今日の散歩は丸の内ビジネス街の界隈(千代田区)・大名小路~三菱ケ原~一丁ロンドン!
東京駅周辺の西部、丸の内ビル街を歩いてみることにします。(ちょっと長いですからそのつもりで…)
江戸時代、東京駅の西側には江戸城が広がっていました。
その江戸城城郭のうちの丸の内。
江戸時代に丸の内という地名はなく、雄藩の大名屋敷で占められていたので「大名小路」の俗称がありました。
明治になって八重洲町・永楽町・有楽町と三つに分割。
昭和4年(1929)に統合されはじめて「まるのうち」という町名が誕生し、昭和45年(1970)、表記が丸ノ内→丸の内と変更され現在に至っています。
ということで、以下、変遷めまぐるしい「丸の内」の散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
大名小路は軍兵の街から三菱ケ原と化したのち日本一のビジネス街に!
切絵図「御曲輪内 大名小路絵図」/道三堀、外堀はいまはありません
ここで丸の内の変遷をざっとみておくことにしましょう。
江戸時代から明治、大正、昭和、平成と簡単にたどってみます。
大名小路と呼ばれた時代がありました(切絵図参照)!
江戸の川柳に、
夕立を四角に逃げる丸の内
というのがあります。その心は?勿論、おわかりですね。
突然の夕立に巨大なビル、広大な武家屋敷の四角いコ-ナ-を逃げなければならない。その姿は昔も今もかわないとみたいですね。
丸の内 切絵図の堀に囲まれた部分をさしています。城郭の内部を丸といい、丸の内とは堀で囲まれた内側という意味合いをもっています。城郭の主部か本丸、その外郭が二の丸、三の丸となります。
先にも述べたように、江戸時代このあたりは10万石以上の親藩や譜代大名の屋敷がきらびやかな門や塀を構えて建ち並び、「大名小路」の異名をとるほどの、いかめしい所でした。
そんなに武張った大名小路も安政の大地震で壊滅し、豪勢さを競った甍の家並が元の通り復活することはありませんでした。
軍の街、兵営の街と化した丸の内の時代がありました!
維新後、日比谷、丸の内、大手町にかけては公共軍事施設で占められました
江戸幕府が崩壊した維新後、多くの大名たちが国元に引き揚げてしまったので、丸の内はたちまちさびれてしまいました。
明治政府は、その広大な空き地に国軍の創設をにらみ陸軍兵舎や練兵場を開きました。
政府は、明治5年(1872)、「募兵に関する詔書」を出し、翌6年1月10日に「徴兵令」を発布し、ここに「国民皆兵」をスローガンに国軍が生れました。
丸の内一帯には軍にかかわる工兵隊や陸軍の施設といったものがびっしり設けられました。
このようにして丸の内は「軍の町」としての色彩を強め、明治政府の軍事的中枢基地と化してゆきました。
それも明治20年(1887)ごろになると、こうした軍事施設は赤坂や麻布の郊外に移そではないかということになり、その移転費用を捻出するため、丸の内一帯の土地が民間に払い下げられることになりました。
広大な土地を入手したのは三菱の岩崎でした。
荒涼とした原っぱと化した三菱ケ原の時代がありました!
荒地と化した丸の内
明治23(1890)、政府の要請に応じ、三菱の2代目社岩崎弥之助は、丸の内一帯の陸軍省用地10万余坪の払い下げを受けました。
これによって丸の内一帯から兵舎や監獄も撤去され、兵営の跡地は一転して一面の原っぱと化し、明治中期以降はしばらく放置され、人は「三菱ヶ原」と呼んだといいます。
この土地払い下げについては、財源難の政府が、新兵舎の移転、建設費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格が高すぎて買い手がつかなかった。そこで蔵相・松方正義は自ら彌之助を訪ね懇請したと実(まこと)しやかに伝えられています。
矢田挿雲(やだそううん)の『江戸から東京へ』には、
「維新後大名屋敷が取払われ、日比谷公園のところか大手町方面へかけての鍵の手に近衛の練兵場が設けられ、京に田舎の本文通り茫漠たる原野となって、日暮れから通る者もない往古の武蔵野にかえったが、明治二十三年、陸軍省でいよいよ持てあまして、渋沢、大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇願的に払下げの相談に及んだところ、誰ひとり引受人がなく、結局岩崎が貧乏籤をひといたつもりで、十万七千三十坪弱を百三十万円弱、即ち坪十円強で払い下げた」
とあります。高い買い物と、心配する社会や側近のからかい、非難もよそに、
「なあに、竹でも植えて虎を飼うさ」と笑ったという彌之助の伝説も語られています。
といろいろあったのでしょうが、渋沢、大倉大物ふたりが丸の内の未来図を描けないことはなかったはずで、将来の繁栄をにらみ、裏では激しい争奪戦があり、その末に岩崎の手に落ちたというのが信憑性が高いともいわれています。そのほうがドラマチックで真実味がありますね。
この間でよく語られている伝説的なエピソ-ドがもうひとつあります。
三菱財閥の屋台骨を作った人々
彌之助のこの決断の裏話しとして語られているものです。
英国に出張中だった三菱の管事・荘田平五郎から「スミヤカニカイトラルベシ」の電報があったこと。
荘田は、ロンドンをイメージした丸の内ビジネス街の青写真を頭の中に描きながら帰国しました。
いまの三菱王国はこの一通の電報によって正夢となったというわけです。
その三菱ケ原のころの光景を、二人の作家がみています。
明治の作家・田山花袋(たやまかたい)は、明治20年(1887)ごろの丸の内を次のように描写しています。(『東京の三十年』)
「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖され(とざされ)ているように思われた」
また、女流作家・岡本かの子は『丸の内草話』(昭和14年刊)に記しています。
「私が子供だったころの丸の内は、三菱ヶ原と呼ばれて、八万坪余は草茫々の原野だった。…武家屋敷の跡らしく変った形をした築山がいくつかあった…」
どちらも似たようなイメ-ジを抱かせます。
武士の街、丸の内が一丁倫敦(いっちょうロンドン)としてビジネス街になりました!
