今日の散歩は渋谷道玄坂/百軒店界隈(渋谷区)・旧円山花街は渋谷の奥座敷だった!
人波でごった返す渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像を起点に道玄坂、円山あたりを歩いてみたい。
有名な忠犬ハチ公像。はじめに建てられた場所から移動していますが、在りし日の銅像を含めて渋谷駅前を思いだす人は多いでしょう。わたしも、その一人。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
昔の渋谷駅前は街道と坂と川の交わるのどかな農村風景が広がっていた!
渋谷駅の西側には道玄坂が、東側に宮益坂が延びています。どちらも上り。道はかつての大山街道。川は渋谷川です。
駅は坂に挟まれた谷底にありました。
宇田川が渋谷川に流れ込み、周囲は麦畑や武蔵野の雑木林が広がる農村地帯で、水田で黄色の稲穂
がたれていたなんて、いまの渋谷からは想像できませんね。
ちなみにこのコ-スは下のコ-スとジョイントできます。よかったらワイドにお散歩下さい!
ジヨイント「松濤鍋島公園」
駅舎が離れていますね。いまの湘南新宿ラインのホームあたりかな。ですからハチ公がなじんだ駅はこっちなんですね。現在地に移ったのは大正10年(1921)といいます。
戦後7年目の渋谷駅前です。まさに渋谷のど真ん中!高いビルがまだ一つもありません。正面あたりの緑が松濤でしょか。田圃、畑は完全に消滅してますね。
「渋谷駅」前のスクランブル交差点。正面「109」。左・道玄坂、右・文化村通り。
道玄坂に沿ってゆく。相模の大山に参る昔の大山街道だ。
坂の路傍に「道玄坂」の標柱。
道玄坂 地名の由来については諸説あり、著名な『江戸名所図会』に、次のような記載があります。
「道玄あるいは道元に作る。里諺に云、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年(1213年)五月和田一族滅亡す。其の残党此所の窟中に隠れ住て、山賊を業とす。故に道玄坂というなり」
『江戸名所図会』
鎌倉時代の武将・和田義盛の残党、大和田太郎道玄の盗賊説、道玄の住む庵があった、というもの。この説が一番流布していますね。
「109」の建物を右に見て道玄坂の左の歩道を上ります。
と、いきなりですが明治の与謝野鉄幹・晶子の登場です。
ずっと後には作家・林芙美子が夜店で母と猿股売りをしたエピソードのある渋谷道玄坂ですが、有名な「東京新詩社」の渋谷時代が坂の一角からはじまったことにふれてみましょう。
麴町住まいだった鉄幹が心機一転を図り、ひとりで転居したのが道玄坂下のあたり(東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷二七二番地)。明治34年(1901)6月のこと。住まい兼用で『明星』の発刊元「東京新詩社」がおかれました。
通称「大和田横丁」と言われた一角。晶子が、鉄幹を頼って単身東京へやってきたのはこの借家でした。
それからすぐの9月に移転したところが、すぐ近くの道玄坂上(中渋谷三八二番地)で、
そして10月には鉄幹と結婚します。入籍は翌年の1月でした。鉄幹28歳、晶子23歳でした。
この後、6ヶ月ほどで再び隣接地の(中渋谷三四一番地)に転居します。与謝野晶子の有名な『みだれ髪』が出版されたのは、この直前でした。
ここ渋谷で鉄幹と晶子、ふたりの活動が情熱的に開始され 、東京新詩社は最盛期へ向かうことになります。
長男の「光」の著、「晶子と寛の思い出」には、
ちょうど渋谷に、歴史に出てくる名和長年っていう、その人の子孫が男爵を貰って、大きな土地を持っていたんですが、その名和さんの家の借家を借りたんです。
・・・、いよいよ結婚ということになると、堺の僕のお祖母さんが、箪笥二棹に着物を詰めて送って来たそうです。貧乏だから、それをだんだん一枚一枚質屋へ持って行って流してしまって、おしまいになっちゃうんだよね。それも借りるのは嫌だって言って、買ってもらうの。自分が行くのも嫌で、金尾文淵堂という本屋の主人に売って来てもらうんです。渋谷の家のすぐそばに……道玄坂に質屋さんがあったんです。
「晶子と寛の思い出」
明治35年(1902)11月9日、 石川啄木 は東京新詩社を訪問し初めて与謝野鉄幹に接し、翌日与謝野晶子に会いました。
啄木ほか明星の同人は増加したとはいえ、生活は苦しいものだったようです。
与謝野鉄幹と与謝野晶子
道玄坂にもどり、もう少し上ると右手に狭い道玄坂小路が文化村通りへと通じています。
若いころから馴染んだ雑とした小路で、ここには昔も今も変わらない渋谷の匂いがあります。
台湾料理の「麗郷」は道玄坂小路のシンボルマーク的な存在ですね。
右隣あった喫茶店・カスミにはよく通ったが、なくなってしまった。割烹着のおばちゃんが珈琲を入れてくれた(いろんな思いでがある。懐かしいな!)
