今日の散歩は相撲の街-両国の界隈(墨田区)・旧安田庭園・北斎通り(亀沢、石原町)を歩く!
「両国」といってまず浮かぶのは相撲の「国技館」ですね。
しかし国技館のある両国近辺は「横網町」(よこあみちょう)といいます。似ているのでつい早トチリとちりする人が多いようですが、よく見みると「横綱」ではありません。
こんにち、町域としての両国は駅の南側に広がっています。
JR両国駅で降りて北側。両国国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園などをふくむ横網町と北斎通り沿いを歩いてみましょう。
ということで、以下、そんな散歩コースを写真と拙文でお届けします。
今日の散歩は相撲の街-両国の界隈(墨田区)・旧安田庭園・北斎通り(亀沢、石原町)を歩く!
このあたりのあらまし
横網 江戸期には南本所村の内で、明治5年(1872)までは「南本所横網町」といっていたところ。
横網の由来 両国国技館があるので字形から「よこづな」に間違えられるが、もともとその出所が判っていない横網なのである。
墨田区 昭和22年(1947年)3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。そのときに、新しい区名として「墨田区」と名付けられました。隅田川堤の通称「墨堤」の「墨」と、隅田川からの2字を選んで名付けられたものといいます。
地形 江東デルタ地帯の一部を占める。全域が広大な東京低地に属する平たんな低地。
※デルタ 三角州、三角洲とも。英語: Delta。河川によって運ばれた土砂が河口付近に堆積することにより形成された地形をさす。三角形に近い形で、ギリシア文字のデルタ(Δ)に似ていることから、デルタ、デルタ地帯とも呼ばれます。
古代 一帯は海の底でしたが、東京湾の北に入江がひき、そこに秩父連峰、三国山脈、日光連山などを水源とする河川が運んだ土砂が堆積したことで陸地が生まれ、墨田区の地盤になった。
開発 海面が引いたあとの湿地帯だったこのあたりの開発は、明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけと言われています。
大火により江戸はほぼ全滅。10万人余りの命が奪われ、幕府は向島に焼死者を葬り、回向院を建てました。
幕府は防火対策を中心とした江戸の復興に着手。
万治2年(1659年)、まず隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や堀、火除地を設けました。
こうした復興計画のもと、武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区南部すなわち本所一帯でした。
本所奉行を中心に竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街地として完成、江戸が下町としてこの辺りまで拡大しました。
JR両国駅からスタートしましょう。首都高6号線と平行する道を北へ進みます。
歩いてすぐ目に付くのが国技館の塀側に立つ、俵星玄蕃の道場跡。
宝蔵院流の槍の名手。俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。
上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に道場を寄せた玄蕃はこれを断りました。
屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。
討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。 墨田区
さらに進みます。
両国国技館 二代目新国技館。昭和60年(1985)1月場所より使用されています。江戸j時代の御竹蔵跡で、のちの国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設されています。
国技館入口の向かい、東京水辺ライン両国発着場がある建物の一角に立つ橋跡の説明板。
御蔵橋跡 隅田川に沿って南北に道を通すため、御竹蔵の圦堀に架けられていた橋でした。木材や竹の積み荷などをこの堀を使って引き入れたようです。
このあたり一帯の説明板はみな高札型のもので統一されています。
江戸の町 Site of Okurabashi Bridge
御蔵橋跡
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架かった橋で、この辺りにりました。
堀の突き当りは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷をこの堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。
御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて、「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、ここへ来るとまったく人影もなかった・・・幅一間、長さ五間の橋であった」と書かれています。 墨田川
左下の挿絵は小林清親の作。
歩道沿いに葛飾北斎の浮世絵。北斎誕生地ということで、墨田区も力を入れています。
隅田川を描いた「新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」の浮世絵が解説されています。
梅子 袖笠をかふる間もなく柳橋
みとりの髪もぬるゝ夕たち
壺山楼高喜 竹蔵の堀にも虹の影見えて
はや 両こくの橋かとそおもふ
新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 北斎- 狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚。
白雨(にわか雨)に降られ、傘を持った人々が隅田川の対岸にある新柳橋の上を走っています。
左手奥の橋は御蔵橋。「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」はのち米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。それらの広大な敷地は、両国国技館、江戸東京博物館などがあたります。 …
さきに進んで国技館の北交差点、右角。
