海上の高輪築堤を走った蒸気機関車。乗客の1人だったイザベラ・バ-ド!
日本の鉄道をはじめて走った蒸気機関車。バルカン社製1号機関車(のちの国鉄150形)
海の上の鉄路・「高輪築堤」があったことは歴史的な事実として知られたいましたが、
ほとんど取り壊されてしまっいるであろうという見方が大方でしたから、
原形に近い形をとどめていたことには驚くばかりです。
築かれた場所に築堤時のままの形で保存されていることには大きな価値があります。
国鉄の歴史を有するJR東日本にとっては鉄道事業のルーツをみるようなもので、ぜひ鉄道遺産として後世に伝えてくれることを期待したいとおもいます。
というわけで、以下、そのあたりのことを写真と拙文でお届けします。
高輪築堤~海上走る汽車~高輪ゲートウェイ駅周辺で出土した鉄道遺跡!
高輪ゲートウェイ駅の西周辺(車両基地などで使用してきたエリア)の再開発の際に、約1.3キロメ-トルにわたって築堤の遺構が発見されました。
鉄道敷設 明治3年(1870)4月、新橋(汐留)~(29キロ)~横浜(居留地)に国内初の鉄道を通すための工事が着工されました。
隈重信と井上勝(鉄道の父)のふたりがが主導し官営鉄道の建設にあたりました。
西郷らが軍備拡大を優先させるべきだと考えていたためとされています。
そんなことから大隈の発令で、海軍の用地をさける「高輪築堤」の工事が、明治3年(1870)10月から着工されました。
田町駅の付近から品川駅付近までの「袖ヶ浦」といわれた海岸線(高輪海岸)に並行して浅瀬を約2.7キロメートルにわたり、約6.4メートルの幅で海上を細長く埋め立て、その築堤の上に線路を敷き、堤の両側は堅固な石垣積にしました。
それがこのたびみつかったわけです。今回、築堤の石積みがそのままで発掘されたことからみて、
レ-ルだけ取り払い、あとはまるこど埋めてしまったことがわかりました。凄いことをしたものです!
こうして顧みると世界に類のない洋上を走るユニ-クな鉄道でもあったわけです。
新橋横浜間鉄道之図(国立公文書図書館デジタルア-カイブ)
「高輪海岸」は古くから風光明媚なところとして、
また「月見の名所」でもあり、泉岳寺や高輪大木戸などをひかえ、
茶店などが建ち並び、観光客や旅人で賑わったところでした。
「高輪ゲ-トウェイ駅」が往時の繁昌をもたらす呼び水のようなものになるのかもしれません。
「高輪築堤」の時代からすると、埋立がどんどん進み洋上は遥か彼方に退いているのがわかります。
明治5年(1872)新橋~横浜間を走った日本初の機関車はイギリス製!
明治政府の鉄道事業全般(建設・営業に係る制度の確立、技術の伝承、教育養成など)は最初すべて英国スタッフの主導でおこなわれました。
明治3年(1870)、イギリス公使ハリー・パークスの推薦をうけてイギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始動しました。
このモレルこそが日本の鉄道の礎を築いた、「鉄道建設の父」ともいわれる人でした(桜木町駅構内に肖像があります)。
今日も続いている日本標準の鉄道軌間を3フィート6インチ(1,067mm)の狭軌に定めたのはモレルであり、独特な「枕木」の提言もそうだといわれています。
しかし残念なことに、鉄道の開業を目前にして結核により、横浜において満30歳の若さで没しました。横浜山手の外国人墓地に眠っています。
大宮の「鉄道博物館」に、
完成した鉄道をはじめて走った機関車、開業時に輸入されたバルカン社製1号機関車(のちの国鉄150形)が保存展示されています。
機関車を運転する機関士は外国人で、運行ダイヤ作成もイギリス人技師に一任されていたといいます。
ここから少し余談になります。
関連記事:開業間もない鉄道に乗った英国女性イザベラ・バード!その乗車体験を語る!(一部重複)
明治の鉄道黎明期に横浜~新橋を旅したイザベラ・バ-ドの列車旅!
