今日の散歩は西新宿(旧角筈)、十二社(じゅうにそう)界隈(新宿区)・新宿副都心を歩く!
武蔵野台地の一端で淀橋台地というのがあり、西新宿はその上に広く野面を広げていました。北を神田川に、南を目黒川にはさまれた台地です。淀橋は神田川に架かる橋名からとられたものです。
西新宿は1丁目から8丁目までありますが、中心を成すのは新宿副都心ともよばれる都庁を核とした西新宿2丁目あたりでしょうか。
時代をさかのぼると「淀橋町」、「淀橋区」という時代がありました。新宿区が誕生するまえのことです。
さらにのぼると南豊島郡柏木村、角筈村(つのはずむら)がそこに重なります。どちらも江戸時代から続いた古い集落名で、明治維新まで幕府直轄領となっていました。
当時の両村には武家屋敷や町屋、寺社などもありましたが、大方は農地で田畑が拡がっていました。
角筈も柏木も新宿区が生まれたとき新宿区角筈、新宿区柏木として存続されてきました。
この二つ合わせるととても広いですから、角筈といわれたエリア~つまり西新宿の一帯、俗に新宿副都心といわれる界隈をみてみましょう。
ということで、以下そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
「スーパービジュアル版江戸・東京の地理と地名」(鈴木理生著、日本実業出版社)
西新宿(旧角筈)、十二社(じゅうにそう)界隈(新宿区)・新宿副都心をぐるっと歩く!
ひとまずJR新宿西口のロ-タリ-に立ちましょう。どこまでもクルマの渦、超高層ビルの林立ですが、まさにかつての角筈、そのど真ん中です。
青梅街道を隔てて柏木、甲州街道を隔てて代々木
6976865261978448″ crossorigin=”anonymous”>ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。よかったらワイドにお散歩下さい!
ジョイント①☛ 渋谷区「代々木・初台」~甲州街道をまたいだ先、初台山谷エリアへ!
ジヨイント②☛ 「青梅街道ぞいを成子坂から淀橋へ」、かつての柏木をかすめます!
角筈 柏木もそうですが、これらの名前に懐かしさをおぼえる人は多いのじゃないでしょうか。わたしも、そのひとりです。かつては新宿駅東口の一帯や、繁華街の歌舞伎町あたりまでを角筈と称しており、角筈1丁目から3丁目までありました。
そういえば、こんなCMがありました。
漫画家の(故)滝田ゆうさんがタクシーに乗って「角筈まで」というと、
運転手に「ああ、西新宿ね」と確認され、
ムッとして「・・・寂しいなあ」と嘆きの独り言。
あれ、「龍角散」のコマ-シャルでしたね。懐かしいですね。
新宿の夜の巷が好きな滝田さんでした。
70年代は今にいう西新宿の大変革期でした。柏木、角筈、百人町の一部が統合され「西新宿」となりました。
こんな歌もありました。『新宿エレジ-』(石坂まさを作詞 作者不詳 上條たけし採譜・補作)。
昭和52年(1977)発売の、いまは亡き藤圭子の30枚目シングル、「貴方ひとすじ」のB面曲でした。
スナックでよく歌われました。
角筈、柏木、三光町、といった懐かしい地名がて出てきます。旧地名がまだギリギリ生きていた時代ですね。
それにしても角筈とはどこか哀愁のある艶めいた地名ですね。
由来は、このあたりを開拓した名主さんの束ねた髪が角(つの)のような形だつたことによるのだとか、諸説あります。つまり角髪(つのはつ)転じて角筈となったということでしょうか。残念ながら新住居表示により昭和53年(1978)に消滅してしまいました。
角筈と同様にあった青梅街道以北一帯の柏木も西新宿及び北新宿となり、こちらも昭和46年(1971)に消滅してしまいました。三光町も消えました。
近年、この旧角筈の懐かしさを再燃させたのが、浅田次郎著『 鉄道員( ぽっぽや)』( 集英社文庫)収録の短編「 角筈にて」ですね。
