今日の散歩は「堀切菖蒲園」の界隈(葛飾区)・江戸名所-菖蒲観光の天下一品!

いよいよ菖蒲の花開く季節になりました。都内でもっとも有名な「堀切菖蒲園」に足を運んでみませんか!

葛飾区堀切というと葛飾区でもさらに西部の荒川東岸の低地に広がっています。俗に0メ-トル地帯といわれたりします。

江戸時代には江戸近郊の農村地帯でした。『堀切菖蒲園』のあるところは綾瀬川に沿った低湿地で昔より花菖蒲が育ちやすい土地とされ、いくつもの菖蒲園があつまっていました。

季節になると江戸っ子が「菖蒲の花見」にそわそわする名高い行楽地でした。花菖蒲は鉢植えでなく菖蒲園に行って楽しむのが江戸っ子のスタイルだったといいます。

というわけで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

江戸っ子の散歩にあやかって花々しく花散歩なんかしゃしょう!

まずニュ-ス速報です!

コロナで長らく閉園していたのですが、3年ぶりに「葛飾菖蒲まつり」が復活し開園されるそうです。

期間:令和4年(2022)5月30日(月曜日)~6月19日(日曜日)までの予定です。

尚、このブログにある菖蒲の花は数年前に菖蒲園にて撮影したものですので、ご了承ください。

開花状況などは   堀切菖蒲園へ

花の特徴がわかると、花との出会いがより楽しくなります。花散歩のお伴にざっと目を通しておくと花鑑賞の手立てになるでしよう!

 

斎藤月岑著『江戸名所図会』には~

「葛西の辺は人家の後園あるいは田のあぜ道にも、ことごとく四季の草花を植え、芳香常にふくいくたり、土地の人、開花の時をまってこれを刈取り、大江戸の市街や花屋に売り歩いた」

とあります。こんなことから「堀切」は「花菖蒲の村」とも言われもしたようです。

挿絵

『江戸名所図会』  江戸へ出荷する花を栽培している村と紹介されています

旬花・咲き時に出会う季節の花散歩~艶やかに咲き競う花菖蒲!

京成本線「堀切菖蒲園駅」」が起点となります。

駅名がズバリ花園を名乗っているのがいいですね。ですが、菖蒲園そのものは少し離れたところにあります。駅からだいたいのル-トが敷かれてありますから、ひとまずは、それをなぞるように歩いてゆきましょう。

西側の出口から出発です。

駅前から赤札堂を左にみて、100メ-トぼのところで「川の手通り」を越えると菖蒲園へむかう遊歩道になります。

横切る道が「川の手通り」

しばらくすると道が分岐します。そこに「しょうぶ七福神神社」があります。道路に面して大きくユニ-クな七福神を配しています。

あとでお参りに行く予定の天祖神社の境外末社で「祖霊社」となっています。境内社というのはよくありますが、境外社というのは珍しいですね。

そもそもここに「毛無池」と呼ばれる池があって、大正15年(1926)、この池を埋め立てた際にお祀りしたのが「毛無池弁天社」で、堀切の鎮守・天祖神社の摂社となったのだそうです。

弁天さまは女性。ひとりじゃかわいそうといったかどうか、せっかくだから七福神(福禄寿・寿老人・恵比須・大黒天・毘沙門天(多聞天)・布袋尊)としまとめようと、神社名も「七福神社」として7体の七福神を作っのだといいます。平成6年(1994)6月のことのようです。

そんないきさつで出来た七福神ですから、どれも太っ腹。ともかくまとめて参拝できるところが嬉しいですね。

すぐ裏手には十二支神もあります。こちらもノリノリで作られたのか、めでためでたのドンチャン騒ぎをしているようなポ-ズのもので、現代ア-トにも等しい十二支です。

歩いてゆくと路傍に「毛無池橋」とか「魚道橋」と刻まれた石碑が立てられています。

川が流れていた証ですね。川というより水路でしょう。堀切にはたくさんの水路があったといいます。このあたりは広く湿地帯で大部分が埋立られた土地だと地元の人が言っていました。つまり遊歩道はかつての水路だったわけです。

道の両側には季節の花が彩りをそえています。菖蒲園の入り口付近になるとあじさいの歩道になります。

しばらくすると道が大きく曲がり、そのさきから道幅が狭くなります。いかにも、かって水路だった風情です。

ものの20分くらいで「堀切菖蒲園」に到着です。駅からここまで600メ-トル少々でしょう。

入園の前に「堀切菖蒲園」の花菖蒲の由来を簡単にみてみましょう。
だいたい語られているのが、以下の2説です。

  • 室町時代、堀切村の地頭が家臣に命じ、陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培したのかが始まり。
  • 江戸時代、百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を収集し庭で栽培したのが始まり。

