今日の散歩は大伝馬・小伝馬町の界隈(中央区)・牢屋と町屋が背中合わせ!
ご存じ日本橋三越。その店舗前の大通りは江戸随一の商業街でしたが、それに匹敵するところが大伝馬町でした。
江戸の一大商店街のひとつでしたが、この街ならではの特色がありました。通りの両側に木綿を商う棚店がズラリと並んでいたことです。俗に「木綿店」とも呼ばれていました。
そんな繁華な街と背中合わせに罪人を留置、隔離するの牢屋がありました。江戸伝馬町牢屋敷です。
光りと影のある特異のエリアでした。きょうはそんな大伝馬町・小伝馬町のあたりをを歩いてみることにしました。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届します。
大伝馬・小伝馬町の界隈・牢屋と町屋が背中合わせ!と言った中に蔦屋重三郎(蔦重)の出版社・耕書堂があったり!
最寄駅は地下鉄・日比谷線「小伝馬町」駅、3~4番の改札口がいいでしょう。
階段を上って外に出ると目の前に石碑があります。これから向かう小伝馬町牢屋の史跡案内です。左右に広い「江戸通り」が走っています。
すぐ右手が江戸通りと人形町通りが交叉する有名な小伝馬町交差点です。
江戸通り(国道6号線)大伝馬町の通りというのは、江戸城の常盤御門から本町を通り、大伝馬1丁目、2丁目を経て、通旅篭町、通油町、通塩町、横山町、浅草御門へと続いていた、かつての奥州街道(日光街道・水戸街道)でした。
明治15年(1882)には、浅草~蔵前~大伝馬町~本町~日本橋~銀座~ 新橋の鉄道馬車が走り、主要道路の立場にありましたが、明治37年(1904)、江戸通りを市電が走るようになり、主要通りは江戸通りに移ることになりました。国道6号線です。
よって、それ以降、大伝馬町の通りは裏通りとなってしまいました。
「日本橋通りの本町の角からと、石町から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今は電車線路のあるもとの石町通りが街の本線になっているが、以前は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰町、小伝馬町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処には、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。」
(長谷川時雨『旧聞日本橋』から)
江戸通りを渡り、まずは近くにある小伝馬町の牢屋敷がおかれたところに行ってみましょう。
渡ってそのまま行くと左手に中央区立十思公園(じっしこうえん)というのがあります。
お寺があったり鐘撞堂があったりする、この公園を中心とする一帯が牢獄跡ということになっています。
ざっと牢屋敷跡を歩いてみましょう。
その前に「伝馬」とは、何なのかについてちょっとふれておきましょう。
伝馬 五街道の整備とあわせ制度化されたものでした。各宿場で一定の人足と馬をそろえ、それによって次の宿まで物資や書状を運ぶという仕組みをいいます。「宿継」ともいわれた運搬の制度です。大伝馬町に対し扱う馬の用意が少なかったことから小伝馬町、という名になった、という説と、大伝馬町が街道での宿継を行うのに対して、小伝馬町は江戸府内での御用を務めたことによるものという説もあります。
小伝馬町
小伝馬町とは名主・宮辺又四郎が伝馬役を司ったことに由来するものといいます。はじめは千代田村(常盤橋あたり)にありましたが、慶長11年(1606)江戸城の拡張にともない、住人たちを率いてここに移転してきて、小伝馬の町屋が成立しました。
江戸・小伝馬町といえば江戸幕府が牢屋敷を設けた所として知れ渡っていましたが、庶民の住む下町でもありました。旅人相手の安旅籠が多く集まっていたところとしても知られてました。そばを日光街道(奥州街道)が通っていせいでしょう。また大伝馬町つながりで繊維問屋も多く、金物問屋も多かったといいます。大伝馬町の裏通りの町でした。
小伝馬町牢屋敷とその跡
時代劇などにもよく出てきますが、罪を犯し「伝馬町送り」といった沙汰が下され罪人はここに収監されました。
家康入城当時は江戸城内の常盤橋にあったのですが、慶長年間(1596~1615)この地に移されたといいます。
周りを土手と土塀と濠で厳重に囲み、南に正門を設け、西に牢役人の石出帯刀(いしで・たてわき)の役宅がおかました。
牢内は身分によって大別されていました。
旗本の士は揚座敷(あがりざしき)、幕臣、士分、僧侶は揚屋(あがりや)、平民は大牢・二間牢、百姓は百姓牢、婦人は女牢と決められていました。
今日でいう未決囚の収容所で、一時的に留置するための監獄でした。
元治元年(1864)の大火で焼失するまで、江戸の処刑場・留置所の機能を果たしてきましたが、明治8年(1875)市ヶ谷監獄が出来たことによって機能はそちらに移されました。
数10万人が投獄され、1万人以上が刑死したと伝えられています。
廃止後は、しばらく荒廃したままだった。のちに公園も造られたが、場所が場所だけに庶民も不浄地として寄り付かなかったといいます。
そこでできたのが大安楽寺でした。