新宿「角筈」のバス停で父に置き去りにされた8歳の少年。46歳になった彼は、今はない角筈と呼ばれた街で酒に酔い、通りの向こうに、若い頃のままの父親の姿を見つけます。二度と会えるはずのない生き別れた父と息子の邂逅。ちょっとジ-ンとくるお話し。
聞きやすい朗読があります☛「角筈にて」 朗読者・羽鳥慎一
「淀橋町」、「淀橋区」時代があつたことから「淀橋」は新宿駅西口一帯を指す地域の旧称ともなっており、それを端的に示してくれるのが、カタカナ表記ですが新宿西口にある「ヨドハジカメラ」です。
ヨドバシカメラ 家電量販店の大御所のひとつ「ヨドバシカメラ」は昭和42年(1967)、この地に「淀橋写真商会」として設立されました。
ではそろそろ歩き出すことにしましょう。全体を逆時計回りに進んでみましょう。
ということは、しばらく青梅街道に沿って歩くことになります。
さて時代を遡って西新宿で顕著なことをひろってみると、江戸時代に美濃国高須藩・松平摂津守家の下屋敷があったことでしょうか。上屋敷は四谷の荒木町にありました。そこで生まれたのが、会津藩主・松平容保をふくむ「高須四兄弟」の面々。
高須松平下屋敷跡 新宿駅西口広場から工学院大学辺りにかけ1万坪ほどあったいいます。切絵図の「松平範次郎」と記されたところがそれです。
弘化4年( 1847)、10代藩主・義建( よしたつ)は隠居し、ここに庭園を築き「 魁翠園(かいすいえん)」と名づけました。明治になり岩倉具視の所有となり、「 華竜園」と名づけられ、大正天皇が東宮の頃にしばしば訪ねられたという「 隣雲軒」もあったといいます。
高須藩などより詳しくはこちらで ☛荒木町・松平摂津守家上屋敷
屋敷地は新宿西口の西側、小田急ハルクのある一帯が相当するといえるでしょう。邸内に徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」(ムチ)を洗ったという伝承のある井戸がありました。
策の井跡 松平摂津守の下屋敷の庭内にあり、家康が「名井」と聞き及んでが立ち寄ったこともあったそうです。新宿エルタワービルの西南隅の植栽にモニュメントが建てられています。ちなみに荒木町のほうには「策の池」というのがあります。
明治16年(1883)になるとかわって一帯に女子独立学校( 後の精華学園)が、その南に杉浦重剛の日本中学校が麹町から移転してきました。
このようなことを先駆けとして、明治になると新宿の西口にも農村地帯からの脱皮がみられるようになりました。
その先陣を大きくきったのが「淀橋浄水場」の建設でした。この近代上水への転換はコロナならぬコレラ騒動だったといわれます。
コレラ大騒動 明治10年(1877)~明治15年(1882)にかけ全国でコレラが蔓延し、社会不安を起こしました。
安政5年(1858)の10~20万人が死亡したという安政コレラ以来28年ぶりにコレラのが猛威をふるいました。
ここに近代水道の必要性が叫ばれ、政府は水道改良事業計画の策定を急ぎました。
こうして生まれたのが「淀橋浄水場」でした。
中央部に長方形の区画が整然と並び浄水場の名残を感じさせてくれます。下図とあわせ睨んでください。
淀橋浄水場 明治31年(1898)12月1日に竣工・通水。玉川上水の水を浄化して東京市中へ安全な水道水を提供するために建設されたもので、その広さは約34万平方メ-トルに及ぶ広大なものでした。その当時の地名は豊多摩郡淀橋町字角筈。こうして明治34年(1901)、江戸期以来の旧上水は廃止されました。
上の図をみると「淀橋浄水場」が新宿の追分を頂点として、青梅街道と甲州街道にはさまれた三角地帯に設けられていることがよくわかります。
大正10年(1921)ころの新宿駅周辺の地図
左下の長方形の区画か浄水場。実に整然としています。
