今日の散歩は亀戸西界隈(江東区)・江戸下町行楽地、名所古跡の多いとこ!
亀戸といったら「天神さま」とコトバがかえってきます。
そんな「亀戸天神」のある亀戸の西側一帯を歩いてみることにします。
亀戸は地形的に特異なところです。北を北十間川・東を旧中川・南を竪川・西を横十間川とまわりを川に囲まれた地帯です。
これだけで大雨のときは、と水害を想像してしまいますよね。
そうなんです、低地でもあり、しばしば水害に見舞われたところでした。
むかし、この界隈には小さな島が点々とあったそうです。一帯に大島など島が付いた地名が多いことからもそのことがわかります。
それからしだいに島がくっつきあって陸続きとなり、やがて集落ができ、生まれたのが「亀村」だったといいます。
それがのちに「亀戸村」になったわけです。
その亀戸に天神様が開かれことによって門前町・行楽地として栄えはじめることになるのですが、それまでは江戸市中へ野菜を供給する江戸郊外の農村の田園地帯でした。
関東大震災後に工業地化が進みましたが、戦後の地盤沈下や市街地化で工場の移転が進み、いまは都内のベッドタウンになっています。
ということで、以下、そのあたりで選んだ散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
横十間川と亀戸天神の周りは亀戸大根の採れるのどかな田園地帯でした!
JR亀戸駅からスタ-トです。1、2番の出口か北口に出ましょう。
『江戸切絵図』/「本所」 ポイント・柳島村が広範囲にひろがっていたこと。
駅前正面の広い通り(明治通り/十三間通り商店街)を進みます。
↑上記図は『改訂東京風土図』(産経新聞社編、教養文庫、昭和41年刊より)。初出は産経新聞に昭和34~36年に連載されました。「三業地」に注目!
亀戸は錦糸町と並ぶ下町のにぎやかな歓楽街です。
かつては「東京天然温泉」と「亀戸温泉」の二大温泉をかかえ温泉の街でもありました。
という、こんな町の広がりも昔は見晴らすほどの田圃、畑だったといいます。
進んで、亀戸二丁目の信号で左にまがります。
住宅団地が両側に広がる中を横十間川にぶつかるまで歩きましょう。
江戸時代、この団地や野球場、第一亀戸小学校などを含む一帯には幕府の「銭座」が設けられていました。
横十間川沿いの道の端に「寛永通宝」を模った「銭座」のモニュメントがあります。
亀戸銭座跡 銭貨を鋳造したところで、ここでは銅貨が製造されました。金貨を作った「金座」・銀貨を作った「銀座」も同様のところです。
銭座ははじめ浅草と芝で行われてましたが、のち本所、深川に開かれました。というのは、鋳造の過程で毒が派生するので定期的に移動せねばならず、江戸時代を通じ14ケ所を転々としたといいます。
「寛永通宝」がデザインされ、鋳銭の作業過程がレリ-フされています。
「東京近傍三号『深川』1万分の1」/明治42年(1909)測図/同43年(1910)4月発行(日本帝国陸地測量部) 注目・日清紡績会社、臥龍梅、亀戸天神など。
その広い跡地に明治40年(1907)、「日清紡績株式会社」の本社工場が建設されました。
昭和20年(1945)の東京大空襲で工場は全焼し、運動場として利用されていたのですが、昭和42年(1967)に旧日本住宅公団の団地が建設されました。
地下には東京都水道局亀戸給水所の配水池が作られているんだそうです。団地を建てる際に現場からたくさんの寛永通宝が見つかったといいます。
横十間川 北十間川との分岐にある柳島橋のところから南に下り、二十間川(仙台堀川)と交差し、さらに西に流れ大横川に合流する4600メ-トルほどの一級河川です。川とはいうもののすべて人工堀です。
江戸城に対し横(南北)に流れていたからで、十間は川幅が十間(18メ-トル)ということからといいます。
川の中央が墨田区・江東区の区境となっています。
人工堀とは信じられないですね!
