今日の散歩は築地明石町界隈(中央区)・異国情緒の漂った外国人居留地!

築地市場があったことで知られる東京築地。そこにはかって異色の街がありました。「明石町」です。

そこは外国人の住む「居留地」でした。幕末から明治期にかけ、国内にはいくつかの「外国人居留地」がありました。ここもその一つでした。

広い江戸・東京の街のなか、明石町だけは異国情緒の漂う街でした。

ということで、以下、そんなエリアの散歩コースを写真と拙文でお届けします。

切絵図
「外国人居留地」利用の範囲
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築地駅

日比谷線・築地駅の1番出口をめざすと築地本願寺の前。
いまの築地エリアは西本願寺が核になっているようにみえますね。

築地と言ったら本願寺!祈りの聖地と鳥獣アート!まさに伊東忠太美術館!

いつ来ても大らかな空間の中に親しみのある空気を感じます。

築地本願寺
築地本願寺

威厳があるけど人を撥ねつけない優しさがありますね。本願寺と設計者の心のコラボレーションでしょうか!

築地本願寺

築地本願寺  浄土真宗本願寺派の別院で、元和7年(1621)第12世・准如が浅草浜町に創建。往時は「江戸浅草御坊」と呼ばれていました。明暦3年(1657)の江戸大火で本堂焼失。そのままの再建が許可されず代替地として八丁堀沖の海上が下付されました。つまり「埋め立てて用いよ!」となった次第。実際、幕府も土地不足だったんですね。

伊東忠太アート
伊東忠太アート

こうして延宝7年(1679)再建が叶い、俗に「築地御坊」と呼ばれました。

伊東忠太アート
伊東忠太アート
伊東忠太アート
築地本願寺販売・クリアーファイル(表)
伊東忠太アート
(裏)よくよく見ると可愛いいのです!

現在の建物は昭和9年(1934)建造。設計は名建築家の伊東忠太です。
諸所に異彩を放つ動物の彫刻がおかれている!伊東忠太だけの特質とされています。

伊東忠太アート
あっちみても
築地本願寺内部
こっちみても
建物全体が美術品!

築地 幕府は土地不足解消のため八丁堀の湿地帯を埋めさせました。このとき佃島の門徒が結束して埋め立てに加勢しました。つまり、彼らが「築」いた「地」。これが「築地」の由来とされています。

本堂に向かい左横の門扉から出ましょう。

切絵図 水路
赤く塗られたところが本願寺。一帯は水路だらけ!

かつは出たところに「堀が流れ、下って「築地川」に合流していました。

ぶらりぶらり、散歩でさぐる、江戸の繁栄をささえた築地川の逝きし面影!

*築地川 中央区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。ほとんど埋め立てられ浜離宮のところに一部が残るのみ。江戸時代の土地造成で、海から陸にする際、人工的に「運河」として残された部分が築地川となったと考えられています。日本橋の繁栄を支えた大事な川でした。

築地川公園

築地川公園

築地川公園 築地川を埋め立ててできた公園なので、出入口と中間に橋の名残があります。築地川公園は南側、北側、デイキャンプ場、多目的広場(最北)と分かれており、園内には樹木や草花が豊富にあり、四季折々の風景が楽しめます

築地川公園 備前橋

備前橋  築地本願寺の北隣に岡山藩中屋敷がありました。橋の名はそれに因もので築地川に架かっていました。昭和60年頃までは橋がありましたが、その後に埋め立てられ、橋名のプレートが埋め込まれた親柱と欄干が残っています。

築地川公園
築地川公園

どれをみても、不思議と橋の面影が立ち上がってきますね。

築地川公園
築地川公園
俯瞰画像

昭和7年(1932)、明石町にはまだ一般住民の家屋はみあたらないですね!

古写真
築地川、この川幅の見事なこと!正面建物は聖路加病院。橋とのコントラストがいい!

橋を渡ったところからが外国人居留地でした。

江戸から明治へ時代はかわる!武家地転じて外国人居留地へと、築地明石町の歴史!