鉄道が開通した6 年後のこと、
明治11年(1878)、英国の女性イザベラ・バ-ドが来日しました。
日本国内を旅し『日本奥地紀行』という一書を著しました。
描写の細やかさと批評眼をあわせもち、記録魔ともいえるようなバ-ドですが、
築堤鉄道の、このユニ-クさをどうしてスル-してしまったのかと、惜しいものを感じています。
その『日本奥地紀行』のなかで、
彼女が横浜(桜木町)から新橋へ向かったとき、初々しい蒸気機関車に乗ったときの、乗車体験記とでも言えるようなもの記していますから、ちょっとみてみましょう。
やや長くなりますが、頁を追ってところどころピックアップしてみます。
英国製の車両は、英国にあるものとはちがっていて、左右の両側に沿って座席があり、両端にドアがあってプラットホームに対して開くようになっている。全体的にいえば、仕組みは英国式というよりもむしろヨーロッパ大陸式である。(以下、『日本奥地紀行』高梨健吉訳・平凡社による)
まず、駅舎、改札、待合室、営業、スタッフ等を観察しています。
東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。すばらしい鉄道で、砂利をよく敷きつめた複線となっている。
この鉄道は、英国人技師たちの建設になるもので、一八七二年(明治五年)の開通式には、ミカドが臨幸された。
工事のどれほどの費用がかかったのか、政府だけしか知っていない。
横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売場は英国式である。
等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨氈を敷いていない。
どちらの終着駅にも、広くて天井がつき石を敷きつめたプラットホームがあって、回り木戸をつけた関所を設けてある。ここは、特典のある者でない限り、切符がない者はだれも通れない。
切符切り《これは中国人》、車掌と機関手《これは英国人》、その他の駅員は、洋服を着た日本人である。
料金は、三等が一分《約一シリング》、二等が六十銭《約二シリング四ペンス》、一等が一円《約三シリング八ペンス》。乗客が旅行を終わって改札口を出るときに、切符が回収される。
一等車は、深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えたぜいたくなものだが、ほとんど乗客はいない。二等車の居心地のよい座席も、りっぱなマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし三等車は日本人で混雑している。彼らは、人力車(クルマ)と同じように鉄道も好きになったのである。
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うららかな日で、英国の六月に似ていたが、少し暑かった。日本の春の誇りであるサクラ《野生のチェリー》やその同類は花を終わったが、すべてが新緑で、豊かに生長する美しさにあふれていた。
横浜のすぐ近辺の景色は美しい。切り立った森の岡があり、眺めのよい小さな谷間がある。しかし神奈川を過ぎると、広大な江戸平野(関東平野)に入る。これは北から南まで九〇マイルあるといわれる。
汽車から見渡す限り、寸尺の土地も鍬を用いて熱心に耕されている。その大部分は米作のため灌漑されており、水流も豊富である。
いたるところに村が散在し、灰色の草屋根におおわれた灰色の木造の家屋や、ふしぎな曲線を描いた屋根のある灰色の寺が姿を見せている。そのすべてが家庭的で、生活に適しており、美しい。勤勉な国民の国土である。雑草は一本も見えない。
品川に着くまでは、江戸はほとんど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建築物も、めったに高いことはない。寺院は深い木立ちの中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は、二〇フィートの高さに達することは稀である。
右手には青い海があり、台場を築いた島がある。大きな築山に囲まれた林の庭園もある。
左手には広い街道があり、人力車(クルマ)の往来がはげしい。
残念なことに、横浜でも高輪でも「築堤」のことについて触れられていませんね。
海上鉄道の異色さを感じてないわけではなかったかと思うのですが…。
はてさて、ここのところの心境は謎です!
それはともかく、
黎明期の鉄道を日常的な目線でこれほどまでに細かく綴った記録はほかにはみられない、
ですが、JR東日本さんは着目もしてくれず、わりと無頓着のようです。
もったいないですね!
横浜築堤を走る汽車~横浜ステ-ションと神奈川を結んだ海上鉄道!
ところで、築堤工事は高輪だけでなく、同時進行で横浜の海でも行われていました。
こちらは高輪築堤で生じたトラプルのようなものではなく、大きく湾を成していた海を直線で結ぶ、ショ-トカット。
つまり線路の短縮という意図からのものでした。
↑上の写真は、いまの京急神奈川駅近くの「権現山」あたりから横浜方面をのぞんだものです。「袖ヶ浦」がぐっ右手奥に入り込んでいるのがわかります。中央の橋は旧東海道の「青木橋」。右手の寺は「本覚寺」です。
事業を請け負ったのが高島嘉右衛門でした。「高島易断」の創始者で、横浜の「高島町」にその名を残した江戸の商人。
「横浜の父」ともいわれています。
そもそも、東京・横浜間の鉄道建設の必要性を大隈重信と伊藤博文に提言したのは嘉右衛門だったといわれています。明治3年(1830)のことでした。
しかし高島嘉右衛門にそうした私利私欲はなそうでしたから、
ひとえに自分が住む愛すべき横浜への貢献だったのではないでしようか。
嘉右衛門はこの埋立築堤を、晴天140日以内という厳しい条件で請負い、明治4年(1871)2月に見事にそれを完成させました。
細長くカ-ブした陸地部分、埋立でできた「横浜築堤」です。右下の大きな島は「神奈川台場」跡です。
これまでのところ「横浜築堤」という用語はないのですが、「高輪築堤」に対応して名付けてみました。
こちらも高輪海岸とおなじく「袖ヶ浦」と呼ばれる入海になっていた横浜の海ですが、
その海上、京急神奈川駅近くから野毛(JR桜木町駅近く)の間を、ほぼ直線で結ぶための埋立工事でした。
埋立地一帯は嘉右衛門の姓をとりのちに「高島町」と呼ばれるようになりました。
横浜の高島台(高島嘉右衛門邸跡)に、横浜の海岸の変遷が以下のように解説されています。
横浜「袖ヶ浦」今昔
横浜も東京と同じく、埋立が進んで海は彼方へ。西区は大方が埋立地であることがひと目でわかります。