岩崎はそこにロンドンをモデルにしたオフィス街の建設をすすめました。
明治26年(1893)に久彌が三菱合資会社の社長に就任。翌27年(1894)、丸の内で最初の記念すべき「三菱第1号館」が竣工しました。
設計はジョサイア・コンドル。赤煉瓦造りの3階建てでした。
武家屋敷から一転した様式の建物。江戸っ子はそうとう面食らったことでしようね。
三菱一号館内の設計者ジョサイアコンドルの像、「ゴイッショニ、ドウゾ」 一緒に撮影できます
馬場先門通りの『一丁倫敦』
『日本風景風俗写真帖』(明治43年/1910〉)国立国会図書館所蔵
一帯は俗に『一丁倫敦(いっちょうロンドン)』とも呼ばれるようになりました。
その後、三菱のもとで、ロンドンの市街地をモデルとした煉瓦造りのビル建設が次々と進められました。
明治28年(1895)には第2号館(後の明治生命館)、同29年(1896)第3号館、同32年(1899)東京商業会議所と、馬場先通り沿いに相次いで4軒の西洋建築が建ち並びました。その偉観をみて、当時の人々は「三菱村の四軒長屋」と呼んだのだそうです。
その後も赤レンガの事務所建築は続けられました。
明治43年(1910)、44年(1911)には馬場先通り沿いに仲通りを挟んで第12号館、第13号館が竣工しました。
こうして大名小路を引き継いだ丸の内は、、欧米諸国に並ぶ日本の一大ビジネスセンターとなったわけです。
ちなみにも初期のビルの内部は縦割りに設計され、各事務所ごとに独立した玄関、階段、トイレを持っていといいます。
近代のようなアメリカ型のビルは、大正7年(1918)の東京海上ビルがはじめてで、丸ビルは同12年(1923)でした。
明治41年(1908)、久彌は事業部制を採用し、明治44年(1911)には三菱の不動産業を地所部として独立させました。いまの「三菱地所」です。
丸の内一帯のビルのほとんどははこの「三菱地所」が管理・運営しています。
閑話休題
わたくしごとになりますが、大学時代この「三菱地所」でアルバイトをさせてもらいました。
当時、丸ビルほか一帯にある三菱地所所有のビル内のエレベ-タ-(昇降機といっていました)は、すべて学生たちの手動で動かされていました。
ついでながら、こんな句があります。
「八階へ春昼遅々と昇降機」(吉屋信子)
という時代もあったのでしょうが、昇降機はけっしてノロノロではありませんでした。
わたしが配属されたのは常盤橋近くの「第三大手町ビル」(現・日本ビルヂング)でした。
勤務はよいことづくめでした。まずアルバイト料が良かった。食事やお風呂も利用でき、福利厚生、購買部も利用でき、年末ボ-ナス(餅代といったかな…)も出たりと至れり尽くせり。
だったなぁ。大助かりした学生は多かったのではないだろうか。
ということで三菱地所さんには感謝しています。語れば長くなる若きよき時代でした。
あのころ同職にかかわった多くの学生たち。丸の内にきたらみな懐かしくおもうであろう!
東京駅は東京都千代田区丸の内1丁目にあります!
赤レンガの東京駅は6年半の歳月をかけ中央停車場として建設され、大正3年12月20日に開業
東京駅・中央停車場の開業した時代、そこは永楽町!
東京駅前は「永楽町」でした。八重洲それか南へ有楽町が続いていました。
東京駅は当時の麹町区永楽町に建設されました。
江戸期には「関宿藩久世家上屋敷」など武家屋敷の建ち並んでいた一帯でした。
東京駅舎の設計は、はじめ逓信省のお雇い外国人・フランツ・バルツァーによって進められました。
構造は洋風の煉瓦建築の上に 和風の瓦葺の屋根を載せ,出入口上に唐破風を付けた和洋折衷ものでした。
しかしこの案は却下され、明治36年(1903 )辰野金吾(たつのきんご)の「辰野葛西事務所」にバトンタッチされました。
辰野は、バルツアーの案に対し「赤毛の島田髷」と評したと伝えられています。
しかし平面構成はバルツアーの案を踏襲し、南から乗車口、帝室口、市内電車口、降車口と配しました。
辰野はそうした構造に、留学時にイギリスで目にしていた赤レンガに白い石を帯状に配する華やかな様式を採り入れました。
名称は建設段階では「中央停車場」と呼ばれていましたが、大正3年12月15日駅舎は完成し「東京駅」と名づけられました!
辰野金吾のプロフィ-ルと活躍 嘉永7年(1854)~大正8年(1919)
肥前国(佐賀県)唐津藩の下級役人の次男として生まれました。のちに叔父・辰野家の養子となりましたが、そのごの経緯は省略しましょう。
工部大学校(帝国大学工科大学=東京大学工学部)を卒業。
のちに工学博士となり、帝国大学工科大学学長、建築学会会長をつとめました。
設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれたといわれています。
帝国大学で後進の指導につとめ、伊東忠太、武田五一、中條精一郎、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らを世に送り出しています。
大隈重信、ジョサイア・コンドルの要請を受け、早稲田大学に建築学科を創設し、その顧問に就任。
工手学校 (工学院大学) の創立を推進し、その運営に尽力しています。
東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子です。
辰野金吾は西新宿の常円寺に葬られています。お墓参りをしたい人は☛コチラからどうぞ!
『日本風景風俗写真帖』(明治43年/1910〉)国立国会図書館所蔵
関東大震災にはびくともしなかっ東京駅。
揺れには強靱だったが空襲には耐えきれずドームと3階が焼け落ちてしまいました。
駅舎は鉄骨煉瓦造のルネサンス建築で完成しました。
『日本風景風俗写真帖』(明治43年/1910〉)国立国会図書館所蔵
建設は「大林組」、鉄骨製作・組立ては「石川島造船所」(「IHI」)が請け負いました。
煉瓦は渋沢栄一らの設立した「日本煉瓦製造」(深谷市)のものが使用されました。
※日本煉瓦製造 明治20年(1887)、ドイツ人技師たちによってに操業がはじめられました。
日本煉瓦製造の煉瓦を使用した建造物には、丸の内では東京駅・旧三菱第2号館、ほかに万世橋高架橋/司法省(現在の法務省旧本館)/日本銀行旧館/赤坂離宮/東京大学/越線碓氷峠の鉄道施設などがあります。
当初は3階建てで中央口を皇族専用とし、南北に丸いドーム屋根の出入口を配し、丸の内南口が乗車、丸の内北口が降車専用と区別され、これは昭和23年(1948)まで続けらていました。
丸の内の要人~「鉄道の父」・井上勝と「丸の内」の影の立役者・渋沢栄一!
