/>

今日の散歩は護国寺、新大塚界隈(文京区)・綱吉と桂昌院の庇護の結晶!

大寺「護国寺」は文京区の大塚にあります。

江戸時代にその町域は9割方が藩邸及び武家地、寺社領で占められていました。その中心にあったのが護国寺でした。

西方に池袋を控え、丘陵地と谷が複雑に絡み合う地形になっており、町は護国寺を取り巻くように広がっていた。

広くは谷間と傾斜地に展開していたと言っていいでしよう。

大塚の由来  茗荷谷北方の台地の通称で、「 大きな塚」があったことによるもの。この大塚は古墳説、太田道灌の物見台説などと一定していません。そのあたりは☛コチラで!

ということで、以下、そんな歴史背景のある散歩コースを写真と拙文でお届けいたします。

切絵図の中、護国寺に向かってのびる道は今日もその名を残す「音羽通り」

今日の散歩は護国寺、新大塚界隈(文京区)・綱吉と桂昌院の庇護の結晶!

音羽通り  (切絵図参照)江戸川橋から北へ真っ直ぐにのびてきた通りは、護国寺に突き当たります。
天和元年(1681)、護国寺を創建した五代将軍綱吉によって開かれた将軍の御成道でした。

音羽の由来  音羽通りに面した町家・音羽は、桂昌院に仕えた奥女中・音羽に対して家作が与えられたことに因むもので、近くの青柳町も奥女中・青柳の拝領地の名残りを持ったものでした。
桂昌院の生地である京都の9条にちなんで1~9丁目としたのだとか…。

有楽町線の「護国寺駅で下車し、1番口から外に出るといいでしょう。

すると護国寺前の交差点。右手に護国寺交番。

耳をつんざくほどの騒音の渦のなかで山門の前に立つことになります。

山門(仁王門) 八脚門の切妻造りで丹塗の表門。建立は、元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が下るのではと考えられています。

正面の両脇に金剛力士像(右阿形像・左吽形像)、背面の両脇には二天像(右増長天・左広目天)がずっしりと見張っています。

山門をくぐると広い境内。それまでの喧騒がうすれ静かな雰囲気。その変化に驚かされます。

護国寺には山門のほか、右手のほう少し離れたところにもうひとつ「惣門」というのがあります。

惣門  本坊に通ずる所にあり、一時期ですが護持院の山門として使われました。方丈の門でもあり、いまも方丈への入口に建っています。

大名屋敷の表門形式のもので、柱や冠木(かぶき)なども太く、全体にどっしりした構えのものになっています。将軍及び桂昌院の御成門として格式高く造営されているのだそうです。
山門を入ると広い境内にベンチが備えてあり、大勢が一休みできるようになっています。親切ですね!

護国寺境内図 本坊一帯が護持院跡

正面には石段がのび観音堂に通じており、途中に華やかな中門があります。

不老門
不老門裏側から

不老門  京都・鞍馬寺にある由岐神社(鞍馬寺鎮守)の拝殿(豊臣秀頼建立の桃山建築)を模しているそうです。昭和13年(1938)4月の建立で、鶴は千年亀は万年にあやかったものだといいます。この門を抜けると病気にかからず長寿でいれるのだとか。扁額は徳川家達が書したものです。

不老門の右手には三笠亭、仲麿堂、箒庵、左手に羅装庵、円成庵、不昧軒、宗澄庵の茶室が並んでいます。

経義 桂昌院

護国寺  神齢山悉地院護国寺(じんれいざんしっちいんごこくじ)。

天和元年(1681)2月、桂昌院(徳川綱吉の生母)の発願で、亮賢僧正が開山となって創建。それまでここには幕府所有の高田薬園がありました。

真言宗豊山派。大和長谷寺の末で別格本山となっています。江戸時代は、将軍家の祈願寺となり、将軍の御成道として音羽通りが整備されました。

薬草園  古地図

高田薬園  大塚薬草園とも呼ばれましたが、護国寺の建立で南麻布に移され、さらに白金御殿の建設のため白山御殿跡(小石川植物園)へ移されました。

僧侶

亮賢僧正  上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当・大聖護国寺の僧上。桂昌院が深く帰依しました。
ドラマなどでは、徳川家光の側室お玉の方が将来将軍の母になると予言した風にも描かれています。現実、お玉の方が生んだ男子は五代将軍綱吉となりその予言が正に的中。そんなこともあって桂昌院(お玉の方落飾後の名前)はますます亮賢僧正への帰依を篤くしたとされています。