天神橋 万治2年(1659)、 本所の開拓に合わせて架けられた橋で、初めは亀戸橋と言っていたようです。いまの橋は昭和59年(1984)竣工のものですが、、どことなく風情よくできています。
天神橋のところで広い「蔵前橋通り」を渡ってすぐ右に曲ります。
しばらくすると有名な「船橋屋」の趣に富んだ茶店がみえます。
ここでちょっと一休み。
芥川龍之介や永井荷風、吉川英治らといった文化人も訪れてはひと息入れています。
船橋屋 文化2年(1805)、天神境内の茶屋でくず餅を売り出したのが始まりといいます。添加物を一切使わない素朴なおいしさが愛されています。
船橋屋をすぎると左手に亀戸天神の参道がのびています。
ゆっくりと亀戸天神の境内を散歩してみましょう。石碑の碑で、碑だらけです!
亀戸天神 寛文3年(1663)、筑前(福岡県)の太宰府天満宮の分祀として創建されました。
祭神は菅原道真公で、その祖神である天菩日命(あまのほひのみこと)を相殿に祀っているのが異色です。
亀戸天神は梅と藤が有名で、2月25日に「紅梅殿例祭」が、4月下旬から5月上旬にかけて「藤まつり」が行われています。
ことしはコロナ禍で、どうやら中止となるみたいです。
男橋・女橋 太宰府天満宮を模して造られた 池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」にもとづくもので、男橋はは過去を表わし、繫ぎの橋は現世を、女橋は本殿の手前にある橋で希望の未来を表しているのだそうです。
江戸っ子たちもそんな思いで橋を渡ったのでしょう。
藤の花 江戸時代の亀戸天神は梅の花とあわせて藤の花の名所として有名でした。
亀戸は湿地だったことにヒンを得て、初代・宮司が水を好む藤を社前に植えたのだそうです。寛文2年(1662)ころのことといいます。
例年、花見ころになると馥郁とした藤花がたれるので、たちまち江戸っ子の評判をとり、江戸の名所に組み込まれました。
うわさは江戸城にまでつたわり、5代将軍綱吉、8代の吉宗も訪れた記録があるそうで、広重ほか多くの浮世絵師が題材にも取り入れています。
太鼓橋は亀戸天神のシンボルとなっています。
太鼓橋とモネ 広重の『名所江戸百景亀戸天神境内』の太鼓橋は、印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが描くところの、「睡蓮の池」の庭のネタ元になったといわれています。
自宅兼アトリエにあった庭の池。咲く草花や睡蓮。この作品の構図や画面構成には、広重の版画『名所江戸百景亀戸天神境内』からの影響が大きいと研究者から指摘されています。
神牛(しんぎゅう) 牛は天神の神使(みつかわしめ)として信仰されています。
菅原道真は生まれたのも亡くなった年もウシ年でした。
太宰府天満宮の場所も、私が死したときはその体を牛車に乗せ、牛が停まった場所を墓としてくれ、と菅原道真が遺言したことで決まったほどで、ともかく牛に縁が深かったのです。
神牛の座像は昭和36年(1961)、鎮座三百年祭の時に社殿の復興とともに奉納されたものといわれます。
神牛に触ることによって病気を治し、知恵を得るといわれています。
太助燈籠 塩原太助が天明元(1781)に奉納した石灯籠。2基寄進しその内の1基が残されています。太助は天神の氏子だったそうです。
太助は上野国利根郡新治村下新田に生まれ、江戸に出て奉公したのち、主家の援助により本所相生町で薪炭業を営み、財を成したといわれています。つまり豪商です。
しかし蓄財を公共のために投じたことで他の豪商たちとちがっていました。
その出世一代記が三道草円朝によって脚色され、講談『塩原多助一代記』となり、同名の歌舞伎でも知られています。
本所両国の商店があった近くには塩原橋が架かっています。
江戸っ子たちには「本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原」と囃されたといわれろほどの人格者でした。
この灯籠は天明元年(1781)八月十七日に奉納されたもので、「奉寄進石燈臺両基武蔵国葛飾郡亀戸天満宮大前 天明元年辛丑年八月十七日 本所相生町住塩原太助」と刻まれています。ちなみに演劇のほうでは「太助」は「多助」となっています。
四国の金毘羅さまにも太助燈籠がありますね。
五歳官公像 道真公が、5歳の時に紅梅を詠んだ和歌の歌碑と像。「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」
鷽替(うそかえ) 天神さまの神事です。1月の24日、25日におこなわれます。昨年頂いた木彫りの鷽を納めて、新しい鷽を頂くと、昨年の凶事や嫌なことが「ウソ」になる、幸運を招くというものです。
亀戸天神の境内社はいずれもすっきりとして晴れやかです!
