新年歩き初め、成田街道スタコラサッサ、4万2000歩!
1月の東京に降雪があった数日後、三連休の中の日、ぽかぽか陽気に誘われ新年の初歩きに出かけました。
向かったのは総武線の船橋駅。
船橋駅から京成勝田台駅までを歩くことにしました。
近々行われる街道ウォ-キングの下調べと、船橋にある「船橋大神宮」に初詣をするというもの。
何かひとつイベントをからめて歩く、これもウォ-キングにハリをもたせる秘訣のひとつです。
今回はもうひとつイベントをこきまぜました。それはのちほど。
9年ほど前になるかな、同じル-トを歩いているんですが、月日が経つと道や町並みの風景ががらりとかわってしまうところ多々あります。そんな不安をかかえて水先案内はできないので、ちょっとでも胸騒ぎがするときは必ず下調べにゆくのを心がけています。
ということもあってなんですが、「船橋大神宮」という由緒ある社に初詣もできるので、ちょっとした遠出で旅気分もあるんで前日から浮き足立っていました。
ここ10数年、初詣はNHK文化センタ-や毎日文化センタ-の生徒たちと一緒に初詣するのが恒例となっています。
3コ-スもっているので、例えば今年については、世田谷にある吉田松陰を祭神とした「松陰神社」、赤坂の「日枝神社」「氷川神社」、杉並の堀之内にある日蓮宗の大寺「妙法寺」とそれぞれに異なる社寺へといった具合です。
それらに先んじて千葉県船橋市の「船橋大神宮」に初詣!
というわけで、以下、初詣をかねた「成田街道」歩きのいったんを写真と拙文でお届けします。
6976865261978448″ crossorigin=”anonymous”>2022・歩き初めとなった、船橋にあるミニ東照宮と船橋大神宮への初詣!
着いたところは総武線の船橋駅。
まだ8時。
すぐ成田街道の通じていた本町通りへと直行しました。
成田街道 江戸時代の脇街道のひとつ。佐倉藩をはじめとして房総の諸大名たちの参勤交代の街道として整備されたものです。
のちに成田山新勝寺への参詣道として賑わったことから「成田街道」の名称が一般的となりました。
成田街道は水戸街道の「新宿」にいじゅく)から分岐し佐倉へと向かっていました。
幕府が公道としたこの「新宿~佐倉」間を公文書では「佐倉街道」とか「水戸佐倉道」と称していました。
朝日がまだのぼりきらない駅前通り
江戸時代に賑わった成田山参りは、だいたい江戸から3泊4日の行程を組む人が多かったようです。
その1日が船橋ということも多かったでしよう。
船橋宿 中世にすでに宿駅としての集落が開かれていたといいます。
江戸時代になり街道が整備され、いまの本町通りが整い宿場として発展してゆきました。
初期の宿場の中心は五日市(海老川から大神宮までの間)でしたが、時代が進むにつれて本町通りの九日市に移り、宿場は西へ西へと広がり海神村の一部も宿場の一部に組み込まれるようになりました。
よって五日市・九日市・海神の3村を総称し船橋宿といったようです。九日市には本陣一軒・旅籠屋22軒があったとされます。草鞋を吊るした雑貨屋や茶店などもあったことでしょう。
船橋本町通りのようす。安政5年(1858)刊行の「成田名所図会」にみる「船橋宿」。左手正面の高台が「船橋大神宮」で、手前の橋が「海老側橋」でしょう。
船橋宿は商業の町として繁栄しましたから横町や路地裏にいろんな祠や神様がお祀りされています。ともかく多いこと夥しい!
