今日の散歩は江古田・哲学堂の界隈(中野区)哲学で遊び緑と古戦場探訪!

「江古田」は「エコダ」か「エゴタ」か。

西武池袋線に「江古田駅」があります。こちらは「エコダ」の表記。駅名だけで町名はありません。

日大芸術学部、武蔵野音大、武蔵大学といった、学生の街のイメ-ジが強いところで、

町名もないのに「江古田の街」などといわれたりします。

一方、中野区の町名に江古田があり、こっちは「エゴタ」と呼ばれ、れっきとした広い町域を作っています。

つまり本来の「江古田」で、すでに室町時代から村立のあった由緒あるところ。

ですが、普通に江古田といったら、だいたい西武線の「エコダ」をさす人が多いみたいです。

ちなみに都営大江戸線の新江古田駅は「しんえごたえき」と呼びます。

番地は中野区江原町ですが、駅構内は中野区と練馬区の境界線上に所在しています。

都内でもややこしさのつきまとう名称です。

で、ここでは「エゴタ」、つまり由緒ある中野区江古田のエリアをとりあげてみました。

というわけで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

散歩でひと息いれたいとき、木陰で瞑想にふけりたいときに役立つ折りたたみ椅子。
座面が尻にフィットしてとても座り心地がよいのです。
どっこい耐荷重100kgとゆけますよ。

緑の散歩道~「江古田の森公園」のグリ-ンシャワ-を浴びにゆこう!

さかのぼって江戸戸時代。もちろん村です。江古田村の一帯は庄左衛門組(のち太左衛門組)と孫右衛門組に分かれていて、江戸末期に喜兵衛組が加わって三組の構成だったそうです。明治維新後はまとめて一村で、明治22年の「市制町村制」により野方村大字江古田となり、さらに東京市に編入されて中野区江古田1~4丁目が生まれ今日に至っているようです。

江古田の由来には以下があります。どれもこじつけ説のようで?マ-ク付きですね。、

  • エゴノキの原を開墾し、川端にエゴノキを植えたことによるといもの。
  • アイヌ語の「集団・密集」を意味する言葉によるというもの。
  • 江(中新井川)の傍に古田があったことによるもの。

ところでさきほどの、西武池袋線の江古田ですが、所在地は練馬区旭丘です。

かつてあのあたりは江古田村の飛地で「江古田新田村といわれ、明治22年(1947)上板橋村の大字となり、昭和7年板橋区江古田町に、※同22年に練馬区へ移管され、同35年に旭丘となりました。

※練馬区は昭和22年(1947)、「板橋区」から独立し、東京都の23番目の区として誕生しました。

散歩の起点は「新江古田駅」からにしましょう。

地上に出ると真ん前を「目白通り」が東西に、「江古田通り」が南北に走っています。

その交差点から江古田通りを200メ-トルほど下り、ひとつめの信号を右にゆくと中野区・練馬区の区境になります。

区界の交差点で左に入ると水の涸れた江古田川にぶつかります。

江古田川(えごたがわ)   練馬区豊玉南付近(水源は学田公園の溜池とされますが…)の湧水を合わせた川で荒川水系の一級河川です。

練馬区では中新井村を流れていたことから中新井川とも呼ばれていました。練馬区と中野区の境界を流れ、「江古田の森公園」の北辺から中野区に入り、江古田地域を流れた後、松が丘の江古田公園の近くで妙正寺川に合流しています。