ここに一枚の写真があります。タイトルが「東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会」となっています。
左端に渋沢栄一の顔がみえます。
丸の内で渋沢栄一は、東京会館の起立、東京商工会議所設立、帝国劇場建設、内幸町の帝国ホテル開場と経済・文化面で大きな業績を残しています。
そのあたりの足跡も追ってみましょう。
東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会 『東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会報告書』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
神尾加藤栃内陸海軍中将歓迎会主賓及発企人総代/向て左より渋沢男爵、八代海相、神尾陸軍中将、栃内海軍中将、阪谷東京市長、中野東京商業会議所会頭(東京市会議長)
こちらは実際の丸の内の駅前広場です。
ここに佇立した大きな銅像があります。「正二位勲一等 子爵 井上勝君像」と刻まれています。
井上勝銅像・正二位勲一等 子爵 井上勝君像
東京駅正面から皇居を向く形で立てられていましたが、いまは駅前広場の北西端から駅舎中央を向いています
井上勝(いのうえまさる) 天保14年(1843)~ 明治43年(1910)。
もうひとり井上馨がいるので、おまちがいないよう。
長州藩士。。明治になり鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称されています。正二位勲一等子爵。、
日英博覧会の参加とヨーロッパの鉄道視察を目的とした渡欧の途中、明治43年(1910)8月2日、イギリスで亡くなりました。
遺体はロンドンで荼毘に付された後に日本へ運ばれ、品川の東海寺に埋葬されました。享年66歳。
井上亡きあとの鉄道事業は原敬や後藤新平らに引き継がれていきました。
東海寺の大山墓地にある井上勝の墓は「鉄道記念物指定」になっています。おとずれたい人は☛コチラ
初代像があつた場所に近いところに設置されています
大正3年(1914)、本山白雲(代表作・桂浜の坂本龍馬像)の制作により東京駅丸の内側の駅前広場に設置されました。
が、しかし戦時中の金属供出に伴い撤去され、のちに井上勝の没後50年を機として、昭和34年(1959)、朝倉文夫の制作により再建されました。
君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建
渋沢栄一は井上勝銅像の除幕式に参列してます。それを『渋沢栄一伝記資料』」からみてみましょう。
大正3年12月6日(1914年)
是日栄一、東京駅前広場ニ於テ挙行セラレタル、井上勝銅像除幕式ニ出席シテ、追悼演説ヲナス。
また「竜門雑誌」には、
井上子爵の銅像除幕式 我邦鉄道界の元勲故子爵井上勝氏の銅像除幕式は、十二月六日午後二時より新設東京駅前広場に於て挙行せられたるが、青淵先生にも式場に参列し一場の追悼演説を為したりとなり
と、あります。NHKの大河ドラマ「青天を衝け」では、二人のふれあいばどう描かれているのでしょう。
竜門雑誌 渋沢栄一の理念に共鳴する経済人らが集い、たがいの知識や徳性の向上を目的に「龍門社」が組織されました。
命名者は栄一の師にして従兄かつ義兄の尾高惇忠。鯉が滝を登り成長して龍となるとの中国の故事にちなんだものといいます。
起立は深川福住町の渋沢栄一邸でした。初代社長は渋沢篤二(栄一長男)、指導者は尾高惇忠(おだか・あつただ)、「龍門雑誌」を機関紙としました。
栄一が唱える道徳経済合一主義の下に、その推進活動を目的に掲げる財団法人となりました。今日の、「渋沢栄一記念財団」の母体となったものです。
丸の内は一丁ニュ-ヨ-ク(紐育)と呼ばれるビジネス街へ!
東京駅が大正3年(1914)に開業すると、丸の内の北側もオフィス街として発展してゆき、その中心は馬場先通りの「一丁倫敦」から、行幸通りへと移行。
東京駅と行幸通りが整備され、それに伴い、「一丁紐育」(一丁ニュ-ヨ-ク)と呼ばれるようになりました。
一丁ロンドンの装飾性のある英国式赤煉瓦造りに比べ、外観をあっさりとまとめ、巨大な平面と高さを併せ持った、米国式の効率よいフロア活用のオフィスビが建てられました。
まず大正6年(1917)、「東京海上ビル」(現・東京海上日動ビル)が竣工。
これを皮切りに、大正12年(1923)日本郵船の「郵船ビルディング」、「丸ビル」(丸ノ内ビルヂング)といった近代的なビルが続々と姿を現すことになりまし。
関東大震災後、高層ビル群が連なるビジネス街へと発展し、それが平成へと続いて今日に至るわけです。
ではこのあたりでその丸の内への散歩に入ることにしましょう。。
ついでですか、このあたりを切絵図でみますと、新丸ビルは阿部伊勢(備後福山藩・阿部家)、丸ビルは松平内蔵(備前岡山藩・池田家)の屋敷地に相応しているのがわかります。
東京駅は、平成24年(2012)10月1日にリニューアルオープン!
「東京駅」は「太平洋戦争」で被災し、戦後、「丸の内駅舎」は階数を減らして復興されていたが、平成24年(2012)、開業当時の姿に復原され、重要文化財になりました。。
東京駅の景観スナップ
ふかや
東京ステーションギャラリー
丸の内北口改札を見渡す2階の回廊にあります。らせん階段では、東京駅創建当時のレンガを間近に見ることができます。
回廊に歴代の東京駅の模型があります。
入館料は展覧会ごとに異なっております。詳細はお問い合わせください。
開館時間 10:00~18:00 金曜日/10:00 -~20:00
休館日 月 年末年始。(祝日の場合は翌火)
TEL 03-3212-2485
さて、丸の内の北口から散歩スタ-トです。
丸の内の面影と今昔をたどってみましょう。
北口から皇居方面に進むと最初の信号を渡った道路の右角に褐色を帯びたクラッシックな建物があります。
日本工業倶楽部会館(国登録有形文化財) 日本工業倶楽部は大正6年(1917)、当時の有力な実業家が協力して我国の工業を発展させる目的をもって創立された親睦団体で、初代の理事長は三井の団琢磨でした。屋上のてっぺんをよく見てね!
