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今日の散歩は深川佐賀町、福住、永代の界隈(江東区)・渋沢栄一下町の邸宅!

深川佐賀町・福住町といってもあまり聞き慣れない町なんですが、それに永代橋や永代島の名が反映された永代エリアをくわえて歩いてみたいとおもいます。

いまでこそ佐賀町、福住、永代と三町すっきりしていますが、こうなる前は小さな町名がいくつもあって、それらが統合、吸収されて今日に至ったといえるところです。

深川といったら門前仲町(門仲)、その西側一帯といったらいいでしょうか。堀割に昔日がしのべます。

古く江戸時代の埋立てによって成立した町で、深川漁師町(「猟師町」とか「漁師町」とも)と称されたところです。

そのような歴史をもつ下町に、「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一は邸宅を構えたのでした。

「佐賀湊」なんて呼ばれていた隅田川東岸のこんにちは、永代橋・隅田川大橋・スカイツリ-を含みとても見晴らしがいいところなのでオススメです。

というわけで、以下、そんなと歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

Audibleは、プロのナレーターが朗読した本をアプリで聴けるサービスです。移動中や作業中など、いつでもどこでも読書ができ、オフライン再生も可能です。

江戸の堀割に昔日をしのびながら歩く隠れた下町歴史小散歩です!

ちなみにこのコ-スは永代橋を通じて対岸の「「霊岸島(新川)」、

そのさき霊岸橋を通じて「兜町・茅場町」コ-スとジョイントできます。ワイドな散歩をお楽しみください!

大江戸線・東西線の「門前仲町」駅からスタ-トすることにしましょう。6番出口を利用するといいでしょう。

そこまでは長い地下道をぬけてゆきます。

出口の前を広い清澄通りが南北に走っています。そこを向かい側に渡ります。

古地図をみるとこのあたたりは「堀の町」だったことがわかりますね。その堀のいくつかをまだ観察できるところがあります。

このあたりの地番はしばらくは「門前仲町」です。
向かい側の左手の道を入ると、右手にちょっとモダンな建物がみえます。

旧東京市深川食堂    「東京深川モダン館」と名付けられ、当時の建物がそのまま使われています。

関東大震災の復興計画の一環として東京市が建設した市設食堂で、昭和7年(1932)に竣工したものですが、なかなかモダンですね。

建物そのものがア-トのようで今日的ですね。

東京大空襲で全焼を免れ、戦後部分修復していろんな施設として平成18年(2006)に閉鎖されるまで利用されてきたそうです。

耐震性から最先端の工法であった鉄筋コンクリートを採用しています。震災復興の近代建築の稀少性により平成20年(2009)に国登録文化財に指定されました。

2021-7月再訪のときの写真を追加します。昭和初期ののモダンを感じてください!

旧東京市深川食堂の全景図

モダン館の東角を右にまがると広い「葛西橋通り」に出ます。そこを左手に数メ-トルほど歩いてゆくと道路側に標柱があります。

伊能忠敬住居跡   伊能忠敬は寛政7年(1795)50歳の時に千葉の佐原から江戸に出てきて、ここ黒江町(門前仲町1丁目)に住いを構えました。

幕府天文方暦局の高橋至時(たかはし・よしとき)に入門し、天文学や測量技術を学ぶためここから通いました。

やがて実力が認められ、幕命をうけることになり、寛永12年(1800)から文化12年(1815)まで10回の全国測量を行いました。

文化11年(1814)、八丁堀亀島町に移転することになり、そこで『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかいよちぜんず)の完成をみようとする矢先、文政元年(1818)、亀島町の居宅で亡くなりました。享年74歳でした。よって地図の完成は没後ということになっています。忠敬が歩いた距離は約4万キロ。 地球1周分といわれています。

ちょっと先の信号で「葛西橋通り」を渡ります。

渡ったさきからが福住町です。

左手をみると「魚住整形外科」の看板がみえます。

魚住王蝉住居跡   王蝉は俳号、本名芳平。医師。昭和22年に区議に当選し、初代江東区会議長に就任。議長を4度務めました。俳誌「ゆく春」同人で俳人としても活躍し、あわせて社団法人東京都柔道接骨師会の第13代会長もやっています。かつて句碑があったのですが…どこへ。

 福住町   江戸期からの町名でなく、明治2年(1869)に近隣の町名を合せ、町域をめでたいものにしたいと命名したのが旧深川福住町でした。

この町名が消失の憂き目にあおうとした昭和6年(1931)、隣接する黒江町などが合併を申し入れ福住町1丁目、福住町2丁目として旧名を残せたのだそうです。

今日も「深川」を冠称した町会名(深川福住町会)を頑なに採用しているそうです。

変形五差路といったらいいのでしょうか。どうしてこんな変則になったのでしょう。

この五差路を北に進み福住2丁目のほうに向かいます。まっすぐな道を150メ-トルほとで「首都高速9号深川線」にぶつかります。
かつてこの高速の下には「油堀が流れていました。

