今日の散歩は石神井公園の界隈(練馬区)・紅葉の池畔に落城の哀話が残る!
練馬区には自然の池が多いです。
それだけ自然が豊かだったということでしょう。
大きなものに石神井池・三宝寺池があります。
中で三宝寺池は井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られています。
三宝寺池に続き石神井池があります。
こちらは近代に出来た人工の池なのですが、いまではすっかり自然池の趣を濃くしています。
三宝寺池南側の台地上には、
かつて武蔵野一帯を支配した豪族・豊島氏の居城である石神井城がありました。
石神井川の主水源を支配するため、要害の地に城を築いたのであろうと推察されています。
太田道灌によって追撃され落城したのですが、
いまも空堀や土塁など城郭の遺構がしのばれます。、
滅亡時、
ともに三宝寺池に入水した父と娘、豊島泰経と次女・照姫の、哀話を遺す伝説があります。
春は新緑や桜、秋は紅葉と、豊かな自然の中に戦乱の歴史を秘めた石神井公園の一帯です。
ということで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
今日の散歩は石神井公園の界隈(練馬区)・紅葉の池畔に落城の哀話が残る!
西武池袋線・石神井公園駅。
公園の名前が駅名になっている駅です。
南口に降り、左手に線路際を行くと、右手に高さのある目立つ大きな石碑が建てられています。
いっけん地味ですが遠くからも目立つものです。
石神井火車站之碑( しゃくじいかしゃたんのひ) 「 火車站」(かしゃたん)とは、中国語で鉄道の駅のこと。中国読みでは「ピンイン」。どうして中国語にしたのか、いささか疑問です。
大正4年(1915)に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)・石神井駅( 現石神井公園駅)の開業を記念し、大正9年(1920)5月に造立されれたもの。
石神井城・三宝寺池・長命寺などの見所を記し、鉄道開通の利便性を讃えるものになっています。
石神井公園に向かうまえに、いくつかの小さな史跡に寄ってみましょう。
駅前にもどり、右手に向かい、「石神井公園南口駅」バス停のさきを右に入るまっすぐな道をゆきます。途中に大鳥神社が左手にあります。
寄り道しない場合は、そのまま「石神井公園駅入口」の交差点まで進み、十字路を左に「公園通り」を行くのもいいでしょう。
大鳥神社は歳末に酉の市が開かれる神社です。
大鷲神社 記録によると、日本武尊が石神井村を通過したという徳を慕い村人が奉祀したものといいます。大黒天も合祀されており、社殿には大鷲神社と大黒天社の社名札がかかっています。
参拝をすませたら、そのまま線路際の道をゆき広い富士街道に出ましょう。大型トラックがびゅんびゅん走る通りです。
その道路を向かい側に渡って左に20メ-トルほど歩いてゆくと右手に記念碑が建っています。
一里塚改築記念碑 大正14年(1925)の建立で、大山道の一里塚とされ、川越街道の下練馬宿から分岐して二里目の一里塚とされています。手前に延享3年(1746)建立の笠付きの角柱型の「庚申塔」があります。
〇富士・大山街道 大山街道は富士街道ともよばれていました。
江戸時代、相模国(神奈川県)の阿夫利山(あふりざん)ともいわれた大山へ、
さらに大山から富士山へと参詣者が通った道のひとつです。俗に「ふじ大山道」とも呼ばれていました。
板橋区志村で旧「中山道」から分かれ、「川越街道」の「下練馬宿」へと向かい、その後は府中に出て「甲州街道」を通り「富士山」へ向かいました。
富士街道を向かい側にわたり、「きらぼし」と「りそな」銀行の間の道を行きましょう。
石神井公園駅入口の交差点を過ぎて、そのまま「石神井公園通り」を進みます。
すぐの左手に、近頃ではあまり見かけなくなった、懐かしいような「駄菓子屋」さんがあります。昔懐かしいお菓子がいっばいです。
道は緩やかに傾斜し、駅入口から300メ-トルほどで「石神井公園バス」停に着きます。
目の前に石神井池が広がっています。
都立石神井公園 面積は約6万1千坪余り。石神井池エリアと、天然記念物の植物群落がある三宝寺池エリアに大別さけます。
石神井川 荒川水系の支流で、流路延長25.2キロメ-トル。東京都小平市花小金井南町あたりに源をもち、
東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流しています。小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区を貫通しています。
各所で湧水を集め流量を増し、とくに三宝寺池はその主水源となってたといいます。川の名は石神井村を流れてたことによるものだといいます。
※池畔の紅葉は、2019年12月上旬ころの撮影によるものです、紅葉狩りにはご注意い下さい!
