今日の散歩は井伏、太宰が歩いた天沼界隈(杉並区)・天沼八幡と熊野神社の二社詣り!

JR荻窪駅から北側に広がる杉並区天沼の町を歩いてみることにします。

天沼は広域ですから歩き甲斐があります。ほとんど起伏がありません。スタコラサッサの散歩&ウォ-キング、そんな気分で歩いてみましょう。

天沼八幡と天沼熊野神社、由緒あるふたつの神社が同じ町内に鎮座してます。少し離れてあるのですが、それをめぐるカタチにします。

天沼は青梅街道を隔てて東西に長くひろがっています。江戸時代から明治ころまでは戸数100にも満たない寒村だったといいます。

杉林や雑木林の生い茂る武蔵野の原野で、江戸近郊の農業(野菜栽培ほか)地帯でした。

明治24年(1891)に荻窪駅ができ、それから少しずつ人口が増えてきたようです。

大正11年(1922)に高円寺、阿佐谷、西荻窪といった駅が出来、その1年後に関東大震災が起きました。

そのときの被害が微小だったことが注目され宅地化に拍車がかかったのだそうです。

文化人たちも移ってきました。そのひとりに作家の井伏鱒二がおります。

上荻1丁目に東日本旅客鉄道(JR東日本)、荻窪5丁目に東京地下鉄(東京メトロ)の荻窪駅があります。

ということで、以下、そんな歴史背景をもつ散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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ちなみにこのコ-スは荻窪駅の南側のコ-スとジョイントできます。よかったらワイドにお散歩下さい!

ジョイント「今日の散歩は荻窪の界隈と大田黒公園!」

JR荻窪駅の西口から歩き出しましょう。

西口の改札口は狭くるしくて天井も低くうす暗いので、まるで改装中の駅のようです。

階段を下りると右手方向に青梅街道の大通りがのぞめます。外に出たとたんにょきっと聳える7階建てのビル。

タウンセブン 戦後の闇市から続いてきた新興マ-ケットが昭和56年(1981)にまとまってビル化されたもので、屋上から富士山がみえるので有名です。運がよければ堂々とした冨士山がくっきりと浮かびます。

青梅街道  江戸城の整備に必要な石灰(白壁・漆喰に使用)が江戸西方の成木村・小曽木村(青梅市)などで生産されました。その石灰が運ばれた道は成木街道と呼ばれました。江戸城が完成したのちも大名屋敷や町家建築での漆喰壁で石灰の需要はたかまり、往来はますます盛んになりました。やがて道は青梅方面にのびさらに整備され、のちに青梅街道と呼ばれるようになりました。

甲州街道の脇往還として、内藤新宿の追分(新宿3丁目交差点)で甲州街道と別れ、中野・田無・小平を経て青梅に至り、多摩川をさかのぼった後、大菩薩峠を越え甲府市の酒折で甲州街道に合流していました。道のりは約130キロ。青梅の先の御嶽神社への参拝路としても賑わい、俗に甲州裏街道ともいわれました。青梅街道として一般的に呼ばれるようになったのは、明治期になってからと考えられています。

荻窪の由来  荻が群生する窪地の意。慈雲山萩寺光明院の縁起とからんでいます。ともあれ荻のはびこる原野だったのでしょう。

荻窪駅  明治24年(1891)開業しています。開業の翌年、正岡子規が内藤鳴雪をさそって一日旅行をしたときの歌。当時の寂寥とした景色がにじんでいます。

荻窪や野は枯れ果てて牛の声(鳴雪)

汽車道のひとすじ長し冬木立(子規)

西口駅の前、白山通り(観音通り

青梅街道から分岐して西へのびている道には俗に「白山通り」、「観音通り」の名がついています。白山神社、光明院の観音にちなむものでしよう。街道と分岐するあたりは杉林が繁り昼なお暗く寂しいところだったそうです。オイハギも出たとか。

