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今日の散歩は駒場の界隈(目黒区)・教養が養われるかも知れない駒場野!

松見坂

右手に広大な駒場野が広が開ける

その昔、駒場の辺り一帯は笹の原が一面に生い繁っていた野原だったといいます。いまもみられる松林などにその面影をちょっとだけしのべます。
駒=馬、場=産地で駒場。馬の産地、馬の放牧地といったところでしょうか。駿馬の産地で、生産馬は古代から中世にかけて活躍した東国武士団の軍馬として重用されたのではないかといわれています。また、将軍の御狩場でもあったところから、狩りの際の馬を止める場所(駒留場)があったことが名前の由来ともされてます。幕府の薬草園も設けられていたといいますから、広大な「公用地」が広がっていたもいえるでしょう。「駒場野」と呼ばれていたようです。

『江戸名所図会』には「駒場野、道玄坂より乾(いぬい)(西北)の方一四、五町を隔て代々木野より続きたる広原にて上目黒村に属し、ヒバリ、ウズラ、キジ、野ウサギの数多く御遊猟の地なり」と記しています。

駒場野の一部は農民たちの「入会秣場」(いりあいまぐさば)、つまり共同の草刈り場がありました。明治維新後にはここに新政府軍の練兵場が建設されそうになりましたが、農民たちの反対で工事は撤廃になったといいます。
こうした駒場野の一帯が昭和43年(1968)、駒場1丁目~4丁目となり、3丁目はほぼ東大教養学部の建物で占められています。

きょうは「駒場東大」ともいわれる、東大教養学部の周辺をぐるっと巡ってみたいと思います。

というわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。


きょうの用語/散歩は時に刺激です、散歩は時にビタミンです!

井の頭線・「駒場東大前」駅を起点にしましょう。
駅東口が出発点になります。東大正門が真ん前になる口です。

井の頭線・駒場東大前駅(東駒場駅→(※)一高前駅→東大前駅→駒場東大前駅
井の頭線は昭和8年(1933)の開業で、そのときは「東駒場駅」として開設されましたが、昭和10年(1935)に「一高前駅」に改称されました。次いで学制改革があり昭和24年に「東大前駅」に改称されました。この「東大前駅」は現在より渋谷寄りに設けられたのですが、昭和40年に西隣の「駒場駅」と統合され中間のところに「駒場東大駅」として新設されました。

(※)「一高前駅」   という名の時代がありました。~昭和10(1936)、駒場にあった「東京大学農学部」(前身・駒場農学校)が本郷の向ヶ丘にあった「旧制第一高等学校」の地に移り、かわっ「旧制第一高等学校」が駒場に移ってきて「東京大学教養学部」として今日に至っています。つまり学校が土地交換で入れ替わったことから「一高前駅」というのが出来たわけです。学校としては大転換時代だったといえるでしょう。

校内に入るのはあとにして、正門から時計台のある校舎を眺めてみましょう。

大學正門   旧制一高当時の正門です。門扉の中央には一高の校章が象られています。校章は柏葉(軍神マルスの武)と橄欖(女神アテナの文)の3葉6実を図案化したものだそうです。

〇校章~本館真裏に「國」入りの校章が掲げられてあります。由来銘板に「このアーケードの上壁面にある紋章は、旧制第一高等学校の校旗であった『護國旗』のレリーフである。『護國旗』は金糸に輝く柏葉と橄欖の徽章の中央に『國』の字を配し、二条の白線をもつ真紅の旗である。明治22年2月5日、校校旗として制定された」とあります。

東京大学教養学部旧第一高等学校本館(時計台)   旧制第一高等学校の本館といわれていました。昭和8年(1933)竣工。現在は1号館と呼称されています。外壁のクラッチタイルが特徴。鉄筋コンクリート造りで塔屋が付属しているのが印象的です。本郷キャンパス・安田講堂を手掛けた内田祥三(うちだ・よしかず)、東京帝大建築科教授と清水幸重の設計で、施工は銭高組。総体的にはゴシック風の外観を強調しいることから、建築学的な用語では「内田ゴシック」と呼称されている。東大本郷キャンパスの校舎群と意匠的には等しい(登時計台も一高時代からの本館で、駒場移転後の昭和12年(1937)の紀念の寮歌「新墾(にいはり)」では「暮れ残る時計臺(うてな)めぐりて」と歌われている。