油堀   元禄年間に開削されたもので、隅田川の東岸沿いの下之橋から木場に通じた人工の運河で、油堀川とか十五間川ともいわれました。
この堀を介し物資の運搬が盛んだったようです。中でも佐賀町、福住町の両岸には油問屋が多く集まり、緑橋の南西には油商人の町会所もあったことから油堀河岸とか油堀と名づけられたといいます。昭和51年(1976)に埋め立てられ、昭和55年(1980)その上に首都高速が開通しました。

江戸時代中期の旗本であり、朱子学者・政治家でもあった新井白石が引退後、当時、深川一色町といわれたこのあたりに妻と共に仮寓していたことがあるようです。

何も説明板らしきものはありません。居住したのが束の間のことですから、江東区では旧跡として重視してないのかもしれません。

敷地としてはほとんど高速道路に飲み込まれてしまっているようにおもいます。

新井白石寓居跡  德川家宣の時代、御側御用人・間部 詮房(まなべ あきふさ)とともに「正徳の治」と呼ばれる政治改革のもと幕政の中枢にかかわりました。

しかし一介の旗本が、幕政の運営に関与することが疎まれ、さらに軋轢ともなり、家宣の夭折あとその子7代将軍・徳川家継の下でも政権運営をしていましたが、家継亡きあと徳川吉宗が就くと、両人は失脚し公的な政治活動から退かされました。

白石は神田小川町の屋敷を没収され、いったん深川の仮屋敷に移りますが、享保2年(1717)、幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲し、それからの晩年は、不遇の中でも著作活動にいそしんだといいます。著名なものに『折たく柴の記』という名随筆があります。

古典快適:一級資料を現代語訳でスラスラ読み進めることができます。武家社会をのぞきみするような感じです。政治の腐敗については、老中や大老、若年寄が世襲の大名二世三世で占められ、さらにはその能力が低いことが原因と辛らつに談じています。国会議員と官僚の関係みたいですね。といった具合のおもしろさ満載の随筆集!

高速下の信号を渡ったら左手をみてください。道路側に説明版があります。
このあたりの油堀に「閻魔堂橋」(のちに冨岡橋)が架かっていました、

ここにいう「閻魔堂」とは法乗院にある閻魔さまのこと。通称「深川の閻魔さま」として親しまれています。

駅構内のポスタ-から

歌舞伎の有名な演目で、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の「世話物」、『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそでむかしはちじょう)、通称『髪結新三』(かみゆいしんざ)の名場面が、「深川閻魔堂橋の場」となっています。

近くにある緑の続く「亀堀公園」を北へ、清澄公園のほうに向かって歩いてゆきましょう。

亀堀公園の緑地が亀堀公園北詰まで続きます。

亀堀   仙台堀と油掘川とをつないだ堀割りでした。全体が埋め立てられ、細長い形の江東区立亀堀公園になっています。

公園の中を歩いてゆくと、途中に解説板があります。

さきの切絵図にみえる「松平和泉守」(西尾藩)が深川屋敷跡です。ここに西尾藩の藩校「典学館」がおかれました。

西尾藩   三河国の西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、はじめの本多家からめまぐるしくかわり、最後の藩主は松平家(大給西尾)が就封しています。

徳川家康が今川氏から自立した永禄4年(1561)、家臣の酒井正親を城主に任命して治めさせた地といわれます。

※山本周五郎作の『町奉行日記』。のちに市川崑監督により『どら平太』として映画化されました。その作品の舞台となったのが西尾藩でした。

北詰から300メ-トルほど歩くと仙台堀に架かる清澄橋のところに出ます。橋を渡ったさきが清澄公園、及び隣接する゛清澄庭園となります。

仙台堀川   寛永年間(1624~44)に開削され運河として利用されてきました。名称は北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来するもので、俗に「仙台堀」とも呼ばれていました。隅田川と横十間川を結ぶ水路で、木場への材木輸送路として、また貯木場としても使用されたようです。

正面・清住公園

英一蝶住居跡   福住町の北端、仙台堀のあたりに浮世絵師の英一蝶(はなぶさ・いっちょう)がいっとき住んでいたことがあるといいます。

綱吉の時代、風刺画でお咎めとなり、47歳のとき三宅島へ流罪となりましたが、将軍代替の大赦により江戸へ帰ることができました。その間12年。

帰りの船の中で多賀朝湖から英一蝶と画名を改めたという話はあまりにも有名ですね。船上でつきまとう一匹の蝶を見つけた…という。英は母の姓の花房からとっています。

江戸にもどって、江東区白河の一蝶寺として知られる冝雲寺(ぎうんじ)に身を寄せ、お世話になったお礼として本堂に画を描いたといわれています。

居住したのはおそらくその前のことではないでしょうか。説明板といったものがみあたりません。護岸工事で近寄れないので、迂回してみることにしました。

亀堀公園北の信号を右に松永橋までゆき、そこから仙台堀に近づいてみることにしました。

松永橋東詰

結果はやはり工事中で通行禁止になっており、確認することはできませんでした。、

場所的には大島川西支川・仙台堀の合流地点と清澄橋の中間くらいになるかと思われます。

大島川西支川   仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約820メ-トルの人工河川です。何とも近代的な名前ですね。