御嶽神社 御祭神は、菅原道真公の教学上の師、御祈の師であり、「卯の日の卯の刻」に亡くなったことから「卯の神」と信仰されています。祭礼には「卯の神札」と「卯槌」が授与されます。 特に「卯槌」は悪気を祓うとされています。
花園社 亀戸天神の創建とあわせて建立されたようです。道真公の北の方(宣来子・のぶきこ)とその御子達14方が祀られており、安産・子宝・育児・立身出世の神として信仰を集めています。
辨天社 太宰府天満宮の心字池の近くにある「志賀社」は海など広く水をお守る神。それがここにも建てられ、当時の文人たちが上野不忍池の「弁天堂」にみたて「弁天社」と称したのだそうです。
紅梅殿 菅原道真公は大宰府へ左遷されるとき、京都の紅梅殿の庭の梅をみて、東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ、と詠ったとされます。その菅公を慕って飛んできたのが飛梅。紅梅殿はこの飛梅の実生(みしょう)をお祀りしたお社なんですね。
筆塚 菅原道眞公は空海、小野道風に並ぶ能書家で「書道の神」とも仰がれています。塚のまえで例年「筆塚祭」が行われます。その日には使い古した筆を納め、書道上達、学問の向上を願って大勢の人が祈願します。
「楷」(かい)の木 孔子廟に植えられた木で、「楷」は「楷書」(かいしょ)の楷です。「学問の木」とされています。花を咲かすまでに30年以上かかるんだそうです。
累卵塔 明治20年(1887)と刻印があります。
高橋泥舟・山岡鉄舟の合作で、誌は高橋泥舟、画は山岡鉄舟の作になっています。
格言「累卵の危うき」(るいらんのあやうき)を言っているわけですね。
累卵とは、卵を積み重ねた状態。簡単に崩れそうで非常に危なっかしいことを意味しています。
つまり、明治の新政府が今まさに累卵の危うきにあるということなんでしょう。
裏面に玉子を積み重ねたレリ-フがあります。
貞亨5年(1688年)春、「笈の小文」の旅の途上、吉野で詠まれた句です。
芭蕉句碑
しはらくは 花の上なる月夜哉 芭蕉
<表面> 芭蕉翁 服部嵐雪 桜井吏登 大島蓼太
<裏面> 四世雪中庵完来 夜雪庵普成 葎雪午心
菅原道真公の御神忌900年と芭蕉100年忌とをあわせ、芭蕉門下の人々が享和2年(1802)2月25日に建立したものとりますいわれています。
琴柱燈籠(ことじとうろ) 柱が琴の弦を支える琴柱に似ていることからこう呼ばれているもので、金沢の兼六園にも同じものがありりますが、それよりもさらに大きく立派なもので、石碑には「琴字(ことじ)灯籠」と記されています。
中江兆民の記念碑 明治40年(1907)、板垣退助らによって建立されたものです。
「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民。
フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を漢文に訳し『民約訳解(みんやくやくかい)』として刊行しました。
これが自由民権運動の論理的な支えとなったといわれます。
活躍ののち食道癌で満54歳で死去しました。
葬式無用の遺言で葬式は営まれませんでしたが、死を悼んだ人たちによって「告別式」というものが開かれました。これ今日おこなわれている告別式の始まりだといわれています。
マッチの碑 日本で初めてマッチ の国産化に成功した「清水誠」の碑です。
フランスでマッチの製造技法を学び、明治9年(1876)マッチの工業化に成功し、それまでは火打ち石などを使って火をおこしていた社会に一灯を投じました。はじめの碑は戦災で破損したので昭和50年(1975)再建されています。
神楽殿の裏手にひっそりと塩犬さまが(名なしなですん)。
お犬さま お犬さまに塩をすり込んで祈願すると願い事が叶うといわれています。ご利益は「病気治癒」「商売繁盛」などなんでもだそうです。でも、かわいいですね。何犬なんでしょう?
亀戸の萩寺と北十間川と梅屋敷跡などがある一帯を散歩してみましょう!