では、ここではこれくらいにして、これから「駒場野公園」に行ってみましょう。
線路際の坂を下り駅の西口にまわり、線路をこえて、ちょっとした坂をのぼると公園です。

 

勧農政策と大学の推移   明治政府は「富国強兵」のもう一方で、「勧農政策」も進めようとしていました。農業改革です。近代農業の指導者を養成するため、イギリスから農業技術者を招き、明治7年(1874)、内藤新宿(新宿御苑)に「農事修学場」を設けました。しかし大型農法には敷地が手狭であったことから、明治9年(1876)、広大な駒場野の荒地、約6万坪を開拓し、明治11年(1878)、名称もあらたに「駒場農学校」として開校しました。
明治11年(1878)西ヶ原(北区)の樹木試験場では「山林学校」が発足しました。明治19年1982)、駒場農学校と山林学校が合併し「東京農林学校」が発足します。そして明治23年(1986)、帝国大学に組み込まれ、農科大学となります。

 

資料

泰西農場が俄然ひろい(「目黒区史」)

駒場農学校   東京大学教養学部、駒場公園、東京大学駒場リサーチキャンパス、駒場野公園(旧東京教育大学移転跡地)にまたがる約6万坪の敷地でした。その後、次第に拡張され、最盛期といわれる明治 17年には、敷地面積が16万5000坪に達していたといわれます。
欧米の農作物を試植する泰西(たいせい)農場、在来農法の改良をもつ本邦農場、家畜病院、気象台、園芸・植物園などを持つ、農業の総合教育・研究所の観を呈していました。

「青年よ大志を抱け」でよく知られるクラーク博士を教頭に迎え、アメリカ系統の農業技術を取り入れたのが札幌農学校(北海道大学)であり、
ケルネルらを通じてドイツ農法を取り入れたのが駒場農学校でした。

ではそのケンネルを今日に顕彰している「ケンネルの田圃」に行ってみましょう。駒場野公園の一部に水田があります。

駒場野公園   農学部が本郷の弥生に移転した後も「農業教員養成所」はこの地に残り、さらに「東京農業教育専門学校」となり、戦後は「東京教育大学農学部」(筑波大学)となりました。学部が筑波に移転したあと、昭和61年(1986)に公園として整備され開園しました。園内には武蔵野の雑木林や水田などもあって、かつての駒場野の面影を色濃く残しています。近代農法の広大な実験場だったことから「近代農学発祥の地」ともされています。

プロイセン(ドイツ、ポーランドあたり)農法
ここからの話は、ドイツがまだプロイセンと称していた時代にさかのぼります。
イギリス式の機械化農業を取り入れたものの、それには多額な資金がかかりました。そこで、そうした大型農法よりも、農芸化学(化学を応用した農研究)を応用した栽培技術の改良に関心がむかい、開校時に招かれたイギリス人技術者は解雇され、代わってヨーロッパに広まっていたプロイセンの農芸化学を取り入れて学ぶことに変革することになり、それに沿った技術者が招かれることになりました。

プロイセンの技術者たちは、土地改良をはじめ農耕、肥培管理など、どこまでもわが国農業の特質を配慮しつつ教育、研究を行ったので大きな成果を収めたといいます。以後、日本の農業はプロイセン農法をどんどん取り入れて発展してゆきました。

明治の初め、政府はいろんな分野を学ぶため、それを指導する外国人教師(お雇い外国人)をさかんに招きました。農業分野でのひとりがケルネルでした。

オスカル・ケルネル(Oskar Kellner) (1851年5月13日~1911年9月22日)   農芸化学者。日本の土壌と肥料の改良と肥料を施す技術の発展に尽くしたドイツ出身のお雇いが外国人。帝国大学農科大学で教鞭を執った。明治14年(1881)11月5日 来日。 日本永住を決意していたが、明治25年(1892)年12月31日、本国からの要請でドイツに帰国した。