石段上り口の両側に朱塗りの水舎があります。

水屋
水舎

水舎  手洗水盤1対2基。桂昌院の寄進で元禄10年( 1697)の鋳造。「 江戸名所図会」にも描かれているものです。

石段を上りおえると広い境内を控えて正面の一段高いところに本堂があります。

本堂(観音堂)

本堂観音堂) 明治16年(1883)の失火により旧本坊を焼失、さらに大正15年(1926)には創建以来の本堂を失い、そんなことから元禄10年 (1697)、徳川綱吉により建立された観音堂が移され本堂となりました。以後、震災・戦災と二度の大災害に遭いながら姿もそのままに、往時の面影を今に伝えています。

元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物です。一重入母屋造りで、その雄大さは都下隋一のものと賞され、昭和25年(1950)に国重文に指定されています。五代将軍綱吉の命により着工からわずか半年余りで落慶されたといわれます。美しい本堂の屋根は江戸時代から使われ始めた瓦棒銅板葺というものだそうです。(案内板より)

頭貫などの先端には別材で動物の彫刻を施した掛鼻(かけはな)の技が多く使われ、外回りは、正面の建具に双折れの桟唐戸が使われています。(案内板より)

窓は連子窓。外壁は横羽目の板張り。元禄時代の建築ですが、古代から中世の様式を数多く取り入れているもので、当時流行った復古調の現れと見ることができるそうです。(案内板より)

御本尊は桂昌院の念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像。今は秘仏となり、安置されているのは六臂如意輪観世音菩薩像。

ひとまず本堂をお参りしましょう。

観音堂から境内を見下ろすと右手西方に月光殿と茶室、多宝塔。左手東方に鐘楼と石灯篭が目にとります。

このような境内のレイアウトは、明治から昭和にかけて茶の湯の世界で活躍した数寄者・高橋箒庵(たかはし・そうあん)の力に由るところが大きいと言われます。

茶室  護国寺が他の寺院と大きく異なる側面は、境内に由緒ある茶室を多く擁し、都内で大寄せの茶会が開かれることだと言われています。中で茶室として使われている最も大きな建物が月光殿です。

月光殿   高橋箒庵がここに移築したのち「月光殿」と改称されたもので、桃山期の書院様式を伝える代表的な建築物とされています。上段床の間には狩野永徳の筆になる絵が掲げられ、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定されています。

一重入母屋造り、妻入り、正面軒唐破風付き。切妻造り、総桟瓦葺きの中門が付属しています。元は滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)の子院・日光院の書院だったものだそうです。

明治20年(1887)品川御殿山の原六郎邸に移され、大正15年(1926)に寄贈され、昭和3年(1928)に現在地に移築されたといわれます。

茶席はこの他に、月窓軒、化生庵、艸蕾庵、不昧軒、圓成庵、宗澄庵、羅装庵と多種多様の茶席が整っています。これらは貸席で、箒庵の名を取ったの茶室「箒庵」(非公開)もあります。

原六郎  第百国立銀行、横浜正金銀行の頭取などを歴任し、さらに東武鉄道、山陽鉄道、東京電燈、帝国ホテルなど名だたる企業の設立に参画し原美術館(閉館)などもを開いています。

益田孝(純翁)の御殿山から原富太郎(三渓)の三渓園へと続けられてきた歴史ある茶会「大師会」は、箒庵の肝煎りで護国寺で開催されるようになり、昭和49年(1974)からは根津美術館に引き継がれているようです。

