徒歩する東京~古参のお屋敷町・松濤に残る自然池の~鍋島松濤公園~を散歩する!

渋谷区松濤。
江戸時代は豊島郡に属し中渋谷村といわれ、
一帯は紀州徳川家の下屋敷でしたが、明治になり佐賀鍋島(侯爵)が所領するところとなり松濤の地名が生まれました。

後年、鍋島家の土地分譲によって旧華族や高級軍人、富裕層が住みはじめるようになりました。

いまも都内有数の超高級住宅街として知られています。

「鍋島松濤公園」はそんなお屋敷町の中にある、ほどよい広さの大名庭園です。

いくつかの美術館に囲まれた一画にあります。

ですから、そうした美術館とあわせゆっくり散歩するのがいいでしょう。

というわけで、以下そんな庭園と池畔を逍遥した一コマを写真と拙文をくわえてお届けします。

紀州徳川、佐賀鍋島が遺した渋谷松濤の贅沢地の今昔にふれる

井の頭線でひとつめの神泉駅から向かうのがいいでしよう。

このあたりはかつて神泉谷といわれるような谷地形のところでした。それはトンネルが証明しています。

駅舎が谷底に位置しているため、この僅かな間だけ電車が地上に出るわけです。

駅を出たら右手の坂道をゆき、細い横道に入らず道なりに進みましょう。そうすれば迷うようなところはありません。
ところどころ「松濤美術館」への道案内ステッカ-が電柱に貼ってありますから、それを目印に歩いてゆきましょう。

広い通りに出たら信号をわたり右折し、最初の通りをさらに右折、まっすぐな坂を下ります。
下るとすぐ右側に「松濤美術館」があります。

大名屋敷から佐賀鍋島、そして松濤へ

この一帯は江戸時代に中渋谷村といい、小字名として大山、大向、神山などがありました。
のちに松濤になったのが大山で、ここには紀州徳川家の※江戸屋敷(下屋敷)がありました。地図をみると、まわりにはほかの下屋敷が点在しているのがわかります。

※江戸屋敷   各大名には江戸城から江戸郊外にかけ複数の屋敷地が幕府から与えられました。拝領屋敷で一般的には大名屋敷といわれました。
用途により、また江戸城に近いほうから上屋敷・中屋敷・下屋敷とわかれ、これらを総称し「江戸藩邸」とか「江戸屋敷」と呼んでいました。
すべての大名が上、中、下ともっていたわけでなく、大名の規模によって異なっていました。
紀伊徳川家などは江戸市中、郊外にいくつもの屋敷を構えていました。

絵図
分間江戸大絵図 明和9年(1472) 須原屋茂兵衛 国立国会図書館蔵

江戸幕府が崩壊すると御三家も屋敷地の縮小を余儀なくされ、明治9年(1876)、佐賀の鍋島家に売却することになりました。

買い取った当時の鍋島藩主は息子の11代当主・直大(なおひろ)でした。直大は失業武士の救済目的から、

広大な土地に狭山茶を移植して茶園の経営を開始し、※「松濤園」と命名、茶の銘柄も「松濤」としました。

一時は東京市中に高級茶として愛飲されるほどのブランド力をもっていたといいます。

松濤園のゆかりから、この辺りが俗に「松濤」と呼ばれるようになりました。ただし、松濤の町名が正式に成立したのは昭和3年(1928)のことでした。

※松濤   松の梢を渡る風の音が、あたかも海岸に打ち寄せる海の濤(なみ)のように聞こえることから、その風や音のことを「松濤」と言いました。この風流にちなんで茶の湯の釜が煮えたぎる音色を、この松風と潮騒に例えたものといいます。

古写真 松濤茶畑

明治22年(1889)に東海道線が開通すると静岡茶や地方の茶産地からの製品がどっと流入し、松濤園の茶業は一気に振るわなくなりました。

そこでこれまでの茶園を廃止し、農場経営に方針転換しました。

古地図 

明治37年(1904)には、広大な土地が鍋島家が経営する「鍋島農場」(果樹園・牧場)と、農務省が運営する種畜牧場・渋谷支所に分割されました。

そこに大正12年(1923)の関東大震災。これを契機として鍋島家は農場を一般住宅地として分譲しはじめました。

またたく間に広大な農場跡地は大邸宅が並ぶところとなり、華族や事業家、政府の要職にある人たちなど、富裕層を中心に、ひと区画が大きな邸宅街へと発展してゆきました。
高級住宅地と呼ばれるようになったのはこのときからでした。

大正13年(1924)、鍋島家は涌水池の一角を児童遊園として開放し、さらに昭和7年(1932)10月、これを東京市に寄贈しました。

昭和9年(1934)4月からは渋谷区に移譲され、やがて今日の鍋島松濤公園となりました。

松濤には閑静な街並みに程よく異色な美術館が点在しています!