水田の碑   この水田が農学校の水田の一部で、我が国最初の試験田、実習田であったことを記した碑。

碑文全文はこのようです。
水田の碑
駒場農学校の跡地 近代農学研究・農業教育発祥の地
この水田は 明治11年 ここ駒場野に開校した農学校の農場の一部でわが国 最初の試験田 実習田として 近代日本の発展を支える淵源の一をなした  農学校は いくたびか 学制の変更により 名称を変えて その歴史を継ぐ 学校が この地で発展を重ねた その間この水田は 近代農学研究発祥の地にふさわしい沿革をたどり 国際的 協力のもとに初めて 本邦近代農業の研究と教育とが進められ 幾多人材の輩出 を見た 本校は 東京農業教育専門学校附属中学校として 昭和22年 開校以来 右の歴史の流れを継いで この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ 耕作 をづけて 本年創立40周年を迎えた そもそも 農は 人類生存の基をなす営みである 本校は この水田のもつ 歴史的意味に想いを致し 幾多先輩の偉業を想起しつつ これを永く後世に伝え たいと考え ゆかりある方々の翕然たる協力を得て ここにこの碑を建立する  なお 建立に際し 地元目黒区の理解と協力のあったことを録して 感謝の意 を表する     昭和62年10月  筑波大学附属駒場中学校・高等学校

ケルネルの田圃   かつての駒場農学校農場の一部。わが国で初めて水田での肥料試験が行われた地として、日本農学史を飾る由緒ある水田とされている。ケンネルはとくに水田土壤の研究とイネ作肥料の研究に多くの業績を残し、この水田を試験田として利用したことから「ケルネルの田圃」と呼ばれています。

〇近隣に所在する筑波大学附属の駒場中・高等学校の生徒の水田稲作実習に使われており、同校の入学式および卒業式では、ケルネル田圃で収穫された米で炊かれた赤飯が新入生、卒業生に配布されるらしい。

〇東京大学教養学部では平成18年(2008)度より、必修授業である「英語1」での一年生のリスニング教材に、ケルネルの功績を題材にしたもの使用しているそうです。

武蔵野台地の小さな谷間の湧水で、目黒川の水源のひとつであった。ケルネルはこの湧水に注目し、横にある水田の灌漑用水に利用しました。それによる水田土壤の研究とイネ作肥料の研究は成功しました。日本農業はここに近代化のひとつの躍進をみました。

では、駒場野公園の逍遥はここまでとして、これから校庭、校舎の一部を観察しに行きましょう。北門から田圃を右にみおろし校舎のほうに歩きます。
途中、駒場小学校内に聖蹟碑があります。

明治天皇駒場野聖跡碑
明治3年4月17日に駒場野で連兵天覧御幸があったことを記念した碑。昭和12年6月、前田邸の敷地内に建てられました。現在、駒場小学校内に移されていますので、許可なく見学はできません。

「昭和拾貳年六月建立、駒場野聖蹟保存會顧問 侯爵 前田利爲、駒場野聖蹟保存會長 侯爵 西郷従徳、同副會長 侯爵 東郷彪、同理事長 井川建次郎、同理事 栗田和一、石材業 海老澤政五郎 刻」。とあるものです。

道

道のさき左側は駒場キャンパス第2グランド

 

線路をわたり、駒場通りに出たら坂下門の道に入ります。ちょっと古めかしい道です。右手は駒場野の名残りのような木立ち。

道の左側をチョロチョロ流れる小川は、駒場野公園内の池から流れてくる水路で、目黒川の支流のひとつ。駒場キャンパス第2グラウンド付近にも湧水池があって、それも目黒川に流れ込んでいたようです。木立ちの裏手に同窓会館があります。100メ-トルほど歩くと左に階段があり、そこを入ると校庭内に入れます。すぐのところにファカルティハウスがあります。

駒場・東京大学教養学部校内図

旧同窓会館   昭和13年(1938)に建てられた一高同窓会館。平成16年(2004)に洋館部分は一階にレストラン「ルヴェソンヴェール駒場」、二階はレストラン 橄欖(かんらん)に改装されました。和館部分は取り壊され、跡地に「駒場ファカルティハウス」(国際学術交流会館)が新築されました。 橄欖には何度か入っていますが、テラスもありゆったり食事ができます。一般車も入店可能でランチもそろっています。

このあたりにはいくつかの轢死を語る石碑があります。それらをみてみましょう。

駒場農學碑   旧制一高と敷地交換するまでこの地に在った東京帝大農学部及びその前身の駒場農学校を記念して昭和11年(1936)に建てられた。同年の、一高とのキャンパス交換の際に、駒場が農学発祥地であることを伝えるために建てられた。

