていたのに、ところが、どうしたことか、昭和58年(1983)6月28日、京王プラザホテルにて飛び降り自殺してしまいました。享年31歳という若さでした。理由は何だったのでしょう。日景家の墓に入っています。

この自殺を機に高層ビルの屋上への立ち入り禁止が強化されたといわれます。

盛田 昭夫(もりた あきお)墓     、昭和21(1946)、井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、常務取締役に就任。ソニーブランドの人気を高め企業イメージを確立した。

平成11年(1999)、10月3日、78歳没。戒名は盛昭院天涯敬道上座。

『歴史を変革するとは、未来の歴史を創造することである。』の一文が刻まれています。

野呂栄太郎墓   明治33年(1900)~昭和9年(1934)

顔を描いたレリーフが墓石に飾られています。

マルクス経済学者で、戦前の日本共産党の理論的指導者の一人であった。

昭和9年(1934)2月19日検挙され、品川警察署での拷問により病院に搬送されたのち絶命した。

戦前の思想弾圧の中に生きた悲劇の人で、小林多喜二とおなじですね。

33年余りの短い人生でした。

花井お梅の墓   舞台や歌で知られる『明治一代女』の主人公。15歳で柳橋の芸妓なり、18歳のとき新橋に移り一躍名声を高めた。明治20年(1887)、仇と人情のもつれから日本橋の浜町河岸で殺人事件を起こした。

それが「明治一代女」。「花井お梅」、「峰吉殺し」など色々な演芸、映画に脚色され演じられた。大正5年(1916)夏に病没。享年53歳。戒名は「戒珠院梅顔玉永大姉」。本名・横山貞子。

かたわらに、昭和10年(1935)にヒットした流行歌『明治一代女』を作詞した藤田まさとの歌碑が建てられています。歌い出しは「浮いた浮いたのは浜町河岸で…」で有名すが、ここでは、♪十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の  水に流した色のかず 花がいつしか命とり♪

会津藩士の墓   墓所に散らばっていた旧会津藩士や家族の墓をひとつに集めています。石碑に、その名前が記されています。

墓地にはほかにソニーの創始者盛田昭夫、歌手の霧島昇・松原操夫妻、朝潮、井上光貞、岡 鹿之助、奥野信太郎、徳間康快、中村白葉、野呂栄太郎などの墓があります。(以上は割愛します)

高樹町の由来   河内丹南(たんなん)藩・高木主水正の屋敷があったので明治に入り、それに因んで高樹町とし、のちに高木氏の「木」を「樹にかえたといいます。古くから一帯はお屋敷町で、財界人や文化人などの著名人が多く住んでいました。

※丹南藩   譜代大名。旗本であったが加増をうけ1万石の大名になった。丹南郡丹南村(現在の大阪府松原市丹南)に丹南陣屋をおいた。いちども移封がなく幕末まで続いた。

さて、ここから骨董通りをもどり、「岡本太郎記念館」に行きましょう。300メ-トルほどで「南青山6丁目」の交差点になります。そこを(根津美術館通り)を向かい側にわたり、そのまままっすぐ行くと左手ちょっと先に独特の雰囲気をもつ建物、「岡本太郎記念館」があります。

岡本太郎記念館   岡本太郎の邸宅・アトリエをそのまま利用した記念館です。万国博の「太陽の塔」をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所でした。

戦前は岡本一平・かの子・太郎の一家が暮らしたところです。旧居は戦災で焼失してしまい、戦後、友人の坂倉準三(ル・コルビュジェの愛弟子)設計でアトリエを建てました。ユニークな建物として話題をよんだ名建築です。

昭和29年(1954)から平成8年(1996)、84歳で亡くなるまでここで生活していました。

作家・村上春樹が命名したカフェ「ア・ピース・オブ・ケイク」( a piece of cake · a piece of cake)が併設されています。

〇岡本かの子出生地   南青山にありますが少し離れておりまので、この散歩では割愛いたします。大山街道沿いの川崎宿・溝口の旧家大貫家の別邸がありました。岡本かの子は明治22年(1889)ここ青山で生まました。

次兄の友人谷崎潤一郎の影響で文学を志し、与謝野晶子に師事しました。漫画家・岡本一平と結婚し、翌年長男の岡本太郎を出産しています。作家活動は昭和11年(1936)から14年までのわずか4年間だけだったが、『老妓抄』など賞賛される作品を多く残しています。

根津美術館の通りにもどると、対面にブル-ノ-ト東京があります。

ブル-ノ-ト東京   世界各国に展開する老舗のジャズクラブ。昭和63年(1988)にオープン。ミュージシャンの演奏を間近で聞けるライブスポット。

150メ-トルほど歩くと美術館です。

根津美術館。一級の展示と、いちどはのぞきたい、 日本庭園と野外展示コレクション

美術展はそのときによって展示物がかわりますから、やはり興味や関心をのある内容のときに赴くのがいいでしょう。
で、じっくり美術を鑑賞したあと、リラックスもかねて、庭園を逍遥してみましょう。