道玄坂と文化村通りを結ぶ抜け道としても知られる「道玄坂小路」。
【台湾料理 麗鄕】
住所/東京都渋谷区道玄坂2-25-18
営業時間/平日12:00~15:00、17:00~23:00 土・日曜・祝日12:00~23:00
定休日/お盆、年末年始
本場の味が楽しめることでファンが多い。わたしもその一人。
石段のさきは渋谷百軒店に通じている。
道玄坂と文化村通りを結ぶ抜け道として、かつてはもう一つ有名な「恋文横丁」というのがありました。
文化村通りにお粗末ながら、その昔を語る歴史のモニュメントがあります。「恋文横丁此処にありき」です。個人が建てたもののようです。
恋文横丁 道玄坂下のこのあたり戦後にヤミ市が開かれ賑わいをみせていました。109のある三角ゾーンです。109ができるまでは路地や横丁にまだその匂いが色濃く残ってましたね。
恋文横丁の名は、この地にラブレターの代筆業を営む若者たちが集まっていたことに由来する愛称。
戦後。代々木にワシントンハイツ(在日米軍施設)ができ頃の話です。
アメリカ兵と日本人女性が恋仲になることも少なくありませんでした。
しかし、英語という言葉の壁があり、ラブレターを書こうにも彼女らの多くは英文が書けませんでした。
そこでひとりの若い商店主の男性が英文の代筆や英語の翻訳を請け負い彼女たちの手助けをしました。こうしたことが評判を呼び、多くの女性が訪れ、国籍を超え結ばれたのでした。
この史実をもとに昭和28年(1953)、作家の丹波文雄が、『恋文』という小説を新聞に連載したことでこの横丁が一躍脚光を浴びることになりました。
さらに女優・田中絹代の監督で映画化されたことで、話は全国に広まりました。
*昭和28年(1953)12月、この地を舞台とする「恋文」(丹羽文雄原作、田中絹代監督、配給・新東宝映画株式会社)が公開されました。
LABIと「くじらや}の間。いま、その通りはふさがれ通りぬけできません。恋文横丁一帯はLABIの敷地にすっぽり飲み込まれた感じですね。
「渋谷百軒店」ここにあり!渋谷歓楽街のルーツです!
