野次馬の目で見る、明治・大正時代の土地所有の、疑問!

江戸時代の幕藩体制下のことではない。版籍奉還がなされた明治維新期以降のことである。廃藩置県・版籍奉還により大名はじめ武士は国元に戻り、多くは政府の管轄地になりました。

そんななかで土地というもののありようをおもうとき、いつも思うのは、明治の元勲・官僚、その流れに沿うた人たち、名門名家の土地の持ちようである。結論としては持ち過ぎとしか思えない、土地所有の桁違である。人によっては別邸や別荘も持っていたんですからね。

個人の土地所有が許可されるようになったのは明治維新の「地租改正」により土地の所有権が法的に認められてから。土地が個人財産・資産として認められ、担保価値流通物となり、土地取引も盛んに行われるようになるという歴史の背景があった。

目白近衛町
道路の真ん中に樹齢を誇る大欅。近衛邸のクルマ寄せがあったところだという。「白近衛町」の唯一の証人。

つい最近、そんなことを強く感じさせる町を歩きました。俗に「目白近衛町」といわれたところ。目白駅の西側で目白通りの南側。一帯がすべて近衛家の土地だった。のちに邸宅の敷地が分譲され、そのまま町名に反映することになった。いまは新宿区下落合2丁目に入るのだが、今もマンション名は目白とうたっています。つまりブランドですね。

そこであらためて思わされたのは、どうしてそんな桁外れの土地をかかえることができたのか、という野次馬的な疑問です。取得のプロセス,経緯です。都内を散歩していると、この手の風景によく出会います。

丸の内一帯の大名屋敷跡をまるごと買った三菱の岩崎家などは、その点で分かりやすいですね。歴史的にも所有の経緯が明解に公開されている。「三菱村」と言われた丸の内オフィスビル街の地主であり、今もって大家である。とはいえ、他に所有した複数の邸に関してはいささか不透明なものもある。

広い伊藤博文邸跡
伊藤博文の広い墓所
広い屋敷跡
墓所内に銅像が立つ

都内を歩いているとこうした曰くある土地に、大なり小なり、よく出くわす。
品川区にはかつて伊藤町というのがあった。伊藤博文が墓地と邸宅をかまえていたところだ。いまも公園などにその名を残している。

西郷邸の和風庭園 背後は西郷山
西郷邸入口
西郷邸の庭


渋谷区大山町、木戸山ともいわれ、木戸邸があった。一山がまるまる屋敷だった。目黒区の西郷山もそうだ。西郷従通の屋敷があった。
渋谷区松濤町にあった鍋島邸。それぞれに、どこも広大な敷地面積を有していたことがわかる。

港区高輪の猫の額ほどの小さな一画に住んでいた我が家からほど近いところにあった三菱開東閣(かいとうかく)。岩崎高輪別邸とも言われました。もとはここも伊藤博文邸でした・

樹木が鬱蒼として近隣住民も近寄りがたいところであったという。いまは三菱の迎賓館
ジョサイア・コンドル設計の洋館が残る
周囲は鬱蒼とした森で外部からは建物は見えない

どの敷地をとってもびっくりする広さだ。なんでそんなにもつ必要があるの。いたら聞いてみたい。そこには、土地を持ったものが勝という不動産原理みたいなものがすでに萌芽していたのだろうか。

今日、そうした広い邸のあったところの多くはみな特等地になり、ほとんどは分割されている。そんな由緒を広告にうたうと、その一帯に建てられた超高級マンションでもすぐ完売になるのだという。

都内を散歩していると、歴史的由緒をもつところに、その手のマンションが俄然増えている。住民の反対があったりするが、強引にして、建つ。

大正10年(1921)岩崎、原、益田、毛利、島津、池田などの邸がみえる

明治・大正期の地図を眺める名士の邸が点々とうかがえる。顕著なのは千代田区、港区、渋谷区といった、今日では高級住宅地化しているところに、名士・名家の屋敷が広い区画を占有していた。どうしてこれほど広大な土地所有が叶ったのか、それは地図上でも歴然としてうかがえるわけで、素朴な疑問であり、何が何して何んとやら、それぞれにゴールドな土地伝説があるのだろう。

原美術館のあった原邸の庭。御殿山の傾斜を生かした和風庭園
御殿山庭園」は原邸の庭
御殿山・江戸時代は桜の名所
坂

相馬家の名を残す「相馬坂」

新宿・おとめ山 おとめとは「乙女」ではなく「御留」,[御禁止」の意味合いで、一般立ち入り禁止の徳川幕府の鷹狩り場でした。

明治以後は近衛家と相馬家が半々ずつ所有したようです。

大正期に入ると、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。

池
道

一般の立ち入りが禁じられた山だったから、もっと緑が鬱蒼としてたでしょう。

落合崖線に残された斜面緑地で、崖からの湧水がみられる。

落合崖線 神田川と妙正寺川が削った谷に落ち込む崖。目白崖線、落合崖線ともいう。

いけ
池の道
ケ

の人工養殖に成功したことでも知られている。

池の緑

毎年7月下旬に蛍観賞の夕べが開催されています。

とにかく挙げたらきりないが、どこも野次馬的な疑問が残ります。

所有に至るまでの経緯などを知りたいとおもっているのだが、そのあたりを論じた資料がからきしない。土地所有に疑問を呈していた作家・司馬遼太郎氏にして、ない。司馬さんはそのあたりをどう見ていたのだろう。ともあれ、そんな不透明な歴史を解明したものがあれば、ぜひ読んでみたいものだと思っている。

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