開業間もない鉄道に乗った英国女性イザベラ・バード!その乗車体験を語る!
10月14日は「鉄道の日」です。
明治5年(1872)のこの日、日本初の鉄道が開通しました。
新橋~横浜間を結ぶ1号機関車がシュッシュポッポと走りました。
これを記念し「鉄道の日」と定められています。
すべてのぽっぽやさんにありがとう!今年は鉄道開業から150周年!
世界で初めて鉄道が開業したのはイギリスで、日本の鉄道開業からおおよそ半世紀前の文政8年(1825)のことでした。
それから時経て、ようやくなった日本の鉄道開業から6年後の明治11年(1878)、明治維新からわずか10年後のこと。英国から一人の淑女が横浜の港に降り立ちました。旅行家のイザベラ・バードです。
来日したのは、旅を通して日本の現状を記録し、旅行記としてまとめるのが目的でした。
バードは東京にあった英国公使館に向かうため、誕生してまだホヤホヤの鉄道に乗りました。そのときのことが、彼女の著した旅行記『日本奥地紀行』に語られています。まるで鉄道案内、試乗体験記のようなつぶさな書きぶりです。
鉄道の歴史、その曙と1号機関車の車両内部の詳細を知る格好のテキストです!
『日本奥地紀行』の細かいことは置くとして、鉄道移動のところだけ抜粋してみましょう。
では、さっそく開いてみます!まず、こう書き出しています。
東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。すばらしい鉄道で、砂利をよく敷きつめた複線となっている。
(『日本奥地紀行』高梨健吉訳/平凡社刊~以下同じ)
あまり知られてないことですが、はじめから複線だったんですね。
次の一言には英国人としての面目躍如たるものを感じます。
この鉄道は、英国人技師たちの建設になるもので、一八七二年(明治五年)の開通式には、ミカドが臨幸された。
自国の鉄道。イザベラ・バードの思いはどんなだったでしょう。
彼女が言うように初期の鉄道事業はイギリス人技師たちに依るところが大半でした。
彼らによって 1,067 mm という「狭軌」で建設され、それは今日も全国の JR(新幹線を除く)にそのまま生かされています。
そして、こうも記しています。
工事にどれほどの費用がかかったのか、政府だけしか知っていない。
なにしろ鉄道事業は国家事業でした。
いまの桜木町駅に建てられた「横浜駅」や構内についても触れています。
横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売場は英国式である。
等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨氈を敷いていない。そこには日刊新聞を備えてある。
どちらの終着駅にも、広くて天井がつき石を敷きつめたプラットホームがあって、回り木戸をつけた関所を設けてある。ここは、特典のある者でない限り、切符がない者はだれも通れない。
「回り木戸をつけた関所」とは「改札口」ですね。「改札の中と外」が今日のように管理されていたことがわかりますね。
切符切り《これは中国人》、車掌と機関手《これは英国人》、その他の駅員は、洋服を着た日本人である。
職場における主要業務はみな外国人。日本人は見習いといったところだったのでしょうか。
停車場の外には、辻馬車ではなく人力車(クルマ)が待っている。これは人間ばかりではなくて、手荷物も運ぶ。手に持つ荷物だけが無料である。その他の荷物は、目方をはかり、番号をつけ、料金を請求される。持ち主は番号札をもらって、目的地についたら呈示すればよい。
料金は、三等が一分《約一シリング》、二等が六十銭《約二シリング四ペンス》、一等が一円《約三シリング八ペンス》。乗客が旅行を終わって改札口を出るときに、切符が回収される。
当時から改札口では切符を回収していたことが窺えますね。
さて、次は車両内部を描写しています。
英国製の車両は、英国にあるものとはちがっていて、左右の両側に沿って座席があり、両端にドアがあってプラットホームに対して開くようになっている。全体的にいえば、仕組みは英国式というよりもむしろヨーロッパ大陸式である。
一等車は、深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えたぜいたくなものだが、ほとんど乗客はいない。二等車の居心地のよい座席も、りっぱなマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし三等車は日本人で混雑している。彼らは、人力車(クルマ)と同じように鉄道も好きになったのである。
今の JR は二等級制ですが、昔は三等級制だったんですね。
明治の風景が蘇るイザベラ・バードの横浜~新橋、プチ旅行感想記!
ここからは、関東平野を眺めながらの旅行記です。見てみましょう。
うららかな日で、英国の六月に似ていたが、少し暑かった。日本の春の誇りであるサクラ《野生のチェリー》やその同類は花を終わったが、すべてが新緑で、豊かに生長する美しさにあふれていた。
横浜のすぐ近辺の景色は美しい。切り立った森の岡があり、眺めのよい小さな谷間がある。しかし神奈川を過ぎると、広大な江戸平野(関東平野)に入る。これは北から南まで九〇マイルあるといわれる。
汽車から見渡す限り、寸尺の土地も鍬を用いて熱心に耕されている。その大部分は米作のため灌漑されており、水流も豊富である。
いたるところに村が散在し、灰色の草屋根におおわれた灰色の木造の家屋や、ふしぎな曲線を描いた屋根のある灰色の寺が姿を見せている。そのすべてが家庭的で、生活に適しており、美しい。勤勉な国民の国土である。雑草は一本も見えない。
「勤勉な国民の国土である」と褒め讃えられてますが、この一文は日本人として、誇りに思わないといけませんね。今はどうでしょう。
切符は東京行きではなく、品川か新橋まで買う。
品川に着くまでは、江戸はほとんど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建築物も、めったに高いことはない。寺院は深い木立ちの中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は、二〇フィートの高さに達することは稀である。
「煙突」は工業化のシンボルですが<それがない!銭湯の「煙突」はどうだったでしょう。
右手には青い海があり、台場を築いた島がある。大きな築山に囲まれた林の庭園もある。
左手には広い街道があり、人力車(クルマ)の往来がはげしい。
ここは品川~田町~浜松町あたりの描写でしょう。右手には砂浜と遠浅の海。「江戸名所図会」の干狩りはこのあたり。品川灯台も台場も見えたことでしょう。
「林の庭園」は「浜離宮」で、広い街道は「東海道」のことでしょう。いまの「国道 15 号」。
品川から田町までは築堤(高輪築堤)の上に鉄道が敷かれました。車窓の両側は海でした。さぞかし爽快だったことでしょう。
関連記事:海上の高輪築堤を走った蒸気機関車。乗客の1人だったイザベラ・バ-ド!