一帯は元禄期(1688~1704)までに埋立てられた町で、川沿いには河岸が設けられ、荷物の積み降ろしなどで大変に賑わったそうです。

大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川で、名称は、北岸の大島町(永代2丁目)に因んでいます。

西支川・東支川とありましたが平成4年に東支川が区立木場親水公園となったため、西支川のみが河川としての名称を受け継いでいます。

大島川西支川と仙台堀の合流点。橋は仙台堀に架かる清川橋。

このあたりは深川の一番西で、すぐ近くを墨田川が流れています。

松永橋東詰めの片隅にあるオブジェ。なんとも色と形がいいですね。
かつての松永橋の鉄材を利用して造られたものなんです。よくみると、戦争の傷跡、弾痕がみえます。

松永橋を渡ると深川佐賀町です。
ここからちょっとばかり足をのばし、仙台堀の河口に架かっていた上之橋のあったところまで行ってみましょう。親柱が残されています。

上之橋跡

上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。
本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。   昭和61年(1986)11月 江東区

ふたたび松永橋の西詰めまでもどります。
近くに「中の堀公園」があります。少しさきにある「中の掘川」にちなんだものでしよう。

公園の右手の道を南に歩いてゆくと、その「中の掘川」にぶつかります。
一帯が小さな公園になっており、そこに中の堀川樋門があります。

深川佐賀町散歩~「木場」のル-ツは中之堀川の一帯にありました!

中之堀川(旧中ノ堀)   寛永6年(1629)開削といわれ、大島川西支川の中の堀川樋門で合流している短いカギの手の水路です。この堀に「中の橋」が架かっていました。「上の橋」から「中の橋」までが「上佐賀町」で、橋を渡ると「中佐賀町」でした

ぽつりと取り残されたような、ひっそりとその歴史をとじるかのような、堀のどんづまり。どこか異彩を放つ川の存在です。

樋門を通じて鍵の手の水路があり、それは先でぶっきれ、どんづまりになります。
江戸時代からのもので、切絵図にも描かれている人工堀です。

中之堀川の一帯は元木場と呼ばれました。つまり材木の揚げ場としてつくられた材木置場の町でした。

  • 寛永18年(1641)、大火により江戸市中に積んでいた材木が類焼したことをきっかけに、神田や日本橋の35町にあった材木問屋たちが幕府に願い出て、はじめてこの地に木場が造られました。かの木場は最初ここにあったんですね!
  • 元禄12年(1699)、木場が猿江へ移転し、跡地は町場として整備されました。そのとき鍵の手の水路に変えられたのではないかといわれています。
  • 元禄14年(1701)、さらに江東区の木場へ移ることとなり、それに伴ってここは「元木場」と呼ばれ、跡地にできた14ヶ町は元木場町と総称されることになりました。

佐賀町   隅田川沿いに南北に長くのびた町で、深川南部の物流の結節点をになってきたところでした。
かつては佐賀湊ともいわれた漁師町で、江戸時代初期には遠浅の海でしたが、寛永6年(1629)、永代島付近の埋立が許され、次郎兵衛、藤左衛門、他6人の者によつて猟師町八ヶ町が出来上り、上之橋の方が次郎兵衛町、中之橋より南が藤左衛門町と呼ばれました。

深川猟師町八ヶ町   初めは名主の名を取って新兵衛町・利左衛門町・弥兵衛町・助十郎町・彦左衛門・藤左衛門・次郎兵衛町・助右衛門町がありました。こうみると小さな町がたくさんあったことがわかりますね。

※当時、生物を捕らえる人は魚でも動物でもみんな猟師と呼んでました。つまり漁師も猟師だったので猟師町となったわけです。

元禄8年(1695)に元禄検地(田畑の面積、収量の調査)があり、その際名主の姓を町名に用いました。よくあるケ-スですね。

のちに次郎兵衛町と藤左衛門町が合併し佐賀町が出来、文政11年(1828)に町割りが上佐賀町・中佐賀町・下佐賀町と三分割されました。

明治4年と5年に合併があり、昭和6年にふたたび合併し新しい佐賀町1丁目と2丁目が生まれ、昭和44年の新住居表示でいまの「佐賀町」となったようです。

ありし日の佐賀湊の面影も漁師町の匂いもない、大半が会社と倉庫と住宅になっています。

佐賀の由来   一帯の風情が肥前国の佐賀湊に似ていたところから町名としたといわれています。が。おそらくは名主の姓からとったものでしょう。深川猟師町八ヶ町の中で唯一残っている町名です。