亀戸天神の横丁から裏手にまわると東西に走る通りがあります。かつての「三業通り」です。
昭和33年(1958)の法律(売春防止法)施行までは、ここに「亀戸遊郭」がありました。花街、花柳界といつても公の営業許可をもたない私娼窟、つまり※「赤線」、向島の玉ノ井と並んで繁昌したようです。
「亀戸遊園地組合」と呼ばれる組織もありました。少し公に憚ったとはいえ、「亀戸遊園地」とはヒドイ。大人向けの遊園地という意味だったのでしょうか。
明治44年(1911)発行の「南葛飾郡亀戸町・大島町全図」。「遊園地」とあるのが亀戸遊郭。当時の規模を知ることができます。
水上勉の小説『飢餓海峡』は大作であり名作ですね。東映で映画化され、ワタシもみました。亀戸天神も登場してました。
その小説のなかで作者は、主人公を慕う杉戸八重が、大湊の遊廓で働いていたのち上京し、転々としながら最後にたどりついたのが亀戸天神裏の女郎屋「梨屋」としています。
「…江東区亀戸にある遊廓は、亀戸遊廓といわれた。総武線の亀戸駅から北へ約五百メートルほどゆくと新しくつくられた広い道路につき当った。そこから、亀戸天神まで歩いて十分とかからない。この天神へゆく途中に、五十軒ほどの遊廓が三筋ばかりの道路に向きあって並んでいた。もともと、この町は深川木場や、錦糸町あたりを中心とする下町商店街の店員や、主人たちの憩う三業地だった。戦災をうけて一帯は焼野と化したが、いつやらほどから、この三業地あとの一角に遊廓が生じ、建物はうすっぺらな安建築ではあったけれど、どの家も、三、四人の妓を置いて、客をよびこんでいた。…」
いまは三業地としての匂いはまったくありませんが、小ぶりな料亭などがありいくらか名残りの漂いはあります。
※赤線 終戦後GHQの指令によって「遊廓」が廃止された後、改めてその必要性をもって当局が設けた事実上の公娼地域で、「特飲街」、「カフェー」とも呼ばれました。
横十間川に出て左手にまがると「長寿寺」があります。
長寿寺 瑞亀山長寿禅寺。もと柳島山円命寺といい文明元年(1469)、下総葛飾郡柳島の地に開創。明治維新前後に活躍した弘前藩の重臣であった西館孤清(にしだて こせい)の墓があります。戊辰戦争で、藩の方針を「官軍」に導いた人といわれています。
一時期、寺に隣接し旧弘前藩の下屋敷がありました。切絵図の「津軽越中守」とあるのがそれです。
同じ道をもどり栗原橋をすぎると右手に「龍眼寺」(りゅうげんじ)があります。
龍眼寺 応永2年(1359)の開基で、もとは柳源寺と称されていたそうです。
元禄年間(1688~1704)、中興の祖・第39世元珍和尚が全国から数十種の萩を集めたのがもととなり、俗に「萩寺」の名で知られ『江戸名所図会』や『江戸砂子』等に紹介されて有名寺院となりました。
「濡れて行くや 人もをかしき 雨の萩」 芭蕉の句が刻まれています
『江戸名所図会』には、
庭中萩を多く植えて中秋の一奇観たり、故に俗呼んで「萩寺」と称せり
と記されています。
いまも、しだれる枝姿がみごとな「宮城野萩」、葉が楕円形の丸葉萩など多種の萩が目を楽しませてくれます。。
朱塗りの六角屋根の本堂が青空に映えて美しい。
広い境内には松尾芭蕉を筆頭に、榎本其角などの江戸時代の俳人、石田波郷、落合直文らの歌碑や句碑が林立しています。
歩歩快適:作家たちがするどい眼力で往時を綴った、下町歩きをより楽しいものにさせてくれる一冊です!
芥川龍之介は、友人たちとこの「萩寺」に立ち寄ったときの一文を残しています。
浅草の吾妻橋からタクシ-で芥川たちは柳島まで乗りつけて、亀戸天神に参る途中、この萩寺に立ち寄っています。
それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文先生の石碑を前にした古池の水も渇れ渇れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂びてゐる。
落合直文の歌碑の前に佇んだ芥川を想像してみたい!