ふたつの社寺とも地番は上萩になるのですが、「荻窪」の名の起こりに由縁する社寺ということでもありますからお詣りしてみましょう。

通りが線路に接近する手前から白山神社への参道が右に長々とのびています。

長い参道を往復しなければなりませんので、さきに光明院にゆくことにします。

環状8号線に架かる橋をわたるとすぐに光明院の境内です。裏門にあたるのでしょう。

環状8号線・俗に環8

 慈雲山光明院萩寺(荻窪観音)

真言宗の寺。荻窪という地名の由来をもつところとされています。

伝承では和銅元年(708)といいます。観音像(行基作)を背負って諸国を行脚していたひとりの行者がいました。その観音像が、この地で急に重くなり運べなくなりました。

行者は観音がこの地に留まりたいのではと思い、付近に生い茂る「荻」を刈り取って草堂を作りそこに観音をお祀りしたということです。

これが寺の起源で、草堂は「荻堂」と呼ばれ、なお、ここが窪地(低地)だったことから「荻窪」の地名が生まれたのだといいます。寺伝によれば、鎌倉幕府の北の祈願所にもなっていたそうです。

本堂   七堂伽藍を備えた大寺院だったのですが、天保11年(1840)の火災でそれらを焼失してしまいました。

そから10年後の嘉永3年(1850)に本堂が再建されたのですが、明治21年(1800)に甲武鉄道(中央線)建設されるため北へ移り、さらに昭和44年(1069)のホール新築にあたり現在の場所へ移されたということです。

本尊の千手観音像(推定室町時代)は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれきたといいます。

また毎年8月16日の縁日がきっかけで村の男女が結ばれる事が多かったことから「出逢い観音」と愛称されてにぎわったといいます。

閻魔堂  閻魔様は冥界の大王で、死者の生前の悪行を裁きます。右にコンビの奪衣婆(だつえば)、両脇には閻魔様を補佐する書記官が並んでいます。このように補佐官まで配した閻魔堂は珍しいですね。

広かった寺域も中央線と環八通りによって分断され、5分の1ほどに縮小されてしまっているようです。

かつては白山神社と境を接していたといい、ほど近くにある「四面堂」とか「堂前」といった地名も当寺の御堂に起源を持つものと説かれています。

鐘楼堂   作家・上林暁(かんばやし・あかつき)が「光明院の鐘の音」と題し文芸春秋に発表した一文で有名になり、そんなことから遺族の希望で当院で葬儀が行われ、沢山の文士が鐘を衝いて彼の冥福を祈ったといいます。

赤松てしょうか。大きく枝を広げ境内のシンボルのようになっています。

手水鉢  天和2年(1682)、近在の村人が飢饉の折に亡くなった人をを弔うために奉納されたと伝えられます。区内で最古のものだそうです。

荻窪由来碑  荻窪の地名のゆかりを伝える石碑。形がおもしろいですね。

泣きべそ地蔵  小張吉兵衛という人が建立した阿弥陀、観音、勢至菩薩、地蔵の4体の大きな石仏。吉兵衛が両親と妻を相次いで亡くし、悲しみを紛らわすために地蔵を建てました。

建立の当初は普通のお顔だったのですが、だんだん悲しみの顔に変わり、ついに泣きべそ顔になった、とい微笑ましいい伝えがある地蔵さんです。その小張家はいまも上荻に現存しているそうですよ。

萩の小径  山門から線路沿いに続く通路。両脇には四季の花が咲き、通行する人の目を楽しませています。荻窪の名の由来となった荻も自生しています。

ついでながら、荻窪にゆかりある太宰治について少しふれておきましょう。太宰治は昭和11年(1936)11月にこの光明院裏にあった照山荘(しょうざんそう)というところに2、3日宿泊しています。

太宰下宿跡  ほんのいっとき仮の滞在でした。昭和11年(1936)というと 2.26事件の勃発した年ですね。太宰28歳でした。10月13日に江古田の東京武蔵野病院に入院し、経過が良好なことから照山荘に移るも、あわただしくも11月15日 には天沼1丁目の碧雲荘(へきうんそう)に転居しています。