しばらくすると右手に稲荷の社がみえます。閑散とした町並みのなかで目立った存在です。

佐賀稲荷   創建は寛永7年(1630)、祭神は宇迦之魂命(うがのみたま)。一漁村だったところが海上運送の起点として繁栄を辿る町になりました。稲荷はそうした佐賀町の商売繁盛、厄除け招福の氏神様でした。明治以降は正米市場がたち、米問屋が集い商売繁盛の稲荷として大いに栄えたといいます。

佐賀町には明治初期に米問屋が多く集まり、そうした米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存しています。

力石   倉庫業に携わ人々の余技として生まれた深川の力くらべ。深川の力持は佐賀町の特性を活した伝統技能でした。境内にある力石はそうした力持たちが奉納したものです。

ほうしの穴   社殿裏手の壁に宝珠形の「お宮の穴」というのがあります。狐が出入りする穴であるとか。出雲(島根県)地方ではよくみられるものだそうですが関東では珍しいものだそうです。

 

隅田川東岸散歩~深川佐賀町河岸通りをゆく

佐賀町河岸通り   河岸通りの両側には各地から運ばれた産物が集められ、各種問屋の暖簾が川風にはためいていました。

川筋には倉庫がずらりと建並び、舫った大小の船の間を忙しくたち働く人々の声が終日行き交っていました。

そんな昔の面影を路地の横丁に入ったりしてさがすのも面白いですね。

稲荷をあとにするとすぐに隅田川大橋のたもとに到達します。無骨な橋桁の下をくぐりぬけます。かつては油堀の河口だったところです。

下之橋跡   旧油堀が隅田川に接続していた箇所です。「下之橋」を渡ると「下佐賀町」でした。

首都高の高架下辺りが下之橋です。油堀(油堀川)に架かっていた橋でした。油堀は埋め立てられ首都高9号深川線が構築され川床は公園遊歩道になっています。

橋上にのぼってみましょう。見晴らしがいいので評判です。

上流方面。スカイツリ-がもやってみえます。

隅田川大橋   完成は昭和54年(1979)10月。隅田川にかかる橋で、東京都道475号永代葛西橋線支線を通す。西岸は中央区日本橋箱崎町、東岸は江東区佐賀1丁目。
隅田川唯一の二層式の橋で、首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が、完成の翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通していのすた。地下には地下鉄半蔵門線が通っています。

隅田川テラス   隅田川の両岸に沿って整備された親水テラスの総称です。舗装や緑化が施された散策路になっています。いずれは隅田川両岸のほぼ全域、総延長46.9キロメ-トルに及ぶ計画だそうです。

江戸時代、下佐賀町には大名屋敷や幕府の御船手組屋敷などがありました。が、いまそうした過去の歴史の面影はまったくありません。

一帯を歩くと、いくぶん寂れてはいますが、ちょっとレトロ感のある建物が目にとまります。

佐賀町河岸通りがおわるところが永代橋のたもとで、永代橋通りを挟んた向かい側からが永代になり、続いて「永代河岸通り」が続きます。

永代   このあたり一帯は元をただせば遠浅の海で、江戸の初期には隅田川の寄州(河口の堆積地)で島の形状から永代島と呼称されたところでした。

当時の永代島は広く、佐賀町あたりから冨岡八幡宮にかけての一帯までも永代島と称したそうです。葦などが生い茂る湿地帯。

そこを埋め立てて、江戸時代に、東西の永代町が起立しました。埋立には江戸市中の「ゴミ」を利用しました。つまり「ゴミ捨て場」だったんですね。

  • 元禄13年(1700)に起立した深川西永代町/昭和6年(1931)、佐賀町2丁目に編入となり消滅。
  • 元禄14年(1701)に起立した深川東永代町/昭和6年(1931)、福住町2丁目に編入となり消滅。

明治22年(1889)年5月1日に両町とも東京府東京市深川区に所属しています。

いまの永代には永代1丁目と永代2丁目がありますが、町の成立は旧永代町の消滅した昭和6年(1931)以降のことで、一帯にあった小さな町々を合わせ、永代橋にちなんで名づけたといわれます。

つまり福住町・中島町・熊井町・諸町・相川町の全部に門前仲町・小松町・富吉町・黒江町・蛤町1丁目・大島町の各一部をあわせて永代1~2丁目が成立し、同22年江東区が成立し深川永代1~2丁目に、同44年の新住居表示により現行の「永代」となったわけです。