切絵図
右手の鉄砲洲を含み中央全体がのちの明石町

明石町 一帯は俗に鉄砲のような形をした中州で、築地鉄砲洲とも言われていました。明治6年(1873)、江戸時代からの明石町に船松町2丁目と十軒町を組み込んで起立した町で、明治32年(1899)、「築地居留地」の廃止に伴い周辺の入船町・新栄町、新湊町の一部を編入。さらに新住居表示で入船町3丁目の一部を付属させ今の「明石町」となっています。

明石の由来 佃島を淡路島にたとえ、その風景が明石浦に似ていたためとも、また、播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住したためとも言われています。

外国人居留地  明治元年(1868)11月19日、明治政府は江戸幕府が諸外国と結んだ通商条約に基づいて、江戸(東京)の築地(現在の明石町一帯)に外国人居留地の開設を決定(「東京開市宣言」)しました。
居留地には、貿易港として開かれた開港場(函館・横浜・新潟・神戸・長崎)がありました。その面からすると築地は単に外国人が滞在する市街として開かれた開市場でした。

横浜の外国人居留地とを船で行き来できる便の良い場所から、文明開化の中心地として期待されました。

説明板

明石小学校前の交差点角に、築地外国人居留地の説明板があります。このあたりが居留地の中心街をなしていたようです。 

写真築地居留地

築地居留地 
明治元年(1868)~明治32年(1899)まで外国人専用街となり、明治32年(1899)の条約改正(「内地雑居」許可)まで続きました。
隔離された土地で、日本人は鑑札がないと出入できませんでした。こうして一帯は一時期、異国情緒の漂う一画を形成しました。
ところが外国商人は横浜に住むものが多く築地は不人気でした。そこで近くの新富町に外国人専用の「遊郭」(新島原遊郭)を設けたりしてサービスに尽くしたのですが、それも不発でわずか2年9ケ月で廃止。住み着く人も少なかったことから、空閑地にはキリスト教宣教師の教会堂、ミッションスクール等が開かれ、以降は文教都市のような様相を呈するようになりました。

江戸時代、聖路加病院の敷地には浅野藩上屋敷がありました。

浅野藩屋敷青

事件をおこした長矩もこの屋敷で生まれました。

浅野内匠頭屋敷跡  広さ8974坪で、屋敷としては、明暦3年(1657)から元禄14年(1761)3月23日までありました。松の廊下の事件後、3日目には藩邸の引渡しが行われ浅野家は断絶。家臣たちはすぐさま撤去の詳細を記した帳簿を作成し立ち退いたといわれ、そのことが、{あっぱれ!」と、大いに評判を呼びました。

夏になると色とりどりの百日紅の花が咲く緑の通りです。

築地川公園 デイキャンプ場 バーベキューを楽しむことができます。
この先で築地川がほぼ直角に大きくカーブしていました。そこも現在は公園になっています。

聖路加病院の裏通りにポツンと解説板。以前は浅野藩上屋敷のところにあったような…移動したようです。

芥川龍之介生誕の地  芥川龍之介の父親・新原敏三は、居留地の外国人に牛乳を売る耕牧舎という牧場を営んでいました。龍之介はその長男として明治25年3月1日(辰年辰月辰日)辰刻に生まれました。誕生後は母の実家・両国の芥川家で養育され、13歳の時、そのまま芥川家の養子となりました。

耕牧舎の在りし日を彷彿とさせるような一文があります。

 この区域は野草の生えるにまかせた原っぱで、日本人の家屋が三軒ほどあった。耕牧舎の他に車屋があって、(居留地に住む)外国人が非常に重宝していた。
 耕牧舎は1893年まで続き、59・60番地は米国聖公会の手に渡り、立教関係の建物になったとされる。

北川千秋『築地明石町今昔』(聖路加国際病院礼拝堂委員会)
石のベンチ
再建された「明石小学校

花崗岩の石ベンチ 大正15年に建設された復興小学校の明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したもの。背後のレンガ塀は、居留地のレンガ塀の遺構の一部。関東大震災や空襲の被害を免れたものがモニュメントとして保されています。

かつては大震災後の「復興小学校」の一つでしたが、老朽化のため、残念ながら解体されてしまいました。

教会正面
入口
ジャンヌ・ルイーズ

カトリック築地教会 キリスト教(カトリック)の教会およびその聖堂。教会堂名は「聖ヨゼフ」。カトリック神田教会と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会。(東京都選定歴史的建造物)

明治初頭、キリスト教はまだ禁制でしたが、明治6年(1873)、キリシタン禁制の高札が撤去されました。

中央区民文化財
カトリック築地教会 所在地:中央区明石町5-26

カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で仕様された鐘は、明治9年(1876)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として中央区民文化財に登録されています。   平成13年3月 中央区教育委員会

説明板より

散歩で識るミッションスクールの源流とその生い立ち!居留地時代へワープする!