さて光明院ははこれくらいにして、次は白山神社にまいります。

萩の小径を通り裏門に向かい、橋をわたったらすぐ右に折れ、環八に沿って歩き、50メ-トメルほどしたところで右手、白山神社の境内に入りましょう。参道を横切るようなかたちになります。

参道を横切りるのですが、この辻付近に著名なふたりがしばらく住んでいたといいます。ともに美術家です。

ひとりは版画家として有名な棟方志功で、緑の生垣をもつ静かな佇まいの日本家屋だったそうですが、今は面影を伝えるものは残念ながらまったく残っていません。昭和50年頃まで住んでいたといいます。

もうひとりは、 鈴木信太郎。黒田清輝に師事し昭和5年(1930)、八王子より東京荻窪に居を移したといいます。これまたどのあたりかはくわしくは判明できません。

社殿は参道のさきに広い境内をもっています。隔絶されたような一角で、参道とさきほどの横丁のほかで出入り口がないようです。

荻窪白山神社  下荻窪村の鎮守でした。祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)。

社伝によれば文明年間(1469~87)に関東管領・上杉顕定(あきさだ)の地頭中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのに始まり、中田一族が栄えたことから、加賀の白山比咩神社を分神したといわれます。さきの光明院が別当寺でした。

昔から「歯痛の神様」として敬われてきました。いまはお宮参りをすると、男児に白い箸、女児に赤い箸が授与されるそうですよ。

これには伝承があります。むかし加賀守の弟・兵庫が、激しい歯痛をおこしました。すると夜中「汝、わが社前に生える荻を以て箸を作り、食事をなせば歯痛忽ち癒えん」とのお告げがくだりました。

翌朝、兵庫が荻の箸でご飯をいただくと、歯痛がウソのように治った。この噂が広まって「歯痛の神様」となったといいます。治った人はお礼に萩の箸を奉納するのが慣わしだったといいます。

三峰神社

三峰神社のある一角は境内社がまとまっていますが、実にユニ-ク!まるでギャラリ-のよう。

昭和3年(1928)に奉納された御輿は150貫余(約563キロ)あるそうです。また、大太鼓(直径149センチ)ですが、府中の大国魂神社の太鼓につぐもので、都内第2の大きさをもっているといいます。

さきの横町口から環八通りに出てさきに進みます。「荻窪白山神社北」の信号をすぎ、そのさき100メ-トルしたところで右にゆくと杉並公会堂」があります。

平成18年(2006)に竣工。千人の収容能力をもつステ-ジ、音響効果などに独特のくふうがこらされており、評判のいい公会堂のひとつです。

世界3大ピアノといわれる、スタインウェイ・ベーゼンドルファー・ベヒシュタイン。

これらのピアノを「大ホール」、「小ホール」、「グランサロン」に備えている唯一の公会堂として知られており、日本フィルハーモニー交響楽団の活動拠点にもなっています。

杉並公会堂前で青梅街道をわたり、左にまっすぐ行く、と四方からの道路が交わることで知られる「四面道」(しめんどう)になります。

井伏鱒二、太宰治のふたりが連れ立って歩い道を散歩してみましょう!

青梅街道と環八ほかの道路がここでかちあわせになっています。古くから迷いやすいところだったようです。

四面道  青梅街道が環八通りを跨ぐところで四面道陸橋とか、四面道交差点といわれています。

土地の古老はこれを「しめんと」といいます。つまり「四面塔」があったからで、それがいつしか「しめんどう」と濁ってしまったのだとか。

十字路のところ鎮座していた秋葉堂に、村人が交通の要衝として奉納した常夜燈がありました。それが四面塔とか四面灯籠とかいわれていたのですが、環八通りの敷設でそれらが撤去されたころから、「塔」の字が「道」になり、やがてそれが定着してしまった。