かつては千川上水からの分水が3つあったようです。通常は水量はなく、真ん中に溝が切られた小河川の構造になっていますが、大雨が降ると急増水するんだそうです。

橋を渡ると「江古田の森公園」(えごたのもりこうえん)になります。

橋を渡り寺山台地という一帯に広がる「江古田の森公園」をしばらく散策してみましょう。

橋の欄干に「江古田獅子舞」の行列絵巻の一部が描かれ、由来説明があります。

近世には将軍の鷹狩り場として指定され、明治に入ると茶や桑が栽培されるところとなりました。

「江古田の森公園」は中野区の桜の名所にもなっています。

既存樹林をたっぷりと生かした緑の深い公園で、中野区立の広域避難場所、防災公園にも指定されています。

かつては旧日本陸軍の中野病院が設けられ、のち国立の結核患者隔離病棟(国立療養所中野病院)が作られました。

この国立病院跡地、約6万平方メ-トルに保健福祉施設などを付属させ平成19年(2007)に開園しました。

国立療養所中野病院   

大正9年(1920)、結核の療養所として、東京市療養所の名で創設され、昭和18年(1943)に日本医療団へ移管、

同22年(1947)、厚生省へ移管され、国立中野療養所として発足し、同42年(1967)国立療養所中野病院に改称、

平成5年(1993)、国立病院医療センターに統合され閉院となりました。

江古田遺跡   この公園の一帯は、三方を江古田川に囲まれた標高30メ-トル前後の舌状台地となっており、通称「寺山台地」と呼ばれ、古代からの生活の跡がみられます。縄文土器が大量に採取され、縄文後期の集落跡が発掘されたほか、中世の寺院や居館の遺構なども出土しているといいます。(「中野区立歴史民俗資料館」でその一部をみることができます)

江古田の森公園がおわると広い道路をはさんで、やはり江古田川ぞいに「中野北江古田公園」が続いています。こちらの公園がさきに開かれたようです。道は広い「江古田通り」につながっています。

その当時、邸宅前の江古田通りは「チャンチキ通り」といわれていました。三波春夫の初期のヒット曲「チャンチキおけさ」に因むものでした。

公園がおわると、正面が広い三角地帯となり何棟ものマンションが建ち並んでいます。かつて「三波御殿」と呼ばれたところです。

三波御殿跡   東福寺の裏手にあたり本田山といわれていた高台。歌謡界の大御所だった三波春夫の住んでいた通称「三波御殿」が広がっていました。今はマンション(ベルテ中野江古田)に建て替えられています。

中野区江古田の古社寺散歩~将軍御膳所寺と伝統芸能・獅子舞の残る神社!

江古田通りを下ると十字路に出ます。そこを右に行くと本田山を全部占有するほどの大きな寺があります。

東福寺   金峰山施尊院東福寺。真言宗豊山派の寺です。建久年間(1190~99)、江古田村の信心厚い住人・堀野二郎右衛門が、御嶽神社の社僧の教化(きょうげ)を受け神社南麓に堂宇を建てたのがはじまりといいます。御嶽神社は大正2年(1913)氷川神社に合祀されました。

本尊の不動明王立像は、弘法大師の手になる一本彫りといいます。

右手の一段と高いところに鐘楼がみえます。鐘は宝永7年(1710)の銘が彫られているものだそうです。

のちちに本堂ほかの建物が焼失し、承応4年(1655)に本堂が完成しました。

そのときの記念樹の銀杏が樹齢300年を超えて境内にそびえています。中野区の保護樹木の第1号となっているものです。

祠の中に興敎大師が鎮座しています。真言宗中興の祖で新義真言宗の開祖。隣に「徳川将軍御膳所跡」の大きな石碑が建てられています。

江戸時代には3代将軍家光が鷹狩の際に寄って休息し、8代将軍吉宗は御膳所に指定して休息したり、中食をとっています。

本堂内陣の客殿は、将軍御成間といわれ一段高くなっていたのですが、改築で取り壊され、そこに「徳川将軍御膳所跡」の記念碑が建ててあるそうです。

寺の境内を出て道を右にゆくと100メ-トルほどした右手、長い参道のさきに氷川神社があります。

江古田氷川神社  江古田村の鎮守でした。祭神は素盞雄尊。鎮座は寛正元年(1460)といい、村人が素戔嗚の武徳を慕い、この地に小祠を建てたのが始まりだと伝えられています。