暁星学園 1888(明治21)年、フランスとアメリカから来日したカトリック・マリア会の5人の宣教師によって、 現在の中央区築地に創立されました。カトリック築地教会に開校されたが、すぐに麹町に移動しています。碑は書が開かれていて文字が刻まれているのです。聖書を開いた形で、聖書の言葉が刻まれていたのがとても印象的でした。本の形をしていて「あなたがたは地の塩 世の光である」と書かれています。

聖路加教会・トイスラー記念館  カトリック築地教会聖堂は昭和2年(1927)の建築。ギリシャ風木造建築。正しくは聖ルカ国際病院礼拝堂。記念館は昭和8年に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。

初代院長の名を冠してトイスラー記念館と称されています。

聖路加国際病院院(せいるかこくさいびょういん) St. Luke’s International Hospital) アメリカ聖公会・宣教師のルドルフ・B・トイスラーは、明治33年(1900)に24歳で来日、居留地に診療所を開設しました。旧本館は昭和8年(1993)の建築です。

初期の築地病院が基礎となり、明治35年(1902)に聖路加病院、大正6年(1917)に聖路加国際病院と改称して今日に至っています。

事業主体は日本聖公会系列の学校法人聖路加国際大学。

病院の庭に星条旗などを石に刻んだ石標が並んでいます築地外国人居留地にあったアメリカ公使館の歴史を物語る遺物です。石は銘石の小松石が使われています。

*神奈川県真鶴町のみで採掘が行われており、山間部の小松山(小松原とも)にちなんで「小松石」という呼称が一般的になっています。

アメリカのシンボル、星条旗・白頭鷲・星の石標。

石標は8個残され、3個は、昭和59年 (1984) に日米友好のシンボルとして現アメリカ大使館に寄贈されました。残る5個は、築地の居留地時代を伝えるものとして、3個は旧聖路加国際病院前の植え込みに、残る2個は聖路加ガーデンの植え込みにあります。 

聖路加国際大学  トイスラーが創立した聖路加国際病院附属高等看護婦学校を母体とています。

聖路加病院の敷地の通用口にあるのが「女子学院発祥の碑」。

女子学院発祥の地 日本最初の女学校。明治3年(1870)アメリカの宣教師・カロゾルス夫人によりひらかれた「A六番女学校」がルーツで, 明治23年(1890)には 他の女学校と合併して, 現在の校舎のある 千代田区一番町に移転し, 校名も「女子学院」となった。碑は創立130周年を記念して平成11年(1999)に建てられたものです。

女子学院発祥の地
ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA6番女学校を創設、米国長老協会に属した

1999年10月24日  学校法人 女子学院

緑に癒されます
聖路加のシンボルマーク

聖路加は「せいろか」でなく、正しくは「せいるか」、つまり「聖ルカ」。『ルカによる福音書』のルカ。よって「聖なるルカ」、「せいるか」というわけです。

でも、みんな「せいろか」と読んでますよね!

立教学院発祥の地 聖路加病院の敷地内にあります。
明治7年(1874)2月、聖公会のウィリアムズ主教により始められた、「立教学校」という名の私塾がルーツとなっています。
その後 「立教大学校」「立教専修学校」「立教中学校」などの名称を経て、 明治40年(1907)には「立教大学」を開設し, 大正7年(1918)に 現在地(豊島区池袋)に移転しています。
碑は 立教の創立125周年を記念して 平成12年(2000)に建立されたもの。

すぐ近く、同じく聖路加の敷地に聖公会のウィリアムズ主教が開いた系属校の立教女学院の記念碑があります。

立教女学院 築地居留地校舎跡記念碑

有名な卒業生ではシンガーソングライターの松任谷由実(まつとうや ゆみ)さんがいますね。

「立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。」

解説板より

散歩でたどってみよう!築地明石町にみる異国の文明・文化事始の諸所!!