設計は横河工務所(横河民 輔・松井貴太郎他)で、大正9年(1920)竣工されました。
建物は平成15年(2003)に建てかえられ、旧館の南側部分が復元保存されています。
建築学の用語でいわれる、セッション様式の本格的な建物として貴重なものだそうて゜す。
現在は財界人の交流の場として利用されています。
屋上のてっぺんにあるオブジェ
小倉右一郎作・二人の人物像
正面の屋上を眺めてみると男女ふたりの像があります。男性はハンマー、女性は糸巻きを手にした像です。
これは、当時の二大産業であった石炭と紡績を象徴したものだそうです。
大名小路 日本工業倶楽部ビルを初めとして、丸ビル、新丸ビルと、南北に通ずる道路が江戸時代に「大名小路」といわれた通りにあたります(切絵図参照)。
その大名小路を北に進んで西側、道路に面した柱の壁面に石版のプレートが嵌め込まれています。
電話交換創始之地(東京電話交換局跡) 明治23年(1890)に東京市内及び横浜~東京間で電話交換が開始されたことを示すものです。これと同形式の碑が横浜にも設置されています。
東京電話交換局跡 明治廿三年十二月十六日創始 紀元二千六百年 逓信省
丸の内再構築で建替えられる前は、三菱信託銀行本店ビルの壁面に貼られていたが、建て替え後、同時に建て替えられた日本工業倶楽部ビルの壁に貼られた。明治23年に、我国電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、創業に向けて本格的に準備が始められた。まず東京と横浜で交換が開始されることとなり、東京は4月、横浜は6月に電話交換事務所が設置され、12月16日から交換業務が開始された。
この一帯には以下のようなものがありますのでちょっとご案内しておきます。
〇三菱UFG信託銀行 信託博物館(日本工業倶楽部会館)
〇実業家資料室(日本工業倶楽部会館)
〇三井住友銀行東館 ライジング・スクエア
1階は地球の今がわかる『アース・ガーデン』。不定期に企画展、フリーコンサートがおこなわれています。
2階は『金融/知の「LANDSCAPE」で金融に関わる歴史や偉人などのコンテンツ展示されています。
詳細についてはお問い合わせください。
永代通りにぶつかったら左に進みます。まっすぐ行くと大手門にぶつかります。通りが丸の内と大手町の境界線になります。
丸の内の歴史を反映した「丸の内永楽ビルディング」
永楽町 大手町1・2丁目の一部と丸の内1・2丁目の付近。明治5年(1872)~昭和4年(1929)4月14日まであった町名で、永楽銭が発掘されたという説などによるものといわれます。
※永楽通宝(えいらくつうほう) 中国明代の第3代皇帝永楽帝の永楽9年(1411)より鋳造され始めた銅銭。室町時代に日明貿易などによって大量に輸入されました。
大正15年の丸の内略図/評定所及び伝奏屋敷跡の説明板
江戸時代この永楽ビル一帯には幕府の機関がありました。
浅野内匠頭、松の廊下事件
伝奏屋敷跡 朝廷の勅使・院使の宿舎及び勅使の饗応接待場所。広さは2.530坪あったといいます。
勅使は毎年、3月上旬に年頭の挨拶に下向するのが習いで、、その際に宿泊したのがこの伝奏屋敷。
勅使の滞在中は饗応役を命じられた大名が一切の世話をしました。元禄14年(1701)の勅使饗応役を申し使ったのが有名な「忠臣蔵」の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)。
評定所跡 寛永12年(1635)におかれた幕府の訴訟裁判の最高機関。三奉行 (勘定奉行・寺社奉行・町奉行)が裁けないような重大事件を扱いました。はじめは江戸城外の辰ノ口におかれたことから辰ノ口評定所ともいわれたようです。また、明暦の大火以前は酒井忠清(老中)と安藤重長(寺社奉行)の屋敷におかれたひこともありましたが、、焼失しことから、以降は伝奏屋敷を仕切って評定所を置いたいわれます。
永代通りをゆくと左側に最近にわかに人気の出てきた通りがあります。
丸の内仲通り 晴海通りから永代通りまでを結び、大名小路・日比谷通りに並行しています。
樹木が配された丸の内仲通り
近年は通りの両側に街路樹が施され、冬にはイルミネーションされるので有名な通りになっています。
通りに面して三菱グループのビルがスラリと立ち並び俗に、「三菱村」と囃されています。
江戸時代は大名小路と同じく各藩の大名屋敷が連なっていところです。
この通りは彫刻や絵画をみながら散歩できる丸の内ストリ-トギャラリ-という美観通りになっています。
近代彫刻や世界で活躍する現代アーティストの作品を展示しています
そのまま大手門まで進み、内堀に沿って日比谷通りにぶつかったら左に曲がりましょう。
大手門は徳川時代を通じ江戸城の正門・表門として使用されてきた門で、慶長12年(1607)に築城の名手である藤堂高虎が建造し、その後に伊達政宗らが修復したといいます。
そちら方面の散歩は別の機会にします。
日比谷通りを行くと右手に和田倉濠があり和田倉御門に和田倉橋が架かっています。和田倉濠には日本橋川から分岐した「道三堀」が通じていました(切絵図参照)