お堂などは荻窪八幡に移され、何もない辻だけになってしまいました。四面とは上荻窪・下荻窪村・天沼村・下井草村の4ヶ村の村境をさしていたといわれまい。

この近くに住んだ井伏鱒二は『荻窪風土記』のなかでこのあたりのことを、

荻窪で昔から賑やかだったところは、四面道から西にかけて有馬屋敷、八幡神社あたりまでの謂わゆる八丁通りであるそうだ。以前、私は八丁通りとは四面道から荻窪駅あたりまでの街だと思っていた。

と記しています。「八丁通り」とは青梅街道のことで、そう呼ばれていんですね。

その四面道も昭和4年(1929)ころまでは、天沼のうちの小字としてあったようです。

青梅街道が四面道の交差点にぶつかる手前右手にある通りは「大場通り」とか「天沼本通り」とかいわれますが、地図には「日大通り」とか「二高通り」、「税務署通り」とうたわれたりしています。古くからの道で、『荻窪風土記』のなかで、

太い幹のクヌギ並木のある広い道

と記されていますが、いまは街路樹はありません。古くからの商店街で、かつては賑わいをもった通りでした。井伏や太宰たちが頻繁に通りぬけた通りでした。

青梅街道を少しもどり、ひとつ目の路地を左に入り50メ-トルほどのところ、変形十字路になっている左角が太宰治の下宿していた「鎌瀧」跡といわれています。

正面左角が太宰下宿先の鎌瀧跡

鎌瀧跡  太宰の下宿家跡。初代と離婚してから御坂峠の天下茶屋に移るまでの約1年3ヶ月の間、昭和12年(1937)6月から昭和13年(1938)9月までの期間でした。

ここをたびたび訪ねてきた友人のひとりに山岸外史がおりました。この山岸外史が著した「人間太宰治」には鎌滝時代のことがわりと詳しく書かれています。

…「壁の衣紋かけに、ただ、中味のない羽織がぶらさがっているようなものなんだ」

この言葉を太宰が、この四等下宿の鎌滝のひどく古びた四畳半の室でいったことがあるが、壁にさがっている羽織を坐ったままの恰好でちょいと拇さした。肩だけ怒らして中身なしにぶら下っているその羽織の説明を、ぼくは、太宰は例によって巧い言い方を知っていると思いながら闘いていたものである。……

 …この下宿というのは、たしかにひどく古くなった下宿で、太宰の住んだことのある室のなかでは最もわびしい室であった。それまで初代さんといた碧雲荘は、それでも小さいながらアパートで、室も八畳だったとおぼえているが、鎌滝下宿は、なぜ、こんな下宿に転居したのかと思われるくらいひどい下宿だった。廊下の板もきしむし、襖のあけたてもガタガタしていた。隙間だらけであった。年数がひどく経っている家だった。室数は二階と階下で十室くらいあったように思う。…」

さて、ここはこれくらいにして、井伏鱒二の住んでいたところはここからすぐのところです。そこへ向かいましょう。

鍵の手をそのまま進んで「日大二高通り」に出て、道路を渡り、そのまま真っすぐ北へ。そこまで100メ-トルちょっと。3つ目の少し変形した十字路の北角左。

庭先に緑のある塀囲いの日本家屋が井伏鱒二の旧宅。まだご子孫が住まわれ普通に生活しているようです。

こういうところは、あまりチョロチョロしないで、がばっと目撃したら、さっと立ち退くことにしましょう。

井伏はその<あとがき>で

荻窪あたりのこと」というつもりで「荻窪風土記」とした。小説でなくて自伝風の随筆のつもりである。

関東大震災で東京は急に変化して、太平洋戦争でまた締めあげられるように変った。とにかくそういうことになってしまった。

といったように書いています。

井伏が早稲田鶴巻町の下宿「南越館」から荻窪に越してきたのは、1927年(昭和2)の5月のことでした。

「荻窪風土記」は、この地に移って50数年を経た昭和57年(1982)、井伏84歳のときの刊行でした。

「荻窪八丁通り」、「関東大震災直後」、「文学青年窶れ」、「小山清の孤独」、阿佐ヶ谷将棋会」、「二・二六事件の頃」など々、雑誌「新潮」に「豊多摩郡井荻村」と題して昭和56年2月から57年6月まで連載した17編の随筆から構成されています。