その永代のシンボル、永代橋の近くまできました。

永代橋通りに出る少し手前の左側に「乳熊ビル」というのがあり、その敷地内に有名な赤穂浪士ゆかりの碑が建立されています。

赤穂義士休息の地  元禄15年(1702)12月15日早朝でした。

大石内蔵助を首領とする赤穂浪士の一行が本所松坂町の吉良邸で本懐を遂げた後、永代橋をめざして一ツ目通りを引き上げました。

途中、橋近くの乳熊(ちくま)屋味噌店の店先で甘酒の接待を受け、しばし休息したのち永代橋を渡って泉岳寺へ向かったといわれています。

赤穂義士休息の地

赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。元禄十五年(1702)十二月十四日本所松坂町(墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。    昭和28年2月   ちくま味噌16代 竹口作兵衛識

乳熊屋(ちくま味噌)跡   慶安(1648~51)のころ、竹口作兵衛義道が、商いで一旗あげようと伊勢の乳熊郷から江戸へやってきました。
はじめは日本橋で塗物商を営みましたが、元禄の初めに深川永代橋際のこの地で味噌醸造を営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが、今の「ちくま味噌」の始まりだといいます。浪士への甘酒粥の接待は評判となって店が繁盛したものだそうです。

永代橋   架橋のはじめは、元禄11年(1698)、上野寛永寺本堂の余材を使い日本橋と深川を結ぶ橋として架けられました。架橋地点は現在の橋より100~120メ-トルほど上流でした。

五代将軍綱吉50歳の賀を祝し永代の名を付したものとか、永代島の古名をとったとも、また深川永代寺からその名がついたものとか諸説あります。

吉良邸で本懐を遂げた赤穂浪士たちが渡った橋として知られています。

大正15年(1826)に大震災復興事業の最初の工事として架け換えられた現在の橋は、重量感あふれるシンプルなアーチ型で優美かつ剛健にみえます。

永代亭跡

永代亭(パンの会旧跡)   永代橋東詰、現在の交番の裏隣にあたるようです。明治の末ごろ、当時としては珍い西洋料理店で「永代亭」というのがあり、ここがいっとき青年文士や美術家が交流するたまり場となりました。

『スバル』系の詩人、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇らと画家の石井柏亭(主宰者)、山本鼎たちが主導したといわれます。

パリには芸術家が集まり芸術を語り合うカフェがある。そのような場が東京にも必要だということで、「パンの会」というのが結成されました。その会合の場が最初ここでした。

「パン」とは食べ物のパンではなくて、ギリシャ神話の牧羊神・パン(牧畜と森林を守る神)のことでした。

反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、明治41年(1908)末~大正2年(1913)頃まで続いたといいます。

ここに集まったメンバ-には、ほかに上田敏(詩人)・戸川秋骨(フランス文学者)・谷崎潤一郎(小説家)・石川啄木(歌人)・高村光太郎(歌人・彫刻家)・永井荷風(小説家)・小山内薫(戯曲家)、俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出したといいます。

永代橋の西側にある永代公園にはいくつもの碑が建てられています。

永代公園  永代1丁目にある隅田川沿いの区立公園。昭和45年(1970)3月の開園。

北は永代橋、南は大島川水門まで伸びる南北に細長い公園です。夜景スポットとして有名で、主に永代橋、中央大橋、大川端リバーシティ21などの夜景を見ることができます

永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正15年12月に竣功した。永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比7分の1の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。下部構造は鉄筋コンクリート造りで固定式空気潜函工法を用いた橋脚2基と、締切工法による橋台2基からなる。建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田円三及び同技師田中豊の指導の下、同技師竹中喜忠らである。  東京都知事 石原慎太郎

『江戸名所図会』

ちなみにこのコ-スは永代橋を通じて対岸の「「霊岸島(新川)

そのさき、霊岸橋ほかを通じて「日本橋兜町・茅場町」コ-スとジョスイントできます。ワイドにお散歩を楽しんで下さい!

永代橋崩落事故   文化4年8月19日(1807年9月20日)に、江戸の隅田川にかかる永代橋が崩落して多数の死者・行方不明者を出した事故である。永代橋墜落事件ともいわれます。

死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となり、史上最悪の落橋事故として語られています。

その日、深川富岡八幡宮では12年ぶりの祭礼(深川祭)が行われていました。
久しぶりの祭礼涌きたち、江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せてきました。

ところが、詰め掛けた群衆の重圧に橋桁が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちてしまいました。
だが後ろからの群衆は崩落に気が付かず押せ押せで押し寄せ、崩落部分のところから雪崩をうつように大川に転落してゆきました。

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(江戸東京博物館所蔵)


『わあ、橋が落ちたッ』
『危ないッ』
『押すなッ、押さないでくれえ』
怒号も悲鳴も、はるか後方に犇めく大群衆の耳には届かない。つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せてくる。押し出された心太さながら、とめどなくこのために人が落下した。橋杭の根元は泥深い。あとからあとから落下してくる人体に、先に堕ちたものは押しつぶされ、泥に埋まって窒息したし、かろうじて泳ぎだした者も八方からからみつかれ、動きがとれなくなって共倒れに沈んだ」。(『永代橋崩落』杉本苑子)

永代橋からはなれちょっと裏通りを歩いてみましょう。

今きた道を少しもどって乳熊ビルのひとつさきの道を右に入ります。100メ-トルほど歩くと左手にア-チをあしらったモダンな塀があります。

このあたりは、隅田川や仙台堀川といった水運が生かされ川岸に蔵(倉庫)が林立し、明治時代には米穀問屋の一大中心地となりました。。

渋沢喜作が初代理事長をつとめた「深川正米市場」がここに開かれた!