花の生涯碑(船橋聖一生誕記念碑) この地にあった生家で7歳までを過ごしました。代表的な作品で幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた「花の生涯」の碑が建てられています。相撲が好きで横綱審議委員会の委員を長く務め、のちに委員長に任じられています。
船橋聖一生誕記念碑 作家船橋聖一明治37年12月25日に、本所横網町2丁目2番地に生まれ、作家、国文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その72年の生涯は権威に屈せず、市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。
代表作の一つ「花の生涯」は井伊大老の生涯を綴った醇乎たる逸品であるが、文学者、文化人として、前人未到の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。 代表作:「木石」「川音」「悉皆屋康吉」「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」等 略歴:東大卒・名大教授・日本文芸協会理事長・国語審議会委員・横綱審議委員長・日本芸術院会員・文化功労者 花の生涯
安田庭園・沿革説明板
沿革
この地は、元禄四年(1701)後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は、宗資が築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどり、隅田川の水引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年東京市に寄付された。
大正12年9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名した。昭和2年に民間篤志家の寄付による和風庭園として初めて一般に公開された。
昭和42年東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年に名園といわれた往時の姿に復元した。
平成8年明治時代の代表的な庭園として東京都の「名勝」に指定された。その後、施設の老朽化が著しくなったので、貴重な文化財庭園を後世に残すため、墨田区では平成17年に「旧安田庭園整備保存管理計画」を策定した。この計画に基づき、貴重な文化財である旧安田庭園を保護し、さらなる活用に努めている。 墨田区沿革説明版
より詳しくはこちらをご覧ください⇒まるごと⇒安田庭園
安田善次郎 富山藩の足軽の家に生まれた安田善次郎。江戸へ奉公に出て、両替商などに勤め、やがて安田銀行(後の富士銀行。みずほフィナンシャルグループ)を設立。北海道で最初の私鉄・釧路鉄道を敷設し、釧路炭田を開発。日本の四大財閥のひとつ、安田財閥を起こしました。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は安田善次郎の寄贈によるもの。鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道を支援したため、鶴見線には安善駅(あんぜんえき)が設けられています。
両国公会堂(旧本所公会堂) 大正15年(1926)、森山松之助により設計で、関東大震災後の復興事業の一環として建てられたもの。建設費はこれまた安田財閥の寄付によるもの。安田財閥の創始者の安田善次郎による数ある慈善事業のうちのひとつです。
名言、「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とも。
両国公会堂跡 緑青のドームが象徴的な両国公会堂でしたが89年の歴史に幕を閉じました。
建物は安田善次郎氏の寄付を受けたもので、旧安田庭園に面し、大正15(1926)年に完成。当時の名称は本所公会堂でした。
鉄筋コンクリート4階建。庭園に面して定員790席のホールを備えていた。大屋根のドーム、左右対称の四角い正面、ホールの形を表した円形の背面を持ち、特徴的な外観をみせていました。
*GHQのクラブ 戦時中は食料配給所にあてられ、戦後は一時、連合国軍総司令部(GHQ)のクラブとして接収されました。昭和16年(1941)に両国公会堂と改称。42年に安田庭園とともに都から区に移管。43年に補修と拡張を行い、音楽コンサート、映画上映、演劇公演、ピアノ発表会などに多々使われてきました。
安田庭園の北には同愛記念病院、安田学園が続いていますが、かつては一帯も安田邸でした。
同愛記念病院 大正12年9月1日の関東大震災の甚大な被害に際し、米国民から義捐金が寄せられました。その深厚な同情と友愛とを永久に記念し、被災民を始め、一般貧困者の救援のため、義捐金の一部を割いて、震災中心地域に救療事業を行う病院を設立することに決し、その結果、大正13年(1924)4月28日に内務大臣の許可を得て、財団法人 同愛記念病院財団(旧財団)が設立されました。(病院沿革史より)
椎の木屋敷跡 平戸新田藩・松浦家上屋敷は記念病院の南側半分辺りに位置していました。「椎の木屋敷」と呼ばれ、屋敷内に大きな椎の木があり、塀から隅田川河岸まではみ出るように茂っていたといいます。鬱蒼とした森のようで、ランドマークになっていたが、どんな風の強い日でも葉っぱが落ちたことが無いというので本所七不思議の1つに数えられていました。
*葛飾北斎が「首尾松の鉤船 椎木の夕蝉」で描いています。狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。
安田学園中学校・高等学校 大正5年安田財閥の安田善次郎が、神田に「東京植民貿易語学校」を開校。同12年安田財閥の持株会社である安田保善社に経営が移され、東京植民貿易語学校内に「東京保善商業学校本科夜間部」として創立。「植貿付属商業夜間部」を吸収。かつては厳格な校則で有名だった。同12年関東大震災で被災。同13年本所区横網20番地(現在地)に移転。同14年「保善工業学校」設立。11月9日を3校の開校記念日とする。(安田学園中学校高等学校・概要より)
安田学園 中高一貫教育の私立中学校・高等学校。 2013年度まで男子校であったが、2014年度より男女共学となりました。
「実業界の有用な人物の育成は社会発展の基礎である」という創立者・安田善次郎の信念を実践すべく、大正12年(1923)に創立された。(安田学園中学校高等学校・概要より)
災害の歴史を忘れないで!震災のメモリアルパーク。建築家・伊東忠太の名建築とともに!