「それは小伝馬町に面した大牢の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰ったのだ。
「丁度首斬り場のあたりだったというところの柳の木が、厠の小窓から見える古帳面屋の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快だからな。」
「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
母は、土一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった怨みを時たまこぼす。」
(長谷川時雨『旧聞日本橋』〔牢屋の原」より)
大安楽寺 境内に「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑があります。
新高野山、真言宗。明治8年(1875)、大倉組(現・大成建設)の創立者大倉喜八郎と、安田銀行(富士銀行の前身)の創立者安田善次郎の二人が費用を出して建立されました。
「大安」の寺名は2人の頭文字を取って付けられたものです。関東大震で被災し、昭和4年1929)再建され今日に及んでいます。二人の財閥によるもので稀なる寺院といえるでしょう。昭和29年(1954)都史跡指定になりました。
〇延命地蔵尊 吉田松陰はじめ、ここで命を果てた多くの刑死者の慰霊のため、伝馬町牢屋及び処刑場跡を供養するために建立されたものといわれます。この一画が「処刑場」の跡といわれます。
〇江戸伝馬町処刑場跡 ここの一角が牢内での処刑場となっていました。
「吉田松陰先生終焉の地」碑 下田で米国艦に便乗しようとして失敗しここに留置され、のち謹慎が解かれ故郷の萩へ帰郷。その後、安政の大獄に連座し再びこの牢獄に繋がれ、ここで処刑されました。
「身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」
の松蔭直筆の辞世の句碑が並んであります。
ともに処刑された同志に橋本左内、頼三樹三郎がおります。
石町の鐘・江戸の鐘 コンクリート製の鐘楼に「銅鐘・石町時の鐘」(都指定文化財)が納っています。この一帯に時を知らせていた鐘であり、江戸の旅人はこの鐘の音で旅立ったといいます。
日本橋の石町(こくちょう)にあったので「石町の鐘」(こくちょうのかね)と称されていました。宝永8年(1711年)改鋳されていますから江戸初期に造られたものでしょう。
日本橋室町4丁目付近から、昭和5年(1930)に現在の場所に移されました。「時の鐘通り」を室町方面に向かうと旧地の角に出ます。
牢屋での処刑はこの鐘を合図に執行されたのですが、わざと時を伸ばして撞かれたので「情けの鐘」と愛称されたといいます。
辻源七という人が代々撞いたので「辻の鐘」とも呼ばれたようです。
江戸の「時の鐘」は、ここを初めとして、市街地の拡大にともない浅草、本所、上野、芝、市谷、目白、赤坂、四谷などにも設けられるようになりました。
明治になると牢屋跡の空地にもう一寺が建立されました。
身延東京別院 日蓮宗の寺院でした。明治16年(1883)、山梨県身延山久遠寺からご本尊を迎え開基されたものといいます。
大正12年(1923)の関東大震災では焼失を免れています。(昭和47年に都指定有形文化財に指定)
本尊には明応6年(1497)の墨書銘があり、仏師は山城発教定蓮という人。造立と製作経緯が明確なもので、室町後期の日蓮聖人坐像といわれています。
〇油かけ大黒天神 俳優・長谷川一夫の、しげ夫人が霊夢に油かけ天神の出現をみたことで、夫妻が施主となって天神を祀ったものといいます。
十思スクエア 平成3年(1991)に廃校となった旧十思小学校を活用した区の文化施設。(東京都歴史的建造物)。表現主義の建築様式で、入口のカーブが美しい。アーチ窓、半円形の柱などにモダンさがうかがえる。
明治10年(1877)開校の十思小の名は、中国の史書『資治通鑑』(しじつがん)の中の「十思の疏(そ)」に由来するものという。なんだか難しそうです。でも。明治の子供たちには通じたのでしょうか。
小伝馬町牢屋敷展示館
十思スクエアに隣接する「十思スクエア別館」内の一階にある。二階にある 十思湯は銭湯でサウナも完備されている。
小伝馬町牢屋敷模型は精巧にて゜きている。取り調べをする穿鑿(せんさく)所や拷問蔵もあり、模型にもそれらの場所が明記されています。
発掘された石垣が出土したそのままの状態で移築復元されています。
高野長英と脱獄
牢屋ではよく脱獄がありました。
中で高野長英の脱獄は歴史的にも有名なものでした。
高橋長英は自著「夢物語」で幕政批判をしました。
そのことから幕府に睨まれ、天保10年(1839)の「蛮社の獄」により、指名手配されました。
自首したため死罪は免れましたが、伝馬町牢屋敷に収監され永牢(終身刑)を言いわたされました。
しかし、一生牢獄にじっしていることは耐えきれず、弘化元年(1844)6月30日、牢屋敷の火災に乗じ脱獄(諸説ありますが、長英が牢で働いていた下男をそそのかして放火した説が有力みたい)。
以後、逃亡生活。
たまらなくスリリングで面白い!考証に秀でた吉村昭の力作!