道玄坂を上ってゆくと右手に派手な路地があります。渋谷百軒店(しぶやひゃっけんだな)です。
渋谷百軒店
江戸時代、この辺りは、渋谷村の入会地(いりあいち)で雑木林の繁る台地のようなところだったようです。
* 入会地 村が 有 する共同利用が認められた 土地 。
そこが、大正12年(1923)の「関東大震災」後、復興にともなう渋谷開発計画によって計画的に作られたショッピングセンターでした。
「箱根土地株式会社」(西武グループのコクド開発の前身)が中川伯爵邸(旧・豊前岡藩主家)の屋敷地を購入し、高級住宅地として分譲しようとた。が、大正12年(1923)に関東大震災が起き、その考えをやめた。被災の救済を合わせ、そこに名店街のような空間を出現させるという、当時としては非常に画期的なコンセプトのもと、有名店・老舗を被災した下町から誘致した。100余店の名店や劇場、映画館を誘致した。その賑わいは浅草の仲見世よりもっと凄かったといいます。
復興した後に、多くの店は元の場所に戻ってゆきましたが、その跡地は映画館、カフェなど飲食店が並ぶ娯楽街となり、今日の百軒店に至っています。
*中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)
豊後竹田7万石の岡藩の藩主で,当主は中川久成でした。
目黒区青葉台、のちに西郷山言われる葯6ヘクタール(100m×100m=10000㎡=1ha)の別邸を明治7年(1874)に西郷従道に(さいごう・じゅうどう)に売り渡し、江戸藩邸の上屋敷、下屋敷も手放し道玄坂の1ヘクタールほどの土地に移り住みました。武家屋敷ふうに門を構えた屋敷だったそうです。
その伯爵邸の地に目を付けたのが、西武グループの祖で当時34歳だった堤康次郎でした。
堤が皇族・華族の土地を買いはじめ、その一つに中川伯爵邸も選ばれました。土地は分譲地となり、やがて渋谷百軒店に様変わりしたわけです。
昭和20年(1945)の東京大空襲で、一帯は大半が焼失してしまいました。
昭和30年代~40年代に入ると、ジャズや音楽喫茶、映画館などが並び、娯楽、文化の発信地として発展していきます。ボーリングブームのころはボーリング場もありました。
では、そのあたりを歩いてみましょう。
坂の途中に昭和45年(19709開業の「道頓堀劇場」現役。ストリップ小屋として知られる。でも、ここを通るたび、どうして道頓堀なんだろうと、なんとなく、ずっと疑問なんだな!
入口から400mほどの坂道は坂上で三差路になり(道玄坂小路からの道が交わる)、すぐ先でまた三辻になるが、そのまままっすぐに進むと、突当りの右手に偉く由緒のある稲荷さんが鎮座しています。その名も「千代田稲荷」。
この千代田稲荷を中心とするかいわいにまで、被災した下町の名店が集められたそうです。
この稲荷は「百軒店」の守護神として鎮座。商売繁盛の神社として宮益坂の御嶽神社の隣にあったもので、再開発の際にここに移築されました。
千代田稲荷 長禄元年(1457)太田道灌江戸城築城の時守護神として伏見稲荷を勧請、徳川家康入城後に城内紅葉山に遷座、慶長7年渋谷宮益坂に遷座、江戸城より遷座したことから千代田稲荷と称したといいます。
附近住民の信仰篤くことに和宮御降嫁のさいに奇瑞を現わし、途中を守護したので着城後代参あり、鳥居等多くの寄進あり「江戸名所図会」にも載る。 大正十二年関東大震災の年に渋谷百軒店に地を相して神城を定め再度御遷座した。 戦災により社殿その他建造物を焼失したので役員総代等力を協して復興に尽力し、いち早く仮殿を建て維持運営に勤む。その後すぐ近くに適地を求めて境内地を移し、元梨本宮家の邸内社を譲り受け改装して新社殿とし、社務所・水舎・鳥居。灯籠・神輿庫等を建設し従来より当地の守神と仰ぐ中川稲荷神社を末社として奉斎。昭和二十七年これら全施設の完成を達成し盛大なる奉祝祭を執行する。稲荷の神はもともと農業の神であり、米一粒が何倍にも殖えるように広く殖産の神としてあがめられ商売繁昌の福の神はもとより諸産業の守護神としてあらゆる職業の人に信仰される。
(境内掲示)
同じ境内に一段と華やかに「中川稲荷大明神」もある。
伯爵邸内にあった中川稲荷が今は千代田稲荷の境内に合祀。
渋谷は、大小さまざまな丘や台地、川や坂道によって構成された街。その特徴を明確に示しているのがが、かつて「渋谷の奥座敷」と呼ばれた神泉・円山町です。
円山町は、渋谷駅から道玄坂をずっと上っていって右に入ったところ。北側は松濤、東は道玄坂、西は神泉町に接していて、おしゃれなラブホテルなどがいっぱいあります。
裏通りの丸山町との境にも「Hyakkenndana」と記した赤いアーチが出来てました。わたしの過去の記憶からすると、大きな変わりようです。円山町方面からの入口というこになろう。というのは古いので、いまは、クラブハウスなどが並ぶランブリングストリートからのゲート門。
ランブリングストリート ジャズ喫茶やロック喫茶によって若者に有名で、文化の街・音楽の街として栄え、単館系映画館やライブハウスとともにあり、かつての「百軒店」へとつながっている。
ああ、懐かしの道玄坂裏!阿部ビル時代の記憶地図!