それを教えてくれる統一感のあるモニュメントが表通りに建てられ、このあたりの横町に社があるよ~と、教えてくれます。
本町4丁目さきで左手の横町に入ると、「御殿通り」と交わった右手角に立派な「道祖神社」があります。
祠や石造りの簡素な道祖神はよくあるけれど、このように建物にかくまわれたものはなかなかみない。
道祖神社
道祖神は道六神(どうろくじん)とも呼ばれ、元々は村境や辻に祭られ、町や村に悪霊や悪疫が入るのを防ぐ神だった。道祖神は非常に古くから信仰された神様なので、様々な祈願に応える機能を持つようになった。元々の厄除け的なものから、足・耳の病を治すはたらき、さらには子授けや夫婦和合の願いを叶える神様としても信仰されるようになった。(船橋市文化財より)
東照宮の右の社は「御殿稲荷」
御殿通り 本町通りの北側に通じています。この道に面し船橋御殿が建てられたことに由来しています。
御殿通りを東にゆくと左手の路地奥に「東照宮」があります。
船橋御殿跡・東照宮 慶長19年(1614)家康は上総の土気、東金ではじめてり狩猟を行ないました。
御殿の建造もその頃といわれます。元和元年(1615)11月、家康はここに宿泊。家康の泊まりはこの一回のみでした。
秀忠も家光も狩猟のたびに立ち寄ったといいますが、将軍の東金狩猟は寛文年間(1661~1672)に廃止され、のち船橋大神宮・宮司の富氏(とみし)に与えられました。東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心だったからのようです。
「日本一小さい東照宮」と呼ばれているようです。三つ葉葵紋が入った神社幕が掛かり、右隣りには御殿稲荷が祀られているなど、境内はきれいに整備されています。
御殿通りにもどり左手にゆくと一段と華やかな鳥居が目にとまります。
御蔵稲荷神社 江戸時代、飢餓に備えて穀物を蓄えておく郷蔵(ごうぐら)というものがここに建てられました。
そのお陰で飢餓のときも飢えを免れました。村人はその恩に報いてこの神社を祀ったのだそうです。つまり「蔵」は「郷蔵」、ここに米などを備蓄していたわけですね。
船橋は作家・太宰治ゆかりの地のひとつ。
船橋で暮らしていたころ、この鄙びた稲荷神社が好きでよく散歩に訪れたといいます。
境内にある狐の石像を背景にした写真を撮影しており、処女短篇集『晩年』の口絵写真に使用しています。
船橋時代は病に煩わされていました。この神社で回復を願ったのかしれません。
本町通りに出て西に少しもどると右手の奥まったところに「厳島神社」があります。
本町通りをはさんでむかいあうように老舗の店舗が残っています。左手、お菓子屋「広瀬直船堂」(ひろせちょくせんどう)、右手は「森田呉服店」。どちらも明治初期の建物といいます。
「広瀬直舟堂」の店内には山岡鉄舟の「成田街道」の書が掲げられています。
明治天皇が習志野の演習を御上覧されたとき、そのお供をした鉄舟が立ち寄った記念に書いたものとされています。
なかなか達筆ですね
戻りついでに、もう少しもどると「明治天皇船橋行在所」の旧跡があります。千葉銀行の前に建てられています。
明治天皇船橋行在所跡
明治天皇は陸軍の演習や牧畜事業などを視察するため、明治6年(1873)を初めとして明治45年(大正元年・1912年)までに10回、延35日にわたって来県されています。
最初は明治6年4月29日から5月1日まで、近衛隊演習をご覧になるための大和田原へお出ましのとき。このとき第一日目に昼食をとられたのが九日市の旅館桜屋・山口丈吉宅でした。そのごも宿泊、昼食、小休みなど10数回立ち寄られているそうです。
さてここからは踵を返して大神宮方面に向かいます。海老側橋まで280メ-トルほど。
海老川 鎌倉時代のこと。この地を通りがかった源頼朝が、この川で取れた海老を村人から献上されたことから、川の名称となったといいます。
先端に船の舳先がちらっと
船橋地名発祥の地 古代のハナシ。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の途中、この海老川(かつては入江の口)に船を並べて橋をつくったとされ、それがつまり「船橋」とされ、地名の由来となったといいます。
橋の欄干に「船橋」の図を示すレリーフが飾られていjます。横に並べた船をしっかり繋いだ上に 板を渡し, その上を通行できるようにしたもの、つまり「船橋」。
船の舳先
海の面影。
古代、この海老川のある一帯は海の入江だったと推定されてもいます。
近世まで入江がずっと奥まで入り込んでいたのではないか。いまのJR船橋駅の裏一帯は俗に「夏見入江」にあたるとみられています。
このあたりのことは☛「モノが語る中世の船橋」
江戸時代、船橋宿の町割は海老川橋までが九日市で、橋を渡ったところから五日市となっていました。