初め牛頭天王社といわれ、元禄9年(1696)に氷川社に改められたといいます。

弘化3年(1846)に建てられた拝殿が現在の神楽殿となり、現在の拝殿は昭和7年(1932)に建築されたものだそうです。

例大祭に神楽殿で奉納される獅子舞は、「江古田の獅子舞」として中野区の民俗芸能になっています。

江古田氷川神社は、寛正元年(1460)スサノオ命をここに祭ったのに始まると伝えられています。現在の社殿は、昭和7年の改築によるものですが、神楽殿(中野区指定文化財)は、弘化三年(1846)に拝殿として建てられたもので、格天井には花屋鳥が描かれています。十月第一日曜日の例祭日には、神楽殿の前で江古田獅子舞保存会の人たちによる獅子舞が奉納されます。当日、旧江古田村の名主をつとめた深野家を出発し氷川神社までの沿道で華麗な獅子舞行列をくりひろげるありさまは、色あざやかな絵巻物といえましょう。

江古田獅子舞は、「一人立ちの獅子」の系統に属し、大獅子・中獅子の雄二頭が女獅子とともに軽快に跳ね踊る「三匹獅子」の特色を示し、花笠役のほか、朱雀・青竜・玄武・白虎の四神の笠を被った役の登場するのが珍しいとされ、昔、病魔退散の祈とうに演じられ、徳川三代将軍家光の上覧にも供したと伝えられています。平成26年10月       中野区教育委員会

氷川神社神楽殿

神楽殿は、弘化四年(1847)に建立されたものです。昭和7年まで本殿として使われていましたが、新しい社殿造営にあたり、現在地に移築しました。昭和57年に茅葺きから現在の銅板に葺き替えられました。桁間は、三間(5.5m)で、梁間がニ間(3.6m)の寄棟造りです。正面に四枚立ての引違い戸が入っていますが、かつては、摺り上げ戸であったと思われます。屋根の勾配や全体のバランスが良く、区内に残されている数少ない江戸時代の建造物として代表的なものです。

内部は、床面が板張りで、天上は格天井になっています。この格天井には色彩豊かな花鳥画が描かれています。言い伝えによると、この地の名主、山崎家の離れ(茶室書院として現存)に絵師が滞在して花鳥画を仕上げたということです。

         平成4年3月   中野教育委員会

江古田の獅子舞  起源は鎌倉時代に遡るといいます。初まりは御嶽神社の神事でしたが、大正2年(1913)に氷川神社に合祀されてから氷川神社で行われるようになったものといいます。
江戸時代の記録によると、正保の頃(1644~48)3代将軍家光が鷹狩にきたときこの獅子舞を上覧したとあるそうです。

氷川神社の境内から道路にもどり、しばらく西に進むと、総合東京病院のさきの一角に神父の像があります。

江古田修道院ベタニアの家   ここにキリスト教修道女会が、昭和5年(1930)フロジャク神父により創建されました。

ベタニア   イエス・キリストが生きたパレスチナの地名で「主の憐れみ」を意味するものだそうです。

フロジャク神父像   この教会の創立者で、慈生会病院を開院し貧しい人々を救済しました。

きた道を200メ-トルほどもどり、合同住宅バス停前の道を北に向かいます。5分ほど歩いたところの十字路を左に行くと五差路になります。

その五差路の東南角に小さな公園があります。そこがお経塚といわれる一角です。

お経塚跡 経塚地蔵  ここから北に進む道はかつての氷川神社の参道でした。その参道すじにあった豊島塚の1つでした。

古くは人の身丈ほどある塚があり、中ほどに地蔵尊が建っていたといいますがいまは塚は失われています。

もともと東福寺があったところで、東福寺が火事に遭った時、燃えた経典などをここに埋めて塚を作り供養したので「お経塚」の名がついたそうですが、本来は※豊島塚のあったところでした。

大正の頃、この土地整備をした時、地中から人骨と一緒に経典を収めたと推定される金属製の茶筒が掘り出されました。人骨は埋め戻されその上に地蔵の石像を建てたということです。

※豊島塚   江古田原沼袋合戦(豊島氏と太田道灌の戦闘)で死んだ人々を葬ったところというのが通説です。

 