ここは、全く個人的な記憶のくくりです。
記憶地図としては、百軒店の三辻を左折し、ムルギ-の前を700メールほど直進した先の狭い袋小路に入ると小路の正面角にジャズ喫茶の「音楽館」がありました。そこを右に鈎の手に曲がって右側、三軒目にそのビルはありました。道玄坂2丁目の一角。
三階建の木造の雑居ビル。八疊一間。
役者稼業をやりながら、副業で友人と貸事務所を開き、あわせて全国の甘辛味覚の通販を始めました。
「商才」まったくなしでしたが、時代がおおらかだったのでしょう、持てはやされて小商いになりました。
しかし、まだ宅急便のない時代ですから送料で空回り。2年ほどで廃業しました。
そのころ、疲れるとジャズ喫茶の「音楽館」で骨休みしたもの。束の間のオアシスでした。ジャズがわかったわけではないのですが、音に埋没することで、癒されていました。その面ではクラッシックの名曲喫・茶・ライオンにもよく行きました。
いまは聴きすぎるんで、悲しいかな、時間がたりない。
道玄坂、百軒店界隈はジャズが流れる夜の街でした。
渋谷はかつてジャズ喫茶の多い異色な街で、古くは「スイング」「デュエット」があり、オスカー、ブラックホーク、「ありんこ」、「ブレイキー」、「ジニアス」など多くのジャズ喫茶が密集し活況を呈していました。
昭和53年( 1978)撮影の懐かしい光景。往時が彷彿とします!
カメラマン滝本淳助 氏の撮影です。
音楽館、ブラックホークの看板も見えます。
「音楽館」がオープンしたのは昭和46年(1971)。渋谷が「若者の街」と騒がれるのは、その後、昭和48年(1973)に西武パルコがオープンした頃からですね。それまでの渋谷は大人びた街でした。
この一角で最後まで頑張っていた「音楽館」も残念ながら閉められてしまいました。
いまその界隈を歩いてもどこを探しても往時をしのべるものは何もありません。
路地を突き抜けると丸山町で、かつては丸山花街といわれた遊興街。
とはいえ、すでに花街はすたれ、三味線の音色はもうありませんでした。
この渋谷円山町をモチーフにした歌謡曲「円山・花町・母の町」~三善英史 昭和48年(1973)発売/作詞:神坂薫 作曲:浜圭介)~が巷に流れていました。芸者の子として生まれ、この町で幼少期を過ごした歌手・三善英史の大ヒット曲。
渋谷百軒店商店街 一帯には当時からの老舗が残っています。巡ってみましょう。佇まいはどの店も往時とそう変わってはいません。
名曲喫茶ライオン 昭和30年代、名曲喫茶の黄金時代からの老舗!
クラッシックの名曲喫茶。昭和元年(1926)創業。空襲で全焼したものの再建。
ムルギ- 昭和26年(1951)に創業したカレ-の名店。「ムルギー」はヒンズー語で「鶏肉」の意とか。ここでもよくジャズを流していた。
ラーメン嬉楽 ここだけは大変貌!あの頃の店舗が懐かし。今じゃ行列のできる老舗。スープが抜群!よく食べたよな。
松興堂 わたしの知る限りずっとここにある。武道具の専門店で剣道具、剣道着など扱う老舗。どうして、ここにあるのか。古い百軒店時代の名残なのでしょうか。
雪の日に、玉電が上り走行で四苦八苦した道元坂上の交差点!
渋谷百軒店を過ぎて道玄坂を上ると道玄坂交番のある道玄坂上に出ます。
反対側、道玄坂の向かいにはアーチのある通り。
道玄坂上。かつての東急玉川線の電車軌道跡です。そのころ世田谷の池尻に住んでいたので玉電は日常の足だった。玉川線が廃線となったのは昭和44年5月10日。イモ虫電車が懐かしいです!
道玄坂上交差点の左角の一角はは碑が建つ。
道玄坂道供養碑 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の町として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。 樋口清之
お偉い先生の碑文ですが、「近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。」というのはチョイと疑問ですね!