いまもある小高家は日々の稼ぎとして江戸で花菖蒲を販売していたといいます。

江戸時代の嘉永4年(1851年)に出された『東都遊覧年中行事』の中には、

「四季の花を作るのを家業としている。一村みなしかり」

と「堀切村」が記されています。菖蒲だけでなく多くの草花や花卉類を栽培していたのでしよう。ともかく、歴史の長いことがうかがえます

さて、入園することにしましょう。無料です。葛飾区としては大盤振る舞いしてるな~って感じしますね。

入園

敷地面積7700平方メ-トル。花菖蒲、約200種6000株が鑑賞できるといいます。

江戸時代には広重の『名所江戸百景』に描かれ、鈴木春信ら浮世絵師を虜にした天下一品の菖蒲園でした。

花菖蒲

江戸古花  鳴海潟

品種数多の菖蒲が華やかに風雅に咲き誇っています。中でも「堀切菖蒲園」では、ほかではなかなかみられない、「江戸古花」といった江戸時代の品種が鑑賞できるので際立っています。

豪華さはありませんが、江戸っ子気質があらわれており、さらっとして粋で風流を感じさせる品種が多くみられます。名もさまざま、五月晴・青海波・三筋の糸・江戸錦・昇竜・大江戸・蛇の目傘など…。

春は桜花、夏は蛍、秋は紅葉、冬は月…。江戸人の季節の遊楽を中心として編集された「江戸名所花暦」。花鳥風月、四季折々の名所案内。
わたしの師ともいえる今井金吾の<校注>になっています。

花の名称は「十二単衣」、「星月夜」、「御所の遊」、「立田川」、「武蔵川」など限りないほどあります。

「いずれ あやめか かきつばた」に菖蒲が加わるとややこしい。

「菖蒲」にはアヤメ、ショウブの二通りの読み方があります。

花菖蒲は、アヤメ科の多年草でアヤメ、カキツバタ、花菖蒲のうち園芸植物として著しい発展を遂げたのが「花菖蒲」でした。

江戸時代には花の品種改良が流行、花菖蒲は大名から庶民にいたるまで多くの粋人たちに愛されました。

戦前までは、武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園がありました。

最初の菖蒲園は、江戸末期に開園した「小高園」で、ほかはみな明治になってからの開園だそうです。

しかし、戦争中の混乱で荒廃、都市化の影響などもあって、みな廃園に追い込まれたといいます。

地図

「葛飾区史」より引用

中で「堀切園」だけがわずかに命脈を保っていました。つまりここ「堀切菖蒲園」はその「堀切園」があったところです。

昭和34年(1959)5月東京都が購入し、翌年6月1日から「東京都立堀切菖蒲園」として公開し、昭和50年(1975)葛飾区に移管されて今日至っています。

雨に濡れた花菖蒲の風情はいいですね!一段と花色が艶めきます!

花菖蒲 かがやく雨の 走るなり 中村汀女

そろそろここはおしまいにして、もうひとつの菖蒲園に行ってみましょう。新しいもので「第二菖蒲園」と言われています。綾瀬川と荒川にはさまれたところにある菖蒲園です。

菖蒲園を出たら左にまがり、綾瀬川沿いの道路を左にゆきましよう。100メル-トルほど歩くと綾瀬川の堤防にのぼる階段があります。「綾瀬川」の水量調整をする水門のところ。そこにあるデッキを渡って荒川の河川敷に下ります。

川

背後の川は荒川(荒川放水路)

河川敷をはさんで二本の川が並行して流れています。手前の川は綾瀬川です。昔の荒川の支流といわれ、中川と合流して海へ注いでいます。

大雨が降るたびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれていましたが、後に「綾瀬川」と変わったと伝えられています。、

河川敷の向こうに流れているのは荒川放水路(荒川本流)。

明治43年(1911)にひどい洪水がありました。被害甚大でした。そのことを契機として、荒川の水を分水する荒川放水路の基本計画が策定されました。

それによって大正2年(1913)に着工され、難工事を経て17年がかりで昭和5年(1930)に完成しました。北区の岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで。

今日では人工河川とは思えないほどの川面をみせています。昭和40年(1965)からは荒川の本流と呼ばれるようになりました。

河川敷は「堀切水辺公園」となっており、その一画に新しい菖蒲園ができました。俗に「第二菖蒲園」とも呼ばれています。河川敷が広大ですから菖蒲園が小さくみえます。東京スカイツリ-が望める菖蒲園として知名度が出てきているようです。

綾瀬川の土手をおりたら、道路を渡り、そのまままっすぐ進みます。約200メ-トルで道が分岐しますから左の道をゆきます。3分ほど歩くと左手にお寺かみえます。そのお寺の塀をまくように進むとお寺の山門のところに出ます。