鍋島松濤公園のまわりには松濤の顔ともなっている「渋谷松濤美術館」をはじめ個性的な美術館があります。
それらを少しご案内しましょう。
庭園めぐりのあとさきに美術鑑賞を組み込むのも松濤ならではのセンスです。

渋谷区立松濤美術館

開館は昭和56年10月。※白井晟一( しらい せいいち)設計。絵画、彫刻、工芸など広い分野にわたる特別展のほか公募展や区内の小中学生による絵画展なども開催しています。また講演会、美術映画鑑賞や専門家による美術相談も行なったりしています。建物もさりながら内容も異色の美術館です。

松濤美術館

レンガのような恵那錆石の石造り、窓がない。これだけでも強烈な個性です。
神殿造りか欧州のシャトー風の建築。建物そのものが美術的といわれるゆえんです。

見る者を圧倒し目を凝縮させる重厚な石造り。
見る眼を研ぎ澄まさせる設計者の心仕掛けなのかもしれません。

一歩中に入ると空間が開放的に一転します。
吹き抜けと池が設けられ、晴れた日には青空を映します。
日常を忘れ非日常に癒され、訪れる人をさらに楽しませてくれます。

白井晟一  明治38年(1905)~昭和58年(1983)

哲人、詩人、異端、鬼才、天才、個性といった言葉が羅列される建築家です。

建築を特徴付けているのは、異端とも思わせるその象徴的な形態。それに投影する独特の光、詩人の感性の投射でもありましようか。

コンクリート造りの内部空間はしばしば「洞窟的」と称され、独特の光の処理がほどこされています。
その極めつけが都内の飯倉交差点の角にある「ノアビル」でしょうか。楕円形の平面をした、窓が極端に少ない摩訶不思議な造形美を放っています。

ほかに、高村光太郎賞を受けた「浅草善照寺本堂」と群馬県安中市の「旧松井田町役場」、静岡市の「芹沢銈介美術館」(石水館)などを目にしていますが、
いまにして建築自体のどこがどうすごいのか、素人のワタシには読み込めないでいます。が、いつも思惟させられる建築物だと思わせられるのは確かなことです。

白井晟一の遺した未完の建築が「原爆堂」といわれています。
https://genbakudo-project.com/

また、自著も含む多数の装幀デザインを手掛けているのも一個人の個性といえるでしよう。
有名なのは新書「中公新書」や文庫「中公文庫」のカバーを外した時に現れる鳥の描かれた装丁。今日もそのままに使用されています。

白井晟一 本

渋谷区立松濤美術館
有料(展示会の内容により異なる)、【企画展】10:00~18:00(月~木曜日)、10:00~19:00(金曜日)/【公募展】9:00~17:00、定休日:展示会により異なる。年末年始。
03-3465-9421

公式サイトURL:http://www.shoto-museum.jp/

ギャラリーTOM   

昭和59年(1984)、「 視覚障害者のための手で見るギャラリー」として村山亜土・治江夫妻にって開かれた私立の小さな美術館です。

視覚障害者も健常者と同等に体験できるような、先駆的で実験的な方向で運営されています。

ギャラリーTOM

視覚障害者だった夫妻の長男・錬の「 ぼくたち盲人もロダンを見る権利がある」という言葉から、

盲人(視覚障害者)が彫刻に触って鑑賞できる現場として創設されました。

「TOUCH ME ART(触れられるアート)」がコンセプトになっています。

TOMの名称は亜土の父、※村山知義のサインからといわれます。

※村山知義   大正時代より新興美術運動の旗手として活躍し、さらには小説、劇作、演出、映画制作など、あらゆる表現分野に携わりました。
日本の新劇史には必ず登場するひとりです。

妻・籌子(かずこ)さんの童話に添えた挿絵や、子どものための絵雑誌に寄せた童画なども高く評価されています。

建物の設計※内藤廣氏。
鉄筋コンクリート作りで、上部に特徴的な鉄骨の梁を斜めに掛け渡し、斬新で刺激的な空間構造になっています。
ぜひ、そのあたりは入館して体感してみてくださいる。

※内藤 廣    「海の博物館」(日本建築学会賞、第18回吉田五十八賞、芸術選奨新人賞美術部門などを受賞)、「牧野富太郎記念館」(村野藤吾賞)などがあります。

ギャラリーTOM
有料(大人・600円/ 視聴覚障害者・300円/ 中学生・200円 /小学生200円)、10:30~18:00、日・月、展示入替期間・年末年始、03-3467-8102

