日本人の歩くをささえたシンプル イズ ベスト!草鞋(わらじ)
前回はワタシがらみの事から下駄についてふれましたが、
日本人の履物で古くからあったもののひとつに「草鞋」(わらじ)がありました。
かつての日本は農業国でした。
農山村の日常的な山仕事や農作業のときにはみな草鞋をはきました。
総草鞋時代がずっと続いてきたといえるでしよう。
古代人は裸足の生活でしたが、文明が進むにつれ、足を保護する履物というものが誕生したといわれます。
こうして登場した草鞋。これは日本で生み出されたオリジナルといわれますが、
ヒントはありました。
奈良時代に中国から伝わった藁(ワラ)製の短グツでした。
これが平安時代になると爪先で鼻緒を 挟 む草鞋に改良されたものといわれます。
日本人の改良好きがうかがえますね。
というわけで、以下、そんな草鞋で思うことのいくつかのハナシ。
散歩なんてコトバのなかった時代の庶民の「沓」とは藁クツ?
この草鞋。奈良時代ころにはまだ着用に及んでなく、おおよそ平安時代ころからとみられ、鼻緒履物といわれる草履、下駄なども同様に発達したようです。
平安時代の中頃、草鞋をシンプルに改良したのが草履だといわれています。
紐で絞めるめんどうくさい部分を改良したもので、
サッとパッとつっかけられる。せっかち者にはうってつけ。
古くから日本人は改良好きでもあったんですね。
前回の高下駄、「足駄」もこのころに生み出されたとみられます。
といってもまだまだ履けるのは上層階級に限られていたようです。
草鞋の履き方を簡単に説明しましよう。
藁で編んだ楕 円 形の台に足を乗せ、わら縄の緒を足指の股に挟み、残りの緒を足首まで巻きつけで結びます。
わら縄でギュッと絞めてはくので、わら草履よりもぬげにくく、しっかりと足に装着することができました。
専門的には、足を載せる「台部」、踵を受け止める「カエシ」、装着のための「乳(ち)」、「紐」の四部から構成されています。
『万葉集』(巻14・3399)、東歌です。
信濃路(しなのぢ)は 今の墾(は)り道 刈りばねに
足踏ましなむ 沓(くつ)履け我が背
このころの庶民のはいた「沓」とはどのようなものだったのでしょう。
江戸期、歩き旅ブ-ムによって「草鞋」はトップシュ-ズになりました!
江戸時代になると町人の活動が活発になり、草履、下駄、足袋といったものが著しく発達を遂げました。
下駄、草履は江戸時代を通じ履物の首位を占めていました。
「下駄」という表記が定着したのも江戸時代といわれいます。
そんななかで草鞋だけはスベシャルなものになりました。
近いところには草履、下駄ですませましたが、
遠いところに行くときとか、長旅に出るときは必ず草鞋をはくというように、履きわけられるようになりました。
旅用具に取り入れられた草鞋は、今日のウォ-キングシュ-ズのようなものといっていいでしょう。
江戸時代になると旅がごく一般的なものになりました。
このころから俄かに草鞋の出番が高まりました。
江戸の旅の出で立ちは男女ともみなこの草鞋ばきのスタイルでした。
草鞋に手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)という出で立ち。
手甲 手や手首を防備する装具。今日の手首用サポ-タみたいなもの。
脚絆 足、脛などを防備する装具。今日の足用サポ-タみたいなもの。
男女ともに草鞋ばき。上の挿絵で男性の足に巻かれているのが脚絆。ゲ-トルのようなのですね。女性の手に巻いてあるのが手甲です。
こうした旅スタイルがほぼトレンドでした。