極楽寺という真言宗豊山派の寺院です。「寅薬師」ともいわれています。境内は草茫々でなんとも粗野な感じがします。

本尊はかの有名な興教大師・覚鑁(かくばん)作の薬師如来といいます。宝徳元年(1449)紀伊・根来寺の阿闍利の創立といい、すごい由緒ですが、たびたびの水害で多くの記録を失っているといいます。

「寅薬師」は薬師堂の本尊で、別に「砦内の薬師」ともいわれ、室町時代に領主・窪寺蔵人頭胤夫(千葉介実胤家臣)の砦内に祀られていたものといわれています。「堀切」という地名は城の用語に類する場合が多いですから、この砦に関係しているものといえるでしょう。しかし、砦といえるようなものはなかったそうです。

境内に「女人橋の石材」というのがあります。女人橋といわれた石橋の石です。説明によると、

この橋のたもとに竹を四方に囲み布帛を垂らしたものが設けられ、出産で亡くなった妊婦の供養のためたくさんの人に水をかけてもらい、千人に水をかけてもらえれば極楽往生できると信じられていたのだそうです。

何とあれと同じだ。こんなところで偶然。どんぴしゃり。わたしはちょっと唸らされてしまいました。で、少しだけ、アレのことで余談をさせていただきます。

地方によっては「流し祈願」「流し灌頂」(ながしかんじよう)といわれるものがそれでしょう。

わたしはイザベラ・バ-ドという英国女性の著した『日本奥地紀行』のなかではじめてこうした風習があったことを知りました。彼女はスケッチでそれをあらわし、「流し祈願」と記しています。これは貴重なスケッチといえるでしょう。明治11年(1878)のお話しです。

以下はイザベラ・バード著『日本奥地紀行』(平凡社刊)より、そのところの部分的な抜粋です。山形県の寒村でのことです。

私が手ノ子から下って通りかかったとき、たまたま、坊さんが道傍にあるそれらの一つに柄杓いっぱいの水を注いでいた。布はゆっくりと水浸しとなった。坊さんが私たちと同じ道を行くので、私たちは彼と同行し、その意味を説明してもらった。

布に水を注ぐのは祈願であり、しばしばこのとき数珠をつまぐって祈念する。これは「流れ灌頂」といわれるもので、私はこれほど哀れに心を打つものを見たことがない

『日本奥地紀行』から 流し祈願

これは、初めて母となる喜びを知ったときにこの世を去った女が、前世の悪業のために血の池という地獄の一つで苦しむことを《と一般に人々は信じているが》示しているという。そして傍を通りかかる人に、苦しんでいる女の苦しみを少しでも和らげてくれるように訴えている。なぜなら、その布が破れて水が直接こぼれ落ちるようになるまで、彼女はその池の中に留まらなければならないのである

つまり、出産に際して亡くなった母親を供養するためのものだといえるでしょうね。鋭いイザベラの目が注がれた文章です。

境内にはほかにも異色のものがあります。

首塚  この付近から発見された多くの頭蓋骨を埋葬したとき、供養のために建てられたものといいます。

 

富士山のような塩のかたまり!

いぼとり地蔵  地蔵にふりかけられている塩をイボにすりこむとたちどころに治ると信仰されてきました。3体ある地蔵尊のうち、右の小さい地蔵は「疣取長助」ともいわれ、長助というものが奉納した一体だそうです。祈願するとイボがとれるという伝えがあるそうです。

寺の前からまっすぐのびる道をゆくと途中、右横に「堀切2丁目公園」があります。ここは弁松楼とい料亭のあったところ。菖蒲見物に来た人達が休憩し酒席を楽しんだところといわれます。この料亭の増築のとき、さきの「首塚」の頭蓋骨が出土したといいます。一帯で戦でもあったときのものでしようか。

100メ-トルほどで道が左にまがります。つきあたりが「堀切小学校」。校庭の角っこに「郷蔵」というものがあります。

江戸時代、各郷村に建てられた備蓄用の倉庫です。飢饉や洪水など不時の災害で収穫が見込めない時のために、あらかじめ年貢米などをここに保管しました。

屋根はワラ、カヤ、ヨシなどを合わせて葺いたもので、創建当時の構造をよく保っているようです。

郷蔵をあとに350メ-トルのところで右に曲ると、つきあたりに小高家の門柱がみえます。

堀切で最初に花菖蒲の栽培を手がけたお家です。江戸時代、当時の小高伊左衛門家は、四季の花々を栽培しては江戸でその切り花を売りさばくことを生活の糧とする花農家でした。特に花菖蒲の栽培に力を尽くしたといいます。

堀切菖蒲園 小高園

「目でみる江戸・明治百科」(国書刊行会編・発行)

「堀切菖蒲園」の由来に語られるように、菖蒲園の走りを作ったのがこの小高家。

百姓の小高伊左衛門は趣味で各地の花菖蒲を収集し庭で育成していました。広い庭に「小高園」当時の面影はありませんが、昭和8年(1933)に文部省から指定をうけたときの「名勝 堀切小高園」の標柱が往時を物語っています(庭に建てられてあるもので、断りなしでは入れません)。