右手からの斜めの堀割が「道三堀」
和田倉門と橋/東京小川一真出版部風景国立国会図書館デジタルコレクション
和田倉門 多くの大名が登城する毎月1日、15日、38日には臨時の通用門にもなりました。
旧江戸城の中でも木橋は「平川橋」と、この「和田倉橋」だけです。
木橋を渡ると元和6年(1620)に改築された「和田倉門」の桝形や渡櫓を支えていた石垣が残っています。
桝形を抜けると「和田倉噴水公園」へ行けますが、ここではエリア外となりますので割愛します。
八重洲河岸 江戸時代、和田倉濠のあたりには河岸があり、江戸城への物資を荷揚げする場所となっていました。
八重洲河岸には徳川家康の外交顧問として重用されたオランダ人のヤン・ヨーステン、日本名・耶揚子(やようす)の屋敷がありました。
河岸の名は彼の名にちなみ八代洲河岸(ヤヨスガシ)と呼ばれ、それが八重洲に変化ししたものといわれています。
今では八重洲というと東京駅の東口側ですが、もともとは内堀沿いの地名だったわけです。丸の内となるまでは八重洲という町名もありました。(切絵図参照)
日比谷通りの左手、和田倉橋の近くには、高層ビルにはりついたような煉瓦造りの建物があります。
東京銀行協会ビル 東京銀行集会所として大正5年(1916)に建てられた煉瓦造の二階建。外壁のうち2面を残し、平成5年に内側に新築ビルが建てられました。
低層部が「ファサード保存」と呼ばれる保存形式の代表的な建築となっています。(これを機にこうした形での保存が広がった)
近代建築の保存形式で、俗に「瘡蓋建築」(かさぶたけんちく)とも称されています。
低層部からは「1丁ロンドン」と呼ばれたころの趣をうかがい知ることができます。
東京駅と行幸通りが整備され、それに伴い、「一丁紐育」(一丁ニュ-ヨ-ク)と呼ばれるようになりました。
道の両側には米国式の効率よいフロア活用のオフィスビが次々と出現しました。
行幸通りの声居側
行幸通り 東京駅の開業に合わせ、大正3年(1914)に開通しました。
皇居の内濠からまっすぐに東京駅へと延びる40間(約72m)幅の道路で、町並みが「一丁紐育」といわれました。
上部中央に 林大学頭屋敷、定火消屋敷(安藤広重生誕地)がみえます
日比谷通りをさらに進むと左手にどっしりとした「明治生命館」の建物がみえます。
この一帯には著名人として林羅山と広重がおりました。
林大学頭屋敷跡
岸本ビルの一帯がその跡といわれています。
家康の時代、林羅山が最初に儒官となり、5代将軍の綱吉が、湯島聖堂を建設しそこを儒学の本山としました。
羅山の孫・林鳳岡(はやしほうこう)が大学頭を命じられ、この地に屋敷地を拝領しました。以降、林家が世襲制でこの任に就いています。
もうひとりは浮世絵師の安藤広重です。明治生命館一帯が定火消屋敷でした。
定火消御役屋敷・安藤広重誕生地 八重洲河岸に幕府直属の消防団・定火消の組屋敷がありました。広重はその火消長屋で寛政9年(1797)、火消同心・安藤源右衛門の子として生まれました。
文化8年(1811)、15歳の時に初代・歌川豊国の門下に入ろうとしたが断られ、歌川豊広に教えを受け、翌9年(1812)広重の号を与えられ、歌川広重を称しました。
初めは美人画など書いていましたが、天保5年(1834)「東海道五十三次」を描き始め、一躍風景画の第一人者となりました。
葛飾北斎とは対照的な画風で、客観的な自然描写で、情緒豊かな日本的風景画を完成しました。
殊に雪・雨・月を取り入れたものは世界的にもてはやされました。他に「東都名所」「江戸近郊八景」「江戸百景」など描いて浮世絵界をリ-ドしました。
のちに一立斎と改め、安政5年(1858、)、ここからほど近くの京橋で61歳の生涯を閉じています。
10本のコリント式の列柱が5層を貫いています。柱は中ほどがやや膨らんだエンタシスになっています。
明治生命館 昭和5年(1930)に解体された三菱二号館の跡地に、昭和9年(1934)3月に明治生命の本社ビルとして竣工しました。
設計は岡田信一郎で、3年7ヶ月の歳月をかけて完成したといいます。
古代ギリシア・ローマを源流とした古典主義様式の傑作と高く評価され、日本の近代洋風建築の発展に寄与した代表的な建造物といわれています。
昭和20年(1945)9月12日から同31年7月18日までの間GHQに接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用され、この間、同27年まで2階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用された歴史的な部屋として有名ですね。
2階には重厚な雰囲気の漂う会議室があります。そして、この会議室は、第1回対日理事会が開催された歴史的な部屋でもあります。
馬場先通りを渡ると左手にかつてあった東京会館と東京商工会議所を一体化したビルがあります。
渋沢栄一の起した東京商工会議所は丸の内でその歴史を伝えています!