深川正米市場跡   明治になると米の年貢制度が廃止され、貢租の金納化がはじまり米穀の流通が混乱するようになりました。

そこで明治19年(1886)、米の現金取引をする目的で米市場がここに設立されました。大阪堂島の正米市場と並んで全国的に有名なところでした。

市場開場の前年、新政府は東京府知事に命じ、深川に米穀取扱所を設け、渋沢喜作(渋沢栄一従兄)ら5人に廻米問屋組合を組織させました。

この組合の同盟員によって創立された廻米市場でした。農商務省公認の米・雑穀の取引市場でしたが、売買の主流は圧倒的に米だったといいます。

渋沢喜作(49歳)が初代理事長に就任しました。

初代の建物は中庭を囲んで回廊式になったフロアに事務所1、問屋14、中継ぎ店7が並んでいたといいます。

その当時の建物は焼失し、昭和3年(1928)に建てられた「食糧ビルディング」というのが現存していましたが、老朽化により平成15年(2003)解体されてしまいました

昭和58年(1983)~平成12年(2000)までの17年間、「佐賀町エキジビット・スペース」(小池一子プロデュースの日本初ともいわれるオルタナティブ・スペース=美術館でもギャラリーでもない第三の場という意味)としても、活用された建物でした。

目と鼻のさきにちょっと風がわりな建物があります。倉庫にでも使っていたののでしょうか。佐賀町会館が入っています。

ほど近くにかつては干鰯場(ほしかば)が開場されていました。深川にいくつかあったうちのひとつがここにありました。

干鰯場(永代場)跡   永代場と称されました。干鰯は、鰯を乾燥させ田畑の肥料に当てたもので、干鰯場はそれを取り引きする「干鰯市場」のことで、主として房総方面から水運を利用して運ばれてきた干鰯を売買するところでした。

銚子方面で大量にとれた鰯を干しあげたものを江戸に送るため、干鰮場で荷揚げ集散をしました。銚子場(白河町)、江川場(冬木)にも干鰯場がありました。

ここから永代橋通りに出て、「佐賀1丁目」の信号をわたり永代1丁目に向かいましょう。

信号を渡って左にちょっと進み、右手にひらけた直線道路をゆきましょう。

50メ-トルほどしたところの十字路で左の道に入ると右手に1寺がみえます。お寺とはおもえないようなモダン建築です。

正源寺   開基は関東郡代・伊奈忠治の三男の忠重(旗本)といわれます。伊奈氏の菩提寺ですね、

寛永6年(1629)深川猟師町富吉といわれたこの地に創立されました。

 

伊奈忠治・忠重の墓  伊奈忠治は文禄元年(1592)伊奈忠次の次男として生まれ、兄・忠政の後を受け関東郡代兼勘定奉行となり、赤山陣屋(埼玉県)で7000石を知行しました。

利根川流域の改修工事や荒川の瀬替工事、灌漑・開墾など大いに幕府に貢献しました。

父忠次に匹敵する民政家ともいわれた忠重は、忠治の三男。父忠治の死に伴い遺領の内1640石を分与され分家し、淀川の普請奉行や武蔵国の新田検地を采配しました。延宝2年(1674)に没しました。

のちに本家断絶をくいとめ伊奈氏の名跡を継いだ伊奈小十郎忠盈(ただみつ)を出したりは忠重の家系です。

市川段四郎の墓  歌舞伎役者。初代市川団十郎門下の最古参で、元禄の初めころから名を上げ、荒事や写実的な実事が得意でした。

森田座・中村座・市村座・山村座などで評判を取っていたのに出家したと伝えられています。

晩年に乞われて森田座で文覚法師を演じ1年ほど役者に戻ったが、再び僧門に帰したといわれています。現在の墓石は2代目段四郎が大正9年(1920)に再建したものだそうです。

 

永代橋通りまでもどり福島橋に向かいます。西大島川支川に架かる橋です。

大島川西支川の下流方面ですが、川幅も狭く、あまり風情はありませんね。

門前仲町方面。

永代1丁目と2丁目を結ぶ、昭和4年(1929)竣工の震災復興橋梁です。

大島川西支川の上流方面の眺め。江戸期、左側一帯は信州松代藩・真田家の屋敷地でした。右手が渋沢栄一の邸宅跡です。遠くにみえるのは御船橋。

佐久間象山砲術塾跡  佐久間象山は信州松代藩の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教えました。
象山は松代藩士で幕末に兵学者・尊王思想家としても活躍しました。