小高家には嘉永年間(1848~54)、12代将軍徳川家慶・家定父子が鷹狩りの休憩の際に立ち寄り、また、尾張藩主徳川斉荘(なりたか)からは「日本一菖蒲」「艸花」の画讃が贈られたといいます(葛飾区史)。

小高家前の道を右にとり、十字路を越え800メ-トルほど進むと三叉路にぶつかります。そこを左に進んで2、3分ほどのところで四つ角を右に、くねった道を200メ-トルほど歩くと広い道路(都道308号)に出ます。

る人信号を渡ると目の前に妙源寺があります。
日蓮宗の寺で、関東大震災に罹災し本所から移転してきたといいます。
創立は嘉元2年(1304))天目上人によると伝えれています。上人は日蓮の直弟子。高僧といわれた人で、品川の天妙国寺、鎌倉の本興寺・妙典寺・滝口寺など多くの名刹の開山となっています。

江戸幕府の金座役人・後藤氏は天正以来の檀徒として当寺の再建に力を注いだといいます。大名六郷家・歌舞伎役者森田勘弥・河原崎権十郎ら歴代等の墓があります。

石造りの題目塔  安政の大地震で亡くなった人々を供養するため、歌舞伎役者・守田勘弥の妻が発起人となり建立したものといわれています。安政の大地震は荒川河口が震源で、死者約4.300人といわれています。

傑出した儒者ふたりの墓がありますのでお参りましょう。

安積艮斎の墓  「アサカゴンサイ」と読みます。儒学者。妙源寺の住職・日明上人から人格をかわれ儒学の道に入り、佐藤一斎、林述斎に学び、後年、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼」を旗本・小栗忠順(おぐり・ただまさ)の屋敷内に開きました。忠順もここに学んだといいます。

嘉永3年(1850)幕府昌平坂学問所の教官に迎えられその任にあたりました。文久元年(1861)に70歳で没しています。

「半途にして怠れば、前功を失い、未熟に復る」良齋の言葉です。

門下生は2000人といわれ、門人帳には小栗上野介のほか、秋月悌次郎・岩崎弥太郎・清河八郎・栗本鋤雲・権田直助・高杉晋作・谷干城・中村正直・福地源一郎・楫取素彦・川路聖謨・木村攝津守・箕作麟祥・吉田松陰など、幕末の動乱期に活躍した人物がぞろっといる。

東条一堂の墓  江戸後期の儒学者。安積艮斎と同じく佐藤一斎に学び、29才で神田お玉ケ池に塾(遥池塾)を開きました。門人3000人ともいわれました。海防論にも通じ、老中・阿部正弘の相談役もになった。安政4年(1857)、80才で没しました。

お寺からほど近くの黎明保育園のところに堀切教会があります。日本キリスト教団堀切教会です。キリスト教の伝道者であり、かつ労働運動、協同組合運動、平和運動など広く活動した賀川豊彦によって建てられた教会の一つ。賀川豊彦は昭和21年(1946)にこの地で宣教を開始したといいます。

都道の広い道路を駅の方に向かいます。

「妙源寺前」の信号を左に、二又のところで右に入り、二つ目の路地のずっと奥の正面に天祖神社がみえます。

神社の御由緒によると、平安時代後期、伊勢・皇大神宮の御分霊を勧請し創建された旧堀切村鎮守としるされています。俗に「「堀切の神明さん」とも呼ばれています。さきの「菖蒲七福神」・「十二支神」はこの神社の境外末社ということになります。境内には末社がびっしり並んでいます。

堀切一帯は鎌倉時代中期以降、伊勢皇大神宮の社領地(神宮神領・葛西御厨)であったといいます。

そのような関係で、皇大神宮の御分霊が勧請され、堀切村の鎮守となったようです。相殿の譽田別尊は、この地の地頭・窪寺氏か、武運長久祈願のため勧請したもといわれます。

明治以前はさきの極楽寺が別当を務めていたそうです。

きょうの散歩土産は、コレ!

堀切菖蒲園 /松葉せんべい

 葛飾区堀切2-57-6 堀切菖蒲園駅下車・徒歩5分

神社の左横丁をゆくとすぐに商店街に出ます。そこを右にゆけば堀切菖蒲園の駅です。
「堀切せんべい」のお店は、さきほどの妙源寺前の交差点を曲がったところのすぐ左側にあります。小さな店ですが、ぜひお立ち寄りください。

NHK文化センタ-の講師から紹介と言ったら喜ぶでしょう。
噛み具合も味具合もよく、あちらに出向くと必ず立ち寄るところです。

では、このあたりで〆にします。

それではまた。

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