追悼の意を込め~名優・朋友の西田敏行を偲ぶ!
青年座俳優養成所時代は「西田」、バリトンで「カネちゃん」で呼び交わしてたね。
いまも耳を澄ますと若かりしころの西田の声が蘇ってくるよ。
あれは平成22年(2010)の秋だった(かな)、下北沢で同期会があったときが最後になってしまったね。
「体、大丈夫」て聞いたら、
「ダイジョビ、ダイジョビ」っておどけ笑いしたね…。
あれからの10数年は早かった。そんな歳月にいろいろ体調などの噂も聞いてはいたけど、「ダイジョビ」と信じてきた。そしたら突然、あまりにも突然!殴られたような衝撃だった。
まだ、まだだよ西田。逝くのがあまりにも早すぎるよ!
これからも生きて、俳優の大御所となって、とことん晩年の演技を見せてほかったのに。くやしいよ!
わたしの長い人生の中で、養成所時代の2年間は今じゃ特別に括弧つきです。
「西田と過ごした2年間だった」と。
それも俳優になるまえの西田と同じ席に並び同じ空気を吸えたということ。
まさにあの日々が西田敏行という俳優の養成時代だった。
それをつぶさに見れたことは今では懐かしい、心の「宝」ものです。
西田敏行という役者が育まれた時代!初期の一コマです、どうぞ!
懐かしい卒業公演の写真がみつかりました。作品は田中千禾夫作「8段」-白菊匂う-だったね。
同期のみなさん、お顔を拝借させてもらいます(ごめん!)。
殺陣(チャンバラ)がうまく決まらずみんなに迷惑をかけた。恥ずかしいけど、懐かし!
今となってはほんの断片的なんだけど、養成所時代が走馬灯のように脳裏をよぎります。
多くはコーヒーショップの「TAIM]や、ジャズ喫茶「マサコ」だったり、雀荘での片々になるのだが、そのあたりはきりがないのでさておくことにして、他での懐旧談を一つふたつ。
なぜかしら残る記憶のエピソード!
あれはUちゃんがが持ち込んできたアルバイトだったよね。
一つは宣伝広告のプラカードを掲げ限られた時間まで街角に立つサンドイッチマンのような仕事。わたしはこれを選んだ。もう一つがキャバレーのボーイ。西田はこちらを選んだ。
ところが西田はアルバイト初日に支配人とトラブリ、喧嘩沙汰になるところ、すきを狙い、荷物をまるめるや脱兎のごとく裏口から逃げだ、という一幕。西田のアルバイトはその時だけだった。アルバイトするものは少なく、しなくては生活できないわたしは、そんな彼らがいささかうらやましかった。
渋谷の初台に住んでたときだ。真夜中に西田ほかU・T・Hが前触れもなく押しかけてきてさ、狭い6疊の部屋にタテヨコナナメに雑魚寝して朝まで語りあかしたこともあったっけ。
西田が売れ出したころ、青年座宛てに長い手紙を書いたことがあるの、知っているかな。
有名な十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、つまり「弥次喜多道中」の弥次さんを西田にやってもらいたいという大胆なオファーだった。
そのころ昔の旧街道歩きにのめり込み、街道ものに夢中になっていたそんな流れの中でのことだった。その後「街道文化倶楽部」を組織し、「弥次喜多の会」(のち「弥次喜多有志の会」)を旗上げしたりした時代だった。
二人とも逝ってしまった
ところが昭和60年(1985)のこと。西田敏行・大塚國夫の「弥次喜多」コンビで青年座公演(No.92)が現実となった。矢代静一の作品としてだった。
オファーが功を奏したのかどうか、返信がなかったので、そのあたりがどうも定かでないのだが、敢えて問うたことはない。
歌あり笑いありのミュージカル仕立てのものだった。
これがのちの『屋根の上のバイオリン弾き』のテヴィエ役につながったものでなかったか。
そのあたりの心境を聞いてみたかったな。
俳優・西田、人間・西田の器の根源はここにあった!