嘉永3年(1850)7月から12月までここで砲術を教え、いったんい松代へ帰藩しますが嘉永4年(1851)再び江戸へ出てきて、木挽町で兵法や砲術を教える私塾を開きました。門下生に吉田松陰や坂本龍馬、勝海舟などがいました。

安政元年(1854)ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じています。

松代藩下屋敷   永代1丁目14番一帯。かつて三菱倉庫がのあったところですが今は大和総研の高層ビルが建っています。

紀文稲荷神社   江戸中期(元禄時代)の豪商・紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地にお祀りしたのが起源とされます。

近くに(みずほ銀行深川支店あたり)に紀国屋文左衛門の下屋敷があり、運河沿いには船蔵がありました。船荷の航海の安全や商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったのではないかといわれています。

力石    この一帯の倉庫、米問屋、肥料問屋等で働く力自慢が、差し上げた大石に自分の名を刻み記念としたものです。

御船橋は新しい橋に架け替え中でした。佐賀町1丁目と福住1丁目をつないでいます。

渡った福住1丁目あたりは戦争で焼けなかったエリアでしょうか、下町的な細い路地に古い家屋が肩を寄せ合うように集合しています。

表通りは時代の趨勢でしよう、どんどん変化しているみたいですね。

しか、横丁や細い露地の奥にはお稲荷んが鎮座していたり、古い井戸がいまも使われていたり、昭和のにおいが色濃く漂っています。昔からの庶民の町らしく、小さなお稲荷さんの社や祠があちらこちらにあります。
このあたりは昭和の匂いを求めての路地歩きなんかもいいでしょう。

橋を渡ったら大島川西支川に沿って福島橋のほうに向かいます。

福島橋にぶつかった左手の広い一画が渋沢栄一深川邸のあったところです。いまは永代通りに面して14階建てのオフィス・ビル「澁澤シティプレイス永代」が聳えています。

渋沢栄一が邸宅を構えたのは意外や意外、下町の深川福住町でした!

まだところどころに江戸の名残りをとどめていた明治初年のころです。明治10年(1877)には西南戦争が、翌明治11年(1878)には大久保利通の暗殺がありました。

明治の揺籃期です。渋沢栄一にとっても揺籃の時代でした。

明治9年(1876)~21年(1888)、ところは旧深川福住町(永代2‐37)、渋沢栄一36歳から48歳までの12年間でした。

ここ深川福住町の住所は終生の本籍地とされていました。

渋沢栄一は清水建設の相談役を務めていました。そんなところから福住町に念願の邸宅を構えることになったようです。

解説板より

江東区登録史跡  渋沢栄一宅跡   永代2‐37

渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保十一年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府の下で大蔵省に出仕しましたが、明治6年に実業界に転じ以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力を注ぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年92歳で没しました。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町(永代2丁目)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。

渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年~37年、深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。

平成21年3月       江東区教育委員会

明治21年(1888)、日本橋兜町に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されるようになりました。

これは聞きかじりですが、

実はこの旧宅の建物が奇遇にもまるごと残されていたんですね!

情報によると30室の部屋があるんだそうです。渋沢栄一が構えた6ケ所の邸宅のうち、現存する唯一の建物といわています。

その建物が移築されて、いま復元にかかっているようです。移築先は江東区潮見で、完成は令和4年(2022)3月の予定らしいです。

手掛けているのは旧宅の設計施工(第2代当主・清水喜助)をした、現在の清水建設。

福住稲荷神社   まさに旧福住町の時代を髣髴とさせる稲荷社ですね。
かつてここは廻米問屋の近江屋喜左衛門という人の屋敷で、稲荷はその屋敷神として祀られていたものでした。

明治9年(1876)、渋沢栄一がこの近江屋屋敷を買い受けたとき稲荷もそのまますえおかれ、明治30年(1897)に澁澤倉庫部(のち澁澤倉庫株式会社)がが創業されたあとは、同社の守護神として祀られてきたようです。一般のお参りも可能です。

神狐像   大正12年(1923)の関東大震災で福住稲荷神社は焼失しましたが、昭和5年(1930)に澁澤倉庫社員一同によって再興されました。そのときに稲荷も奉納されたもので、近年、社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として、当時の社員87名の名前が連なっているそうです。

力石

力石に刻まれたマ-クは、記章(ちぎり りゅご)。現在も「渋沢倉庫株式会社」の社章として使われています。

力石   佐賀稲荷、紀文稲荷でもみましたが、ここのは「澁澤倉庫内」とありますから、澁澤倉庫の従業員の力持ちが奉納したものですね。

倉庫ですから、荷かつぎなど力仕事が主になりますので、力もちが多かったのでしょう。

必然的に力くらべ。それが競うという技芸みたいなものになったのでしょう。力石でも神社などに奉納されているのもみますが、そうした力石とはちょっと歴史の背景がちがうかもしれません。