碑文は以下の通りである。「駒場農学園ハ明治十一年一月二十四日明治天皇親ク此処ニ開校ノ典ヲ挙ケ給ヒシヨリ始メ駒場農学校ト称シ中頃東京農林学校終ニ東京帝国大学農学部ト改メ始終我国農林畜産水産各事業ノ淵源ヲナセリ今ヤ学園ハ一層ノ発展ヲ期シ此地ヲ去ッテ別ニ所ヲ得タリ然レドモ吾等此処ニ業ヲ卒スル者追懐思慕何ソ勝ヘン玆ニ碑ヲ建テ永ク記念ノ標識トス  昭和十一年三月吉日  高橋偵造書」

一高記念碑   「一高ここにありき」と刻まれた記念碑。背面の由来文に「平成十六年開学百三十周年に当り かつ一高同窓会が本格的活動を終えんとするに際し ここに貞石を留め 以て記念とする 縁あってこの地に学ぶ若人 縁あってこの碑を読む旅人 願わくはこの碑に込められた向陵精神を汲み 真摯な歩みに恵まれんことを」とある。

旧制一高は本郷の向ヶ岡にあったことから「向陵」(陵は大きな岡の意)とも呼ばれた。明治23年(1800)年、寄宿制となり、明治33年(1900)に5寮が完成し、翌年から全寮が寄宿制となった。

嗚呼玉杯の碑(旧制一高寮歌)   旧制一高のOBらよって昭和31年(1938)に建立された。一高の代表寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」~明治35年(1902)制作記念歌碑。
背面の由来文に「明治卅五年矢野勘治君作詞楠正一君作曲の嗚呼玉杯の歌は永く愛唱せられ開校以来の端艇部歌に代りて校歌とし稱すべきものとなり遂に廣く一般に流傳して青春の徒を感奮興起せしめたり(中略)今年二月同窓有志嗚呼玉杯會を結成し歌碑を駒場の校址に建て後世に傳へんことを謀り十一月その工を竣ふ」とある。

旧制第一高等学校の代表的な寮歌の一つで、日本三大寮歌の一つとされています。寮歌の中で最も人口に膾炙した歌で、旧制第一高等学校の生徒のみならず女学生や演歌師たちによって歌われることによって有名になった歌です。

1嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影宿し/治安の夢に耽(ふけ)りたる 栄華の巷低く見て/向ケ丘にそそり立つ 五寮の健児意気高し
2芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華(か)を奪い/清き心の益良雄が 剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて/一たび起たば何事か 人世の偉業成らざらん
3濁(にご)れる海に漂える 我国民(くにたみ)を救わんと/逆巻く浪をかきわけて 自治の大船勇ましく/尚武の風を帆にはらみ 船出せしより十余年4花咲き花はうつろいて 露おき露のひるがごと/星霜移り人は去り 舵とる舟師(かこ)は変るとも/我のる船は常(とこ)えに 理想の自治に進むなり
5行途(て)を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある破邪の剣を抜き持ちて 舳(へさき)に立ちて我呼べば魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か

ちなみに、よく抒情歌として口ずさまれる歌に「琵琶湖周航の歌」(作詞:小口太朗  原曲:吉田ちあき)があります。
1われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと のぼる狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば
2松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の 森蔭に はかない恋に 泣くとかや
この歌も旧制第三高等学校(新制京都大学)の寮歌として広められました。

お雇い外国人教師記念像   胸像は「「駒場ファカルティハウス」の中庭にありますが、建てられたのは明治35年(1902)と古いです。こうした外国人教師に教授されて、あらゆる学問が近代化され、文明国家が形成されていったことは記憶しておきたいことです。校内にはほかにも外国人教師記念のレリ-フ像などもあります。

左Arrivet先生/ 明治10年(1877)に来日、25年間にわたりフランス語・ラテン語・哲学・世界史を指導しました。。
右Putzier先生/明治17年(1884)に来日、明治34年(1901)に東京で没するまで、15年以上にわたりドイツ語・ラテン語・世界史を指導しました。

900番教室   内田教授の設計により昭和13年(1938)に一高講堂として建てられたもので、現在は900番教室として使用されています。外観からするとさほどでもないですが、600人収容できる大講堂だそうです。正門を挟ん「駒場博物館」と対比する位置にあり、ほぼ同じ外観をしています。

駒場博物館   向かいあう「大講堂」と同じ外観です。内田教授の設計により昭和10年(19365)に、一高書庫として建てられ、現在は「駒場博物館」として使用されています。昭和46年(1971)に「美術博物館」が、平成15年(2003)に「自然科学博物館」がそれぞれここに移転してきて、これらを併せ「駒場博物館」と称されるようになりました。いまは旧制一高が蒐集した美術品や標本資料も収蔵されており、定期的に展覧会や企画展が開催されています。