美術鑑賞ではりつめめた気を解放させましよう。癒しの効果てきめんです。

庭全体のテザインはだれが手がけたのでしょう。いっこうにわかりません。敷石にさまざまな組み方がみられますすから、足元にも目線をおとして歩きましょう。

竹垣と玉石と御影石のアプローチがすばらしい。

江戸時代の大名庭園の名残りというものは、ほとんど払拭されているようです。池は湧水だったといいますから、当時の遺構かもしれません。そのあたりのくわしいことは、ほとんどの解説書や栞に出ていないのが、少々残念です。

幕府の崩壊後は荒れるにまかせたままだったといいますから、根津嘉一郎が私邸を建てるときに大改造を加えたのでしょう。でも、どこかに原形となるものが残っているのではないでしようか。

台地の高低差を巧みに利用しています。こうしたところは、大名庭園のデザインをそのまま生かしているように思われます。
石畳の小径を進み木立ちをわけてゆくと、茶席やさまざまな石造物が見えてきます。

歩道に沿って歩いていくと4つの茶室があります。。

根津美術館   江戸時代、ここには河内国丹南藩の下屋がありました。広い敷地には緑濃い樹林や湧水の池が残っています。ここに昭和15年(1940)、私設美術館として開かれました。実業家・東武鉄道の社長であった初代根津嘉一郎の私邸跡に造られた、嘉一郎収集の古美術品を公開した美術館です。

収蔵品は茶器を中心に約7000点に及ぶといわれます。国宝、重文も数多いです。美術品もさることながら、庭園もすばらしい眺めですから、あわせて鑑賞するのがいいでしょう。戦前から続く数少ない美術館のひとつです。

湧水だった池は渋谷川の支流の笄川(こうがいがわ)の水源の一つとなっていました。
有料、10:00~17:00、月曜日定休(展示替期間・年末年始)、ただし月曜日が祝日の場合、翌火曜日、03-3400-2536

根津美術館前の交差点を西に、一つ目の十字路を北に向かう左手が青南小学校。校門を入った左手に歌碑があります。

(守衛さんに一言ことわってから入りましょう!)、

句碑

「降る雪や明治は遠くなりにけり」

南青山小学校   齋藤茂太(モタさん)や北杜夫ら、茂吉の子供達は青南小学校で学びました。4、5年生をこの学校で過ごした俳人・中村草田男(なかむら・くさたお)が、母校を20年ぶりに訪れた時に詠んだ句碑があります。

中村草田男句碑   「降る雪や明治は遠くなりにけり」。昭和52(1977)の同校創立70周年を記念して建てられたものだそうです。

※碑が立つのは校舎内ですから、守衛さんの許可をとってから入るようにしましょう。

中村草田男  清国(現、中国)で生れ、4歳の時に中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国しました。2年して松山市に転居。小学校時代の大半を東京で過ごし、赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学ししました。

中学時代にふたたび松山に戻り、松山中学、松山高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に進みましたが、中途で国文科に転じています。そのころから高浜虚子に師事し俳句を学んだといいます。また東大俳句会に入門。水原秋桜子の勧めで『ホトトギス』に投句していたといいます。

学校の通りを北に100メ-トルほど歩くとT字路になります。

その北角いったいが(いまはマンション)青山脳病院のあったところです。

青山脳病院跡    「王子グリ-ンヒル・アパ-トメンツ」全体が、かつての青山脳病院の跡地だといいます。歌人・神経科医の斉藤茂吉は養父のあとを継ぎ院長をして、病院経営にあたるかたわら、「童馬山房」と称し短歌の創作に専念したところです。

自筆の歌碑と「童馬山房跡」と刻んだ銘鈑があります。茂吉は明治40年(1907)から昭和20年(1945)までこの地に住んでいました。このあたりのことは茂吉の次男・作家北杜夫の小説『楡家の人々』に詳しく描かれています。

明治36年(1903)、祖父によって大規模な精神病院が建てられまた。

円柱がずらりと立ち並び、屋根には尖塔、正面玄関の上には時計台がそびえてました。

まわりは一面の野原で、目立つことこのうえない。一躍東京の名所となりましたが、大正13年、火事で焼失しまいました。

この火事のことは『楡家の人々』に描かれています。

昭和2年(1927)に斎藤茂吉が院長としてあとを継ぎ、経営のかたわら、アララギ派の歌人として、歌集や多くの随筆を出し続けました。

そのころの歌に 「茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ」というのがあります。

茂吉の経営の苦悩が吐露されている一首ですね。

平成15年文化人郵便切手。斎藤茂吉の肖像画と蔵王山・短歌(陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