お経塚 大正時代までは背丈ほどの塚でした。大正時代に塚の盛り土を整地したとき、人骨とともに経筒らしいものが出土したという記録があります。言い伝えでは、東福寺が火災で焼けたときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったといわれています。
平成5年3月  中野区教育委員会

五差路から江古田2丁目の12番地と15番地の間を進むと大きな屋敷にぶつかります。中野の名家・山崎喜兵家です。

山崎家  屋号を「ヤマキ」といい6代目まで喜兵衛を名乗っていました。寛延3年(1750)に初代が本家から独立し、一家を興したときに「ヤマキ山崎家」は始まったといいます。旧江古田村の名主の一人で、農業の傍らはじめた質屋と醸造が成功し、山崎家は江古田村のみならず中野一帯でも有力な富家となりました。

屋敷の一角だったところに「山崎記念・中野区歴史民俗資料館」があります。

山崎記念中野区立歴史民俗資料館   昭和60年(1985)、山崎喜作氏から醸造所跡地2600㎡を寄付されたのを契機として、中野文化センターからここに移設されました。

区内の歴史的民俗資料を公開展示しています。常設展示室、企画展示室、特別展示室があります。

無料

午前9:00~午後5:00時(入館は午後4時半まで)

休館日/ 月曜日、第3日曜日、年末年始

03-3319-9119

大樽

醸造用の大樽

敷地内に庭園、茶室、書院などがあります。

書院・茶室は天保12年(1841)に離れとして築造されたものですが、本格的な茶室というよりは、この地を訪れた幕府役人などの歓迎・宿泊に用いる最上級の客間を兼ねたものだったそうです。太田蜀山人など江戸の文人墨客の多くが宿泊したと伝えられています。

資料館の東隣、鬱蒼と繁る庭の木々の中でも、特に奥庭にそびえるシイの大木はみごとです。樹齢は凡そ600年といい、枝が庭を覆っています。

俗に「醤油屋の椎の木」と呼ばれ村人に親しまれてきたそうです。

資料

資料館の前を新青梅街道が走っていますが、春は桜の花見通りと化しています。

史料館から500メ-トルほど歩くと妙正寺川と江古田川が「江古田公園」のところで合流します。

太田道灌と豊島氏一族の激戦地~その古戦場をしのぶ!

江古田公園  、妙正寺川で二分されており江古田公園橋で結ばれています。その公園の片隅に古戦場碑が建てられてます。

史蹟 江古田原・沼袋古戦場

文明九年(1477)四月十三日上杉定正の臣江戸城主太田道灌は関東管領上杉顕定及び宗正を襲うて敗走せしめた長尾景春の党豊島泰明を平塚城に攻めて帰ったが泰明の兄豊島泰経等石神井練馬両城より泰明救援のため馳せ来るを迎えて江古田原沼袋の地に激戦し泰経は翌十四日敗死し、後遂に石神井等を陥れた、この事は史籍に明徴有り道灌の偉績の一つに数宇部木であろう。道灌江戸築城以来茲に五百年わが区は道灌戦蹟地に地に因み碑を建てて永く園事績を伝えんとするものである。
           昭和三十一年十月一日       東京都中野区

開都500年を記念して中野区が建立したものです。

戦そのものはもっと西方で行われたようです。昭和の初め、妙正寺川の改修工事などのおり、多数の刀剣・鎧・兜などが発掘されたそうです。そうした武具や戦死者を埋めた豊島塚(大塚・稲荷塚・蛇塚・四ツ塚など)といったものの多さが戦の激しさを物語っています。

ここでの合戦で、11世紀このかた武蔵野を支配してきた名門豊島氏は没落し、かわって太田道灌が武蔵野支配を確立しました。

 