橋を渡ると目の前の高台に「船橋大神宮」が鎮座しています。
船橋宿で最初に賑わいをもったのは五日町といわれた神宮下の一帯だったようです。
正面左手の道は「宮坂」と呼ばれた成田街道の坂道。
鳥居をくぐり急な石段をあえぎあえぎ上って境内に進みます。
かつては緑の一山を成していたのでしょう樹木に囲まれた神々しいような空間が広がっています。
神の社に光り輝く荘厳な朝日を浴びておみくじの白がまぶしいほど。
「江戸名所図会」にみる「船橋大神宮」
船橋大神宮 延喜式内社。正しくは「意富比神社」(おおひじんじゃ)。とてもそう読めませんね。祭神は天照皇大神。景行天皇40年に日本武尊が東国御征討の途次、船橋港に御到着、天照皇大神を祈誓、奉祀されたことを以て創建とされています。
後に景行天皇がその御事蹟を追慕され「意富比神社」の称号を賜わったと説かれています。
朝廷・将軍家などから崇敬を受け、平将門、源頼朝、徳川家康などが社領の寄進や社殿の造営・改修をおこなった歴史が伝えられています。
近代では明治天皇、大正天皇、昭和天皇などの歴代天皇も参拝に訪れているそうです。
船橋大神宮の通称で親しまれていますが、大神宮としては「日本一小さい大神宮」だそうです。確かに香取大神宮などからすると、そう頷けるところがありますね。
正式社名となっている「意富比(おおひ」の由来。主なものを以下に示しておきます。
- 大火あるいは大炊の意で食物神とする説。
- 夕日を真正面に受ける高台にあることなどから夕日とみる説
- 古代の有力豪族である意富氏の氏神とする説
- 大日の意で、この地方の農民がもとから信仰してきたお天道様(太陽神)とする説。
灯明台 かつて、船橋沿岸を航行する船は意富比神社の灯明台を目印にしていたのだそうです。
浅間神社のあった浅間山(27メートル)に建てられたので「浅間山灯明台」とも呼ばれたといいます。
幕末の戊辰戦争で焼失し、明治13年(1880)に再建されたのだそうです。
和風建物の上に洋式灯台がのっかった擬洋風建築で、1階・2階が和風、3階の灯室が六角形の西洋式灯台の意匠となっています。
明治28年(1895)まで政府公認の灯台として利用されていたようです。
光源は石油ランプ3基に錫製の反射鏡3基を組み合わせ、光の到達平らかに距離は約6海里(約11キロ)、その当時の最新式の設備を誇っていたといいます。
大神宮の裏手にまわるときらびやかな社があります。
常盤神社 境内の摂社。祭神・日本武尊、相殿・東照宮・秀忠公。ちょっとおもしろい組み合わせですね。
家康が日本武尊の木像を祀り、秀忠が家康の木像(家康の歯が納められている)を祀り、家光が秀忠の木像を祀ったという由来をもっており、造営したのは伊奈備前守忠次といわれ、慶長13年(1608)のことといいます。
さて、これから境内を降りて、船橋大神宮の北側を走る成田街道の「宮坂「をのぼります。
宮坂 ゆるやかな坂道のさきが平らかに展けています。船橋大神宮に因んだ坂で、戊辰戦争のときは激戦地となったところです。
かつてはこのあたりから「習志野」と呼ばれた壮大な原野が広がっていました。
江戸時代この一帯は「小金原」また「大和田原」といわれ、幕府直轄の牧場が営まれていたとこでした。
大地は平たん地になり、やがて「追分」にさしかかります。
札場一里塚跡 距離の無安の一里塚が追分入口にありました。成田街道・佐倉道はここでほぼ直角に曲がっていました。いまもそのようです。
まっすぐゆくと津田沼村に向かいます。
追分道標 かつても今もここが追分(分岐点)。津田沼村と成田方面を分けていました。ここから成田街道はかつての旧道を歩いてゆくことになります。
追分からすぐのところに石造物がずらっと立並んでいます。
札場庚申搭 大きな不動明王像の道標は安永6年(1777)建立となっています。正面に「右なりた道」、左面の上に「安永六年丁酉秋九月建」、下に「日本橋左内町 願主 和泉屋甚兵衛 当邑世話人伊勢屋富蔵」とあり、右面に「左と□かね道」とあります。ほかのものはほかから寄り集めたものらしいです。
追分を過ぎるとほぼ同じ道幅の、旧街道をおもわせるような道が、延々と続きます。
成田街道ではちょっと退屈する区間かもしれません。こうしたところは歩く人の気力がためされるところです。
何にもな~い、つまんな~いといえば、それでおしまい。
上をみたり下をみたり、左右をみたり、好奇心をもって目をみはればいろんなものが見えてきます。
それはエリアの大小にかかわりなくいえることですが…。
おもしろければものごとは続けられます。つまらない、辛いな~といった愚痴をこぼすと、ついには飽きてしまいます。
街道歩きも同じみたいです。
ずらっと並ぶ光景には建てられた人たちの威厳を感じます。
どれもこれも東北の月山、湯殿山、羽黒山と巡った人々の信仰のあかし。