*毎年12月第2日曜日には茶道各流派(表千家・裏千家・遠州流・江戸千家・大日本茶道学会)の家元と有志による「護国寺慈善茶会」が歳末助け合い運動の一環として開催され続けています。

多宝塔  境内に泰然とたたずむ多宝塔は、高橋箒庵の呼びかけにより昭和13年(1938)4月に建立されたもので、石山寺(滋賀県大津市)の国宝・多宝塔がモデルにしたものだそうです。

形式は二重の宝塔で、初重は四角形の3間、上層部の軸部が柱形をしており、上下の連続部は饅頭形《亀腹》が特色なのだそうです。

多宝塔は《法華経》の見宝塔品に由来するもので、「多宝如来」をまつる塔が始まりといわれています。

仰木魯堂(おおぎろどう)、田中親美(たなか しんび)等が塔の建築、装飾を担当し、本尊・大日如来は彫刻家・長谷川栄作が手掛けており、昭和の最高の技術が結集しているといわれています。
仰木魯堂(1863ー1941)  建築家・茶人として知られ、侘び茶の総本山と評された。
田中親美(1875-1975)    日本美術研究家、古筆研究家。
長谷川栄作(1894ー1944) 大正から昭和初期に活躍した彫刻家。

いつだったかの、花の春!醍醐の花見ならぬ護国寺の花見!

 花の寺  広大な境内にはウメ、コブシ、ツバキ、サトザクラ、ソメイヨシノ、ツツジ、サツキなど沢山の花木が植えられており、早春から初夏にかけそれらの花模様を見ることが出来ます。4月初めのソメイヨシノ、半ばのサトザクラ、ツツジは見事です❣

境内の東方に異色な石灯籠が林立しています。

それぞれにデザインが異なっています!

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: gokokuji-32-1024x683.jpg

石灯籠群  大正11年(1922)、高橋箒庵は20基の石灯籠も起草しています。これらの石灯籠は南都(奈良)の寺院の中から特に美しい形のものを選んで模造したもので「除闇遍明」の記念碑と共に鐘楼の脇に並んでいます。
隣接して鐘楼堂。

鐘楼  鐘楼形式の中では格式の高い袴腰付重層入母屋造りで、江戸時代中期の建立とされています。袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げ。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれ、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼が天保期に存在していたことが判るそうです。都内では同種の遺構のほとんどが失われているので貴重な建造物といわれています。(案内板より)

梵鐘  天和2年(1682)に寄進。銘文には将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院による観音堂建立の事情が記され、護国寺が、将軍家の祈願寺として、幕府の厚い庇護を得たことを示す貴重な歴史的資料となっています (案内板より)

護国寺大仏(毘盧遮那仏)  筑波権現(現・筑波山神社)の別当寺・護持院が明治の神仏分離・廃仏毀釈の荒波で廃寺となる際に、移されたもの。筑波山大御堂は護国寺の別院。

護持院  神田錦町にあった真言宗の寺院。僧・隆光(りゅうこう)が徳川綱吉に請い,それまで湯島にあった知足院を移建し巨大伽藍にしました。享保2年(1745)に焼失し、護国寺に合併され、跡地は 火除け地 となり、護持院ヶ原と呼ばれるようになりました 。

石の仁王も睨みをきかせています!

明治という時代を築いた偉人たちのお墓参り!

ここからはたくさんある著名人のお墓をお参りすることにしましょう。
散歩の間ですがここからは襟を正して墓参りです。

東側墓地入口の左側一番目にある墓が護国寺のパトロンともいえる 高橋箒庵(たかはし・そうあん)。

高橋箒庵の墓 文久元年(1861)~昭和12年(1937)

  

水戸藩士・本名・高橋義雄(たかはしよしお)。実業家で大茶人。三井家の重役連のなかでもとくに勢力を持っていたといいます。明治44年(1911)、50歳で実業界を退き、以後は茶道を介して各界の名士と広く通じました。護国寺の檀家総代を務め、境内の整備に尽力しました。幕府の庇護のもとにあった寺だったことから、明治になると後ろ盾を失い寺は一時荒れました。
箒庵は念願の多宝塔の完成を見ることなく、昭和12年(1937)12月12日に77歳で亡くなりました。生前、鐘楼脇に自らの墓所を求めており、風雅な自然石の下に眠っています。