石神井池 かつては三宝寺池からの流れが三宝寺川として石神井川に注いでいたそうです。
途中は低地で水田の感慨用水だったのですが、流量が減ったことと、三宝寺池の一帯が風致地区に指定された際、
三宝寺川を途中で堰き止め人工的に池としたもので、昭和9年(1934)の造成といわれます。
三宝寺川は暗渠となり、地上は「和田堀緑地」として公園化されています。
昭和34年(1959)、三宝寺池とともに二つの池を中心に「都立石神井公園」として整備されました。
池の畔に売店があり、その横はボ-ト乗り場で、池には手漕ぎボートやスワンのボートがたまっています。
ここから右まわりに池の畔を歩いて行きましょう。
石神井村 この一帯の古い村名で、名前は、東日本に多いミシャクジ信仰に類する「石神」(シャクジ)で、石棒を神体として祭ったものに由来し、それは三宝寺池から出たとも、井戸を掘っていたら土中から出たとも伝えらています。
それにしても、石神井をストレ-とに「しゃくじい」と読める人は何人いるでしょう。
練馬区や杉並区あたりに住む人ならば読めて不思議はない地名ですが、
一般的には難読地名の一つです。「じい」はともかく「しゃく」のと発音はどう頭をひねっても出てきません。
むかし村人が井戸を掘っていたところ、石棒が出てきた。石棒には奇端(きずい=めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)があって、村人たちは、それを霊石と崇め、石神(いしがみ)様として祭った。通称石神神社、今の石神井神社(石神井町4-14)の始まりである。いつか、村の名もそれにちなんで石神井と呼ぶようになった。ここは石神井発祥の地ということになる。一説に石神様は、三宝寺池から出現した石剣とも伝える。(練馬区hp)
石神井の地名の起源となったその石剣は、石神井駅に近い石神井神社の石神として祀られています。
石神井池の池畔は井草通りでいったん途切れ、道路さきは三宝寺池エリアに入ります。
井草通り 杉並区の井草に通ずる道で、ケヤキ並木で知られており、石神井池と三宝寺池を区切っています。
歩くほど、巡るほどに武蔵野の自然と野生と風趣を感じる三宝寺池!