公園の東側にある妙正寺川に架かる天神橋を渡ります。

松が丘北野神社(片山北野神社)   旧片山村の鎮守社でした。本来は「天満宮」で「片山天神」といわれ祭神は菅原道真。

明治17年(1884)、片山村が江古田村に合併されるまでの氏子15戸だったといいます。

太田道灌が豊島氏攻めの際、この神社に詣でて戦勝の祈願をしたと伝えられています。

明治5年(1872)、天満宮から北野神社に改称。

現在の社殿、石鳥居、狛犬は昭和8年(1933)に建造されたものです。

この神社では、昔から「おびしゃ」(御歩射)という神事が行われてきました。春の農村行事で、弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占うものでした。

そのまま川沿いを150メ-トルほど歩き、下田橋で中野通りを北上し蓮花寺下までゆきましよう。
右手には哲学堂が広がっています。

中野通りは蓮花寺下のT字路で新青梅街道にぶつかります。三方どちら向いても桜並木です。

妖怪博士・井上円了の眠る花の寺参りと「水の塔」を見学しましょう!

蓮花寺は高台にあるので、街道際から急な石段をのぼることになります。

星光山蓮華寺  日蓮宗の寺。身延山久遠寺の末寺。

寺そのものは古く天授元年(1375)の創立で、開基は江古田村の孫右衛門組の名主・深野孫右衛門。孫右衛門が田畑一丁五反歩余を寄進し開かれたといわれます。

創建の元文5年(1740)ころは、寺院の新規建立が禁じられていたので寺社奉行の大岡越前に願い出て、神奈川県橘樹郡星川村にあった廃寺を移し堂宇としたのだそうです。

日蓮坐像   高弟日朗の作で、日蓮自身が火防厄除・開運守護の開眼をしたと伝えられているものです。

加藤清正像  お腹お籠り清正公  といわれるもので、清正像のお腹の中にもう一つの清正像が納めてあるというもので、日本唯一の尊像といわれています。

子育鬼子母神  「生髪鬼子母神像」といい、69384人の女性から1人3本づつの頭髪を貰い頭に埋め込んである。堂は大正8年(1919)に建立されたもの。

深野辰右衛門君之碑  明治31年、山崎香山の書。深野孫右衛門が田畑を寄進したたことの功績を讃えた顕彰碑。

ほか境内には北辰妙見菩薩、地蔵菩薩、諏訪大明神、龍神、三穂稲荷大明神、甲申塚、多宝塔などがあります。

参道の石段をのぼると左側の墓域の中ほどに本人がデザインしたという変わった形の井上円了(東洋大学の創設者)の墓がある。3段の台座に井桁を乗せその上に円を置く変わった墓。「井」の上に「円」をおくことで井上円了を表わしているのであろう。

井上円了の墓所  ここは、哲学堂を創った井上円了の墓所です。円了は、安政五年(1858)現在の新潟県三島郡越路町に生まれ、哲学者であり、また教育者として、明治の中頃から大正にかけて多彩な活動をくりひろげました。とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動は、わが国の文化史上特筆されるものといわれています。また、哲学館(後の東洋大学)と哲学堂を創立したのは、円了が提唱する「護国愛理」をもとに学校教育と社会教育の振興をはかるためでした。こうして、国民道徳の普及と向上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったといわれています。円了は大正8年巡回講演の旅行中、中国大連市(現旅大市)で病死し、東洋大学関係者の縁故で当寺に葬られました。井桁の上に円形の石を置いて井上円了の名前を表現した墓石のデザインは円了の生前の発意といわれています。昭和58年3月 中野区教育委員会

享年61歳でした。井上円了についてはコチラも今日の散歩は白山の界隈(文京区)・坂の町、学生の町にアジサイ匂う!