東側墓地入口の右側に広く塀囲いされた一画を持つのが安田財閥・安田家の墓。中に立ち入ることはできません!錠がかけられています。

安田 善次郎  天保9年(1838〉~ 大正10年(1921)

富山県富山市出身の実業家。
安田財閥の祖。富山藩下級武士(足軽)の子としてうまれた。士分株を買った半農半士の家柄であった。
両国にある旧安田庭園は善次郎が提供したもの。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は善次郎の寄贈によるものとして知られています。

そのまままっ直ぐに進むと谷になり墓地が尽きます。

谷向いの緑が深いところは、皇室御料地になっています。

豊島ヶ岡御陵 → 豊島岡墓地  護国寺の東側。元々は護国寺の境内でしたが、明治政府により召し上げられ、皇室御料となりました。

小高い丘陵地で標高34メートルほどの、権現山などと呼ばれていたところを「豊島ヶ岡」と改名し、皇族の墓所としました。

江戸時代中期以降、天皇家の墓所は京都の泉涌寺にあり、その他の宮家も京都市内および周辺地区の寺院に墓所が点在していました。明治6年(1873)に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)が死産した際、この地を選定し、明治6年(1973)9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名し使用を開始、以降、皇族の葬送儀式を執り行う場所として、また墓地として利用されています。

皇室陵墓のため、一般人が伺い知ることは出来ない聖域です。明治天皇の生母・中山慶子とその父・中山忠能、ほか著名な皇族方の霊もみなここに眠っています。

東側墓地の前面に広い墓域を占め明治期の大物の墓が並びます。その一番が高橋箒庵。

国立国会図書館・近代日本人の肖像より

山縣(有朋家の墓  有朋の墓は別にあり、ここは山縣家としての家族墓。有朋は家族としてはあまり恵まれませんでした

7人の子を授かるも、女児1人を除いてみな亡くなっています。そんな思いもあっての墓なのでしょう。墓石に刻んだ木馬に乗った少年。親の慈しみが感じられますね。

田中光顕の墓    天保 14年(1843)~ 昭和 14年(1939)
土佐藩の家老・深尾家家臣の家柄。土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれ。

坂本龍馬が中岡慎太郎と共に近江屋で、暗殺されたとき、現場に駆けつけ中岡慎太郎から、暗殺犯の話を聴いた人物と言われています。

椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ蕉雨園は自邸(現在は講談社の所有・非公開)でした。

大隈重信の墓(従一位勲一等公爵大隈重信墓)  天保9年(1838)~ 大正11年(1922)

佐賀藩士。政治家、教育者。政界では、参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任。明治22年(1889)外相として条約改正にあたっていましたが、玄洋社・来島恒喜に爆弾を投げられ右脚を失いました。大正11年(1922)、85歳で死去。

本堂の裏手墓地には特別とも言えるような墓があります。

松平 治郷(まつだいら・ はるさと)墓=不昧公(ふまいこう)

松平不昧公

出雲松江藩・第7代藩主で、江戸時代の代表的茶人の一人。号の不昧で知られ、その茶風は不昧流として現代まで続いています。

芝にあった松平不昧公の墓所が関東大震災で被害を受け、故郷・松江に移されるす計画もありましたが、高橋箒庵の計らいで護国寺に移設されることになったのだそうです。

松平不昧公の墓所の近くにお公家さんが眠っています。

護国寺・墓所第一号はこの人でした!