三宝寺池 三宝寺というお寺のそばにあることから三宝寺池と称されたようです。
石神井池と異なり、ボ-ト、釣りなどが禁止されたエリアで、天然記念物の植物群落が生育しています。
江戸時代には、涸れることがない湧水で、かつては真冬でも池面が凍らない「不凍池」として知られて いました。
しかし、昭和48年(1973)ころには枯渇したため、
三宝寺池と石神井池に深井戸(1900メ-トル)を掘って地下水を汲みあげ池水を 満たしてるといいます。
石神井池とは趣を異にして、野趣を帯び、樹林におおわれた池は、昔の武蔵野の自然の姿を見せてくれます。
池のほとりには木道がめぐらされているので、自然観察や散策がしやすくなっています。シラカシなど高木のある風景はみごとです。
対岸は急斜面をもつ高台で樹木が密集しています。一帯がかつての石神井城の中心部をなしていました。
『 江戸名所図会』の三宝寺池・辨天社・氷川明神・石神井城址。キャプションに「石神井川のみなかみなり。」とあります。
三宝寺池の一部は、昭和10年(1935)、三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されました。
水辺観察園 ここに大正9年(1920)に日本初の1100メートルプールが開かれたなんて信じられません。
その後、釣堀になっていましたが、平成元年(1989)に{水辺観察園}として開設されました。
いまは植生の環境回復をはかっています。園内には沼沢植物群が見られ、緑豊かな武蔵野の面影を残しています。
右手の高台に上ると豊島氏にかかわる二つの塚があります。
殿塚 大田道灌は豊島氏の居城・石神井城に総攻撃をしかけました。
落城の刻が迫ったのを悟り、泰経は豊島氏重代の家宝である「金の乗鞍」を白馬の背にすえ、
これにまたがって城の背後の崖に登り、道灌の兵たちが見守る中で白馬とともに崖から飛び降りて三宝寺池に身を沈めたとといいます。
姫塚 泰経には照姫という美しい二女がいました。
照姫は父の死を悲しみ、父を追って三宝寺池に身を投げたといいます。
のちに縁者がその死を哀れみ塚を築いたのではないかと伝えられているのですが、
この塚はいつしか「姫塚」と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると池の底に泰経とともに沈んだ金の鞍が輝いているのが見えると伝えられています。
この松の木は「照日の松」と呼ばれたそうですが、いまはみあたりません。練馬区では照姫をしのんで「照姫まつり」(4月の第4週目の日曜日)を開催しています。
江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、
三宝寺の第6世・照日上人を葬った塚として「照日塚」を記しています。
また。大正7年に刊行された『北豊島郡誌』」でも「照日塚一名姫塚と呼び、其東方十餘間に殿塚あり」とあることからも、
ふたつの伝承はこれを指すもので、伝説としては大正年間から昭和時代に入って生まれたもではないかと思われています。
豊島一族 秩父平氏の一門。平安時代から室町時代にかけ太田道灌に滅ぼされるまでの約400年の間、
武蔵野一帯を支配した豪族で、石神井川沿いに平塚城、滝野川城、板橋城、練馬城、石神井城を築き、一門が繁栄を極めました。
文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」で豊島氏は景春に味方し、山内上杉氏・扇谷上杉氏と戦うことになりました。
翌年、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は江戸城から出陣し、豊島氏の支城の練馬城に攻撃をしかけました。
豊島泰経(妻・景春の妹)・泰明の兄弟はそれを迎撃し、江古田原で合戦となりました。
練馬城主・豊島泰明はこの合戦で討ち死にし、泰経は石神井城へ敗走したのですが、
道灌の追撃にあい、泰経は逃亡し石神井城は落城、豊島氏はここで滅亡したとされています。
しかし小机城(武蔵国橘樹郡小机郷・神奈川県横浜市港北区小机町))に落ち延び、その後の足取りがわからないというミステリ-もどきの説もあったりする。
かつての豊島園跡は豊島氏の居城のひとつ。
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平塚城址は豊島氏の居城のひとつ。
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散歩する途中の三宝寺池畔の神々に水への祈りをみる!
高台の塚から池畔にもどり、ここから池の南側をめぐることにしましょう。
三宝寺池の東端、どん詰まりがこのあたり。自然池のもつ野生がめいっぱい感じられるところです。
小さな太鼓橋を渡ると中島に厳島神社が祀られてあります。
厳島神社 氷川神社の境外末社で祭神は狭依姫命( さよりひめのみこと)。水の神さま。
宇迦神社穴弁天 4月上旬の厳島神社の例大祭では、穴弁天( 宇賀神社)の霊窟が公開されるといいます。
水神社 祭神として日本古来の水神様・水波能売神(みつはのめのかみ)を祀っています。
どの社も古来より三宝寺池を大事にしていたことがわかります。
厳島神社の横に池全体を天保できる見晴らし台が付属しています。
厳島神社を過ぎると右側斜面の樹林が急に深くなります。
散歩する石神井城址、その歴史、その面影をしのぶ!