哲学堂祭(毎年11月の第1土曜日)では、この墓前で午前10時から墓前祭が行われます。

シダレザクラ3本、ソメイヨシノ5本があってサクラの寺として有名なところです。

芭蕉塚・芭蕉句碑  自然石の碑。句碑は明治29年(1895)11月、芭蕉塚は昭和2年(1927)の建立です。

初しくれ猿も小蓑をほしけなり

元禄2年(1689)9月、芭蕉46歳の時の作品、『猿蓑』冒頭の句。

芭蕉が『奥の細道』の旅を終え、伊勢へ足をのばした後、故郷の伊賀上野へ帰る途中に伊賀街道の長野峠で詠んだものとされています。

鐘楼  2時間毎に鐘を打ち村人に時を知らせたということから゛時の鐘」と親しまれていたといいます。

桜満開。花吹雪にみまわれる蓮花寺一帯。

蓮花寺の東門をぬけて左にゆくと公園があります。

みずのとう公園 (野方給水塔)

ドーム形の塔。高さが33メ-トル。基部の直径約18メ-トル、鉄筋コンクリート造り。国有形文化財。

敗戦直前にアメリカ軍の艦載機が機銃掃射した弾痕跡が壁面に残っています。

ドイツで衛生工学を学び淀橋浄水場を完成させた「近代上水道の父」といわれる中島鋭治(なかじま・えいじ)博士が設計したと伝えられていますが、没年(1925年2月)から推定するとそのように認定するのは難しいという声もあります。
ちなみに着工は昭和2年(1927)、完成は同5年(1930)ということになっています。

昭和6年(1931)、荒玉水道の給水塔として建てられ、同47年(1972)に使用が中止されました。

翌年、中野区が塔を含む敷地を買収し幼稚園と児童遊園を開くことから塔の解体をすすめていました。

しかし、あまりにも堅牢で解体費用かさむことから有耶無耶になっていたところ、東京都が災害時の飲料水の補給用として使うことを計画し、同52年(1977)常時2000トンを貯える都の水瓶として復活することになりました。

それにより周囲が整備され「みずのとう公園」となったわけです。

蓮花寺下までもどり、哲学堂公園に入りましょう。入口は八ケ所あります。

哲学堂公園の哲学的テ-マパ-クを思索しなから歩きましょう!

桜のトンネルのさきに哲学堂の正門ともいえる「哲理門」があります。

哲学堂公園

面積約5ヘクタ-ルは、東洋大学の学祖である井上円了が建設した公園です。

井上円了の哲学世界を視覚的に理解できるように具体化した「精神修養のための場」とされていました。

哲学堂そのものの起源は、井上円了が明治5年に大学の開校用地として約1万坪の土地をこの地に購入したことに始まるといわれています。

井上円了はその翌年、哲学館の大学への昇格を記念し釈迦・孔子・ソクラテス・カントを祭る四聖堂の建設に着手しました。

その後、種々の難事が身辺におこり井上円了は大学の校長を引退しました。

その頃から哲学のテーマパークとしての哲学堂の整備に本腰を入れはじめました。

明治42年(1909)~45年(1912)にかけ、哲理門・六賢台・三学亭・常識門・髑髏庵・無尽蔵などを建設、

大正2年(1913)~4年(1915)にかけ、宇宙館・絶対城・鬼神窟などを建設、

大正7年(1918)には、硯塚を設置し、この頃にはほぼ現在の哲学堂の形が完成したといわれています。

じゃ入ってみることにしましょう。

哲学堂公園全図

哲理門/哲学堂の正門として結界の役割を果たすもので、門の左右には幽霊と天狗の像が安置されています。天狗は物質の世界の不思議、幽霊は精神の世界の不思議を表しているのだそうです。門の瓦当には「哲」の文字が刻まれています。

世の中に公園は数々あれど、「哲学」をテーマにした公園というのはここだけでしょうね。

哲学堂公園には、哲学をモチ-フにした建造物や石碑、池など七十七場が点在し、哲学の世界が視覚的にくりひろげられています。

哲学の用語は知らなくても、学がなくても、園内を歩くことで哲学の何たるかが身体にしみ込んでくるという仕掛けになっています。

井上円了流の哲学、そのめざめは「仏教活論序論」(井上円了選集第 3 巻)などによれば、

「自分はお寺に生まれて仏教を学び、次に儒学を学んだが、これを純全の真理とするには不足があったこと。また、キリスト教も学んだがこれも同じであったこと。しかし、自分がずっと追い求めていた真理は、儒教、仏教、キリスト教にはなく、哲学の中にあったことを見つけることができたことは、このうえもない喜びであった。」