落合直文の歌碑
萩寺の萩 おもしろし
つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ 直文
・・・萩寺の先にある電柱は「亀井戸天神近道」といふペンキ塗りの道標を示してゐた。僕等はその横町を曲り、待合やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来を歩いて行つた。 「本所両国-荻寺あたり」より
と、あります。「待合やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来」というのが遊郭あたりのことでしょう。
同じ道をさらに進むと川が交差するかつての「柳島橋」にさしかかります。
橋を渡ると錦糸町エリアです。
横十間川と北十間川が交差するところです。
北十間川から南北へと横十間川が分流しています。
横十間川に架かる橋は柳島橋で、お寺は柳嶋妙見山法性寺という大寺です。
芥川たちはこの橋のたもとクルマをおりたのでしょう。
いまやスカイツリ-がこのあたりのシンボル。どこからでも見渡せます。
北十間川 隅田川から分かれて東へと流れ、亀戸の北端から旧中川とつながる3.2キロほどの川です。
江戸時代に堀割られたもので、川幅が10間(約18メ-トル)で、本所の北を流れていたことから北十間川と呼ばれました。
かつて北十間川より南側は遠浅の海で小さな島がいくつも点在していたといいます。柳島もそのひとつだったのでしょう。
中に亀の形に似た島がありました。のちにほかの島々と陸続きになり、亀島村が生まれたといわれます。
橋のところから北十間川沿いの「浅草通り」を進みます。
歩いてすぐ、右手の奥に風格のある古社があります。
亀戸一帯の總鎮守と織田信長ゆかりの古社寺などを巡ってみましょう!
天祖神社 推古天皇の治世(593~628)創建の古社。神像は聖徳太子の作といわれています。
古くは「柳島総鎮守神明宮」と称されていたように、広かった柳島村の氏神さまでした。
明治5年(1872)に「柳島村社天祖神社」と改称されました。
内部が総檜造り。昭和4年(1929)に竣工した社殿ですが、鉄筋コンクリート造り社殿の第1号とされています。俗に「金庫造り」といわれたそうです。
神社建築としては前例がないことが賞賛され、こののち神田明神ほか同工法の神社建築が全国的に広まったとされます。
さきの亀戸遊郭、ここに「亀戸遊園地組合」が寄進した玉垣が残されています。
遊郭の氏神さまだったのでしよう。
疫病が流行した時に織田信長の使者が参向して流鏑馬を奉納したところ、疫病が治まったんだそうです。それから子供の成長を祈る行事として毎年「子供歩射」(子供流鏑馬)が行われるようになっといいます。
こんなところで織田信長がからんでいるとは、ちょっと驚きですね。
いまは馬の調達がむずかしいので使っていないそうです。
5歳から10歳位までの子どもたちが、直垂、黒烏帽子といった古式の装束をまとい、的に矢を放つんだそうです。
さきを進み境橋のたもと、対岸に小さなお堂がみえます。
目黒の祐天寺にその名を残す名僧、祐天上人の聖跡です。
祐天堂 元禄年間(1688~1704)、浄土宗の名僧・祐天上人は川で大勢の水死者があるときいて、「六字名号供養塔」を建立し懇ろに回向を手向けました。
以来、水難がなくなったといい、のちに土地の人々が供養塔を祀ったのがこの祐天堂だといわれています。隣に「木下川やくしみち」の道標があります。
歩道をさきに進むと左手の道端に石柱と説明板が建てられてあります。ここが有名な亀戸梅屋敷のあったところです。
梅屋敷跡 呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」は、別名を「亀戸梅屋敷」といわれました。すでに
多くの梅の木のなかで「臥龍梅」は名木として知られました。
すでに鎌田の東海道沿いに有名な「梅屋敷」があったので、「新梅屋敷」とも呼ばれたようです。
大勢の文人、墨客が訪れています。
江戸の俳人・小林一茶は文化2年(1805)に訪れています。臥龍梅を見て、こんな一句を詠んでます。
只の木は のり出で立てり 梅の花
明治の歌人・正岡子規は明治31年1898)に訪れています。小林一茶の業績を高く評価したのは子規でたしですね。で、子規は臥龍梅にふれこんな歌をよせています。
梅園に老い行く年を臥す竜の爪もあらはに花まばらなり
梅屋敷は亀戸天神のライバルとして花見客を二分しました。