石神井城址の本廓の真下あたり。池が深そう。泰経・照姫の父と娘はこのあたりで池に飛びこみ沈んだのでしょうか。
石神井城跡 三宝寺池の南手に石神井城址碑があます。
丘陵上に縄張りをもった平城で、本郭跡、空堀、土塁といった遺構が往時をしのばせます。
南を流れる石神井川と北にある三宝寺池の間を分断するように東西に長く伸びています。
つまり石神井川と三宝寺池、ふたつの池を堀としてうまく取り込み 築城されたようすがうかがえます。
佇んでみると、池が防衛の役割をもっていことかわかります。太田道灌軍もこの池で苦戦したのでしょう。
なお通常、城址区域には文化財保護のためゲ-トがはられ入ることができません。
城址の一角に氷川神社が鎮座しています。
氷川神社 石神井城の守護神、豊島氏の祈願寺とし大宮氷川神社を勧請して創建したもの。
主祭神・須佐之男命/相殿神・稲田姫命/大己貴命。別当寺は三宝寺。豊島氏が没落した後は、後北条氏や徳川氏から崇敬を集めたといいます。
〇石燈籠 氷川神社に存在する石燈籠の中で最古のもの。火袋などを欠きますが、元禄12年( 1696)とあり、豊島氏の子孫とされる旗本・豊嶋泰盈(としま・やすみつ)・泰音(やすたか)が奉納したものとされています。水盤は享保12年( 1727)の寄進になっています。
〇神楽殿 昭和12年( 1937)に造営されたものです。
参道は旧早稲田通りにぶつかる氷川神社の参道をぬけると所沢街道(旧早稲田通り)に出ます。
※所沢街道 俗に「旧早稲田通り」、「所沢道」ともいわれます。
江戸と所沢とを結んでいた古道の一つで、所沢方面からは江戸道とも呼ばれていました。
青梅街道から分岐し杉並区、練馬区、西東京市、埼玉県新座市、東久留米市、清瀬市を経て所沢市に達する街道でした。
散歩がてらに参る石神井の古刹、大寺3つ、色づく紅葉!
その通りを左に歩いてゆくとふたつの大寺があります。
ひとつは、
三宝寺 真言宗で山号は亀頂山( きちょうざん)。石神井不動尊とも呼ばれています。
禅定院付近にあったのですが、石神井城の落城後、太田道灌が現地に移したといわれ、
後、北条・徳川氏からの保護もあり、数十の末寺を有したという御朱印寺で、徳川家光の鷹狩では休憩場としても使われていました。
〇守護使不入の碑 守護の徴税使であっても入れないことが、寺の格式を示しているといいます。
〇御成門 寛永2( 1625)及び正保元年( 1644)に、徳川家光が狩猟で利用したので、それから御成門と呼ぶようになったといいます。一般庶民は通過できなかった特別な通用門です。現在のものは文政10年( 1827)の建造といわれます。
〇長屋門 境内の東側にある通用門。勝海舟邸の表門だったもので、兎月園(とげつえん)より昭和35年に移築されました。築年は文政年間( 1818~29)と伝えられていますが、いくぶん改造されているようです。
※兎月園 東上線成増駅のほど近くに、大正13年(1924)、東武鉄道の創設者、根津嘉一郎によってに開園された高級ヘルスセンターのようなものでした。舞台付き大広間、宴会場、運動場、テニスコートや乗馬などのスポーツ施設も備えていました。開園の2年後、大正15年には同じスタイルの「豊島園」(豊島氏の練馬城の跡)が、西武池袋線沿線に開園しました。
もうひとつの寺は、
道場寺(どうじようじ) 豊島山無量院。当時の石神井城主・豊島景村の養子・輝時( 北条高時の孫)が創建したもので、豊島氏の菩提寺とされています。
境内の諸堂は比較的にあたらしものですが、建造物かそれぞれ時代様式によつて建てられてあるのでおもしろいです。
- 山門 室町様式。昭和45年の竣工
- 本堂 奈良にある唐招提寺の金堂を模したもの。
- 客殿 桂離宮を模したもの。
- 三重塔 鎌倉様式。昭和48年の竣工。
- 鐘楼 安土桃山様式。