「丸の内二重橋ビル」全景と渋沢栄一。低層部が「東京會舘」(東京商工会議所パンフレットトより)
明治11年(1878)3月、東京商法会議所が我が国初の商法会議所として設立されました。
商工業の総合的な発達と社会一般の福祉の増進を目的にしたもので、初代会頭は渋沢栄一でした。
はじめは銀座6丁目、采女橋の近くに開かれました。そこには「東京商工会議所発祥の地」の石碑があります。
明治24年(1891)、「東京商業会議所」へ改称。
赤丸のところが東京商業会議所
明治32年(1899)7月、丸の内の現在地に東京商業会議所ビルが完成しました。
塔のあるルネサンス式の赤煉瓦のビルで、設計は妻木頼黄(つまきよりなか)。「関東大震災」でも損傷しなかつたが、昭和20年(1945)、「太平洋戦争」中の空襲で焼夷弾の直撃を受け、内部は全焼してしまいました。
※妻木頼黄 幕臣旗本の出身。工部大学校造家学科(東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。辰野金吾の後輩。何といっても知名度を高めたのは「日本橋」の設計でしょう。ほかに、「東京府庁旧横浜正金銀行本店」(現・神奈川県立歴史博物館)/旧醸造試験場第一工場(北区)/旧横浜新港埠頭倉庫(横浜赤レンガ倉庫)といったものがあります。
昭和3年(1928)、名称が「東京商工会議所」に改められました。
残念なことに初代赤煉瓦の「東京商工会議所ビル」は昭和35年(1960)年に8階建てのビルに建替えられました。
平成27年(2015)より隣接する「富士ビルヂング」「東京會舘」と一括で建替えが進められ、平成30年(2018)に「丸の内二重橋ビル」として竣工しました。
東京商工会議所ビルの6階には「東商渋沢ミュージアム」があります。
初代の東京會舘(国立国会図書館蔵)
東京会館 社交の重要性に気づいたのも渋沢栄一でした。
安田善次郎らを紹合し社交場建設を提唱し、それによって人々が集う社交場として東京会館が大正11年(1922)に開場しました。当初から本格的なフランス料理が提供されるところとして人気となりました。
社交場の活用がまだ一般的でなかった時代に、渋沢栄一は民間でのこうした社交場の誕生を心待ちにしていました。
このときの開館式で栄一は祝辞を述べています。
この初代本館は田辺淳吉設計、清水建設によるルネサンス様式のものでした。渋沢栄一にとっては飛鳥山の渋沢本邸を手がけたゴ-ルデンコンビでした。
※田辺淳吉 清水組(清水建設)の技師として、後に独立。渋沢邸の誠之堂、渋沢家飛鳥山邸の晩香廬・青淵文庫などが現存しています。
二代目時代のシャンデリアをそのまま引き継いでいます
昭和16年(1941)、太平洋戦争が勃発したとき「大東亜会館」に改称され、
昭和20年(1945)、GHQに接収され「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」として営業するという時代がありました。
昭和46年(1971)12月、谷口吉郎の設計で建て替えられたクラシックの中のモダンを提唱する二代目か開場。
えんじ色のカーペットにシャンデリア。色彩と演出のこだわりが注目されました。
世界的芸術家や政財界の大物が訪れたことで、その伝統が語り継がれています。
そして三代目の「東京會舘」が新しく誕生したわけです。
日比谷通りを進むと、左手に帝国劇場があります。
渋沢栄一が文化の礎にと願った帝国劇場が丸の内にオ-プン!
帝国劇場
明治維新へ突入寸前の幕末、渋沢栄一はフランスのパリにいました。
慶應3年(1867)、江戸幕府が派遣した「パリ万博使節団」の一員として参加していました。
ナポレオン3世の歓待、先進国の西洋文明、文化、多くのものを肌で感じました。
そのあたりのことを、幸田露伴著『渋沢栄一伝』からみてみます。
28日(5月2日)風船(軽気球)を観、29日(同3日)仏帝の催(もよおし)にて看劇し、其の所謂(いわゆる)劇なる者、当時の我国の芝居とは雲泥の差あり。【略】宏麗の館、優美の曲、音楽舞踏、幻化百出、絢爛(けんらん)雅麗(がれい)、花の如く錦の如くにして万人を悦ばしむるに足り、且(かつ)重礼大典等ありて其事終れば、帝主の招待ありて各国帝王、使臣等を餐遇(きょうぐう)慰労する常例となり居(おり)、国家交際の一具となり居れると看た。
ここに栄一の劇場建設への萌芽がみられます。これがのちに大きく花開いて帝国劇場となったといっていいでしょう。
『渋沢栄一伝記資料』(第27巻)
明治39年(1906)年10月18i日(木) (66歳) 渋沢栄一、帝国劇場発起人会で創立委員長に推薦される
とあります。栄一は委員長を承諾、明治40年(1907)の創立後tから大正3年(1014)まで取締役会長として帝国劇場に関与しました。
また、以下のような内容がみられます。
沿革
当社は明治四十年二月青淵先生、福沢捨次郎、大倉喜八郎、荘田平五郎、西野恵之助諸氏其他三十余名胥謀り、資本金百弐拾万円を以て創立したるものなり、其趣旨たる、演劇は一面に於て一国の文野を反映するものなるに、之を演せしむへき我国在来の劇場は、其構造設備に於て大に欠くる所あり、此の如きは一等国の体面より見て、宜しく改善すへきものなりとの見地より計画せられたるものにして、地を麹町区有楽町馬場先門外に卜し、工学士横河民輔氏工事の設計監督を為し四十一年十二月を以て礎石式を施行し、今其建築中にして全部の完成は本年十二月の予定なり、建坪総計六百三十坪、間口十七間余、中央部二十五間、奥行三十三間、高さ前部五十七尺後部六十六尺、構造は耐震防火的鉄骨煉瓦石造にして、外部は装飾煉瓦を用ひ、洋式は「イタリアンレネーツサンス」に法れるものなりと云ふ、一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の発起者創立委員長にして、今現に其取締役会長たり、一 現任役員