顔を硝酸で焼いて人相をかえ伝手をたよって各地を転々としました。
しかし、それも詰り果てた長英は、江戸に舞い戻って青山百人町の借家で、名を「沢三伯」とかえ町医者を開きました。
だが、そこは安住の地とはならず、とどめの地となってしまいました。
密告により、嘉永3年(1850)10月30日、捕り手に踏み込まれ、
追い詰められた長英は自刃に至りました。
高野長英終焉の地などに関しては「きょうの散歩は南青山の界隈を歩きます(港区)・「青山百人町」、与力・同心傘はり屋敷!」で案内しております。
大伝馬町
小伝馬町と同様、名主・馬込勘解由(まごめかげゆ)が伝馬役を請け負っていたことに由来しています。「木綿店」といわれる木綿を扱う問屋が軒を並べていたのが特徴でした。
馬込勘解由が伊勢から木綿商人を連れてきたことが起こりといわれています。かつての奥州街道(日光街道・水戸街道)筋にあたります。
馬込勘解由屋敷跡 この一帯が馬込屋敷でした。大伝馬役の馬込氏は代々「勘解由」の通称名を名乗り、名主役を兼務し苗字帯刀を許されていました。
はじめは江戸城近くの宝田村(八重洲呉服橋一帯)に屋敷を与えられましたが、慶長11年(1606)江戸城k拡張にともない住人たちを率いてここに移転し、大伝馬町が成立しました。
日本橋七福神の恵比寿神で、有名な「べったら市」がおこなわれる神社で、商売繁盛を願う季節の行事となっています。
宝田恵比寿神社 創建年代は不詳で、徳川家康の江戸入府以前からあった宝田村の鎮守でした。
江戸城拡張によ馬込勘解由の邸宅内に移されました。
御神体の恵比寿神は運慶作と伝えられ、徳川家康から下賜されたものと伝えられています。
大伝馬町木綿店 尾張、三河、伊勢といったところの商人たちが、寛永年間(1624~1645)、特産品の木綿を扱う問屋を成立させました。
江戸有数の木綿問屋街、俗に「木綿店」となり、宝永2年(1705)には55軒の問屋があったといわれます。
現在の日本橋大伝馬町1~3丁目がそれに相当しています。
〇小津史料館 3階に開設されています。和紙と小津の歴史の関わりや諸道具、有形文化財登録を受けた古文書など約1千点の史料を順次展示公開しています。
無料、10:00~18:00、日曜日・年末年始定休、03-3662-1184
小津和紙店 江戸時代からの老舗。承応2年(1653)創業の和紙専門店です。日本各地の手漉き和紙、産地銘柄の和紙、和紙関連の小物などを取り扱っています。和紙のギャラリーでは 書道や絵画、ちぎり絵など様々な展示を開催しています。手漉き和紙の体験や紙漉きの実演も行われていますので。
小津和紙店の裏あたりに有名な井戸跡があります。
於竹大日如来井戸跡 大伝馬町の商家・佐久間家(馬込家とも)の下女お竹は、日頃より慈悲心が深かった。ある日通りがかった羽黒の行者から大日如来の化身であると告げられました。この噂が江戸市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたといいます。お竹が愛用した井戸の跡には石碑が建てられています。
昭和通りをはさみ日本橋側は本町通り。小津和紙店のところから大伝馬町の通りとなります。合せると「大伝馬本町通り」となります。
大伝馬町の通りは、さきにも言いましたように「木綿店」といわれましたが、木綿問屋が軒を並べていたかつての歴史の面影はどこにもありません。木綿店の余波を今日にみるとするならば、ずっと先の横山町の繊維問屋街といえるでしょう。