昭和が激動して流れた時代。荻窪も変貌してゆきました。街や自然もかわりました。往時の荻窪駅や青梅街道、善福寺川や自宅界隈の情景の追想、人々との出会いや交流を洒脱な筆に運んで語っています。

「私が荻窪に引っ越して来たのは昭和二年の夏である。その頃、夜更けて青梅街道を歩いていると、荷物を満載した車が勢よく通るのに出合った。すれちがいに野菜の匂いが鼻をついたものである。」

「荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いていても、近所の者が後指を差すようなことはないと言う者がいた。」

「私が井荻村に越して来たころは、今ほど頻繁に電車が来ないし車両の数も僅かだが、そのつど二人乗るか一人降りるか、誰も降りないといったようなこともあった。」

たまに電車が着いても乗降客がゼロ。そんな時代もあったんですね。

「昭和二年の五月、私はここの地所を探しに来たとき、天沼(あまぬま)キリスト教会に沿うて弁天通り(教会通り)を通り抜けて来た。すると麦畑のなかに、鍬を使っている男がいた。・・私は畦道をまっすぐにそこまで行って、

「おっさん、この土地を貸してくれないか」と言った。相手は麦の根元に土をかける作業を止して、

「貸してもいいよ。坪七銭だ。去年なら、坪三銭五厘だがね」と言った。

敷金のことを訊くと、そんなことよりも、コウカの下肥は他へ譲らぬ契約をしてくれと言った。」

つまり糞尿の売買(便所の汲み取り)の契約をしてくれれば敷金はいらないということ。そんな時代だったんですね。で、そんなことから、

「麦畑で耕作している男から少しの土地を借りることにした。場所は東京府豊多摩郡井荻村字下井草1810である。」

そこが、

「その後、町名変更で下井草1810が杉並区清水町24番地になって」

と、はっきり新住所を明記しています。

庭先で将棋に興ずる井伏鱒二と太宰治(太宰治展示室パネルより)

井伏鱒二は平成5年(1993)に95歳で亡くなるまでの66年間をここで過ごしました。太宰はここで井伏の仲人で結婚式を挙げています。

井伏鱒二の転居2年後の地図(杉並郷土博物館分館展示コ-ナ-より

井伏も「杉並区清水町24番地」と記しているように、ここは天沼ではなく杉並区清水町です。

清水町由来  江戸時代にさかのぼると今日の「清水」エリアは豊多摩郡下井草村の小名である「沓掛」(くつかけ)にあたるそうです。

昔から清水が湧く湧水池が多かったため、それか町名の由来とされています。

杉並区発足時の昭和7年(1932)に「沓掛」は、「沓掛町」と「清水町」に分立。町名として「清水」という名が使われるようになったのはこの時からですが、それまでも一般に「清水」と呼ばれていたといいます。

井伏宅と目と鼻のさきに有名人がひとりおりました。

大山名人宅  大山 康晴(おおやま やすはる)/大正12年(1923)~平成4年(1992)

平成2年(1990)将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身。

永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号の保持者でした。

ふたたび日大二高通りに出ましょう。

通りに出たら左に350メ-トルほど歩きます。通りをはさみ左が清水町、右が天沼になります。

しばらくしたところの左横丁の角。

天沼出世大黒天  清水1丁目1番1号という場所。路地の左角に小祠があります。小さいながらも「天沼出世大黒天」と記した提灯がぶら下がっています。ちゃんと保護されており、雨の日は取り外すのでしょう。

通りの右手に「ウェルファ-ム杉並」があります。杉並の公共施設です。ここにあったのが「碧雲荘」という下宿屋。太宰治がしばらく下宿していたところでした。

太宰治ゆかりの建物だけにその成り行きが近年とかく注目されていたのですが、平成28年(2016)に杉並区の特別養護老人ホーム建設のため周辺住宅と共に解体されてしまいました。