取締役会長 男爵渋沢栄一 専務取締役 西野恵之助
取締役 大倉喜八郎 取締役 福沢桃介
取締役 日比翁助 取締役 田中常徳
取締役 益田太郎 取締役 手塚猛昌
監査役 浅野総一郎 監査役 村井吉兵衛
そうそうたる財界メンバ-が顔をならべています。
こうして日本初の西洋式演劇劇場が、明治44年(1911)3月1日に竣工しました。横河民輔の設計によるルネサンス建築様式の劇場でした。
杮落し公演は3月4日初日。収容人数は1.897人。
「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文が流行したといわれています。
冠に「帝国」とついていますが、国の資本が入ったことはなく、実業家たちの民間資本で作られた劇場でした。
のちにシネラマの洋画ロードショー館となり、昭和39年(1964)から翌年にかけて上映された『アラビアのロレンス』を最後に解体されjました。
人物・渋沢平九郎(越生町公演ポスタ-)
ちょっと横道にそれますが、渋沢栄一は渡欧にさきだち渋沢平九郎を見立て養子にしました。
見立て養子 当時海外へ渡航する幕臣については、遠い海外で生死の程も定かではないことから、自分の後嗣を指名して行くのが決まりでした。
渋沢平九郎 渋沢栄一に大きな影響をあたえた尾高 惇忠(おだか あつただ)の弟。
惇忠の母・やへは栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉。つまり惇忠と栄一は従兄弟になります。
のちに惇忠の妹・千代は栄一の最初の妻となり、弟・平九郎は栄一の見立て養子の間柄となりました。
しかしその平九郎は、栄一の渡欧中に飯能戦争にまきこまれてしまいました。
振武軍(しんぶぐん)と飯能戦争 戊辰戦争の際に旧幕府軍のひとつとして、新政府軍と戦った戦闘部隊。飯能戦争が激戦として知られ、その戦さなか平九郎は、部隊からはぐれてしまい、黒山村(越生町黒山)で新政府軍の偵察部隊と交戦のすえ、自刃しました。享年22歳でした。
写真の通りの現代風イケメンですね。渋沢栄一の悲しみいかばかりだったか。
渋沢栄一はその死を悼み、レクエムのつもりもあったのでしょう、それをのちに脚色し帝国劇場で上演しました。明治44年(1911)のことです。
題名は平九郎が加わった戦闘組織の『振武軍』(しんぶぐん)でした。
深谷市でのオペラ「渋沢平九郎」
平九郎役は歌舞伎役者の七代目澤村宗十郎が務めたといわれます。
写真でみると七代目澤村宗十郎も水もしたたるイイ男ぶりをしています。平九郎にどんぴしゃりのキャスタングだったでしょう。
このとき栄一は出演した俳優たちに平九郎の肖像が入った扇子を贈ったそうです。渋沢栄一の感激ぶりがわかりますね。
このあたり、NHK 大河ドラマ「青天を衝け」では、どう描かれるのでしよう。まったくみていないのですが、このあたりはのぞいてみたいですね。
~東宝(株)帝国劇場『帝劇の五十年』~にはその上演記録があります。
明治44年(1911)
6月1日 演目: 楼門五三桐(南禅寺山門)、振武軍(渋柿園作 右田寅彦脚色)、鬼一法眼三略巻(菊畑)、三上山(右田寅彦作) ; 出演者: 高麗蔵ら専属男優に団蔵加入 ; 期間: 6月27日まで
また『渋沢栄一伝記資料』(別巻第十)には渋沢平九郎の自刃とその後の経緯がくわしく記されています。それをみてみましょう。
栄一の不在中、平九郎は江戸へ出て神田本銀町に居を構えていた。明治元年、鳥羽、伏見の戦の後、江戸に逃れて来た渋沢喜作を中心に本多晋、伴門五郎等の他惇忠も加わって彰義隊を結成したが、彰義隊の中心はやがて天野八郎に移り、喜作らは振武軍を起して飯能で官軍と戦うに至った。上掲遺書はこの時平九郎が家の障子に書き残したものである。五月二十二日振武軍は敗北し、翌二十三日平九郎は一人逃れて故郷に向う途中、顔振峠を黒山に下った所で官軍に遭い、小刀を振って三名を傷つけて闘ったが遂に切腹して果てた。官軍はその首を越生の法恩寺の門前に梟し、遺骸は村の人々によって黒山の全洞院に葬られた。
明治六年芝崎義行(確次郎)は栄一に命ぜられて同所に赴いて遺骨を収め、谷中の渋沢家墓地に葬った。翌七年、芝崎他三名の者に依って全洞院に墓が建てられた。明治二十六年に至って惇忠の知人から広島県士族川合鱗三が平九郎切腹の折帯びていた小刀を所持している事が知れて、小刀は渋沢家に戻された。川合は平九郎が黒山で遭遇した官軍の隊長であったのである。更に昭和十五年に至って平九郎の佩刀「月山」も渋沢家に戻った。寄贈者は青森県の佐々木磐夫氏であった。月山の銘には「応渋沢平九郎需」「摂州浪花住月山雲龍子貞一作之。慶応三卯年八月日」とある。
栄一は明治三十二年六月二十五日と四十五年四月十四日の二回黒山に平九郎の跡を弔い、大正七年五月には谷中の渋沢家墓地内に追懐碑を建てた。昭和二十九年三月には黒山に「自決之地」(渋沢敬三書)が建てられ、同三十九年には越生の法恩寺境内に「埋首之碑」(渋沢元治書)が建てられた。黒山全洞院の墓は今日は土俗的な信仰の対象とさえなっているのである。
劇化や自刃の記録などからみて、渋沢栄一の慟哭がいかばかりだったかが読みとれます。
わたしは8年ほど前にNHK文化センタ-の生徒と越生の観梅と併せ、平九郎自刃の地ほかを歴史探訪しましたが、ここにこう記すことになろうとは思いもよらぬことでした。
『振武軍』という歴史ドラマがどのようなものであったか、脚本を探しているのですが、いまのところみつかっておりません。
どなたか手がかりがあったらご連絡ください!