慶応義塾開塾の地  安政5年(1858)、福沢諭吉がオランダの学問を教えるため、中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾が始まりとされています。慶応4年(1868)、芝に塾を移し、時の年号をとって「慶応義塾」と名付けました。明石町の一部で聖路加国際病院のあるあたりにありました。記念碑は昭和33年(1958)、開校記念日の4月23日に慶應義塾創立百年を記念として建てられたものです。

蘭学事始の地 豊前中津藩奥平家の藩医・蘭学者の前野良沢の役宅で、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らが集まり、オランダ語の医書ターヘル・アナトミアの翻訳に取り組、安永3年(1771)、「解体新書」五巻として完成し出版sれました。
当時の苦心の様子は、のちに杉田玄白が著した「蘭学事始」に詳しく書かれています。

近くの中央区保健所のビル入口脇の壁にプレートがはめ込まれています。

都市型保健所発祥の地 関東大震災の直後、米国ロックフェラー財団から災害地復興援助の一環として昭和12年に白金台の東大医科学研究所敷地内に「公衆衛生院」、埼玉県所沢市に「農村保険館」、京橋区に「都市保健館」が寄贈されました。

関連記事:今日の散歩は白金と白金台の界隈(港区)・内田ゴシックと清正、彦左衛門の武人二人!

保健所の隣に広がる三角形の公園。

あかつき公園 三角形の敷地からなる公園。かつては築地川と隅田川をつなぐ掘割で、たくさんの船を停泊させる船溜まりでした。1960年代に埋め立てられ公園となったといいます。

日本の蘭学の発祥の地の築地居留地に、シーボルトの功績を讃え胸像が建てられています。シーボルトの娘「いね」が、築地に産院を開業したことにもよるものだそうです。

近くのビルの壁に意表を突く「トリックアート」!錯覚のアート。いつできたのだろう!誰の作品か謎。

そのビルの並び、近くに料亭「水たき治作」。敷地角に碑があります。

運上所跡・東京税関発祥之地

江戸の運上所が慶応3年(1867)ここ築地鉄砲洲に設けられました。

史蹟
  運上所跡
  東京税関発祥之地
 「江戸幕府は、 慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが東京税関の始まりです。」

電信創業の地 明治2年9月19日(10月23日)、横浜裁判所と運上所内に設けられた「電信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始。日本で初めて電信が結ばれました。

明石町公園の入口
緑が多い!

聖路加ガーデンタワー

シニアライフのための都市型レジデンス「聖路加レジデンス」を中枢にホテルやレストラン、スポーツクラブなど、多彩な機能をもつ、医・職・住・学・悠を融合させた都市空間です。

案内板より

聖路加ガーデンタワーの一帯がアメリカ公使館の跡。

アメリカ公使館跡  開港によりハリスは安政6年(1859)、元麻布の善福寺に公使館を開設。明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に移転してきました。

2個の石標は星条旗と星の彫刻。白頭鷲はアメリカの国鳥。星条旗に彫られた13の星は初期の13州を示しているそうです。

天空のブリッジ!壮観ですね。

隅田川河畔・明石町テラス。対岸は『もんじゃ』の街、月島方面。

隅田川ガーデンテラス明石町テラス
聖路加国際病院などの再開発にあわせスーパー堤防が導入された箇所。
テラスは大きい緩傾斜型になっており、斜面にはベンチとしても利用できる大きな階段が設けらています。
斜面の上に明石町河岸公園や複合施設の聖路加ガーデンがあり、テラスと直結しています。

対岸の佃、月島の高層マンション群。

明石町周辺の堤防外壁や舗装などは、明治期に明石町一帯にあった外国人居留地をイメージしてレンガ風に修景されました。

「外国人居留地で佃の入江に面して、青草の茂る堤の外には、海波ただちに、安房、上総の岸に通ふ。涼しい潮風の吹くところ、紅毛碧眼の子女がいつも快活に遊んでゐた」

鏑木清方「東京築地川」明石町詞書より

築地明石町といえば、鏑木清方の「築地明石町」を忘れることができません。

長年にわたり所在不明だった名作がみつかり、大きなニュースになりました。現在は「東京国立近代美術館」が収蔵しています。

1971年の切手

鏑木清方は文筆家としても名高く世相、風俗を著した名随筆がたくさんあります。清方が体験した明治半ばの風景、風俗。幼少時に遊び場として慣れ親しんだ町の情緒が豊かに描かれています。

隅田川テがいったん途切れたところで左折。そのまま行くと佃大橋にぶつかります。
すぐのカーブを過ぎて道なりにゆきます。右手に大暖簾を掲げた菓舗。

塩瀬総本家  志ほせ饅頭で有名な老舗です。

きょうの散歩土産はこれ!