ですが、ここにきて、コロナの影響で長年の問屋商売をたたむところが多いと聞きました。
道標 日光街道の道標。昭和58年(1983)の建立で碑面には「旧日光街道本通り」とあります。旧地より大伝馬町壱番地ビルの交差点の付近に移動されています。
大伝馬町の通りを行くと刷毛・プラシの専門問屋さんのビルが目を引きます。ちょっとお邪魔してみましょう。
江戸屋 享保3年(1718年)創業という、刷毛・刷子(ブラシ)の製造・販売の老舗です。さまざまな種類のものがびっしりと並んでいます。中にはどんなところに使うのだろうと、頭をひねってしまうものもありますが、尋ねるとちゃんと答えが返ってきます。
江戸時代、大伝馬町の広い一画を大丸の江戸店が占めていました。
大丸江戸店跡 享保2年(1717)、下村正右衛門が京都伏見に大文字屋・呉服店を開き、寛保3年(1743)に江戸店を開きました。大伝馬町の南側の裏通りは大丸があったことから「大丸新道」と呼ばれていたといいます。
同種の問屋が競うなかで、浮世絵にも描かれるほど大丸は異彩を放っていました。
「で、最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。」
(長谷川時雨『旧聞日本橋』から)
本町方面をのぞむ。左の角から、その先の横通りまでの左側区画が大丸江戸店。裏道は「大丸新道」といわれていました。
日本橋通油町、「蔦重」こと蔦屋重三郎の耕書堂ここにあり!江戸の芸術・文芸のキ-ステ-ションでした!
横山町につながる通りで、本来は灯油を売る店があったのに因んだ町名ですが、出版文化のキ-ステ-ションとして知られるようになりました。
通りに面して(※)「地本問屋」(じほんどんや)が軒を並べていました。
※ 地本 江戸で出版された大衆むけの本の総称です。 洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などといったものがありました。中で生まれたベストセラ-が十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)でした。弥次さん喜多さんがくりひろげる滑稽道中記です。
蔦屋重三郎耕書堂跡 天明3年(1783)蔦屋重三郎が書店「耕書堂」を開きました。
北斎、歌麿、写楽といった浮世絵師の作品をプロデュースして大手の出版元となりました。くわえて十返舎一九、曲亭馬琴、山東京伝など多くの有名作家をかかえて、黄表紙や洒落本の版元として、江戸の出版文化をリ-ドしました。
周辺には優秀な浮世絵師や彫師、摺(すり)師などが多く住んでいたといいます。浮世絵は彼等との総合作品でした。
蔦屋重三郎は江戸を代表する北斎、歌麿、写楽の浮世絵で大当たりをとりました。
この先をゆかず、きょうの散歩はスタ-ト地点の「小伝馬町」駅でゴ-ルとしますので、ここでバックしましょう。
途中、ワタシの好きな一冊『旧聞日本橋』の作者・長谷川時雨(はせがわ・しぐれ)の誕生地を横目にしのびながら、ふたたび小伝馬町に向かいたいとおもいます。
ひとまず「大門通り」までもどり、そこから右に「江戸通り」に向かって進み、大通りに出る一本手前の横通りを右に入った右側のビルあたりが長谷川時雨の誕生地に相当するようです。
大伝馬町に作家・長谷川時雨の生誕地をしのぶ!