という趣旨のことを記していることに源があるようです。

六賢台/哲学堂公園のシンボル的な建物。東洋的六賢人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っています。

「西洋には体を養う公園があると同時に、心を養う公園がある。教会堂がそれである。休日の半日を公園で費せば、必ず他の半日は会堂に費すことになっている。日本もこの心を養う公園がほしい。体を養う公園が日に月に増えているのに、心の公園がない」

といった問題意識のもとに結論を導きだしたのが精神修養のための公園という位置づけになったのでしよう。

哲学堂のフィ-ルドは、散歩してみるとよくわかりますが、起伏をもつ自然の中を回遊する修行場の巡礼空間を構成しているようにみえます。

哲学堂を開いたころはまだ武蔵野の面影が色濃く残る田園地帯だったといいます。

それはそれはどんな景色を現出していたことでしょう。

そうした中に哲学堂を構成する77場を構築したわけで、それは哲学堂公園の約6割に相当しているといいます。

絶対城(図書館)/万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する過程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名があるといいます。

二人の唐子が「哲学堂図書館記」と刻まれた石板を両側から支えています。

井上円了のレリ-フ

四聖堂/東洋哲学の孔子・インド哲学の釈迦・西洋の古代哲学のソクラテス・近世哲学のカントを祀ってい。哲学堂の中心施設となるものて、哲学館大学への昇格を記念として作られたものといわれます。

時空岡(じくうこう)   四聖堂の周囲の広場は、「哲学の時間と空間」を表現するものとして「時空岡」と名付けられています

「四聖堂」前にある井上円了の石碑。井上円了に関してはコチラも今日の散歩は白山の界隈(文京区)・坂の町、学生の町にアジサイ匂う!

また井上円了には哲学者・教育者のほかに「妖怪博士」といったもうひとつの顔がありました。

当時はまだ奇妙な現象を「妖怪」や「幽霊」によるものと考える人が多かった時代でした。

井上円了はそうした迷信を合理的かつ実証的な考えに基づいて打破、撲滅を図りました。

種々の調査研究の結果をまとめ『妖怪学講義』というものを発刊しました。

ついには、そうしたことが高い評価をよび、そこから「妖怪博士」「お化け博士」と呼ばれるようになっちゃったんですね。

宇宙館/「哲学は宇宙の真理を研究する学問」に由来するものだそうです、

三學亭/日本古来の神道、儒教、仏教の中から最も著述の多い三人の碩学を祀った建物で、神道は平田篤胤、儒教は林羅山、仏教は釈凝然を選んでいます

三學亭  三學と三角の発音が似ていることから、三角錐の築山の頂上に三角錐の屋根を三本の柱で支える構造の小亭として建てられています。井上円了はこうした高尚ともいえる駄洒落を放つのが好きだったんじゃないかな。望遠橋などもそのひとつですね。

硯塚(すずりづか)   井上円了は全国を講演中、求められ各地で揮毫しました。その際に用いた硯を供養した記念碑で、「筆塚」と対になっています。

哲学堂祭  毎年11月の第1土曜日に蓮華寺と哲学堂公園で開催されます。

 

三祖苑・三祖碑  ギリシャのターレス・インドのアクシャパーダ・中国の黄帝が刻まれています。

筆塚   「字を書きて 恥をかくのも今暫し 哲学堂のできるまで」
この句のごとく、井上円了は哲学堂建設のため全国を講演しました。哲学堂はそのおりに揮毫した際の謝礼を基金として開設されました。その謝意を含め、かつ筆供養のための記念碑として造られたのがこの筆塚で、「硯塚」とセットになっています。

哲学堂公園の南斜面を下ってゆくと、妙正寺川沿いの低地に菖蒲池が広がっています。

菖蒲池   季節になると花菖蒲が池のまわりを彩ります

哲学堂公園の菖蒲池についてはコチラ「中野哲学堂の池散歩・菖蒲池(中野区)井上円了の哲学精神反映の水辺!」

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