都立横網町公園 昭和5年(1930)9月1日、震災のメモリアルパークとして開かれました。
敷地は、もと陸軍被服廠跡。東京市が跡地を買い受け、大正12年(1923)に横網町公園の造営整備に着手したとき、図らずも関東大震災が発生、東京市の遭難死者は58,000人に上りました。
*陸軍被服廠 大日本帝国陸軍の組織のひとつ。軍服を製造したところ。
東京市は多大な犠牲者の霊を追悼し、惨事の記憶を将来に残そうと、被服廠跡に震災記念堂を建設し、附属施設として東京都復興記念館を建設しました。
ここにその経緯を並べてみましょう。
- 大正11年(1922) 東京市は陸軍被服廠の赤羽移転後の跡地を買収し、公園造成を開始。
- 大正12年(1923) 9月1日 に 関東大震災発生。被服廠跡の大惨事で多数の死焼者が出た。10月19日 府市合同の大追悼式を挙行。
- 大正13年(1924)、9月1日、 東京府市合同の震災殃死者一周年祭並びに法要が執り行われた。
- 昭和5年(1930)9月1日 、 震災記念堂(現慰霊堂)の建物、庭園が完成し横網町公園が開園。
- 昭和6年(1931)8月18日、東京都復興記念館が開館。
- 昭和16年(194)〜昭和20年(1945)、 東京空襲により10万超の死者が出る。
- 昭和26年(1951)、 東京空襲遭難者の仮埋葬遺骨の改葬終了、名称を東京都慰霊堂と改称。
*毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、春秋の慰霊法要が執り行われています。
*設計者 – 伊東忠太・佐野利器 構造規模 – 鉄筋コンクリート造2階。
200坪の講堂。
講堂内には祭壇があり、正面向かって右側に関東大震災死亡者、左側に都内戦災死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
奥にある供養塔(三重塔)は変則五層塔であり、その基部は納骨堂となっている。供養塔の高さは41メートルという。
伊東忠太の大建築につきものの摩訶不思議な動物の彫刻があちらこちらにあります。
外観は日本旧来の神社仏閣様式で、
三重塔は中国やインド風の様式を取り入れ、
講堂内部はキリスト教会で見られるバシリカ様式とし、
内部に列柱を設けて中央の広い身廊と左右の側廊との空間を分けている。
内部の壁や天井にはアラベスク的紋様も採用し、全体として多くの宗教的要素を取り入れた折衷的構成となっています。東京大空襲下でも被害を逃れた名建築。
平成11年(1999)、復興記念館とともに、東京都選定歴史的建造物に指定された。
(『ウィキペディア(Wikipedia)要約』)
震災の戦禍のメモリアルパー・「都立横網町公園」秋の黄葉
東京都慰霊堂 東京都慰霊堂がある横網町公園は、かつて陸軍被服廠(りくぐんひうくしょう)が存在した。だが被服廠は1919年(大正8年)に赤羽に移転し、その後は更地になり、陸軍被服廠跡と呼ばれていた。
大正12年(1923)9月1日の午前11時58分、関東大震災が発生した。
当時、公園予定地として整備されていた当地は周辺の罹災者の避難場所となり、4万人近い群衆が場内に詰めかけた。だが拡大する火災で周辺が取り囲まれた。午後4時ごろ、火災旋風が発生した。群衆が持ち込んだ家財道具が燃え上がり、さらに旋風に巻き上げられ、あるいは窒息するなどして、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。(記念堂資料より)
大正13年(1924)、永田秀次郎東京市長により震災記念事業協会が設けられ、会長に永田市長、顧問に渋沢栄一、後藤新平、阪谷芳郎らがおかれた。こうして昭和5年(1930)9月1日「震災記念堂」として竣成し、東京市に寄付された。
後、第二次世界大戦における死亡者も、昭和23年(1948)から逐次、納骨堂に収められた。遺骨が収められているのは一般都民の殉職者のみである。
昭和26年(1951)9月1日に「東京都慰霊堂」と改称。管理運営は東京都から公益財団法人東京都慰霊協会に移行している。
「関東打震災}を記録した画家・竹下夢二~東京災難画信~
はかなげな美人画で有名な竹下夢二だが、かたや関東大震災(1923年)直後、がれきの山と化した東京の街を歩き、スケッチをし続けた社会派の画家でもあった。
夢二が東京の惨状をおさめた数々の絵は「東京災難画信」と題され、「都新聞」(現・東京新聞)に、夢二の原稿とともに、21回にわたって連載されたといいます。
東京都復興記念館 関東大震災の惨事を長く後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念するためのもので、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料、古今の各地における震火災に関する諸資料、加えて太平洋戦争末期における東京大空襲などの戦災関係資料を保存・展示
東京都慰霊堂の付帯施設として昭和6年に建てられました。
1階には、主として震災被害資料を陳列し
2階には中央を絵画室とし油絵等を陳列してあり、周囲の回廊には、震災復興資料等が展示し、その他東京大空襲による戦災関係資料等を展示してあります。
野外ギャラリー 記念館横の屋外。溶解した車両など大型被災品が展示してあります。
しばらくリニューアル作業中ですので、以前に撮影したものの一部となります。どのような形でオープンされるのでしょう。ここには永遠に残さなくてはならない物語があります!