それは残念なことですが、いまは九州大分県の湯布院町の「ゆふいん文学の森」に移築され、同29年4月16日にオープン。建物内には書斎やベランダが復元されているということです。

碧雲荘の正面・玄関口(展示室バネルより)

碧雲荘/湯布院に移築  この地で下宿やアパートなど転居を繰り返した太宰の住居の内、その姿を最近まで保っていたのが「碧雲荘」でした。昭和11年(1936)11月、太宰はこの「碧雲荘」にやって来て、同12年6月、天沼一丁目の下宿(鎌滝方)に移るまでの半年ほどを過ごしました。

2階建て日本家屋の間貸しで、太宰はその2階のひと部屋で暮らしていました。1階には大工の棟梁が住み、1階に玄関が並んでありました。

コチラで移築後の写真がみられます⇒甲斐みのりの建築半日散歩

ここの便所の窓から見た富士山の風景は、短編『富嶽百景』の中で、

「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はっきり、よく見える」

と表現されています。またこの部屋では、『人間失格』の原型ともいえる短編『HUMAN LOST』などが執筆されています。

碧雲荘1階・2階間取り(展示室バネルより)

「ウェルファ-ム杉並」4階に上ると「太宰治の碧雲荘」時代の小さな展示コ-ナ-があります。

『人間太宰治』(山岸外史著)が並んでいます

「ウェルファ-ム杉並」の左の木戸を裏側に入ると裏庭があり、そこにもバネルが設置されています。展示室にあるものと似たものです。

太宰治の『富嶽百景』は、「富士には月見草がよく似合う」の一節で有名ですね。そのなかに、

三年前の冬、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ途方にくれた。その夜アパートの一室でがぶがぶ酒を飲んだ。トイレの四角い窓から富士を見ると、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。暗い便所の中に立ち尽くした私はじめじめ泣いて、あんな思いは二度と繰り返したくない。

と、碧雲荘のトイレの中で体験した記憶がいかされています。

庭を出て「ウェルファ-ム杉並」の横の道を南に200メ-トルほど歩くと左手の奥に緑の広場がみえます。

天沼弁天公園には杉並郷土博物館の分館の建物がふたつあります。

杉並郷土博物館

燈籠

池を埋め立てて造った人工池といえるでしょう。が、そう見ない方が風情を感じます。常夜灯(月見灯籠)はスケッチに描かれていますから往時のもののようです。

弁天池周辺のスケッチ

かつては池の畔に「天沼池畔亭」という料亭のようなものが建ち、天沼弁天社には遠方からも参拝人がやって来たといいます。いわば郊外の行楽地ともなっていました。300坪あまりの広さの湧水池だったといいます。潰されたことが惜しまれますね。

天沼   「天沼」は「雨沼」とも書かれたといいますから、たしかに字面の通りだったのでしよう。雨が降ると水が溜り沼と化すような

そんなことから天沼は沼地や湿地帯と連想されがちですが、沼地の上の台地をさすもので、ここでは妙正寺川沿いにあった湿地帯の上のほうにある台地で、それを天沼とい呼んだと考えられ、それがのちに「天沼」と言う地名になったといのが有力説のひとつになっています。

天沼弁天池・桃園川  池には弁天が祀られ、湧水もあり、桃園川の水源となっていましたが、水が細かったので、江戸時代には千川上水からの分水を受けていたといいます。

川筋は弁天池を流れ出て天沼村から阿佐ヶ谷村、馬橋村と経て中野区で神田川に合流していました。

天沼弁天の森。まさに田園地帯。桃園川が水田を潤していたのでしょう

池のまわりは緑が濃い

西武鉄道(堤康次郎)に買い取られる以前は「天沼池畔亭」という料理屋の庭園がぐるり池畔をと取り巻いていたのでしょう。

公園の門は、西武時代に建てられた建物の唯一の名残りで、正面玄関だったといいます。

弁天様のあった本来の旧地の一角に小祠が建立されています。池つぶしの恩返しといったところでしょうか。

ここでちょっと話しがそれます。

条里制時代の駅舎・乗潴(アマヌマ)