梅園の中でも「臥竜梅(がりゅうばい)はその枝ぶりで名をはせていました。
『名所江戸百景』の特徴である、前景に大きなモチ-フをもってくる手法は、ここでは臥竜梅を前景に、遠くに観梅に来た人たちを描くという構図になっています。
臥龍梅 梅の枝がたれ下って地中に埋まり、また地表に出る姿形が、まるで竜が臥すような形に見えるところからその名がついたといわれます。
名代の浮世絵師・広重が『名所江戸百景』でこれを浮世絵にとどめました。
のちにこの浮世絵を炎の画家・ゴッホが油絵に模写した事でも知られています。
明治3年(1910)に大洪水があり、そのとき梅の木はすべて水につかり、それがもとで枯れてしまい、そのまま廃園になったようです。今ではまったく跡形もない幻の梅屋敷となり、 一帯は住宅でうずめつくされています。
少し進んだ右手、住宅に囲まれるように小ぶりなお寺があります。
龍光寺 真言宗智山派のお寺です。弘治2年(1556)、江戸横山町に創建されたのち、ここに移転してきたようです。
かつて本尊薬師は恵心作といわれていましたが、戦災で焼け、向島の多聞寺から十一両観音菩薩を譲り受け本尊としているといいます。(「江東区の民俗城東編」)
お寺の裏手一帯に香取神社が鎮座しています。
香取神社 天智天皇4年(665)、藤原鎌足が東国に下向した際に香取大神を勧請したのが始まりといいます。
祭神・経津主神(ふつぬしのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、大己貴神(おおなむじのかみ)。
平将門が乱を起した「天慶の乱」(てんぎょうのらん)。
追討使として遣わされた俵藤太秀郷はこの香取神社に参拝し戦勝を祈願したといいます。
乱はめでたく鎮圧できました。その神恩に感謝し、弓矢を奉納しました。それは「勝矢」と命名されました。
この古事により、いまも「勝矢祭」が伝えられています。
源頼朝、徳川家康などの武将、剣豪塚原卜伝、千葉周作といった多くの武道家達に篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇める習いがあるのだそうです。
こうした由来もあって香取神社は「スポーツの神」として熱く崇敬されているそうです。
神殿 昭和20年3月9日、大戦で本殿炎上、同23年8月社殿再建。さらに昭和63年10月に現社殿が建立されました。
亀戸の地名由来をもつ「亀が井」。平成15年に復興されたものです。「若水や福も汲み上げ亀が井戸」と歌が添えられています。
『新編武蔵風土記稿』に、龜戸村は、
村内に龜ヶ井といふ舊井あるを以て村名起りしよし土人の傳る所なり されど鎭守香取神社神主の家傳に依に 往古當所は海中の孤島にして 其形ち龜に似たるを以て龜島と呼び 後に四邊陸地に續きて村落を成せしより龜村…
と、あります。
大国神・恵比寿神尊像 お水掛けをして祈願します。自分のここというところを洗い清めご神徳を頂きます。湧き出ているのは、「亀の井戸」の聖水だそうですから!!
亀戸大根発祥之地 神社周辺が栽培の中心地で、栽培は江戸末期の文久年間(1861~1864)に始まったといいます。
境内には熊野神社、三峯神社、水神社、福神社、稲荷神社と境内社が真一文字に並んでいます。
境内を出て右手の路地を道なりにゆくとやや広い通りに出ます。そのまま進み二手のところを右にゆき、右手の家屋が込み合った細い露地の奥に華やかな稲荷がみえます。
かつてあった梅屋敷の屋敷神として祀られていた伏見稲荷神社です。
露地からもどり二又のところまでゆき、そこから広幅になる道路を蔵前通りのほうに向かって歩きます。
100メ-トルほどの右手に大きな樹木をもつ一寺があります。
光明寺 天台宗。天明元年(1781)の創立と伝えられています。
役者絵や美人浮世絵の第一人者と賞された二世歌川豊国(1786〜1864)の墓があります。
亀戸天神の境内に碑がありましたね。
墓石には蜀山人の筆跡で「五渡亭」と彫られています。五渡亭国貞とも称していたらしいです。それは本所五ツ目の渡し場の付近に住んでいたことからといいます。亀戸天神の門前にも住んでいたので亀戸豊国とも呼ばれたそうです。
元治元年(1864)79歳で没しています。
先をすすむと右手に普門院があります。いっけん荒れ果てているような、樹木が鬱蒼と茂ったお寺です。
普門院 大永2年(1522)、武蔵国豊島郡石浜(荒川区)にあった武蔵千葉氏の居城・石浜城内に開かれたとも、また待乳山(台東区)にあったとも伝承されています。