旧第一生命館と「DNタワー21(第一・農中ビル)」
旧第一生命館 第一生命保険本館として昭和 13 年(1938)に竣工されました。設計は渡辺仁。
建物の外観に就ては皇都第一の美観地域であることを考慮して、華美に走らぬよう、御濠に面する西側のみに10本の方柱を立て美観を添えたといいます。
そのほかは壁面と窓との諧調を主とした鉄骨石造の極めて簡明な外観に仕上げられた、装飾制をおさえた建物にしたといわれています。
装飾を排したシンプルなモチーフの力強いデザインでまとめられたという主旨がよく伝わってくる建物ですね。
終戦直後の昭和20 年(1945)9 月にGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、昭和27 年(1952)7 月に返還されるという歴史をふんでいます。
ときのマッカーサー総司令官室が保存されています。
そうした歴史と伝統を土台に旧第一生命館をとりこんであたらしく完成した「DNタワー21(第一・農中ビル)」。
旧建物を保存改修をこれからの超高層にどう組あわせるか。
丸の内の歴史的建築物の保存手法に一石を投じたものとされています。
渡邊仁(1887~1973)
大正元年(1912)、東京帝国大学建築学科卒業後、鉄道院、逓信省を経て、大正9年(1920)独立して渡邊仁工務所を開設。
代表的作品として「横浜ホテルニューグランド」昭和2年(1927)/「銀座服部時計店(現・和光)」昭和8年(1933)/「東京帝室国立博物館(東京国立博物館)」昭和12年(1937)など一級の建物を残しています。
日比谷公園を右にみて、晴海通りを東に向かい、、一つ目の通り「仲通り」を歩きましょう。
馬場先通りを渡って右に曲ると大名小路にぶつかります。
その左角に「三菱一号館美術館」があります。
三菱一号館
明治27年(1892)年1月、丸の内に最初のオフィスビル「三菱第一号館」(当初は「第一号館」と呼ばれた)か竣工しました。
まさに近代の夜明けともいっていいでしょう。
西洋風の外観を持つ赤煉瓦造りで、設計は三菱の建築顧問であったジョサイア・コンドルでした。
三菱一号館美術館 昭和43年(1968)、「三菱一号館」は解体され、跡地には「三菱商事ビルヂング」、そのあと平成21年(2009)に「丸の内パークビルディング」が竣工、。
この時に「三菱一号館」が復元され、翌年「三菱一号館美術館」が開館しました。
三菱一号館あたりの江戸
池田家上屋敷表門
馬場先通りの南側、松平土佐守(東京国際フォーラム)の西側、大名小路から西の一帯は因幡鳥取藩池田家の上屋敷でした。
三菱1号館のところものちに池田家の中屋敷となっています。
その鳥取池田家上屋敷表門が大名小路に面してありました。
現在は東京国立博物館に重要文化財として移築されています。
大名小路をはさんだ東側、東京国際フォーラムの一帯は高知土佐藩の上屋敷でした。
東京府庁跡 土佐藩の跡地がそれにあたります。都庁は新宿に移転するまでここにありました。
「東京都指定旧跡「東京府庁舎跡」
所在地 東京都丸の内三の五の一
指定 昭和30年3月28日(旧跡)
所有 東京都(産業労働局)
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市と東京府が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。かつて、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。」
大名小路を北に進むと東京駅前広場に到着します。
途中に丸の内ブリックスクエアの要塞のような壁面がずらっと並んでいます。
丸の内パークビルから三菱一号館、一号館広場を総称して丸の内ブリックスクエアと名付けられています。
丸ノ内八重洲ビルヂングの外壁の一部(ファサード部分)を再利用したものだそうです。
丸の内にもってくると異色ですね。
三菱ビルのウインドウ
三菱ビルを過ぎると丸ビル、東京駅前広場です。
両丸ビルの間の通りが「行幸通り」。かつては「一丁ニュ-ヨ-ク(紐育)」と呼ばれるビジネス街でした。
丸ビル(丸の内ビルディング)
大正12年2月20日竣工した、すこぶる異色なオフィイスビルで注目をあびました。
食ふ物 買ふ物 何でもかんでも間に合う、頗る便利に出来上がったビルディングとして人気をほこりました。
「公衆の出入り自由」のビルとしたことはあたったようです。
歴史的には「ビル内商店街」の発祥の地、「複合ビル」の第1号とも囃されたようです。
千差万別、あらゆる階層の人たちが三菱の店子として入り、ビルそのものが知性的で文化的な雰囲気を生み出す源にもなっていたようです。
例えば、高浜虚子は丸ビルがたいそう気に入り、建物の竣工前から「ホトトギス」の発行所に丸ビルの一室を契約したという逸話は有名ですね、
「古いもの新しいものはだんだん調和していく」(本文より)と丸ビルの新感覚のライフスタイルをエンジョイしています。
ではよかったら、その虚子による「丸の内」という14のエッセーで往時の丸の内の風景を満喫してみてください。実におもしろいですよ。
昭和2年(1927)/東京日日新聞の連載「大東京繁昌記」) /高浜虚子 「丸の内」
丸の内は昔からお城とお濠と曠野――草原――があることに相場がきまっていた。やはり曠野のままにして置くのもよかろう。
が、又八階九階のアメリカ式のビルディングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの界隈一帯も大ビルディング街となるかもしれぬ。
東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルディング街、また右翼にもだんだん立ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く曠野としての存在は許さないであろう。
今の丸の内は大きなビルディングが目覚しく突っ立っている。また現に立ちつつある。(略)けれどもそれ等の外には空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田園の中に建物がぼつぼつ建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。(略)
丸の内現象というか、丸の内ブ-ムみたいな空気があったのでしょうね。
それにあやかって流行歌もできました。
「東京行進曲」 作詞・西条八十 作曲・中山晋平
1.昔恋しい銀座の柳
仇な年増を誰が知ろ
ジャズで踊ってリキュルで更けて
明けりゃダンサーの涙雨
2.恋の丸ビルあの窓あたり
泣いて文かく人もあろ
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の思い出に
4.シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で逃げましょか
変る新宿 あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る
昭和4年、空前(25万枚)の大ヒットとなったこの歌は、菊池寛の同名小説を日活が映画化した時の主題歌でした。
レコード化され、日本ビクターから発売され、当時25万枚売れたそうで、それは現在だったら500万枚にも匹敵するんだそうです。
さて東京駅前の中央郵便局のところに舞い戻ってきました。
東京中央郵便局 ここの住所は千代田区丸の内2丁目7番地2号です。
かつて江戸時代は真田信濃(信州松代藩・真田家)ほかの藩邸がありました。
明治4年(1871)、日本橋に開設され「四日市郵便役所」を前身としたもので、明治43年(1910)に「東京中央郵便局」となりました。
「東京駅」の建設に合わせ郵便物の搬送に便利な駅前局舎として、大正6年(1917)に完成お目見えしました。
しかしこの局舎は火災で焼失、再建計画中に「関東大震災」が発生、ようやく昭和6年(1931)新局舎が竣工、昭和8年(1933)開局となった建物です。
建設当時、このビルの機能や構造は世界最高水準といわれ、装飾が省かれたデザインは、当時の建築美を追求したものと評価されたものでした。
散歩の記念に丸の内の「東京中央郵便局」からお手紙を投函してみるのもいいでしょう。
では丸の内の散歩はここで〆といたします。
とてつもなく長編になってしまったようぶす。途中であきられちゃうかも。
このあとまだ続きがあるのですが、ひとまずここでストップします。
それではまた。