内大臣正一位大勲位三条公墓  明治の元勲。尊攘派の公家の中心人物として、長州藩と提携して活動した。文久3年(1863)の政変により朝廷を追放されましたが、慶応3年(1868)の王政復古で表舞台に復帰。

明治元年(1688)岩倉具視と共に副総裁に就任。その後、右大臣、太政大臣に任ぜられた。明治22年一時内閣総理大臣を兼任した。同24年55歳で死去。国葬だった護国寺に埋葬されました。埋葬者の第一号と言われています。

内大臣正一位大勲位三条 実美(さんじょう さねとみ)  天保8年(1837)~ 明治24年(1891)

護国寺の墓域は本堂の裏手左右に大きく広がっています。まさに墓海原です。

鳥居のある大きな墓域が二つ。門と囲いを構えています。
山縣有朋の墓とその左隣にある大倉財閥創始者・大倉喜八郎の墓です。本堂の裏手奥で鳥居・囲いを備えた大きな墓はこの2つだけです。

夫人と並ぶ山縣有朋の墓

山縣有朋の墓  天保9年(1838)~ 大正11年(1922年)
萩藩士の下級武士である中間(ちゅうげん)から身を起こし奇兵隊の軍監となり、明治の重鎮に上りつめた。明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いたことから「国軍の父」とも称されるようになった。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)。陸軍第一軍司令官、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。

山縣家の墓は同じ境内に2つあるわけです。こちらが夫妻の墓、先のが家族の墓。邸宅としては、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、特に目白の椿山荘は有名ですね。

隣で肩を並べるのが大倉財閥の大倉喜八郎の

大倉 喜八郎
天保8年(1837)~ 昭和3年(1928年)
越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の生まれ。大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身・大倉商業学校の創設者。
若い丁稚奉公時代、安田善次郎とは「善公」「喜八(きっぱ)」と呼び合う仲だったそです。昭和3年(1928年)死去、享年92歳。

墓地の東詰めに護国寺開基の亮賢僧正と歴代の墓がまとまってあります。亮賢僧正の墓は国重文です。

亮賢僧正  ここ護国寺の開山。快意律師とも。上野国碓氷八幡宮の別当・大聖護国寺の僧正だった。
桂昌院は、亮賢に安産を祈願して貰い、生まれた子に極めて貴人の相ありといわれ、大いに喜び、常に亮賢に護持の祈祷を依頼したといいます。
生まれた子が綱吉。桂昌院は綱吉に懇願し、護国寺を建立して貰い、その開山に亮賢を呼び寄せました。亮賢は綱吉と桂昌院から厚い信任を受け、二人はたびたび護国寺に参詣し、亮賢もまた江戸城に伺候したといいます。貞享4年(1687)遷化。

西にすすみましょう。有名な外国人の墓があります。

ジョサイア・コンドル墓碑 Josiah Conder  

嘉永5年(18529~大正9年( 1920)

イギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物や岩崎家の家屋などの設計を多く手がけました。政府(工部省)と契約(5年間)で1877年(明治10年)来日、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)で教師および工部省営繕局顧問をしました。

麻布今井町に居住。辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。日本大好き人間でした。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事し日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でした。大正9年(1920) 5月、妻くめが死去。コンドルも後を追うように11日後 6月21日麻布三河台町の自邸で世を去りました。享年67歳でした。

コンドル墓の横の通路をへだてた、すぐ北側に益田孝の墓があります。

益田 孝の墓・胸像  

嘉永元年(1848)~ 昭和13年(1938年)
新潟県佐渡相川の生まれ。草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家。明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊。茶人として高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称されたといわれます。爵位、男爵。

益田家の墓誌
益田家の墓

箒庵の没後、翌13年には益田孝、同14年には原富太郎、同15年には根津嘉一郎(青山)と、明治以降の数寄の世界をリードしてきた大御所が次々に世を去っていきました。ここに近代数寄者の時代は終焉を迎えたといいます。

下田 歌子の墓  本名・平尾 鉐(ひらお・せき) 安政元年(1854)~ 昭和11年(1936年)

明治から大正期にかけ活躍した教育者・歌人。美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)で岩村藩士の娘として生まれました。
実践女子学園の創設者で、生涯を女子教育の振興にささげ、その先駆者ともいわれます。宮廷に出仕し和歌の指導。明治17年(1884)、華族女学校の教授に迎えられました。
昭和11年(1936年)死去。享年82歳でした。

墓地の西側に広い空間を持った軍人墓地があります!