『旧聞日本橋』は長谷川時雨が「アンポンタン」と渾名された少女時代を回想して記した渾身の一冊です。
吉川英治は弔辞で「明治に一葉あり、昭和に時雨ありと後の文学史は銘記しませう…」と弔っています。
野上弥生子は「鴎外や漱石のような不世出の人」と追悼しています。
昭和3年(1928)、雑誌『女人芸術』を、名作『雪之丞変化』の作者でもある夫・三上於菟吉(みかみ・おときち)の支援で創刊主宰、女性作家の発掘育成を目指し、山川菊枝、岡本かの子、平林たい子、林芙美子らを育てましたが、時雨が過労で急逝、4年で廃刊となってしまいました。
林芙美子の『放浪記』はこの雑誌から世に出たものでした。
「小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門通がある。
そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。
小路には、よく、瓢箪新道とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。」
(長谷川時雨『旧聞日本橋』より)
長谷川時雨生誕地
[明治12年(1879)~昭和16年(1941)]
ハセガワ・シグレはペンネ-ムで、なかなか字面といい響きもいい。日本橋通油町で弁護士の子として生まれました。大正期に『美人伝』を発刊し文壇にデビュ-。日本で初の女性歌舞伎作家として歌舞伎の近代化に貢献しました。
与謝野晶子と明治・大正・昭和の同時代を生きながら、晶子とは正反対の古典的な才媛でした。しかし、時雨と晶子はともに『青鞜』の賛助員であり、『女人藝術』には晶子も参集しているという人生の交差がありました。
彼女の一生はひたすら女性の地位向上に奔走した半生でした。
その中で生まれたのが、女性史の先駆けともいえる『美人伝』『近代美人伝』でした。
時雨の代表作とされる『旧聞日本橋』は名著であり、明治中期の町並みや情景を著した自叙伝となっています。大伝馬町周辺のことが明細に記録されていますので、このあたりを散歩するのには必見の一冊です。
江戸通りに出て、右手北方向に歩き、鞍掛橋(浜町川に架かっていた橋)の信号で大通りを渡り、そのまま直進、150メ-トルほど歩くと右手に公園があり、その一角に稲荷社があります。
隣接する「龍閑児童公園」のところは、かつての神田八丁堀(龍閑川)と南北に流れる浜町堀と直角に合流していたところでした
竹森神社 小伝馬町3丁目の守護神とされてきた。この付近に竹藪が多かったことから竹森神社としたと言われています。その竹を使った職人が多く、竹職人の町ともいわれたようです。「江戸七森」(烏森神社・椙森神社・柳森神社・吾嬬神社・初音森神社・真島稲荷神社・竹森神社)のひとつに数えられています。
神田八丁堀(龍閑川) 与力・同心の組屋敷のあった八丁堀ではなく、下町庶民の町の神田八丁堀ですから、お間違いのないよう。江戸城外濠の竜閑橋から分流され、現在も千代田区と中央区の区界ライン流れていたを龍閑川、俗に「神田八丁堀」が、直線的に東へ向かい、南北方向に伸びる浜町川と鞍掛橋の辺りで合流していました。
鞍掛橋の信号の方にもどり、江戸通りに出る手前の横通りを右に入り、まっすぐ進み、二つ目の信号を右に曲るとすぐ右手にお稲荷さんがあります。+
千代田神社 創建年代は不詳ですが、太田道灌が千代田城の鎮守として祀ったとか、千代田村にあった稲荷社が、慶長年間(1590~1615)に当地へ移されたことから、旧地名を冠して千代田稲荷と称したのではないかという説があります。
道灌に因む千代田稲荷は幾度かの変遷を経て、渋谷の道玄坂近くの円山町に鎮座していますから、後者の説をとってみたいとおもいます。
社殿と町の集会所とが一体になっています。
さて、ここからふたたびスタ-ト地点とした小伝馬町駅までもどり、きょうの散歩をおわることにいたします。駅までものの3分ほどです。
ということで、きょうの散歩はここまでにいたします。
それではまた。
そうそう、きょうの散歩土産を買いたいなら、小伝馬町駅近くの梅花亭がよろしでしょう。
きょうの散歩土産は、コレ!
小伝馬町 梅花亭/梅もなか・亜墨利加饅頭
中央区日本橋小伝馬町12-5 日比谷線千代田線小伝馬町駅下車・徒歩3分
嘉永3年(1850)、この店舗のすぐ近く大伝馬町で創業したといいます。
嘉永6年(1853)日本で初めて和菓子を釜で焼いた「亜墨利加饅頭」を創作し、甘党ファンをつかまえました。
うすくて円形が一般的だった最中の型を柔らかいふっくらとした厚みのある梅型にした「梅もなか」でさらに快進撃。
明治時代に誕生した一枚皮の「どら焼」、「亜墨利加饅頭」に比した「佛蘭西饅頭」など、ユニ-クな和菓子がならんでいます。
べったら市の時だけ販売する梅花堂ならではの「切山椒」と「喜利羊肝」(粟むし羊かん)も評判です。
ぼくの江戸・東京案内 目次
「歩く力」から「歩ける」チカラへを養うために自宅で脚力UP☛