やがて機関車は新橋駅に滑り込みます。下車したバードそこで摩訶不思議な響きを耳にします。
合わせて四百の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった。
なかなかユニークな観察で、今じゃ聞けない音ですね。
次いでここから観察眼は人間に注がれます。
この人たちは下駄を履いているから三インチ背丈がのびるのだが、それでも五フィート七インチに達する男性や、五フィート二インチに達する女性は少なかった。
しかし、和服を着ているので、ずっと大きく見える。和服はまた、彼らの容姿の欠陥を隠している。やせて、黄色く、それでいて楽しそうな顔付きである。色彩に乏しく、くっきり目立たせる点もない。
女性はとても小柄で、よちよち歩いている。子どもたちは、かしこまった顔をしていて、堂々たる大人をそのまま小型にしたような姿である。私は、彼らすべてを以前に見たことがあるような気がする。お盆や扇子や茶瓶に描かれている彼らの姿にそっくりだからである。
女性の髪は、すべて額のところから後ろに梳いて、束髪の髷を作っている。男たちは、前髪を剃り、後ろ髪を束ねて奇妙な髷を作り、前方の剃った跡の上にひきよせている場合(ちょんまげ)のほかは、三インチほどののびた粗い髪が、がんこにも左右に分けもせずもじゃもじゃ髪となっている。
長々とイザベラ・バードの人間観察を引用しましたが、つまり、そういう時代だったわけです。
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と囃されたといいますが、「断髪令」が出ていた筈なのにちょんまげ姿がまだあった。というのも、散髪脱刀令は髪型を自由にして構わないという布告で、髷を禁止し散髪を強制する布告ではありませんでした。
*散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい) 明治4年8月9日(1871年9月23日)に明治政府によって出された太政官布告。一般には断髪令(だんぱつれい)といいました。
何百台という人力車(クルマ)や幌馬車が、駅の外で待っていた。馬車は、一頭の哀れな馬が引くもので、東京のある区域では乗合馬車となっている。
それから、私のために一頭立て四輪箱馬車《ブルーム》が、一緒に走る馬丁(ベットー)とともに待っていた。公使館は麹町にあって、そこは歴史的な「江戸城」の内濠の上の高台となっている。
こうして、イザベラ・バードは新橋駅舎から麴町の英国公使館に向かいました。
日本奥地紀行 イザベラ・バードが日本を訪れたのは居留地の時代。明治維新からわずか10年後。西南戦争の翌年。
外国人の旅行範囲は制限されていました。だが名声あるバードは、英国公使館の全面支援を受け、ほぼ自由に内地を通行できる旅行免状を付与されました。
ここでは広域にわたるルートのあらましだけを記してみます。それぞれのエリアの詳細は本文を読むことをお薦めいたします。面白さ請け合いです。
1878年6月10日、バードの旅は英国公使館からスタートしました。
東京、埼玉、栃木、福島、新潟、山形を経由し秋田、青森へ。
バードの旅の最終目的地は北海道のアイヌ集落・平取でしたから、船で津軽海峡を渡り函館へ。
函館を起点とした北海道の旅。
往路は、陸路で大沼から森へ。森から再び船で室蘭に渡り、白老、苫小牧、佐瑠太を経て平取に到着。
帰路は、東室蘭(旧室蘭)に戻り内浦湾(噴火湾)沿いに、伊達、礼文華、長万部と巡り、ふたたび森を経由し函館へもどる。
という、ざっとこんな行程、7カ月にわたった旅しでした。
*イザベラ・バード
1831年、英国ヨークシャーで牧師の姉妹、長女として誕生。幼い頃から病弱で、医師に転地療養を勧められたのをきっかけとして、長旅に魅了されるようになったといいます。
20代での北米旅行に始まり、豪州、ハワイを訪れ、それらを次々旅行記としてまとめ、確固たる旅行作家の地位を確立しました。
1878年に初来日し、7カ月にわたって関東、東北、北海道、関西を旅行。
1880年、日本の旅を「Unbeaten Tracks in Japan」として出版。これが翻訳され、後に「日本奥地紀行」のタイトルで日本でも刊行されました。
その後もチベットやペルシャ、中国、朝鮮半島などを果敢に旅して多くの旅行記を発表。82年女性初の英王立地理学協会特別会員に選出されました。
1904年、エディンバラで死去。72歳でした。
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