明治25年(1892)(1892)10月に敷設された淀橋浄水場の引込線が地図の中央にみえます。建設時の資材輸送の線路です。昭和のはじめころに廃線となったようです。
すぐ近く、おなじエルタワ-の敷地に浄水場址の碑があります。
淀橋浄水場跡碑 新宿エルタワー西側にあります。赤御影石の淀橋浄水場址碑。昭和45年(1970)3月に東京都水道局によって設けられてものです。
現在、淀橋浄水場の遺品として残っているものはほんのわずかですが、それらを現場にひろってみることにします。
当時の淀橋浄水場の正門
浄水場に次いでみてみると、明治43年(1910)、銀座から移転のため建設されたのが専売局淀橋煙草製造所でした。現在の小田急ハルクから南側の大半を占めていたようです。3万3千平方メ-トルと浄水場に次ぐ広さを有していました。
戦後になって新宿副都心計画が発表されたのは昭和35年(1960)だといわれています。
近代浄水場としての淀橋浄水場は昭和40年(1965)3月31日をもって閉鎖され、すべての機能を東村山浄水場に移しました。
ということで、ここに淀橋浄水場跡地をどうするか、再開発計画として「新宿副都心計画」がスタートしました。
このとき「淀橋」だった浄水場跡地の地名が「新宿」にかわったといえるでしょう。
あわせて「都庁新宿移転」プロジェクトも動き出しました。
こうして昭和46年(1971)の京王プラザホテルの竣工を皮切りとして開発に火がつきました。
新宿京王プラザホテル
京王プラザホテル 淀橋浄水場の再開発により生まれた新宿の超高層ビル群の先駆けとなった建物で日本初の超高層ホテル。
昭和46年(1971)6月5日に開業。
次いで二番手として74年に住友三角ビルや新宿三井ビル、続いて76年には安田火災ビル、78年に新宿野村ビルといったものが建ち並び、ここに新宿超高層ビル群が出現したわけです。つまり 新宿駅西口の副都心エリアは淀橋浄水場跡地に群居しているということになります。
そこに91年に都庁が移ってきて、新宿副都心のイメ-ジが定着しました。
エルタワ-をあとに北通りを「新宿アイランドタワ-」前の「議事堂前」交差点まで歩きましょう。
途中、右手に「東郷青児美術館」、{新宿野村ビル」などがあります。
都庁を含む長方形の緑に区切られた部分が淀橋浄水場の範囲にあたると思っていいでしょう。
浄水場があったという面影を残している。その意味ではいい開発をしているのじゃないでしょうか。
円形信号が新宿副都心ど真ん中を感じさせます。正面のモダンなビルは「東京モ-ド学園」。
新宿アイランドタワ-の正面入り口に「LOVE」のオブジェがあります。
まわりはすべて超高層ビル。そのビル群なかのひとつに「新宿住友ビル」があります。
新宿住友ビル 昭和49年(1974)3月、京王プラザに次いで竣工した超高層ビルで、通常は新宿住友ビルと呼ばれますが、単に住友ビルなどのほか、その三角柱状]の形に由来して三角ビルなどの愛称もつけられています。中心部が吹き抜けで、周辺部がフロアとなっている独特な構造をしています。
西新宿高層ビル街の草分けで、完成当時日本一の高さを誇り、この新宿住友ビルを皮切りに、以降、新宿を始め、各地に2000メ-トル級の高層ビルが建つようになつたといわれます。近年、大規模改修がおこなわれました。野外だった大きな三角広場も改修によって天井のあるド-ムとして室内化され、全天候型のイベントスペースに生まれかわりました。
その住友ビルの「三角広場」に目をみはる鉄のオプジェが展示されています。
止水弁( 蝶型弁)。こけによって水量の調整をおこなっていました。画像はビル改修前のものです。
蝶型弁 浄水場で使われていた 大きな止水弁が名残りを示すモニュメントとして 展示されています。
東京水道発祥の地碑 新宿住友ビルの外庭西側、赤煉瓦の壁に プレートがはめ込まれております。
いささか長分ですが、説明板の全文を記しておきます。