古代、奈良の都と諸国にある国府とを結ぶ幹線道路が敷かれ、駅が設けられました。つまり「駅伝の制度」で、適当な間隔をおいて駅が作られました。

その駅のひとつ「乗潴(のりぬま)駅がこのあたりにあったのではというお話しです。

武蔵国府から下総国府(千葉県市川市)へ向かうルートとして使われていた駅に「乗瀦」と「豊島」があった。その場所が乗潴と書いてアマリノヌマと読まれ、それがアマヌマと読まれるようになったこのあたり。

沓掛、神戸、天沼といった地名が残っていることからそのように推定されるというわけです。こうした説からすると天沼の源は古代の乗潴にあり、ということになりますね。

というその乗潴ですが、これまた諸説がありどれも推測の域を出ていません。

  • 吉田東伍説  「アマヌマ」と読んで天沼だろうと。
  • 村山良弼説  北埼玉郡小瀬村小松だろうと。
  • 柴田常恵説  さいたま市大宮の天沼だろうと。
  • 菊池山哉説  「ノリヌマ」と読み練馬だろうと。

このように諸説がある乗潴駅ですが、豊島駅のほうは昭和58年(1983)の発掘によって豊島郡衙跡がみつかり、豊島駅もそこにあったのだろうと位置づけされるようになりました。

豊島駅   京浜東北線の「上中里」駅の崖上にある平塚神社の境内地とその一帯。

そこで次は乗潴驛がどこにあったかということになるのですか、そこまでは深追いする頁がありません。

公園の玄関門をぬけてそのまま真っ直ぐ歩いて行くと天沼八幡神社の前に出ます。

天沼八幡神社  天正年間(1573~92)の創建といわれています。

天沼の池が広大だったころ池畔に建てられたのだろうといわれており、天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守でした。誉田別命(応神天皇)を祀り、別当寺は蓮華寺がつとめていたといいます。

現社殿の建築費用を捻出するため、弁天池(天沼)を売却しのだとか。そのとき弁天池はつぶされ天沼そのものが地上から永遠に消えたわけです。

それにしても風格のある社殿ですね。ちょうどこのときは鯉のぼりの季節でした。

現在の社殿は昭和52年(1977)に改築したもので、境内社として大鳥神社(1殿)・稲荷神社(2殿)・須賀神社・金山彦神社・日枝神社が合祀されています。

なお、明治40年(1907)9月に「字四面道」の鎮守・厳嶋神社(祭神市杵嶋比売命)を合祀しています。

境内社

日枝神社があるのは、江戸時代に天沼村が赤坂の日枝神社の社領であったためといいます。

市杵嶋比売命は、合祀されてから水神様、安産の神様として深く信仰され、雨乞いの行事なども古くから伝えられていたそうです。

大鳥神社(祭神・日本武尊)は、商売繁昌の神社として信仰され、毎年11月の酉の日を祭日として熊手市が立ち、大いに賑わうそうで、社務所では開運熊手守・福桝などを授与しています。

鳥居前の三叉路を左にまっすぐ行くと天沼熊野神社に通じています。

ふたたび八幡社にもどってきますから、ぐるっとひとめぐりのウォ-キングです。

200メ-トルほと歩いたところの左手にある蔦のからまる家が目じるしです。その角を左にまがり、100メ-トルそこそこ、二つ目の十字路を右にたどる緑のある一角がみえます。

静かな住宅地の中のお社です。

長い参道、広い境内。静けさのなかに威儀を正したくなる空気があります。

天沼熊野神社

この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命を祭神としています。

創立については詳らかではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768)東海道巡察使が武蔵国に来た折に、氏神を勧 請し、別当を置いたのが始まりと伝わります。