力石はかつぎあげた者が自分の名を刻んで奉納するところがミソですね。

14階建てのオフィス・ビル「澁澤シティプレイス永代」。右手のビルのところが澁澤倉庫のあったところ。古い写真では倉庫の前が河岸になっており、小舟が何艘もも浮かんでいます。ここで荷船の積み下ろしをやっていたのでしょう。いまは護岸されてその面影はありません。

いっとき明治政府に出仕し大蔵省高官を経験しましたがすぐに退官し、以後は大正5年(1916)に実業界を引退するまで、日本企業500余の会社設立に関わったといいます。

明治22年(1889)~37年(1904)まで深川区会議員を務めました。

深川公園にある日露戦争の忠魂碑   「明治卅七八年役戦死者忠魂碑 正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書」、裏面に「深川区報公会建之」とあります。このての碑では民間人の揮毫は珍しですね、深川の住民だったから白羽の矢が立ったのでしょう。明治41年(1908)2月10日の除幕式に澁澤栄一(68歳)も列席しています。

『渋沢栄一伝記資料』 明治41年(1908)2月10日  是日栄一、深川区報公会にて建設せる深川区出身明治三十七・八年戦役戦死者忠魂碑除幕式に列す。

この間の明治30年(1897)、渋沢栄一57歳のとき、この地に「澁澤倉庫部」を創業し、それは同42年「澁澤倉庫株式会社」と社名変更しています。

『渋沢栄一伝記資料』  明治30年(1897)3月30日  是日、渋沢倉庫部開業す。栄一は営業主にして長男篤二部長たり。始め渋沢商店及山崎繁次郎之に加盟し匿名組合組織なりしも、明治三十六年一月以後は之を解き独立経営に改む。

そして平成16年(2004)、その倉庫跡地に賃貸用高層オフィスビル「澁澤シティプレイス」が竣工しています。

▲左上のマ-クは「ちぎりりうご」という澁澤倉庫の社章

澁澤倉庫発祥の地

「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月私邸に澁澤倉庫を創業した。この地は、 澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造販売も家業としていた。

この藍玉の商いをする時に使用した記章が ▲(ちぎり りうご)であった。

明治42年7月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この▲の記章は現在も「渋沢倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念して本碑を記念する。 平成16年4月吉日  

澁澤倉庫株式会社

福島橋からの「澁澤シティプレイス永代」

ビルの前は緑があり、ベンチがしつらえてあり、ちょっとした憩いのスペ-になっています。

「みずほ銀行」深川支店が目と鼻のさきにあるのも、渋沢栄一との長年のご縁ということなんでしょうか。

 

さきに通った変形五叉路のほうに向かって歩いてゆくと左手に見仰ぐほどの大きなお寺があります。

万徳院  瑠璃光山、高野山真言宗。寛永6年(1629)、八丁堀材木町に創立され、同20年i現在地に移転してきたといいます。

江戸時代から相撲寺の通称で親しまれ、力士や親方・行司の墓が多いそうです。
伊勢ノ海の墓・佐渡ケ嶽の墓・六代目式守伊之助の墓(登録文化財)といったものがあります。

左・佐渡ヶ嶽の墓  中・伊勢ノの海  右・伊勢ノ海門弟の墓

伊勢の海の墓(初代)   墓誌には初代から9代までの伊勢の海夫妻の戒名と没年が刻まれていますす。一門から昭和の柏戸が横綱になっています。この柏戸は伊勢の海を継がず、鏡山を襲名し新たに部屋を起こした。現在部屋は七代目藤ノ川が継ぎ今日に至っています。

佐渡ヶ嶽の墓  墓誌には「先祖累代」と10代目の名だけが見られます。元は墓石が2基あったものと思われています。

六代目式守伊之助の墓   江戸末期の大相撲の立行司。伊之助は近世勧進相撲の行司の重鎮で、伊之助の名跡は代々受け継がれ近世末までに6代続いている。

寺前をそのまま進むとすでにおぼえのある変形五叉路のところに出ます。

変形五叉路。手前の道を進むと「葛西橋通り」にでます。「伊能忠敬住居跡」のところから逆戻れば門前仲町の6番口に到着します。

帰りは同じく大江戸線の門前仲町駅の6番口からもどるのが近道でしょう。門前仲町の繁華街は駅の東側になります。

まったく知らない町でしたか。こうした知見のない街を歩くのも散歩の醍醐味です。知らないから五感が知らずしらずに働きます。つまり知ったところとは脳への刺激度が異なります。

ということで、ここで〆にいたします。

が、このコ-スは永代橋を通じて対岸「「霊岸島(新川)コ-スとジョスントできるので、よかったらワイドにお散歩を楽しんで下さい!

ではでは、それでは、また。

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