東京水道発祥の地
首都東京, この大都市の発展のかげには, 古くから その生活をささえる 水の確保に大変な努力がはらわれてきた。
すでに300年も前の 江戸時代初期(1654年), ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため, 玉川上水が開かれ, 江戸から おおよそ50キロメートルも離れた羽村から 玉川の水が市中に引かれた。時は変わって明治となり, 首都が東京に移されるや 発展する都市に不可欠な 近代水道の建設が急務となった。
そして, 明治23年(1890年), ここ 旧東京府南豊島郡淀橋町に 34万平方メートルの敷地を求め, 玉川上水によって導かれた多摩川の水を ここで沈でん・ろ過のうえ, 200万人の市民に上水を供給できるという, 当時としては, 画期的な規模の 淀橋浄水場が建設されることとなった。
明治34年 その一部が完成し, 神田, 日本橋地区へ給水が開始され, ここに東京の近代水道が誕生した以後, 明治, 大正, 昭和と東京の歴史とともに歩み続けた 淀橋浄水場は, 昭和40年(1965年) 東村山浄水場にバトンを渡し, 給水開始以来 50数年の歴史を閉じ, その跡地は, 新しい東京の象徴ともいうべき 超高層ビルの街に生まれ変ることとなった。
ここに展示されているものは, 内径1,000ミリメートル蝶型弁といい, かつて 淀橋上水場で使用されていたものである。
東京は, 今, この超高層ビルの街が象徴するように, ますます発展しようとしている。 そして, この大都市が必要とする水も, 遠くはるか20キロメートルも離れた 利根川上流にまで求めている。
ここに展示された蝶型弁から, かつてここに都民の水をかなかうため, 満々と水をたたえた浄水場のあったことを, 想いおこしていただき, あわせて 大都市における水が いかに大切なものであり, またその確保が大変困難なものであることをご認識いただれば, はなはだ幸いです。1974.4 元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一
そして、同じく三角広場に聳える二本のクスノキの間に小さな神社が祀られています。
出雲大社 島根県出雲市にある出雲大社の分霊社となっています。
創建は平成8年(1996)で、出雲大社の東京分祠社から勧請されているのだそうです。
一般的には「いづもたいしゃ」といいますが、正式には「いづもおおやしろ」です。
祭神は「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」。大黒さまとしてなじみ深い神様です。縁結びの神として有名ですね。ですので、恋愛のパワースポットとして人気を集めているそうです。
この社でのお参りの仕方はちょっとかわっていますよ。一般的な神社と異なり「二礼四拍手一礼」となっていますので、ちょっと戸惑います。
大黒さまのア-ト
出雲大社と向かい合うような場所に、恋弁天像があります。
制作者はいまは亡き有名な彫刻家の流政之氏で、昭和50年(1975)の制作と記されています。
元々モニュメントとして設置されたものですが、恋愛が成就するという噂が波及し参拝者が増えたことから、出雲大社・東京分祠の神主に声をかけ正式にお祓いをしてもらったのだそうでする。
住友ビルをあとに都庁舎までゆき、庁舎の横から新宿中央公園にむかいましょう。
新宿中央公園 淀橋浄水場の跡地に昭和35年(1960)、新宿副都心建設事業の一環として計画されました。
昭和43年(1963)に完成し都立公園として開園され、昭和50年(1975)に東京都から新宿区に移管され、大規模な改修工事が行われ現在に至っています。
区立の公園として最大の面積を誇っています。
右に下「SHUKNOVA(シュクノバ)