注目は足元。みなさん草鞋ばきですね。いかにも軽やかにみえます。ほかの人も魚屋もみな草鞋をつけています。
もうひとつ見てみましょう。
有名な歌川広重の「東海道五拾三次之内 三島 朝霧」保永堂版です。
旅人はもちろん、駕籠かきも草鞋をはいています。つまり当時は労働用でもあったわけです。
旅人は、
時に草鞋の予備(腰からぶらさげるのがスタイルでした)を用意して旅立ちました。
製品の出来の良し悪しもあったでしょう、履き具合にも差があったと思われます。
ちょっとしたブランドものもあったかもしれません。
旅行の途中で紐がちぎれたり、緩んだりするピンチ。
大雨などでにあうと、濡れて草鞋が水を含み重くなります。使い物にならなくなり、わらじの命運はそのときに尽きるといった災難も振りかかることがありました。基本的に使い捨てが前提の消耗品でした。
そんなことから、道中の茶店などではどこでも店先に草鞋がぶらさげていました。
多くは近郊農家のお百姓さんたちの副業で作られたもののようです。
そうした茶店の横には用済みの草鞋の捨ておき場があったりしました。
風雨にさらして腐らせ田畑の肥料にしたといいます。
江戸時代はちょっとしたことでもリサイクル社会でした。
旅する人のなかにはこうしたアクシデントを予想し、自分で草鞋を編んじゃうよう技術をもった人もいたようです。
そんな技術をちょっと人助けに使う人もいたでしよう。
往時は土道でしたから所によっては草鞋の痛みは激しかったとおもわれます。
平均すると2~3日で1足を履き潰したといいます。が、実際はケ-スバイケ-スだったでしよう。
洋靴が古来からの日本の履物を駆逐してゆきました!
明治、大正時代には板やタイヤ、ゴムなどを底にはり付けた草履が発明され、大正11年(1922)にはいよいよ「地下足袋」というものが発明、製造さました。
昭和 30 年代ころから欧米式の 靴 がどっと普及すると、それまであった日本の履物は一気に廃れていってしまいました。
ますます需要の高まりをみせている、デザイン製も満たした地下足袋。地震のときの防災靴としてはコレが一番。オ-ルマイティな活躍を確約してくれる。家族分備えるのが肝心です。トレッキングや里山歩きにも使えます。
そんな中にあっても藁草履・草鞋は、
戦前、戦後を通じ用いられ、昭和時代の前半くらいまで、日本の農村地帯ではどこでも見かけた履物でした。
ワタシは少年のころ、父親に連れられての庭仕事のときなどに草鞋をはかされました。
紺のパッチに紺の胸あて、手甲、脚絆。父の草鞋ばき姿はかっこよかったでした。
父は手早く巧みに草鞋を編み、子供用も作っていました。
いまでも草鞋を装備したときの足裏がくすぐられるような感触をかすかに覚えています。
足に付けて紐を調整してキュッと絞めたときの充足感も。
まず軽い。ピョンピョン跳ねたくなるような心地よさがありました。履いているのかいないのか、
つけてみないとわからない身体的な感覚です。
とはいえ、新調の草鞋のときはまだ足になじみません。
父はよく木鎚でたたいていました。少し柔らかくすると足になじみやすいのだそうです。
数度はいたあと、草鞋の裏に少し泥土が付着したころがとても具合がいい。
土の地面を歩く事で藁の隙間に土が入り、それにより摩擦がなくなり底の消耗が軽減するようです。
足へフィットする感じはなかなかのものだと思います。
こんにちのように.舗装されている道ではこうした効用は通用しないでしょうが、
いちど履いてみる価値はあります!歩く、走る、駆けるにはもってこいです。
佐川急便さん、よくぞです。
草鞋で歩く~草鞋ばき体験ができるイベントが二つ!