震災記念屋外ギャラリー(YOKOAMI OPEN GALLERY)
解説板
関東大震災の被害は、死者および行方不明者106000人余、負傷者52000人余、家屋の損害694000戸余にも達した。殊に家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火と熱風により、ありとあらゆる建築物は勿論、多くの市民が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨澹たるものだった。「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去に起きたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸が起こらないことを深く願って建造された。
展示されているものは、ほかに、
丸善ビルの鉄柱溶塊/鉄柱の熔塊/印刷機/天水桶/鳥居の柱/花崗岩/鉄筋コンクリート柱など。
青嵐(永田秀次郎) 句碑・焼けてすぐ芽ぐむちからや棕梠の露
震災時の東京市長。救援救護活動を陣頭指揮し、後の復興事業に心血を注いだ。
青嵐は永田の俳号で東京市の名市長。昭和27年(1952)永田を讃えるために建てられた。
碑の銘文を記しておこう。
震災遭難児童弔魂像
大正12年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5千人が亡くなりました。この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。
その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和6年5月16日に除幕式が行われました。
その後、像部分は、昭和19年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36年年、都は小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一両氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。
幽冥鐘(ゆうめいしょう) 震災慰霊として中国仏教徒より贈られたもので、重さ416貫(111kg)。当時の被災救済運動が世界的なものであったことの一端を物語る証とされている。
幽冥鐘の由来
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため中国仏教徒から贈られたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び及び上海麦根路の玉仏寺でそれぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14年11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。 東京都
京空襲犠牲者追悼平和祈念碑(記憶の場所) 半円形花壇。花の色などで絵を描き、年に何度か描き変えられる。
昭和17年4月18日の初空襲から同20年8月15日の敗戦まで、空襲で亡くなった人々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」がこの碑の中に納められ、〝記憶の場所〟と名付けられている。
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍のたび重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。
こうした東京空襲を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための日を建設しました。
この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄付が寄せられました。
斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。 平成13年3月 東京都
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑 大正12年9月1日地震発生の翌2日ごろから「朝鮮人が暴動を起こし放火している」という流言蜚語が非常な勢いで拡大した。
町々には自警団が組織され、朝鮮人や朝鮮人に見誤られた日本人6000余人が殺された。昭和48年震災50周年を機に、その人々を追悼するために建てられた。
この歴史/永遠に忘れず/在日朝鮮人と固く/手を握り/日朝親善/アジア平和を/打ち立てん
と銘記されている。寛容と精神の心遣いは世界平和の礎でしょう。
碑文を記しておきましょう。
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため、六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会
こちらが正門。
出たところの道路は清澄通り。地下には大江戸線が走っています。
清澄通り 墨田区吾妻橋の浅草通りの交差点から、中央区勝どきに至る延長8kmの都道(一部区道)です。隅田川の東側に沿った南北方向に走る道路で、大半の区間で都営大江戸線が下を走り、両国、白川清澄、門前仲町、月島、勝どきの町を結んでいます。
大江戸線の両国駅のところから、クロスして東に「北斎通り」が通じています。
北斎も歩いた道。「本所七不思議」・おいてけ堀伝説の道!
その北西角が日大一校。校舎の塀に古びた案内板をみかけました。
このあたりは江戸本所南割下水にあたる場所で、画家・葛飾北斎が生まれていることが「北斎通り」の名の由来といいます。下水は東の横十間川とつながっていました。
*北割下水 北割下水(春日通り)もあったが、単に割下水と云う場合は南割下水を指し、北斎通りの名がつくまでは割下水で通用していたそうです。
関東大震災前の北割下水。(東京東信用金庫・店舗壁面写真)
司馬遼太郎は『街道をゆく』(深川散歩)で、このあたりを記しています。
亀沢の由来 荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(現両国小学校)の池に大きな亀が棲んでいたとことから、池を「亀沢ノ池」と呼んでいたことによるとされる。
割下水跡(北斎通り) 亀沢1丁目の江戸東京博物館前交差点から東へ大横川まで、道路の中央にあった人口の掘割。湿地帯から造成された本所は、水捌けが悪いので排水路とし掘られた。万治3年(1660)に完成したといわれる。
割下水というが下水路ではなく、汚くはなかった。川魚・沢蟹・蛙など沢山の生物が棲んでいたらしい。井出よりも蛙の多い割下水という江戸時代の川柳があります。
都立江戸東京博物館 広い面積で大型の展示物が多いのが特徴です。全館を見て回るのは結構大変ですから、見学にはだいぶ時間を要します。
江戸の町、東京の町、ジオラマ、模型セットなどが豊富で、常設展のほか企画展が別にあります。
開館は、月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始の休館日を除く毎日の10:00~18:00(木・金曜日は20:00まで)。有料。03-3626-9974
北斎通り 江戸東京博物館前の清澄通りから横十間川までまっすぐに伸びた両国と錦糸町を結ぶ通り。京葉道路と蔵前橋通りの中間。地下に電柱を埋めたことで歩道も広く景観的にも整備されています。
北斎通りの反対にある公園の通りに大亀(「贔屓」(ひいき)という幻獣)にのる家康の像。