これまでは飲食店のようなものが何もなかったのですが、2020年7月に「SHUKNOVA(シュクノバ)」という名の施設がオ-プンし、レストラン、カフェといっものが利用できるよになりました。シュクノバは江戸時代の「内藤新宿」の宿場をもじった「宿の場」ということらしいです。
「SHUKNOVA(シュクノバ)。後背の建物は「ハイアット リージェンシー 東京」
東西に広がる公園の東端に太田道灌のブロンズ像があります。
太田道灌が鷹狩りをした際の、少女(紅皿)とのやり取り、山吹の一枝を差し出す伝説の場面。
「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき」(後拾遺和歌集・兼明親王)にちなんだものです。
ここから西に向かうと熊野神社があります。
新宿中央公園の西側iに境内が広がっています。ここも昔は角筈でしたが、いまは西新宿2丁目。
熊野神社 ( 十二社・じゅうにそう) 室町時代に中野一帯を開拓した紀伊出身の鈴木大郎正蓮が紀州熊野から三所権現、四所明神、五所の王子、あわせて十二所を勧請して祀り一帯の総鎮守としたことが起源とされています。
初めは十二相殿( じゅうにそうでん)と呼ばれていましたが、後に十二社( じゅうにそう)と呼称されるようになったといいます。
太田南畝の水鉢 江戸の狂歌人、太田南畝(蜀山人)が文政3年(1820)3月に奉納した水鉢。南畝の書による銘文が刻まれています。
廣重描くところの「名所江戸百景」から「角筈熊野十二社」。
池や滝を配した江戸西郊の名勝として行楽地にもなり将軍も立寄ったといいます。
『江戸名所図会』
江戸時代には江戸西郊の行楽地として有名になりました。
明治に入ると、風流な場所ということもあって料亭ができ、やがて花街となりました。
最盛期には、100軒以上の料亭や置き屋があり、300人以上の十に社芸者がいたといいます。角筈芸者とでもいったのでしょうか。
熊野神社から都庁方面に向かいましょう。
途中に標柱だけがぽつんと立っています。
写真工業発祥の地 明治35年(1902)、 小西本店( 現・コニカ)が、写真感光材料の国産化を図ったところ。
あわせて 研究所と工場( 六桜社)を建設し、 製造もここで始めました。
さらに進むと正面に小高い丘がみえます。
六角堂 浄水場の沈澄池、濾水池を掘削したときの排出土で築かれた、標高45メ-トルの富士見台が作られ、頂上には浄水場職員の休憩場だった六角堂が建てられました。
すべてが淀橋浄水場の昔の記憶につがります。
ちなみに、淀橋浄水場・新宿中央公園などに関しては☛ こちらがたいへん参考になります。写真も豊富!
正面は都庁舎。
東京都庁 昭和54年(1979)、都知事・鈴木俊一は都庁の新宿移転を強力に推進しました。
都庁前の広場はオブジェだらけ。
昭和61年(1986)4月、建築家・丹下健三の設計案が選ばれました。
昭和63年(1988)4月着工、平成2年(1990)12月竣工。
平成3年(1991)4月1日、丸の内の旧庁舎から移転し、都庁としての業務をスタートしました。
第一本庁舎、第二本庁舎、都議会議事堂の3棟からなり、東京都の行政の中枢機能を担っていいます。
東京の観光名所の一つとして展望室を訪れる人が絶えないといいます。
展望室は、第1本庁舎45階(地上202メ-トル)にあり、「南展望室」と「北展望室」に分かれていjます。
両展望室へはそれぞれ1階から直通エレベーターがあり55秒で到着します。
ラッキ-なときは幻想的な富士山が雲海のむこうに浮かぶようにみえます。
近くには都営大江戸線・「都庁前」駅があります。
新宿駅にも歩いて10分とかかりません。
ではここで〆といたします。
それではまた。
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