与謝野晶子の歌碑
この文学碑は晶子の書簡から集字したもので、明治35年(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められている一首。
晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで与謝野寛と結婚しました。
歌人として妻としての多忙な日々のひととき。道玄坂にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていた。その山々の彼方遠くにある大阪堺の生家を思い、母親を懐かしんだこともあった。若き23歳の晶子がそこにいます。
渋谷の奥座敷として大正~昭和を通じて賑わった円山花街の今!
渋谷区円山町 江戸時代には甲州街道の脇街道であった滝坂道や、大山街道(厚木街道、矢倉沢往還)の宿場町のような集落で賑わい、明治になると三業地の花街として栄えはじめたようです。
*滝坂道 渋谷/道玄坂を起点に調布市滝坂までの道路。現在の淡島通りが相当しています。
*三業地 「料理屋」「待茶屋」「芸者置屋」の三業のある町。
円山 一帯は鍋島藩・荒木氏の所有だったため「荒木山」と呼ばれた雑木山だったそうです。
まわりがほとんど畑!松濤は広大な茶畑だったそうです。
*円山町・花街 明治時代になり某僧が神泉谷に「弘法湯」というのを開くと、近隣に芸者屋が開業し、それにともない料理屋も増し、待合も出来て三業地の体を成すようになりました。
狭い神泉谷かいわいだけでは客がさばききれず、花街は荒木山に広がってゆくことになりました。
神泉谷 円山町から西へ下った先の谷底は「神泉谷」といわれていました。良質な清水が湧き出していて、これが弘法大師の開湯伝説と結びついて「弘法湯」として人気を集めたのだそうです。
折しも明治38年(1905)、世田谷に陸軍の兵営ができ、明治42年(1909)には代々木に練兵場ができ、軍人の往来も俄かに増えた。
玉電や市電の開通で便利になり、明治の末頃には一級の商業地として栄え始めました。
道玄坂の「坂を上って来ていただく」ため、円山町の店は精魂込めて客をもてなしたといいます。
そんな営業努力もあって大正10年(1921)には、芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒とにぎわいは続いたそうです。
往時の色濃い面影はありませんが、かつての花街跡を少し歩いてみましょうか。
道玄坂交番を入る通りの北側一帯がかつての渋谷三業地の中心部。
見番通りの北側に花街であった当時の面影がわずかに残ります。行ってみましょう。ぐるっと迂回する形で神泉駅に下れます。
道玄坂地蔵 300年の歴史をもつお地蔵さんで、元々は道玄坂上の大山道と滝坂道の追分にあったという。豊沢地蔵、道玄坂地蔵、火伏せ地蔵などと呼ばれ親しまれてきました。
花街だったころの裏通りだが地蔵の周辺には花街の風情がみられます。
建物の端々に花街の香が漂っているよう!
裏通りに入らずダラダラ坂を下ると京王線の神泉駅。
このあたりに花街の検番があった。
坂の多い町である。
sカーブを描きながら坂道は神泉駅に通じている。
坂を下るとトンネル。
各所にある」石段は、着物の芸者さんたちが歩きやすいように作られているんだとか。
神泉駅からの円山へは総てが急坂!まさに山上り!
神泉湯 神泉谷は古くから霊泉が湧く場所として知られていました。「姫ヶ井(ひめがい)」と呼ばれる井戸があり、この霊水を沸かして村が共同浴場を運営していたといいます。
明治時代になり某僧が「弘法湯」というのを開き、下北沢の「森巖寺」で灸を据えた帰りに浸かると効き目、御利益があるとして喧伝したので、俄かに有名になったようです。
道標 駅前にポツンとある石の道しるべ。「弘法大師 右 神泉湯道」と書かれたもの。「明治19年」と刻まれています。円山に花街の繁栄をもたらした歴史の証人です。
さて、着いたところは、井の頭線の神泉駅です。
ところで、ここから、お屋敷町の松濤に行けるんですよ。ついでに行っち行っちゃいますか!
なら、松濤エリアへ!
踏切を渡り、まっすぐ行ってください。
それではひとまずここで!
ではまた。
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