音羽陸軍墓地  戦後しばらくまで広大な敷地を有していたが、現在はこじんまりとした規模となり、個人墓は30基ばかり、ほかに日清戦争戦没者の遺骨が祀られていま。

正面中央に「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」と記された石碑とその背後に堂が建ちます。

日清戦争戦没者の遺骨を祀る護国寺多宝塔  明治25年(1892)12月21日に建立されています。

多宝塔  薬師堂の西側に、昭和二十五年十二月二十一日に建立。明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した軍人の遺骨を収集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多寶塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。その後、この塔は長い年月風雨に曝され近年は破損甚だしく、今般 大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立した。
平成八年十一月十一日                      大本山護國寺

 野間清治  
明治11年(1878)~昭和13年(1938)
講談社創業者、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ昭和時代前期の出版界を牽引しました。
群馬県山田郡新宿村(現在の桐生市)の生まれ。
1938年死去。奉仕的理想を信念とし数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵しています。

團 琢磨  
安政5年(1858)~昭和7年(1932)
筑前国福岡荒戸町(現在の福岡県福岡市中央区荒戸)で福岡藩士の馬廻役の家柄。
工学者、実業家。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ三井財閥の総帥となった。日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。作曲家の團伊玖磨は孫。

山田 顕義(やまだ あきよし)
天保15年(1844)~ 明治25年(1892)
政治家・陸軍軍人。近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生。司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
日本大学の学祖とされています。

薬師堂の横に見ごたえのある庚申塔があります。必見です!

音羽講中庚申塔  正面に「庚申」の文字。三猿がその台座を支え、「天明五乙巳歳十一月吉祥日」と刻む。その下の台座に精巧な龍の模様を刻み、基壇部の正面に「音羽下町講中 総代弥太郎 音羽町九丁目伊豆屋太郎 願主金屋新八 武江小日向水道町石工安部勘助 細工人安富興兵衛」と刻んでいる。
実に珍しい(国指定有形民俗文化財)。
基壇部分には門前の音羽通りの人々の76人の名が刻まれているそうです。
全国にその例をみない形式で、当時の民俗や習俗を知る貴重な資料とされています。

薬師堂  元禄4年(1691)創建の一切経堂を移築。
大正15年(1926)の火災で大師堂が焼けた関係で薬師堂を大師堂跡地に移して大師堂とし、薬師堂の跡地に一切経堂を移して旧薬師堂に代えたと考えられています。

護国寺薬師堂 1棟 区指定建造物  薬師堂は、元禄四年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることなど禅宗様建築の手法をとりいれていることである。小規模であるが、創建以後大きな改変もなく、元禄期の標準的な遺構として価値ある建造物である。     文京区教育委員会 昭和52年2月

大師堂にも寄ってみましょう。

大師堂  不門老の横手にあります。
元禄14年(1701)再営の薬師堂を、大正15年以降に大修理して現在地に移築したものと考えられています。ここには弘法大師、興教大師、本覚大師の三尊が安置されており、祖師の前には護摩壇があり護摩が修されるそうです。

安倍仲麿塚   「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」  
きわめつけはこれ。百人一首で有名な奈良時代の遣唐使・阿倍仲麻呂(安倍仲麿)の石碑。奈良の桜井市安倍にあった塚石を高橋箒庵が懇いて入手。より多くの人に顕彰するべく、同じ遣唐使として大陸に渡り、のちに真言宗を開いた空海を祀る大師堂前にこの碑を据えとされ、護国寺の茶境の整備はここから始まっているといわれています。