家康銅像 左手に鷹。鷹狩のいでたちであろうが、ずんぐりむっくりはいいとして、表情は一見して噴き出してしまう。天下一品、不細工極まりない!どなたが「よしとする」最終決定を下したのか。
寄贈
この德川家康公の銅像は江戸町火消の伝統を現在に受け継ぐ江戸文化保存伝承団体である当会が、都民文化貢献の一環として、支援団体及び全会員の協力により建立し東京都に寄贈したものである。
平成6年4月吉日 社団法人 江戸消防記念會
家康の銅像を建てるなら、やはり江戸城跡界隈ではないだろうか。
これもいささか長いですが記しておきます。
本所御蔵跡 本所御蔵跡(横綱一丁目遺跡) 墨田区横綱一~二丁目
JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、江戸時代、本所御蔵という幕府の御米蔵がありました。現在の江戸東京博物館、墨田区立両国中学校、日本大学第一中学・高等学校、国技館の一部も御蔵の敷地内に含まれています。享保十九年(1734)、四万四千坪(約14万5000㎡)の広大な敷地に、12棟88戸前の倉庫群が造られ、御米蔵として使われ始めます。安政五年(1858)までには37棟246戸前にもなる増築がなされました。絵図を見ると、蔵の建物の間には隅田川から導かれた舟入の堀が設けられていたことがわかります。本所御蔵は、俗に「御竹蔵」とも呼ばれました。
平成13年、現在のNTTドコモビル建設工事の際、事前に発掘調査が行われました。その結果、御蔵の一部と考えられる掘割や護岸の跡が見つかり、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土しています。また、近代の建物跡と、「陸軍被服廠」と書かれた木製の荷札がまとまって見つかりました。本所御蔵は明治5年に廃止され、跡地には陸軍被服廠(衣料品を取り扱う施設)が置かれましたが、こうした荷札群の出土は珍しく、当時の物資輸送事情を物語る貴重な資料と考えられています。
本所御蔵があった範囲内では、他の地点でも杭柵護岸や、近代の石組護岸や橋脚などが確認されています。両国中学校と横綱町公園の敷地の一部からは、江戸時代の陶磁器などが出土しました。
平成21年3月 墨田区教育委員会
北斎通りを進みましょう。
しばらくすると右側に見える緑町公園のそばに江川太郎左衛門屋敷跡。
江川太郎左衛門終焉地(ジョン万次郎住居地) 伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍の屋敷跡。
屋敷は英龍の祖父の時代よりここにあり、伊豆韮山代官の役所を兼ねたものだった。
江川家は鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄で、江戸幕府の世襲代官。太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称。中でも著名なのが36代の江川英龍(1801~1855)だった。
近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、高島秋帆に弟子入りし西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)などが彼の門下で学んだといいます。
江戸防御のため、阿部正弘の命で江戸湾内に砲台(お台場)を造成し、韮山に反射炉を作り、銃砲製作も行った。造船技術の向上にも力を注いだ。また、日本で初めてパンを焼いた人物ともいわれています。
安政2年(1855年)54歳でこの地で亡くなりました。
*ジョン万次郎 ジョン・マン (John Mung) とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。文政10年(1827)~ 明治31年(1898)。『ジョン萬次郎漂流記』で有名。堪能な英語力で日米和親条約の締結に尽力し、その後は通訳・教師などとして活躍した。
江川は米国から帰国したジョン万次郎を召し抱え、この地で塾を開かせ、英語や航海術を教えた。万次郎は、妻との祝言をここで挙げています。
*「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まったもの。
両国物語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡
南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜこの屋敷の稽だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、民話なので伝わり方によって内容もまちまちで、数も七つと決まっているわけではありません。この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見稿の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。 墨田区
津軽藩上屋敷跡 陸奥弘前藩・津軽土佐守屋敷跡。上屋敷は神田にあったのだが、その10万石の大名の上屋敷が、墨東の地に移転してきたのは謎の1つとされています。藩主・津軽承昭(つがる・つぐあきら)は熊本藩主・細川斉護(ほそかわ・なるもり)の四男。明治元年(1868年)奥羽越列藩同盟が成るとこれに参加するが、後に恭順して同盟を脱退し、箱館に出兵したりした。
本所には過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭屋塩原
と謳われました。そのためか、火災発生時に太鼓を打ち鳴らすことは禁じられていたのだが、津軽屋敷だけは、太鼓を打つことが許されていた。これが「本所七不思議の1つ「津軽太鼓」だ。
緑2丁目、亀沢2丁目に上屋敷、緑3丁目に中屋敷、錦糸1丁目に下屋敷があった。
そんな弘前藩津軽家の江戸屋敷だったが、明治43年(1910)下屋敷(錦糸1丁目)内に祀られてた屋敷神(稲荷)だけを残し上・中・下の屋敷地の総てを民間に払い下げました。
緑町公園 かつて、弘前藩津軽家の大名屋敷。藩主からの依頼で、北斎が屏風に馬の絵を描いたというエピソードが残されています。
絵画と文学
Birthplace of Ukiyo-e artist, HHokusai
葛飾北斎生誕地
宝暦十年(1760)九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。代表作『富嶽三十六景』は、天保二年(1831)から天保四年(1833)にかけて制作。とても70歳を過ぎてからの作品とは思えません。80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二年(1848)、「あと十年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。 基田区
北斎は本所割下水(亀沢付近)の周辺が生まれ故郷といわれます。葛飾北斎の「葛飾」も、出身地「すみだ」が武蔵国葛飾郡の一部であったことから名乗ったといいます。
すみだ北斎美術館 緑町公園内にある。 北斎が約70年におよぶ画業の中で、代表作『冨嶽三十六景』シリーズをはじめ当時の庶民の風俗を描いた『北斎漫画』など、数多く残した作品を紹介するとともに、北斎と「すみだ」との関わりを伝えるさまざまなプログラムが組まれています。
すみだ・葛飾北斎住居跡
確定的なことは分からないのですが、亀沢2丁目の「東あられ本舗」のあたりが誕生地だともいわれています。
また近くの両国4丁目に鎮座する榛稲荷神社(はんのきいなりじんじゃ)の近辺にも住んだことがあり、90年におよぶ生涯のうち90回以上も引越しを繰り返したという北斎ですが、そのほとんどを「すみだ」で過ごしています。
今日の散歩土産はコレだ!