ワタシが~『日本奥地紀行』を歩く~を出版した数年後、「イザベラ・バ-ド」の企画展がこの博物館で開催されました。博物館にはなかなか入る機会がなかったのですが、このとき、はじめて入ることができました。それまでは、東大の中には一般者は簡単に入れないものとばかり思っていたのですが、案外自由に出入りできることを知りました。本郷東大も、東大農学部も同じようだというこがわかりました。ですが、正門で守衛さんに一言断わって入るのがいいでしょう。みなさん穏かに受け入れてくれます。

101号校舎   内田教授の設計により昭和10年(1935)に建てられ、特設高等科校舎として用いられた。現在は101号館と呼称されています。

101号館前のマンホール   蓋板に「一髙下水」と刻まれている。

新墾の碑   駒場博物館の裏手、「矢内原公園」の入口付近にあります。平成21年(2009)の建立。昭和12年(1937)にできた、一高の代表寮歌「新墾の此の丘の上」の制作記念歌碑。背面の由来文に「『新墾』は昭和10年(1935)東京帝国大学農学部との敷地交換により本郷からこの駒場の地に移転して直後の寮歌であり『駒場の玉杯』とも言われ多くの寮生・卒業生に愛唱された」とあります。

矢内原門跡   正規の通用門ではなかった。学生運動が激しいころ、矢内原忠雄(東京大学教養学部長)が、正門がピケで通行できないので、部が自らが生垣をぬけて通用したことから、のちに公認の通路となったと伝えられる。今は門はなく小公園になっている。

「矢内原公園」と「図書館」の間のくねった道をまっすぐ行くとT字路になります、そこを左に行くと右手に池の畔に出ます。

駒場池   校内最東部にある池。正しく「駒場池で」、愛称は本郷キャンパスの三四郎池にならいは「一二郎池」とされている。周囲に遊歩道が整備され周遊できるようになっている。目黒川の支流のひとつ空川の源流とされています。

駒場の地に農学校が開かれた立地条件というもののひとつにこの水源があったようです。武蔵野台地の一部、淀橋台の谷間にあり湧水でした。かつては養魚場として用いられていたという記録が残っているそうです。

空川(目黒川支流)   ここで湧き出た水は国道246号線(玉川通り)付近で目黒川に注いでいたといわれます。流れは「空川(そらがわ)」と呼ばれていました。川筋は現在すべ暗渠になっています。

博物館の近くねひょんなところ、わりと正門に近いところでしょうか。広い校庭のこんなところにと思える穴場です。小さなお花畑バラ園があります。

駒場池のすぐ前の道を右方向に歩いてゆくと、左手に広いまっすぐ通りがあります。校内のメ-ン通りで、銀杏並木のある通りです。ちょうど101校舎の裏手になります。しばらく行くと春なら緑が目にしみるような銀杏並木が続きます。

銀杏並木
本館の裏に長く続く銀杏の並木道。昭和11年(1936)に森巻吉第11代校長により「弥生道」と命名されたのだそうです。本郷東大の銀杏並木もすばらしいが、こちらの並木も比して劣らない並木です。やはり色づく秋に通ってみたくなります。

さて、銀杏並木からそれて、右手にグランドのある「桜並木」の道を駅のほうにむかいましょう。
春には古木の桜が爛漫と咲き匂う小路です。まっすぐ歩いてゆくと「坂下門」から井の頭線・「駒場東大前駅」の西口に出ることができます。ワタシの好きな小路で、できるだけゆっくり逍遥してほしい道です。
駅まで200メ-トルほど数分です。

右手近くにはもうひとつの公園「駒場公園」が広がっています。ここもかつての農学部の農場跡地ですから続けて歩くといいのですが、これまでのところを歩くだけで手いっぱい。また「駒場公園」をめぐると加賀の〔前田邸」の和館・洋館の建物があり、じっくり時間をかけて鑑賞するべきものもたくさんありますから、別途で歩いたほうが賢明かと思います。

ということで、きょうはここまでにしておきたいと思います。
ちょっとした駒場の教養散歩といったところでした。東大農学部と教養学部の歴史の一端かのぞけたのではないでしょうか。゛

では、きょうの散歩はここで終わりにいたします。
それでは、また。

 

 

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