- 豊島泰経一族の墓 太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主・泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基があります。
井草通りと旧早稲田通りが交わる交差点の左角に道標があります。
道標 「所沢道」とあるものです。古いのがあったのでしょう。新しく建てたもののようです。
井草通りを三宝寺池のほうに300メ-トルほど歩くと右手に「石神井公園ふるさと文化館」があります。その会館前を右に入ると、つきあたりに池淵史跡公園があります。
池淵史跡公園 縄文時代中期の竪穴式住居跡がある公園で、
隣が「 石神井公園ふるさと文化館」です。区内にあった庚申塔や馬頭観音などの江戸時代の石造物が配されています。
〇池淵( 旧地名)遺跡 南側の石神井川と北側の三宝寺池の谷にはさまれて、東西に長く延びる台地上にある。遺跡地の形状を見ることができる。
〇旧内田家住宅 移築されたもので、明治20年(1887)頃の茅葺きの古民家。部材の一部に江戸時代の古建材が使われています。
公園を右手にまわり石神井池のほうに下ってゆくと、傾斜地の一角に稲荷の社殿があり、近くはケヤキ広場になっています。
稲荷諏訪合神社 創立年代不詳。新編武蔵風土記稿には「 諏訪社、禅定院持」と記載があるそうです。明治維新後稲荷社と合祀して、稲荷諏訪合神社と改称。本来は道場寺が鬼門除けのため建立したものと伝えられています。
石神井池の南側エリアに入ります。
池の中にある三澤憲司作の巨大なオブジェ、池中モニュメント印象的です。聖衣という布をモチーフにしたものだそうで、完成は昭和59年(1984)。
〇三澤憲司 野外アートで高い評価を得ている彫刻家。美ヶ原高原美術の巨石石彫わはじめ、各地の巨石石彫でも有名です。
このあたりの池畔は木立ちが多く、地勢的には傾斜地と高台と平場の組み合わせになっています。
野外音楽堂 同池の中央南には野外ステージがあり、ひと休憩するには格好のところです。
傾斜地をのぼると、そのさきは運動場や芝生広場、野球場、テニスコートなどとして整備されています。
運動場・野球場を大きく右に巻くように300メ-トルほど歩いてゆくと一寺があります。
禅定院 真言宗。照光山無量寺。鐘楼は珍しい茅葺き。創建年代は不明ですが、境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によって創建の古さをうかがうことができます。
〇織部燈籠 本堂前の寛文13年(1673)と刻まれ、竿にマリア像に似た石彫りがあり、別名キリシタン灯籠といわれています。
〇いぼとり地蔵 イボの治癒に霊験があり、土の団子を供えて祈り、お礼にはお米の団子を供えるという風習があるといいます。
〇豊島小学校跡 石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年(1874)区内初の公立小学校としてこの寺に開校されました。
寺近くにある早稲田通りの分岐する豊島橋ののところから左に、広い道路をゆくと左手に独立した小さな池があります。
石神井公園記念庭園 小さな池を配した庭園。説明書きによると、
「地元の資産家・豊田銀右衛門により大正期に造成された第二豊田園という庭園に由来するもので、
のちに東京都が取得し都立石神井公園の一部として再整備、昭和53年(1978)に往時の名残をとどめる『記念庭園』の名称で開園」したとのこと。
俳人・高浜虚子らの句会も催されたところとして有名なところだそうです。
そのまま下ると石神井池の畔に出ます。
石神井池の畔に出たら遊歩道を歩き、石神井公園前の信号を過ぎ、ふたたびボ-ト乗り場のところへともどりましょう。
近くにバス停がありますから、ここからバスで石神井公園駅へゆくのもよし、
または石神井公園通りをぼちぼち歩いて500メ-トルほどの石神井公園駅へ向かうのもよし。
足に問うて選ぶのがいいでしょう。
いま断然、古城址がおもしろい!!訪ねてみたい城址がいっぱい!