一言地蔵堂  崖を背にした小さな祠。どんな願いもかなえてくれるが、一度に願えるのは一言だけという。複数の願いをしてしまうと願いは叶わないらしい。

石段を下った不老門の左手斜面に「音羽の富士塚」があります。

富士塚登山道の入口。

途中、途中に「富士講」の碑が建てられています。

あなどれない、わりに険しい登山道。

頂上まで登ることができます。江戸時代は本堂の遥か西方にあったようです。
富士講の碑は地元の山護講のほか、小日向の丸谷講、巣鴨の丸嘉講、音羽の丸藤講、四谷の山参講、池袋・鷺ノ宮や落合周辺の月参講などの講が献じた碑があり、広いネットワークを持った講であったことがわかります。
小御嶽石尊大権現の碑は文化14年(1818)の造立で、東青柳町の人たちの寄進によるもので、これと「文化十四丁丑歳」在銘の石造鳥居が塚を築いた際の石造遺物と考えられ、この塚の築造説を裏付けているといわれています。(案内板より)

近くに「「音羽ゆりかご会」の童謡碑がありました。

からすの赤ちゃんの歌碑(音羽ゆりかご会40周年記念碑)
「からすの赤ちゃん」は、音羽ゆりかご会の主宰者・海沼実の作詞作曲。海沼の三回忌を期して建てられたもの。碑文はなく、一番の歌詞だけが彫られています。
からすの赤ちゃん  海沼実 作詞 作曲 からすの赤ちゃん なぜなくの/こけこっこの おばさんに/あかいおぼうし ほしいよ/あかいおくつも ほしいよと/かあかあなくのね

さて、惣門から出て、不忍通りの富士見坂をのぼりましょう。傾斜地の急な坂道です。

門前を不忍通りが通じています。

通りの両側はかつて青柳町。大奥・青柳の局に因む町家でした。

惣門を過ぎた先に、ひっそりと閉ざされたがあります。護国寺に隣接する「豊島岡墓地」の入り口となっています。

富士見坂  大塚2丁目13~15番と5丁目の間の不忍通りの坂道。
旧大塚仲の交差点の富士見坂上に立つと、正面に富士山が眺められたそうです。
大正13年(1924)、旧大塚仲町(大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、道が整備され坂は緩やかになり、道幅も広くなったのだそうです。

多くの文人に愛され、歌人・窪田空穂に、
~この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根/護国寺に住みている鳩 屋根はなれ 高く飛びおり春日の空に~があります。
「谷越えて」の一語が印象的ですね。

旧大塚坂下町・都会のなかの谷間の道を歩いてみましょう!

突き当りが大塚三丁目交差(仲町)。信号の左手が「大塚坂下町」の通り。

「大塚坂下町」の通りは、ほぼ谷底通りです。

旧小石川区大塚坂下町
護国寺と春日通りの間に開けた谷町。もと小石川村のうちで傾斜地に幕府の薬園があった場所で、薬園の移転後跡地は護国寺領となりました。その後、町家ができ、富士見坂下の北側にある町なので、坂下町と名付けられたといいます。
谷底にあるという難もあって抜本的な開発がされることなく現在に至っているところで、第二次大戦時の焼失も免れたことから山の手でも下町的な風景が残存している街区です。

国道254号線(春日通り)  高台の尾根に沿って通じ、左右ともに標高が下がる地形となっていることから、階段を降りて坂下町に抜けています。

大塚三丁目交差点  ここが区内で一番標高が高い(標高28.9m)交差点とされています。
ここから護国寺へは富士見坂をくだります。富士を眺めながら下る、いいですね!

かつて大塚の中心は「大塚仲町(大塚3丁目)でした。池袋が繁華街となるまでは、ここが一大繁華街をなしていたといいます。

「鳥籠を手に取り提げて友と吾(わが)鳥買いに行く大塚仲町」(会津八一)
という歌があります。

いま、大塚仲町の十字路に立っても昔の賑わいはありません。

さて、ここからは、路景観察。坂上と坂下の町並みの変化を見ながら歩くことにしましょう!