江戸時代の元和2年(1616)現在地に移されたようです。
石浜からここに移転するとき、途中であやまって梵鐘を隅田川に沈めてしまいました。それでそこを「鐘ヶ淵」(墨田区)というんだそうです。
都内における仏像でワタシが好きなもののひとつです。とても魅力的です!だれの手になるのかわかりません。
普門 「普門」(ふもん)とは普(あまねく)すべての衆生を迎え入れる門という意味で、「普門(あまねく開かれた門)」という名の通り、すべての人に向けて開かれた教えなのだそうです。
あらゆる方向に顔を向けすべての人々を救う観音菩薩の功徳(『観世音菩薩普門品第二十五』は、『妙法蓮華経』の中でも特に重要な『普門品』)を説いたもので、それから導かれて名付けられたものといいます。
木食観正供養塔 ※木食(もくじき)による「光明真言講」という講が建てた高さ2メ-トルほどの石の供養塔です。
なかなかほかではみられない、仰ぎみるほど堂々としたものです。
正面には、「木食上人」「南無大師遍照金剛」と、観正(かんしょう)の手跡による8文字が刻まれています。
木食観正は、宝暦4年(1754)に淡路で生まれ、江戸の周辺や小田原などで活発な宗教活動を行った遊行僧です。
※木食 穀類を断ち、木の実や草や草の根など食べて修行すること。木食仏と称される仏像があるのでよく知られてます。
伊藤左千夫墓 独特の書体で「伊藤左千夫の墓」と彫られています。
書家で洋画家でもあった中村不折の手による、何文字というのでしょう…。
一部が欠けているのは短歌の上達を願って墓石を欠いてゆく不心得者いるかららしいです。
正岡子規門下の歌人として、また小説『野菊の墓』(伊藤左千夫43歳の作)であまりにも有名ですが、それは牧場主と兼業のことでした。
伊藤左千夫 元治元(1864)年、千葉県九十九里の成東の出身。
明治14年(1881)、政治家を志して上京し、明治法律学校(明治大学)に入学したが,眼病のため秋に退学し帰郷。
明治18年(1885)、実業家として身をたてるため再度上京。東京や横浜の牛乳搾取場で働く。
明治22年(1889)、本所茅場町(JR錦糸町駅前)に独立して牛乳搾取業を開きました。
錦糸町時代の歌に、
亀井戸の藤も終りと 雨の日をからかささして ひとり見に来し
が、あります。
このころ、左千夫はすでに37歳。子規より5歳年上でしたが子規の短歌改革運動に共鳴しました。そこで子規の門下となり、写生短歌の勉強に邁進します。
やがて頭角をあらわし、根岸派歌壇のリーダー的存在となり、のちに歌壇・アララギを主宰します。
門下から島木赤彦や齊藤茂吉、土屋文明など多くの近代短歌の俊英が輩出しました。
錦糸町駅前の牧舎は何度も大水害に見舞われました。それで大正2年(1913)、意を決して江東区大島に移りすんだものの、その年の夏7月30日に脳溢血のため50歳の生涯を閉じました。
最晩年の歌に
鶏頭の紅ふりて来し秋の末やわれ四十九の年行かんとす
が、あります。絶唱歌ですね。
正岡子規と出会って、それから生涯をとじるまで、わずか13年でした。
この短いともいえる歳月の間に左千夫は精力的に歌人としてまた文人として偉大な足跡を残しました。
門前から200メ-トルほど歩くと蔵前橋通りに出ます。そこを左に進み、やはり200メ-トルくらいで明治通りにぶつかります。「亀戸4丁目」の交叉点です。
その十字路の東側の角に江東区の「亀戸梅屋敷」があります。
拡大された広重の『東都名所亀戸梅屋舗全図』 がみられます!
亀戸梅屋敷(観光館) 江戸時代にあった名所・梅屋敷をコンセブトにしたもので、江東区の観光協会が運営しています。
観光案内所、物産販売店とあわせ亀戸の文化や歴史を紹介する複合商業施設となっています。
無料、10:00〜18:00、(冬期)9:30〜17:30、03-6802-9550、定休日・月曜日(祝日の場合は翌日)
亀戸升本本店 梅屋敷の隣にある、明治38年(1905)創業の「亀戸升本本店」では、亀戸大根を取り入れた料理を提供しています。
亀戸4丁目の交差点から明治通りをJR亀戸駅へと進むと、およそ500メ-トル弱、10分ほどで駅に到着します。
みどころいっぱいの亀戸散歩、西側編でした。いつか東側も歩きますよ。
亀戸天神のまわりは四季ごとに訪れるといいとおもいます。
それではこのあたりで〆にします。
それじゃ、また。
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