しめ飾りなどつけてもらつて、お正月ならではの風景でしょうね。
さがす目的のところがみつからず、迷い込んだところが御嶽神社。
巫女さんがふたり。
目出度さや 巫女晴々と 成田道(蔕の横坊)
あでやかさ、晴れやかさにつられ、つい、下手な道中句をひねることになりました。
このあたりの成田街道は習志野原のどまんなかをほぼ一直線にぬけていました。
しばらく歩くと、左手にある広い薬園台公園の東方に「船橋市郷土資料館」があります。
その敷地の一角に習志野をしのぶ石碑がありました。
習志野地名発祥の地・明治天皇駐蹕之処の碑
現在の習志野台一帯はかつて、小金原もしくは大和田原といわれ、江戸時代には幕府の牧場の一部でした。
明治初期から昭和20年(1945)までは、陸軍の演習場になっていました。
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は、西郷隆盛、篠原国幹ほか多数を従え、当地に行幸され、30日には、近衛兵による天覧演習が行われました。
5月1日に皇居に還御されましたが、5月13日、天皇より勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜りました。
これよりのち、この周辺の地名に「習志野」の名が用いられるようになりました。
もともとは明治天皇の幕舎跡(現在の習志野台4丁目、みゆき町会館付近)に建てられましたが、のち船橋市郷土資料館の敷地内に移されたとのこと。
こんなところに蒸気機関車が。
払下げのときタダでいただいちゃったものだそうです。タダだったんですね。
下野牧 今の船橋市一帯に作られていた江戸幕府直轄の牧場。牧の全体は広大なもので、利根川沿いから東京湾岸までの台地上を占めていたといいます。
船橋市をはじめ鎌ケ谷市、八千代市、習志野市、千葉市まで広がっていました。
下野牧の一部も習志野原でした。各村には木戸や土手が設けられていたといいます。
成田参詣に行く人々はこの木戸を通りぬけ、野馬の群れたりすね光景を横目で楽しみながら歩いたんでしょうね。
その木戸の一つが船橋市郷土資料館のあたりにあって薬園台木戸(正伯木戸)と呼んでいたようです。
しばらくすると右手は「陸上自衛隊習志野演習場」の広大に敷地で占められます。進入できないように金柵がはりめぐらされています。
野馬除土手跡 船橋市と八千代市の市境です。自衛隊の敷地にも野馬除土手の遺構が少し残るそうです。ここに大和田新田の新木戸があったようです。
実籾街道(みもみかいどう) 「実籾道」ともいわれました。信号の分岐点を南に進んだ道は下野牧の中を通り、実籾駅入口交差点あたりで東金御成街道に到達す脇往還でした。実籾の名は、村の田畑に籾がよく実って欲しいという願いをこめてつけられたたものといいます。
成田街道はここから八千代市に入ります。
どんどん歩いてゆくと千葉県では有名な牧場があります。興真乳業です。
興真乳業 本社は東京都文京区にありますが、牧場兼工場を千葉県八千代市においています。
千葉県では学校給食の牛乳として広く使われているようです。
東京に本社があるのは、かつて文京区に牧場をもっていたからです。
明治39年(1906)、 東京府東京市小石川区氷川下町(現・文京区大塚3丁目付近)において興真舎牛乳店として創業しました。
平成18年(2006)に 創業100年を迎えています。
かつて文京区、豊島区の一帯にはたくさんの牧場があったことが知られています。
そうした歴史を物語る「牧場」として残る唯一のものといえるでしょう。
大和田宿
成田街道の宿場で大和田村と萱田村にまたがっていました。八千代市大和田新田の一帯がその中心といえるでしょう。
ここもまた成田詣の泊まり客で賑わったといいます。
八千代市役所の近く、どっしりした和風構えの建物が威風をはなっています。
重厚な屋根瓦がひときわ豪壮です。
中に入ると池のある庭園が雅な風情をかもしています。
さわ田茶家
重厚な入り母屋造りに日本庭園が配された食空間(そば料理・懐石料理)。
黒光りする大黒柱、漆喰の土壁、天井の太い一本木の梁。
二階に書院造りの床の間など伝統的な日本建築を伝えています。
戦後初代の総理大臣・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)元首相が、昭和初期に市川市真間に建てた別荘を、昭和39年(1964)現在地に移し、しばらく住宅として使っていたものを、平成11年(1999)に食処店舗にしたというもの。
ここでややおそい昼書(予約)となりました。
これがきょうの2つ目の、つまり「食」のイベント。
さわ田茶屋のさきを進むと左手に「八百屋お七」の墓があります。
日蓮宗天受山長妙寺。寛永3年(1626)創建。