春日通りはビルが林立。それにくらべて、南側の谷下にかけては急激に落ち込み、まさに谷です

歩道はほとんどが階段で谷底とをつながっています

谷下の谷筋道の両側に民家が密集しており、家と家の間に様々形態の階段が見られます。

春日通りんの高台、谷側に面し寺二つが並んでいます。

西信寺  仏法山法樹院。浄土宗の寺。寛永2年(1625)の開山。練馬区大泉に別院・大泉寺を有しています。 

髪結職の業祖・藤原采女助の墓があることで業界では知られているようです。 

春日通りんの音も届かず、まさに静寂境!たまらない静けさ!
大塚の地が江戸時代には閑静な別荘地帯であったということが忍ばれます。

善心寺  法華宗陣門流

法華宗陣門流。長清山、守慶院。寛永8年(1631)、大河内善兵衛政勝が麻布日ケ窪(港区六本木)に創建。大河内家は初代川越藩主で老中を務めた「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱を輩出の家格。
寺名は大河内政勝の戒名・善心院殿日浄居士に由来するもの。
大久保彦左衛門の4男が大河内家の養子となっています。この地はその大久保家の下屋敷があったところといわれます。

栗本鋤雲の墓

思いがけなく出会えた日本のジャーナリストの草分けといわれた人。

栗本鋤雲(くりもとじょうん)の墓
文政5年(1822)~ 明治30年(1897)
幕府の御典医・喜多村槐園の3男。奥医師、箱館奉行、勘定奉行、外国奉行等をつとめた。函館時代、蝦夷・樺太・千島の巡視。親仏派として幕末外交史上で活躍した。晩年はジャーナリストとして活躍しました。

天然記念物・古代ノ蓮
天然記念物・古代ノ蓮

傾斜地から谷底にかけて家が密に建て込んでいます。

坂下町には格の高い稲荷社が鎮座していました。

神狐一対は東京で現存する最古のもの

吹上稲荷神社  

元和8年(1622)2代将軍・徳川秀忠が、日光山から稲荷の神体を賜り、江戸城内吹上御殿内に「東稲荷宮」と称して祭ったのが始まりといいます。
5代綱吉の時に江戸城内から一ツ橋に遷し、その後は水戸徳川家の分家・守山藩松平大学頭頼貞が拝領し、その邸内に移し、宝暦元年(1751)大塚村の鎮守として松平家から拝受し、小石川4丁目の善仁寺に移され、そのとき、 今日の社名に改名されたものといいます。

吹上は吹上坂に由来。その後さらに護国寺等を転々とし、明治45年(1912)に現在地に落ち着いたとされます。

続いて儒学者の墓地があります。

大塚先儒墓所  寛文十年(1670)林羅山の弟子で、水戸藩祖頼房の儒臣人見卜幽軒(道生)がこの地に没し、その遺体をその邸内に埋葬したのが起こりとされます。

以来幕府儒者の木下順庵・室鳩巣・柴野栗山・尾藤二州・古賀精里・岡田寒泉・栗本鋤雲らを埋葬、現在63基あるといいます。

墓石には戒名はなく「○○先生之墓」と刻んであります。常には施錠されていますが、吹上稲荷神社に頼み込めば開けてくれると案内されています。

さて、新大塚駅へと向かいましょう。

谷底を巻くようにくねった道が続いています。

崖下の自然地形に沿ってできた道だったことがよくわかりますね。

高みを走る春日通りが新大塚へと下るにつれ、坂下町との高低さも小さくなり、坂も緩やかになります。

落差の無くなったところが新大塚駅。坂下町への入口で道は谷へ下って行きます。

見ての通り坂下町への入口はごちゃごちゃしています。

地下鉄丸の内線・新大塚駅のある交差点。台地上にある高いところの交差点であることがわかります。

実に長い散歩になりました。途中ちょっと欠伸が出ませんでした?

それではここで〆にしましょう。

ではまた。

編集呟き:今回からワールドプレスの編集スタイルがブロックエディターに変わったので、はじめて取り組んだものの、ややこしいので、なかなか進まない!しばらくは戸惑いがちの作業になるだろう。更新も遅れることが予想される。

by
関連記事
わたし時間~時空の旅みやげ