こし餡の色合いと皮の白さ!

饅頭のルーツは、南北朝期の帰化宋人・林浄因(りんじょういん)まで遡るという超老舗。織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康といった武人に献上され愛好されたとも。唸ってしまいます~う!

大和芋の皮に極上餡を包んだ小ぶりな薯蕷饅頭です。

指紋研究発祥の地   宣教師・医師の英国・のヘンリー・フォールズ明治7(1874) から同19年(1886)に至る滞日中に居住したところ。日本の拇印の習慣から「指紋は個人認識に利用できる」ことを発見しました。

女子聖学院発祥の地
この地は女子聖学院発祥の地 もと築地居留地14番であった。
そこに建つ14番館が, 宣教師 ジョン・マッケシブ先生の居宅だった。
1905年, 米国のクリスチャン・チャーチ (ディサイプルス・オブ・タライスト)の 宣教師バーサ・F・クローソン女史が借り受け 婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同年11月1日 教師3人に生徒10人であった, という。今日では 幼稚園から大学院までを擁する総合学園となっている。
学校法人 聖学院

碑解説より

明治学院発祥の地  米国長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、スコットランド一致長老教会の三つのミッションは、1877年に一致協力して築地に《東京一致神学校》を設立。のち各ミッションはこれに合流し、それがのちに明治学院になりました。 

*  横浜でヘボン夫妻が開いたヘボン塾もその流れにありました。明治3年(1880)、築地居留地に移って築地大学校となった後、先志学校と合同し東京一致英和学校となり、明治19年(1886)に東京一致神学校と合同しています。

明治学院発祥の地
明治学院は1877年(明治10年) ここ築地17番地に開設された 東京一致神学校を基とする
これを記念しこの碑を建てる
1987年10月31日建立  学校法人 明治学院
第9代学院長 平出宣道

青山学院記念の地

「青山学院は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としています。「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の1つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。」

碑解説より

佃大橋通りを橋の左袂まで歩きます。袂の一角に佃島側にある碑と同じものが建てられています。

佃大橋を渡れば佃、月島です。渡ってみませんか!有楽町線「月島駅」、大江戸線の「勝どき駅」に出られます。

関連記事:今日の散歩は佃、月島界隈(中央区)・佃煮ともんじゃと埋立の街!

外国人居留地時代のガス街灯

ガス街灯柱  明石町の築地居留地で使用されていたものです。夕方に点火夫がて点灯、夜明けには消灯したといいます。鏑木清方が 随筆集『築地川』の挿絵に描いています。

雙葉学園発祥の地  明治5年(1872)、横浜で布教と教育活動を開始、同8年東京築地に「築地語学校」を開校。

東京中学院発祥の地 「関東学院」の源流の一つ。明治28年(1895)、ここ築地居留地に開校した。

佃大橋通りを先へすすむと、入船橋の交差点にぶつかります。
かつては入船川が築地川に合流していました。

入船川 明治元年(1868)に新島原遊郭の郭堀として開削されたのが始まり。しかし明治3年(1870)に遊郭は廃止され、明治15年(1882)に拡幅され入船川ができました。京橋の桜川の中央から分岐し築地川までの約400mの運河。新大橋りを通すために大正13年(1924)に埋め立てられた。

かつてあった築地川は、築地川公園のどんずまりでほぼ直角に曲がっていました。

90度に曲がるところは「築地川公園わんわん広場」。中央区にある無料で利用できるドッグランとなっています。

入船橋 新大橋通りが通じており、かつては下を流れていた築地川に架かる橋のひとつでした。

まっすぐ進むと2分ほどで有楽町線・「新富町駅」です。

それではここで〆にしましょう。

ではまた。

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