東京の円乗寺にあるお七の墓がよく知られていますが、こちらはお七の実母がお七の骨をいただき菩提寺の長妙寺に葬ったというもの。天和2年3月29日「妙栄信女」の記載があります。
円乗寺の墓はどこか土俗的なものを漂わせていますが、こちらの墓にはそうしたにおいが一切なく、清々しいものになっています。
新しく建立されたもので、中央にある石仏が本来のものでしょう。
お七の錦絵/画・豊国( 国立国会図書館蔵)
円乗寺はコチラ☛お七の墓があります。
長妙寺のはす向かいが円光院というお寺。
その寺の東面に隣接して大和田「時平神社」の境内が広がっています。
珍しい神社ですので寄ってみました。
このあたり一帯だけにみられる、その名もあまり聞きなれない「時平神社」
時平神社 祭神・藤原時平命(ふじわらのときひらのみこと)
八千代市に限つて四社(大和田・萱田・小板橋・萱田下)があります。ここは大和田・時平神社。
時平とは平安時代、右大臣・菅原道真を失脚させ大宰府に左遷させた張本人、左大臣・藤原時平のこと。
時平もまた神様として祀られているんですね。このことはこの土地にきてはじめて知りました。
治承年間(1177~1181)、高倉天皇、安徳天皇の御代。
時平の子孫、師経、師長一族郎党を乗せた船が難破して久々田(習志野市)に漂着し、後に深山(船橋市三山)に移り定着したとの言い伝えがあるそうです。
ちなみに、道真が大宰府で亡くなる、その直後というタイミングで、時平もまた39歳の若さで死去しています。
聞くに及ぶと、何んともミステリアスな神社です。
確定的なものをさがしていますがみつかりません。まだ研究が及んでいないようですね。
時平神社から街道に出ようとしたとき目にとまった飾りものがありました。どのような民俗信仰のあらわれか?陰か陽か、なんとなく神道の匂いがしますね。
しばらくすると街道から仰ぐような石段を上ったところに「時平神社」がありました。同じような造りですか、こちらのほうが風格があります。
こちらは萱田・時平神社と呼ぶようです。
境内から、下総台地しもうさだいち)が望まれます。
小社だが風格があります。
時平神社前の成田街道は「新川」にかけ緩やかに傾斜してゆきます。
新川 「印旛疏水路」とも呼ばれる江戸時代に開かれた人工河川で、下流に「大和田排水機場」があり、そこから東京湾側にかけては「花見川」と呼ばれているようです。
下総台地 千葉県北東部の成田市や香取市を中心とする台地、千葉県北西部の野田市など江戸川沿いから船橋市にかけての台地、埼玉県東端の幸手市、北葛飾郡杉戸町及び春日部市など江戸川沿いの台地に大別されています。
旧下総国の台地で北総台地とも呼ばれ、標高は概ね20~40メートルで、なだらかな起伏がうねうねと続く台地となっています。
新川に架かる大和橋を渡ると「成田街道」はいよいよ広大な「下総台地」へとせり上がってゆきます。
その下総台地の南端が勝田台ということになります。
このさきの成田街道はこの下総台地を縦断するように続いてゆきます。
細い橋なのでのちに別途、歩道橋が架けられたのだそうです。
勝田台 鎌倉時代には「勝田」と呼ばれた下総台地の農村で、江戸時代になり勝田村と一村を成して呼ばれるようになりました。
勝田台となったのは昭和45年(1970)にベッドタウンとして開発されたときからといいます。地元の地名用語では、 古語で「かち」は「崖」、「た」は「処」を表し、「かつた」は「崖のあるところ」という意味のようです。
街道の左手に「皇産霊神社」(こうさんれいじんじゃ)、「白旗神社」、続いて左手に「八坂神社」があり、さらにここだけは高台で「台町稲荷神社」が鎮座しています。
台町稲荷
土地の風習といったものでしょうか、珍しい飾りものをみることができました。
それにしても、どんな意味合いをもつものでしよう。
あとで調べてみることにしょう。
京成勝田台駅はここから10分ほどのところ。
ということで、目的地まで完歩達成!
勝田台駅をゴ-ルとして万歩計をみたら、何と42602歩を刻んでいました。
よくやりました~よくやった!
といっても、
何歩あるいたかより、どう歩いたかのほうがだいじです。
ひたすらシンプル、これぞベスト!
感想
よく迂回、よく迷い、よく往復しました結果の歩数です。新年の歩き初めにしては予想以上の数値になりまし。
まだかんばれるなという確信をもちました。
街道すじには紹介しきれないほどの神社、仏閣、石仏、道標などがまだたくさんありますが、多くを割愛していることおことわりしておきます。
常につけるのはいけません。
ここぞというとき、ちょっと膝との信頼がぐらつくとき、お使いなさるがいいでしょう!しっかり安全を守ってくれます!
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