東あられ両国本店 「おかき北斎」は葛飾北斎にちなんで名付けられたもの。明治43年(1910)この地で創業の老舗です。
どれをとっても飽きない味。せんべい、あられの持つ独特な歯ごたえ,噛み心地、その音と響きは一級品です。工房ショップでは揚げおかき「北斎揚げ」を実演販しています。
近くに相撲ゆかりの神社。
野見宿禰神社 相撲の始祖とされる野見宿禰(のみのすくね)を祀る。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会により管理されている。明治27年(1884)東側に部屋があった初代・高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建された。元の社殿は東京大空襲によって焼失したが昭和28年(1953) 6月に再建され、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めています。
○野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(とうまのけはや)の角力(すもう)の図
『日本書紀』垂仁天皇七年七月七日に行なわれた野見宿禰と当麻蹶速が「力くらべ」をした様子を描いた想像図。野見宿禰は蹶速のわき腹を蹴り折り、腰を踏み折り殺してしまいました。この伝説により宿禰を日本相撲の始祖としてまつる神社が多くあります。
相撲の起源として、「野見宿禰」(のみのすくね)と「當麻蹶速」(たいまのけはや)の天覧相撲が日本書紀に書かれています。大和の国當麻の邑に「當麻蹶速」という人物がいました。蹶速は手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から「この世で自分と互角に力比べができるものはいない、もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していました。天皇はその話を聞き、家臣に「當麻蹶速と互角に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲の国に野見宿禰なる人物がいます。この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言しました。天皇は大いに賛成し、垂仁天皇7年7月7日に「野見宿禰」と「當麻蹶速」の対戦が行われました。お互いに足を上げて蹴りあい、長い戦いの末、けはやはこの試合で命を落としてしまいました。この「宿禰」と「蹶速」の力比べが国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれております。(奈良県葛城市hp)
大相撲 Nominosukune Shrine
能見宿禰神社
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治18年に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿神を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、カ士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。境内には、昭和27年に「相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。 ぶらり両国街かど展実行委員会
歴代横綱之碑 昭和27年(1952) 11月に相撲協会により建立されたもの。
もう一基。
境内周囲を囲む玉垣の石柱にも多くの相撲関係者の名が刻まれています。
三遊亭圓朝・河竹黙阿弥・栗本鍬雲。下町に住んだいぶし銀のような男たち。三者三葉の生!
神社の東詰で北斎通りを向かいに渡り、そのまま路地を北進、一つ目の小路を右に曲がると、左手、亀沢児童公園の角に案内板が建てられています。
初代・三遊亭円朝住居跡 落語・人情噺(にんじょうばなし)の名人とうたわれた三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)は明治9年から11年間暮らし、名作の「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などの噺を書き上げました。
三遊亭圓朝住居跡 所在地 墨田区亀沢2丁目13番
三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。本名出沢次郎吉。父は2代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。初舞台は弘化二年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。 その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。圓朝は明治9年10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原太助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」「塩原太助一代記」「文七元結」など多数あります。平成25年3月 墨田区教育委員会
「お笑い」の分野である滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、笑いのない生真面目な、講談に近い分野で独自の世界を築きました。圓朝の噺が三遊派の人情噺というスタイルを決定づけたと言われます。
怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られています。
落語中興の祖として有名で、敬意を込め「大圓朝」という人もいます。
二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を手本にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼし、現代日本語の祖という人もいたりします。
公園のところからそのまま東へ、すぐのT字路を右に行くと、かつて河竹黙阿弥が住んでいました。
幕末から明治にかけて活躍した狂言作者。圓朝とはお隣同士ということになりますね。
河竹黙阿弥終焉の地 所在地 亀沢2丁目11番
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の本名は吉村芳三郎、江戸日本橋の商家に生れるも遊興にふけって勘当され遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以らと交流を深めました。歌舞伎をはじめ狂歌や茶番などにも興じ、20歳で5代目鶴屋南北に入門、勝諺藏を名乗りました。
後に2代目河竹新七を襲名し、嘉永七年(1854)には河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(忍ぶの惣太)」が市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曽我薊色縫(十六夜清心)」「三人吉三廓初買」など現在も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々生き生きと描き出し、360編に及ぶ作品を残しました。明治の新時代にも活躍、明治14年に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。明治20年3月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町三十一番地(現亀沢2丁目11番)に自宅を新築し移転しました。周囲に堀を巡らせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には汐入の池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られていました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で6年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」三代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。
黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で穏やかで物静かであったとされています。自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理友人への挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治26年1月22日に77歳の生涯を閉じました。平成27年1月 墨田区教育委員会
明治の文豪・坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えました。
作家生活五十余年、作品は実に三百五十余編に及び 、「河内山」「弁天小僧」「三人吉三廊初買」等数々の名作を生みました。
天保14年(1843)、水野忠邦による天保の改革で江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、河竹黙阿弥も間もなく芝から浅草の浅草寺の子院である正智院の地内に住まいを移しました。
明治20年(1887)浅草から本所に引っ越してきて、6年後、77歳で亡くなりました。
*辞世 花の咲く春をば待ちしかいもなく 片枝よりして 枯れし老梅
蔵前通りに出て東へ50メートル、石原2丁目交差点迄、区役所通を350メートルほど歩きます。
十字路の東南角にポツンと標柱だけが立つ。この人にして解説板がないというのははどうしたことか!間抜けもいいところ。
栗本鍬雲住居跡 幕臣・栗本鋤雲(くりもと・じょうん)の屋敷(借紅園)跡。
幕末、こんな幕臣もいた。いぶし銀のようでいて、その活躍の幅がすごい!