また一説には、元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉幕府執権の北条高時を討つため、鎌倉へ軍を進める途中で、この地へ陣を敷き、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(1395)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十二所権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは、明治維新以後のことです。

天沼は古くからの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅」から起こったといわれていますが、諸説あって定かではありません。周辺の地域からは中世の板碑が出土しており、その頃すでに開発が進んでいた地域であったと考えられます。蓮華寺の過去帳によれば、天沼村は慶長年間(1596~1615)には成立していたものとみられます。

境内には、直径2mにも達する幹をもつ大杉の切株が保存されています。社伝によれば、新田義貞がこの地を訪れた際、戦勝を祈願して手植えした杉と伝えられています。惜しいことに枯死したため、昭和17年に伐採され、今では切株で昔を偲ぶだけとなっています。

また、この大杉の手前には、文久二年(1862)九月奉納の石造手水盤があります。

平成26年2月    杉並区教育委員会

天沼熊野神社  天沼村の鎮守とされてきました。祭神は伊邪那美命。
社伝によると由緒は上記にくわしいですが、

「神護景雲ニ年(768)東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し別当を置いたのが始まり」

と伝えており、また一説に、

「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」

といわれています。

新田義貞お手植えの杉、その切り株

新田杉の切株  元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉の北条高時攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め戦勝を祈って2本の杉苗を献植したといわれています。その時経た古木は、昭和21年(2022)に枯れ、今は伐り株が残っているだけとなりました。

写真をみると社殿の前の両脇に聳えています。

さて、ここから逆もどりして天沼八幡神社の鳥居前に出て、そこからまっすぐ駅へとのびている「天沼八幡通り」を歩いてゆくとしましょう。

八幡神社の鳥居まで400メ-トル。

鳥居前から荻窪駅北口まで250メ-トル。

途中に都内では珍しい「酒まんじゅう」のお店があります。

きょうの散歩土産はコレ!

 

無添加。麹菌や酵母菌の力だけでふくらませているという。しっとりもっちりとした口あたり。甘さはぐっと控え目なのでいくつもいける。大好物で全国の酒饅頭を食いつくしたい、わたし。

荻窪駅北口前の「天沼八幡」入口。

教会通り商店街の入口

北口駅前に出たら青梅街道を400メ-トルほど西に歩き、「東京衛生病院」の入口、「教会通り商店街」を歩いてみましょう。往復で500メ-トルくらいなものです。なかなか楽しく味わいのある駅前の旧道です。

おそらく井伏鱒二も太宰治も通ったであろう古い通りです。

商店街が尽きるところに、その名も個性的な名前の「東京衛生病院」があります。

東京衛生病院(東京アドベンチストホスピタル)

天沼教会の付属病院として昭和4年(1929)に設立されて以来、キリストの愛に根ざした医療奉仕を理念として、杉並において總合医療の一端を担っています。病気の治療のみならず、心と体の全人的回復を目指した治療に取り組んでいるのが特徴です。

また、人間としての尊厳を保ちながら貴重な日々を過ごす緩和ケア病棟(ホスピス)を備えて社会に貢献しているのも大きな資質といええるでしょう。井伏鱒二はここに緊急入院し ここで死去しています。

天沼教会  正式には「セブンスデー・アドベンチスト天沼教会」というそうです。

大正6年(1917)に献堂された教会です。

廃校した旧若杉小学校の塀にかまる薔薇

荻窪駅の北口の近くには旧マ-ケット時代の名残りをもつ飲み屋通りや商店街通りがまだいくつかあります。

タウンセブンの屋上に上ってみましょう。天候に恵まれたら正面に富士山がワイドにみえます。望めたらラッキ-です。ちょうど正面やや右手にあるアンテナ(?)の立つあたりにみえるはずです。

「荻」を知らしむるためか「荻」のひと群、よってここは「荻の広場」

荻窪駅北口ロ-タリ-のシンボルツリ-

荻窪駅北口は実に賑やかです。

さて、このあたりで〆としましょう。

それではまた。

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