齋藤茂吉   明治15年(1882年)、山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)に生まれました。上山尋常高等小学校を首席で卒業した14歳の茂吉は、東京で浅草医院を営んでいた親戚の斎藤紀一に迎えられることになり上京しました。
「浅草医院」は、「浅草鳥越散歩」の時にご案内します。

開成尋常中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学と進んだ茂吉は、明治38年(1905)7月、紀一の次女てる子の婿養子として入籍し、精神科医への道を歩み出しました。かたや伊藤左千夫の門下にあり、大正から昭和前期にかけての「アララギ」の中心人物として活躍しました。

茂吉の義父斉藤紀一はドイツに留学し、帰国したのち医学博士号をとり、赤坂区南町5丁目の敷地に大病院を建設しました。「帝国脳病院(青山脳病院)」と名付けられたこの病院は明治40年(1907)9月に完成しました。茂吉とてる子の結婚式もこの病院で行われました。

茂吉歌碑   「あかあかと 一本の道 通りたり 霊剋る(たまきわ)わが命なりけり」

と刻まれた歌碑。(第二歌集『あらたま』(大正10年・1921刊)巻頭6の「一本道」の第一首)。

研究者の解説によると、東京・代々木ヶ原の秋の傾陽のイメージに、孤独な者の一筋の人生行路を重ねたものと言われます。
「霊剋る」は「命」、「吾」(わ)などにかかる枕詞。松山市道後温泉の宝厳寺にも同じ歌碑がありました。

さて、ここからでしたら、近いですから「表参道」駅にもどることにしましょう。
建碑の前の道を「青山通り」のほうに進み、途中どこからでもいですから左へ入りこみ、広い「みゆき通り」に出ましよう。そこから駅方向に向かうと、左に赤い幟がはためいています。駅裏という感じのところですが、とても静かで小じんまりしたお稲荷さんです。

故向田邦子さんが、このあたりに住んでいたころのことを含めて『父の詫び状』「隣の神様」に登場させています。

大松稲荷   「俚老の談によれば、往時此地に巨松一株ありて、軀幹蟠屈、枝條蜿蜒、その翠蓋二十餘間に及び、百人町の表通りを壓し靈松と稱されたものであつたが、後暴風のために吹折られて根株ばかりを止めた。仍ちその上に小祠を營んだのがこの祠堂であつて、今も堂下に、巨大なる松の根株が現存してゐる。江戸時代にこの邊が組屋敷であつた頃は、神楽を献じ、太鼓の音賑はしく四隣に響きわたったといふ。」(「赤坂區史」より)

ちょっと長いけど、向田さんはこのように描いています。最後に寸時、向田文学を堪能してください。

私の住まいは青山のマンションだが、すぐ隣りはお稲荷さんの社である。
大松稲荷と名前は大きいが、小ぢんまりしたおやしろで、鳥居の横にあまり栄養のよくない中位の松がある。
七年前、マンションに入居した最初の晩に、お隣さんでもあることだし、ご挨拶して置こうと、通りかかったついでに鳥居をくぐったのだが、小さな拝殿のすぐ横が、社務所になっていて、取り込み忘れた股引きが、白く突っぱって木枯らしに揺れていた。よく見ると、股引きの下がっているビニールのひもが、キツネのしっぽと賽銭箱の間に張ってあるのである。これでは、お稲荷さんを拝むのか股引きを拝むのか判らなくなってしまう。興ざめして、出したお賽銭を引っこめて帰ってきた。
はじめに「そびれる」と、どうもあとはその気分が尾を引いてしまう。それと、神様や仏様というのは、自分の住まいと離れて、少し遠い方が有難味が湧く。
すぐ隣りが神様というのはご利益がうすいような気がして、つい失礼を重ねてきた。
ところが、つい先だって通りかかると、初老の男性が。鳥居に寄りかかって靴を脱ぎハダシになり、ポケットからセロハンに包んだ黒い靴下を取り出し、正札を取ってはき替えている。黒い背広で喪章をつけていた。茶の縞模様の靴下をポケットに仕舞い、拝殿にちょっと頭を下げて出て行った。これから葬儀に行くのだ。
私は、何となく素直な気持になり、十円玉をひとつほうって、頭を下げた。隣りの神様を拝むのに、七年かかってしまった。

さらっと読ませちゃう、うまいですね、

さあ、表参道駅にもどってきましたよ。
ふたつの美術館をめぐるとなると、鑑賞の配分にもよりますが、けっこうな時間を要します。エネルギ-もです。そのあたりを考慮して散歩のタイムスケジュ-ルを組むといいでしょう。

しかし、同時にふたつの美術館をめぐるというのは欲張りすぎで、キャパのない頭脳の持ち主には負担がかかりすぎるかもしれません!。

では、きょうはこれにて〆といたしましよう。

それではまた。

余力がありましたら、原宿あたりも散歩してみませんか?原宿のル-ツがわかります。それはコチラご覧ください!

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