ざっとかいつまんでみよう。
幕府医官・喜多村槐園の三男として生まれた。母は長谷川宣以(火付盗賊改方の長官、鬼平犯科帳の「鬼平」こと、長谷川平蔵)の姪にあたるという。
嘉永元年(1848)、幕府の医官・栗本氏の家督を継ぎ、奥詰医師となる。
文久2年(1862)士籍に列し幕臣となり、以後、一貫して親仏派のリーダーとして幕末外交史上で活躍しました。
幕末に外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を務め、箱館奉行等に任じられたときは樺太や南千島の探検にも赴いています。北海道の近代化の先駆けを作ったと人とも言えるでしょう。
江戸にもどるや、昌平坂学問所の頭取、ついで目付に登用され、製鉄所御用掛となり横須賀製鉄所の建設に尽力しました。
徳川昭武の一行が慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に訪問したときには、その補佐を命じらフランスに渡っています。この渡仏中、日本人としては初めてアルプスに足を踏み入れたのでした。
日仏関係の修復や、イギリスとの外交交渉にも精力的に務めました。
そうした活躍が新政府から大きく評価され、強い出仕の誘いもあったのですが、幕臣としての忠義を貫き、新政府に仕えることを潔しとせずさっさと隠退したといいます。
維新後はジャーナリストとして文筆を振るい、明治30年(1897年)この屋敷で亡くなりました。享年75歳でした。
ここから蔵前橋通りを東に、石原3丁目迄歩く。三ツ目通りとの交差点だ。
*三ツ目通り 緑3丁目と4丁目の間の通り。明暦の大火後、本所の開発のなかで、碁盤目状の街作りがなされた。その区画に合わせ、竪川に橋が架けられました。順次一之橋、二之橋、三之橋、四之橋、五之橋と命名され、 それぞれの通りは「一之橋の通り」「二之橋の通り」「三之橋の通り」「四之橋の通り」「五之橋の通り」と呼ばれました。
交差点の東北詰めにNTTの建物があり、そこに慰霊碑が建てらています。
墨田電話局の慰霊碑
昭和33年3月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊するもの。時の電話交換手は主に10~20代の若い女性だったが、爆撃下でも重要な通信施設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレストと呼ばれる送受器を握り続けた。
説明版にはこう書かれている。
この慰霊碑は、昭和20年3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び男子職員3名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して、昭和33年3月10日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。昭和59年年3月10日 墨田電話局
吉川英治の碑文は次の通り。
春秋の歩み文化の進展はその早さその恩恵に馴るゝ侭(まま)つい吾人(ごじん)をして過去の尊いものをも忘れしむる こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆(たお)れた主事以下の男職員三名 ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠となした跡である 当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を茲(ここ)に見るの日想いをまた春草の下に垂れて かっての可憐なる女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の悼みを新たにそゝがずにいられない 人々よ 日常機縁の間 ふとここに佇む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな 吉川英治 謹撰
その脇の石碑に、元職員の富沢きみが84歳の時に書いた、
平和の尊さを おろそかにしてはなりません そして 世界の平和こそが 最大 最高の幸につながる事を
との言葉が刻まれています。
昭和20年3月9日夜の空襲で中央電話局墨田分局の殉職した交換手たち31人の慰霊のために、富沢きみが一人奔走して建てたものという。
同じく東南角に松原米吉旧居跡の標柱。亡くなるまでの3年間くらした理髪店があった(本所区長岡町43番地)そうです。あまりなじみはありませんが、石川啄木よりひと世代あとのアララギ派の歌人のひとりです。
松倉米吉旧居跡
ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、3年間くらした理髪店があった場所(本所区長岡町43番地)でした。
米吉は明治28年(1895)、新潟県の糸魚川で生まれました。12歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。
米吉は近くのメッキ工場で働き始めますが、16歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正2年(1913)、工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。
米吉は結核等の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と紡ぎだしていきました。
大正6年(1917)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし始めましたが、大正8年(1919)24歳を目前にして没しました。
平成13年(2001)3月 墨田区教育委員会
*古泉千樫(こいずみ・ちかし) 伊藤左千夫の門人となり、斎藤茂吉、島木赤彦らとともに雑誌「アララギ」の発展に尽くし、日本の近代短歌史に名を刻みました。
『松倉米吉歌集』から
嵐の中の人のさけびに目醒めけり夜ごとに血を喀く時刻の来れる
命かぎるやまひをもちてさびしもよ妹にかそかに添寝をしつつ
菓子入にと求めて置きし瀬戸の壺になかばばかりまで吾が血たまれる
かび臭き夜具にながながこやりけりこのまゝにしていつの日癒えん
救世軍の集りの唱歌も今宵寂しひそひそと降る秋雨の音
極まりて借りたれば金のたふとけれあまりに寂しき涙なるかも
かうかうと真夜を吹きぬく嵐の中血を喀くきざしに心は苦しむ
工場に仕事とぼしも吾が打つ小鎚の音は響きわたりぬ
土ぼこりかすかなるかも電車道すれすれに舞ふ黄色き胡蝶
三ツ目通りを北斎通りまで進みます。
途中、左手にセブンイレブン。幕末このあたりに新徴組(しんちょうぐみ)の組屋敷があった。いまの石原4丁目~亀沢4丁目のうち。かつては三笠
新徴組組屋敷跡 新徴組屯所とも。文久3年(1863年)3月から慶応元年(1865年)6月までの間、飯田町の新徴組屯所と共に新徴組の拠点となった場所。