それにしても、女性には優しくてさ、「西やん」「トシちゃん」と愛称されモテモテだったよね。
人をスーッと、人をワーッと虜にするさりげない西田流の抱擁術!
そのあたりのことは、西田の故郷・郡山(福島県)で実証がとれ納得できた。
奥州街道の旧道を徒歩で北上したとき、郡山市内にある、西田が育ったという神社に寄った。
近所のおかみさんたちが、「子供のころから女の子にモテたのよ」、「人懐っこくてさ」口々に言っていた。
人に優しくって大勢の人に慕われる子供だったんだそうだね。
大方は符号が合っているんだよね。
神社は大綿津見命(オオワタツミノミコト)という海の神様を祀る香久山神社。(密に『釣りバカ日誌』の守護神にしてたのかも)。社務所を改造した一軒家で小学校2年~中学卒業までを過ごしたという。
映画館でチャンバラ映画に熱中し、神社や裏山でチャンバラごっこ。あのころの子供はみなそうだが、西田少年は並外れてマセていた。すでに将来を見すえていたのだ。スクリーンに映る自分の姿を夢想したり、子どもの頃から「役者」になりたいとよく口にしていたそうだから、根っから役者魂を持っていたんだろうね。それが西田流に培養され大輪の花になった。
NHK大河ドラマの最多主演記録(4回保持者)。『新・平家物語』(1972年)~『鎌倉殿の13人』(2022年)まで、計14作の大河ドラマに出演。西田はたんたんとしてるけど、これって凄すぎるんだよ。
振り返れば昭和43年(1968)に青年座俳優養成所に入り、昭和45年(1970)に卒業し青年座座員となり、同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台。昭和46年(1971)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)で主役に抜擢された。ぶったまげるほどの技量。すでにあのときから表現者としての大器の片鱗を見せてたよね。
晩年に熱望していた役があったね。
『日本列島改造論』で一世を風靡し、内閣総理大臣を務め、93年に亡くなった田中角栄氏だ。
角栄に惚れてもいた。演じたい人物としてたびたび田中角栄の名前をあげており、平成28年(2016)発売の自著『役者人生、泣き笑い』(河出書房新社)では、そうした作品の構想までも明かしている。
ドキュメンタリー風でも、出世物語みたいに持ち上げる作品でもなく、大人の作品としてきっちりと角栄さんの存在感を描いたものに出られたらって、病室で何度も思いました。中国のトップレベルの俳優に周恩来役をやってもらって、腹心の二階堂進さんや金丸信さん、梶山静六さんなど個性のある議員には、誰それがって……想像というか妄想をふくらませましたね。
田中角栄はわたしの田舎の選挙区でもあり、同県人として真剣に西田にオファーしてみようかと思った。
日中国交回復を基点として、総理退陣後のロッキード事件までを描いた作品にしたいと考えていた。
あの事件の前後の角栄さんの内面はどんなであったか。「今太閤」といわれたのに、面倒をみて育てた身内の議員からも次々裏切られていくわけですよね。あのころの精神的葛藤、焦燥感ってものすごいものだったろうし、まさに人間ドラマですよね。きちんと描けばすごいドラマになります
と、深い思いを綴っている。わくわくする人間ドラマになったはずだ。と心理が格闘する。西田にしかやれない角栄さん。やって欲しかったな。
病気療養中も作品のことを考え、ドラマや映画を愛し続けていた西田がここにいる。こうした探求心や演技への真摯な姿勢こそが、俳優・西田の真骨頂なんだよな。
よく言ってたよね。「人生、七転八倒七転八起」てさ、もっともっと西田という俳優にとことん磨きをかけたかっただろに、そこが見届けられないのがとても残念です。
とてつもなくおつかれだったろうね。
俳優西田から解放され西田敏行、一個人として天国で安らかに!!
魂は郡山の故郷へ帰りましたか。
心からご冥福を祈ります。
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