戸栗美術館  

実業家・※戸栗亨(とぐり・とおる)氏が長年にわたり蒐集してきたコレクションを展示しています。昭和62年( 1987)、陶磁器専門美術館として開館。東洋陶磁器を中心としていますが、伊万里・鍋島・肥前磁器なども豊富に展示されていいます。

テーマに沿った展示会では陶磁器の数々をあますことなく鑑賞できるのが魅力で、
熱烈なファンの多い美術館となっています。
ちなみに美術館の敷地はかつての鍋島家本邸があったところです。

ひろい話し
創設者の戸栗亨は大正15年(1926)寅年生まれでした。
それにちなみ虎が描かれた焼物が大好きでした。美術館のシンボルマークに選んだのの古伊万里の「染付 竹虎文 捻花皿」でした。

ロゴマークは長崎平和祈念像などの彫刻家・北村西望(1884~1987)の制作されたもの。
チケットにそれが反映されています。

このエリアにはほかに観世能楽堂がありました。

現在ここは閉鎖され、銀座松坂屋の新築ビル内にオ-プンしています。
相当な広さを有していますが、その後の跡地は何に使われるのでしょう。

湧水もある鍋島松濤公園の池

一帯は江戸時代、紀州徳川家の下屋敷( 29400坪)で、公園はその庭園部分。

左手の緑が公園

明治9年( 1876)鍋島家( 侯爵)が払い下げを受け、狭山茶を移植し「 松濤園」という茶園を開きました。

公園の一帯は谷間のようになっています。窪地です。湧水がたまる条件があったわけです。

池の畔は大名庭園時代の名残りでしよう、回遊式庭園の面影が感じられます。

池には玉川上水路の分水(※)三田用水が流れ込んでいました。

湧き水は用水と合わされて池から豊富な水流を宇田川へ注いでいました。
そこにさらに神泉谷方面からの流れがくわり、豊富な水は水車の動力源になりました。

池に水車が復元されていますが、池で水車が廻っていたわけではなく、設けられていたのは宇田川でした。

※三田用水   渋谷区笹塚あたりで玉川上水から分水され、代々木、中渋谷、上目黒、中目黒、下目黒、三田、白金を経由し、高輪で大崎
方面と芝方面へ分水されていたといわれます。
開削されたのは、寛文4年(1664)、玉川上水が通水してから11年後のことでした。
恵比寿にあったエビスビール工場の用水として使用されていたことはよく知られています。

木立の中に石燈籠があります。中台(ちゅうだい)の部分に細工のいい十二支の彫刻があるものですが、いつころのものでしょうか。不明です。

有名人や有力財界人らが住む超豪邸街

松濤といえば、古くから、往年の大女優・山本富士子・故山本丈晴の夫妻さんが住んでいるところとしてよく知られていました。

松濤といえば、すぐに彼女の名があがるほどでした。

離婚前の森進一・昌子夫妻が住んでたことで話題にあがったりしました。

漫画家・江川達也氏の豪邸もここだといいます。

豪邸価格が23億円!とかで取沙汰された楽天社長・三木谷浩史も松濤の住人。

と、まあいろんな有名人、著名人が住んでいるようですが、詳細を報じるのは御禁制でしょうから、やめておきましよう。

時間に余裕があったら、そんな松濤の豪邸街を想像力ゆたかに、野次馬根性でひとなめしてみるのもいいでしょう。

ともかくこのあたりは、桁はずれの一等地です。

でも、通りがかりにあって、勝手に目に入るのは、いいとしましょう…。か。

隣接する神山町には麻生太郎氏の超豪邸があります。

そのご近所にはデヴィ夫人の邸があり、もっと足をのばせば総理大臣・安倍晋三氏の住宅(マンション)もあったりします。

でもまあ、それはさておき、ブラブラと渋谷駅に向かうのがいいでしょう。

松濤中学校の塀は街角ギャラリ-です。

レストラン・シェ松尾の庭
レストラン・シェ松尾入口

松濤中学校、レストラン・シェ松尾、戸栗美術館などを横目に過ぎて、観世能楽堂跡のところの二岐を右へ。

都知事公邸、大山稲荷社を左にみてゆくと「Bunkamura」があり、東急百貨店本店の前に出ます。

東急本店前から「文化村通り」を渋谷駅方面に歩いて行けばおのずと駅前に出ることができます。

というようなことで、このあたりで〆としましょう。

それではまた!

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