京都で新選組と分裂した浪士組は、江戸にもどると再組織され庄内藩預かりで新徴組と名乗り、ここにあった小笠原加賀守屋敷と飯田町の田沼玄蕃頭屋敷に分宿した。取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。
さらに北斎通りまで進みます。
三ツ目通りと北斎通りの南西角の一帯。ここにいちじ有名な五百羅漢寺が移されました。
羅漢寺跡 本所五ツ目(江東区大島3丁目)に開かれた羅漢寺の創建は元禄8年(1695)のこと。松雲元慶が開基。五百羅漢像は元慶(1648 ~ 1710)が独力で彫り上げたもの。
特異な構造から「さざゐ堂」とも呼ばれた三匝堂(さんそうどう)は葛飾北斎が代表作『冨嶽三十六景』の中の「五百らかん寺さざゐ堂」で描いているほか、歌川広重、北尾重政などの浮世絵師も題材にするほどのものでした。
しかし安政2年(1855年)の安政大地震で倒壊し、明治以降は衰退していたといいます。
その羅漢寺が明治20年(1887年)に本所緑町(墨田区緑4丁目)に移転。さらに明治41年(1908}に現在ある目黒へと再移転したのでした。
ただし明治 8年(1875)、三匝堂(さざゐ堂)は取り潰され、百観音像とともに売却されたといわれます。
羅漢寺跡の近くに江戸時代、歌沢笹丸が住んでいました。
笹丸旧居跡 江戸時代後期の歌沢節の演奏家。南割下水に住む旗本の長男。端唄(はうた)に傾倒し,隠居後,歌沢の初代家元となり,端唄界の一大勢力となりました。
*歌沢(うたざわ) 端唄から派生した江戸後期の短い歌謡。端唄に品格と渋み、こってりさ等を加えた歌謡芸能として大いに流行した。
十字路の東南角の堅川中学校を東にぐるっと巻くようにして校舎の正門迄ゆきます。
山岡鉄舟旧居跡 天保7年(1836年)御蔵奉行だった旗本・小野朝右兵衛門髙福の五男として生まれました。竪川中学校の正門一帯が小野家の屋敷跡といいます。のち槍術で知られた山岡家の婿となり、山岡鉄舟。幕末の三舟と呼ばれ、江戸城総攻撃に先立ちは西郷隆盛と接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。
山岡鉄舟旧居跡 所在地 亀沢4丁目11番15号 堅川中学校内
江戸末期の幕臣で剣術家。維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めました。山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門辺りにありました。
鉄舟は天保七年(1836)御蔵奉行だった小野朝右衛門高福の五男としてうまれ、鉄太郎と名付けられました。
安政四年(1857)槍術で知られる旗本・高橋静山の妹婿となり、山岡高歩、号は鉄舟を名乗りました。鉄舟の義兄に当たる槍の名手精一郎は、旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号するようになります。勝海舟も含めてこの三人は「幕末の三舟」として知られます。慶応四年(1868)江戸城総攻撃に先立ち、鉄舟は西郷隆盛と接触し、海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。
明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令となり、明治四年より明治天皇の侍従として厚い信頼を受けましたが。同二十一年五十三歳で死去し、台東区の全勝庵に葬られました。
鉄舟は、書家一楽斎としても有名で、区内木母寺にある三遊隊の碑は、鉄舟(表)。泥舟(裏)の筆になります。 平成20年2月 墨田区教育委員会
そのまま南に進みJR総武線のガードをくぐると右手に長倉稲荷。
大正2年(1913)、永倉町で火災があった際、焼け跡から稲荷社の跡が発見されたことから、祟りを鎮めるため創建されたといいます。大正6年に伏見稲荷の分霊を合祀、太平洋戦争後に当地へ遷座・再建したといいます。牛島神社(向島)が兼務してるそうです。
稲荷のさき、二筋目を左に入り、最初の十字路を右に曲がると、「すみだふれいセンター」の前に解説板があります。
勝海舟(麟太郎)は、文政6年(1823)、この近くにあった父・勝小吉の実家・男谷(おたに)の屋敷で誕生しました。
その後、父母らと本所の旗本屋敷を転々とし、天保2年(1831)岡野氏の屋敷に定住し、十代後半までの多感な時代をここで過ごしたと言われています。
勝海舟居住の地 旗本岡野氏屋敷跡 所在地 墨田区緑4丁目35番6番
勝海舟(麟太郎)は文政六年(1823)に両国にあった父権寅の実家男谷氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母と共に本所の旗本屋敷を転々としましたが天保二年(1831)ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、10代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活動の場を広げて行きます。
麟太郎がお世話になった岡野氏は、後北條氏の旧臣板部岡江雪を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替えを経て、同十年ごろ当地に移住していました。家の経営費を捻出するための屋敷替えであったようで、旧知行所に伝わる四両にれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住してきたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫していたのです。このため幕末維新の時代ともなれば家来を抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に搗く金さえなかったという貧しい下級武士の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。平成25年1月 墨田区教育委員会
大河ドラマ「勝海舟」総集編
幕末の英雄・勝海舟を倉本聰が活写!主役が途中で交代したことも話題になった作品!U-NEXT – 無料トライアルで今すぐ観れる!
「鎌倉殿の13人」も観れる!ぞ。
*このまま歩けば勝海舟生誕地・吉良邸跡などのある本所両国エリアへとつなげることができます。国道14号に出て、西に進むと緑1丁目、両国4丁目になります。
*蔵前通り出て、東に90メートルほどで、「大横川親水公園に架かる長崎橋。渡れば錦糸町エリアへつながります。
ここからUターンして最寄り駅に行くには少し歩きます。
蔵前通りにもどり、東に行けば錦糸町駅(葯800M)、西に向かえば大江戸線両国駅(葯800M)。距離的にはどちらもどちらですね。JR両国駅にはプラス500メートル。
と、いうことでご理解いただくことにして、ここで〆にします。
それでは、また。
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