近年といってもだいぶ前のことになりますが、
「街道文化倶楽部」を主宰していたとき、「塩の道写真展」を開いたことがご縁で、
「糸魚川街道」(塩の道)のウォ-キングイベントに参加させてもらい、久しぶりに草鞋を履く機会にめぐまれました。
たしか2回目くらいのときではなかったかとおもうのですが…。
いまは名称も「糸魚川・塩の道起点まつり」と呼ばれています。
ポッカや牛方たちが歩いた塩の道を草鞋で歩くイベントでした。
大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」というコ-スでしたが、
後年、この間も含んで、街道の起点から終点までの全コ-スを歩きました。
※ポッカ 「ボッカ」ともいわれます。荷物を背負って山越えをすること、またその人をさします。荷運び人。登山での荷担ぎヘルパ-もそうです。
※牛方 牛を使って物を運ぶのを仕事にしている人。塩の道には「牛方宿」があります。
※千国街道(ちくにかいどう) 長野県松本市から新潟県糸魚川市に至る街道で、街道の宿場・千国(現小谷村)からの名称です。
糸魚川街道(いといがわかいどう)、松本街道の別名もありました。
仮装ポッカ姿の街道文化倶楽部員の女性陣のみなさん。(みなさんお元気かな)。足元は草鞋です。
やはりこちらも少し前のことになりますが、
羽州街道のうち特別に「七ヶ宿街道」といわれるところを草鞋で歩きました。
羽州街道 奥州街道の福島県桑折(こおり)宿か分岐し、山形県の北で雄勝峠を越え秋田県に入り、矢立峠から青森県に入り青森市油川で奥州街道に合流する街道。秋田藩や庄内藩など13大名の参勤交代が行き交う道でした。
七ヶ宿街道 羽州街道のうちの、上戸沢・下戸沢・渡瀬・関・滑津・峠田・湯原の七つの宿場を通り、山形県の上山宿へいたる街道で、俗に「山中七ヶ宿」と呼ばれていました。
「わらじで歩こう七ヶ宿」という祭りは
「山中七ヶ宿」の約11kmの道のりを草鞋をつけて歩くイベントです。
以上ふたつとも毎年の恒例になっておりますから、゛ぜひ一度参加して草鞋体験してみてはいかがでしょう。。
現在日常生活においては殆ど使用されなくなった草鞋ですが、
祭り装束の一部として履かれるほか、沢登り(滑らない)などでも熱狂的フアンがいるそうで、多くの登山用品店で実用品として販売されているのはうれしいことです。
ワタシは徒歩の縁起をかついで、玄関にぶらさげています。
ときおりそれをはいて近所を散歩したりします。
最後に若山牧水の一文を紹介しておきます。
ワタシの「草鞋」にたいする共感度と牧水の「草鞋」にたいする愛着度が共鳴しあうので好きな一編になっています。
「大正十年の春から同十三年の秋までに書いた隨筆を輯めてこの一册を編んだ。並べた順序は不同である。何々の題目に就き、何日までに、何枚位ゐ書いてほしいといふ註文を受けて書いたものばかりである。」
若山牧水「樹木とその葉」「の跋」より。
樹木とその葉 草鞋の話旅の話 若山牧水
私は草鞋わらぢを愛する、あの、枯れた藁わらで、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく兩足に穿はきしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊あたりの空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。
机上の爲事しごとに勞つかれた時、世間のいざこざの煩はしさに耐へきれなくなつた時、私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。
二三度土を踏みしめてゐると、急に新しい血が身軆に湧いて、其儘そのまま玄關を出かけてゆく。實は、さうするまではよそに出懸けてゆくにも億劫おくくふなほど、疲れ果てゝゐた時なのである。
そして二里なり三里なりの道をせつせと歩いて來ると、もう玄關口から子供の名を呼び立てるほど元氣になつてゐるのが常だ。
身軆をこゞめて、よく足に合ふ樣に紐ひもの具合を考へながら結ぶ時の新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしつくりと足の甲を締めつけるあの心持、立ち上つた時、じんなりと土から受取る時のあの心持。
と同時に、よく自分の足に馴れて來て、穿いてゐるのだかゐないのだか解らぬほどになつた時の古びた草鞋も難有ありがたい。實をいふと、さうなつた時が最も足を痛めず、身軆を勞れしめぬ時なのである。
ところが、私はその程度を越すことが屡々しばしばある。いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時ゴミ箱へ移動とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々まま足を痛める。もうさうなるとよほどよく出來たものでも、何處にか破れが出來てゐるのだ。從つて足に無理がゆくのである。
さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左樣なら!』
よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。
私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。