栄一力のすごさがわかる丸の内の渋いスポット、東証渋沢ミュ-ジアムにゆこう!
丸の内の「東京商工会議所」に開かれている「東証渋沢ミュ-ジアム」に行ってみました。
行く途中でコンビニに冊子がおいてあったので手にとったら「大丸有」(だいまるゆう)という文字が目にとまりました。
何か人の名前でもあろうかおもっていたら、
なんと、「大手町」、「丸の内」、「有楽町」の3町域を合わせたエリアの頭文字をとったものとわかりました。
三菱地所が進めている一帯の再開発によってまとめられたプロジェクトのようで、すでにいろんな催しがくりひろげられているのでした。
アンテナがこっちを向いていなかったせいか、情報が疎通になっていました。
「東京会館が壊されるるんだって」とか言って散歩していたのがつい数年前のことのようでしたが、その東京会館もすでに真新しくなっていました。
月日の流れも速いですが、ビルの解体、建築、竣工もまたはやいですね。
その「大丸有」エリアの「丸の内」。
江戸時代はまったくの武家地で、中でも大名が配され、「大名小路」の異名もあったところです。
ということで、そんな「丸の内」にある「東証渋沢ミュ-ジアム」見学の模様を写真と拙文でお届けします。
東京商工会議所のパンフレットの一部
ミュ-ジアムは丸の内3丁目にできた超高層の複合ビル、「丸の内二重橋ビル」(まるのうちにじゅうばしビル)の中にあります。
低層部に東京商工会議所、東京會舘および二重橋スクエアが入っています。
バラバラにあった東京商工会議所ビル、富士ビルヂング、東京會舘ビルの3棟のビル一体の建て替えプロジェクトで完成したものです。
東京商工会議所(東証)は地下2階~地上6階の一部を区分所有しています。
東商パンンフレットから
ここで「東京商工会議所」の設立に至るまでのあらましをみてみましょう。
時は、明治時代。明治政府は、長い鎖国政策により欧米諸国に立ち遅れている国力の増進強化策を進めていました。
富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げていました。
ところが幕末の混乱期、諸外国とあわただしく締結した条約がまったく不平等なもので、日本はとんでもなく弱い立場に置かれていました。
例えば、日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁けなかったり、輸入品に自由裁量で関税をかけることができなかったりしました。
つまり、日本の自主独立や外国貿易がおびやかされ、文明開化の足枷(あしかせ)となっていました。
「これを外さねば!」。そこで時の総理大臣・伊藤博文は不平等条約の改正を申し入れました。相手は駐日英国公使のサー・ハリー・パークスでした。
伊藤博文「近代日本人の肖像」(国立国会図書館)
「このような不平等な条約は、商人をはじめとして世論が許さないので、どうか…!」
それに対し、
弟2代駐日英国公使 ・サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes)
「今の日本に、そんな輿論をまとめる機関があるのですか?」
「商人が怒っているといっても、彼らが集まって協議するようなところはどこにあるのですか?どこにもないではありませんか!」
といったようなことで、頭ごなしに反駁されてしまいました。
伊藤博文は、それはそうだと、追訴もできずじまいだったといいます。
大隈重信(Wikipedia)
そこで伊藤はさっそく大隈重信と相談し、商工業者の世論機関の設立、つまり「商法会議所」を立ち上げることを考えました。
頼ったのが渋沢栄一、五代友厚(ごだい・ともあつ)ら実業界のドンたちでした。
余談ですが、ワタシには「東京商法会議所」が発足した明治11年(1878)に、もうひとつ時代の思いが重なります。
歴史というものはいつも重層しているのが常でずか、殊更に印象的です。
この年、英国女性(淑女)・イザベラ・バ-ドが来日し、のち日本旅行記「Unbeaten Tracks in Japan」(『日本奥地紀行』)というものを著しています。
サ-・ハリ-・スミス・パ-クス(Sir Harry Smith Parkes)
初代英国駐日公使オールコックの後任として慶應元年(1865)に来日し、
駐日英国公使としては最長の18年間務め、日本の幕末維新期で最も重要視された外国人の一人でした。
駐日フランス公使で外交力では断トツのロッシュの帰国、南北戦争で脆弱化した米国など、ライバル国の力の低下もあり、明治日本の外交の大元を掌握するようになりました。
表面では中立を示しつつも、薩長と通ずることで新政府の樹立に影の指導力を及ぼし、それによって英国の強い影響力のもとで明治の日本は始動することになったわけです。
「東京商工会議所発祥の地」の記念碑
最初に「東京商法会議所」がおかれたのは京橋区木挽町10丁目(現・東京都中央区銀座6丁目)でした。いまそこには赤い大理石の碑が立っています。
明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。
ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。
昭和53年(1978)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。
東京商工会議所会頭 永野重雄
その後、大阪、神戸と続き、明治18年(1885)までに全国に32の商法会議所が誕生しました。
下って明治24年(1891)7月に「東京商業会議所」と名称が改められました。
左・明治11年(1878)/右・明治30年代 日比谷公園の開園は明治36年(1903)
明治32年(1899)、馬場先門のお濠端に本格的な会議所の建物が完成しました。
煉瓦造り、地上2階、地下1階で、尖塔のあるルネッサンス様式のクラシックな建物で、設計は妻木頼黄(つまき・よりなか)によるものでした。
妻木頼黄 明治期の建築家で、ジョサイア・コンドルに学んでいます。日本銀行を設計した辰野金吾の後輩にあたります。
「日本橋」(都内中央区)を手がけたことで名を高め、ほかに近隣でみることができる建物としては、旧醸造試験場第一工場(都内北区)、旧横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)、旧横浜新港埠頭倉庫(現・横浜赤レンガ倉庫)などがあります。
昭和3年(1928}1月より「東京商工会議所」となり今日に至っています。
さて、新築なった」東京商工会議所」、その6階にある「東証渋沢ミュ-ジアム」に入ってみましょう。
1階の7ロビ-で渋沢栄一像に出迎えられますす。
エレベ-タ-で6階へのぼりましょう。
ギャラリ-到着です。
ビデオル-ム
渋沢栄一の生い立たちかのフロフィ-ルがパネルで紹介されています。
東商にかかわることとしては、明治42年(1909)8月、渋沢栄一を団長とする渡米実業団が派遣されています。
このとき渋沢栄一は発明王のエジソンと会見しているんですね。
渋沢栄一が関係した事業が写真入りで紹介されています。
そうした企業のかかわりでは、東証と同じビルに入っている「東京会館」、近くの「帝国劇場」、内幸町の「帝国ホテル」、みんな渋沢栄一がかかわっています。
明治の人はどうしてこんなに筆上手なのでしょう。
藤沢栄一もうまいですね。豪快さはありませんが、なごませる字というのでしょうか。
「業精于勤荒于嬉」。渋沢栄一を奮い立たせた詩のようです。
「業精于勤荒于嬉」
中国唐代中期を代表する文人・韓愈(かんゆ)の作「進学解」の中の一文だそうです。
業〈ギョウ〉は勤〈ツト〉むるに精〈クワ〉しく嬉〈タノ〉しむに荒〈スサ〉む。
学業は勤めれば勤めるほど精通するが、反対に遊びにふけっていればいるほどすさんでだめになるものだ。
ということのようです。
二体のミニ渋沢像があります。
関東近にある渋沢栄一の銅像の写真が集められています。
東京都内にある渋沢栄一像のすべてはコチラ☛東京の渋沢栄一像(5選)めぐり~新1万円札の顔、日本資本主義の父~ゆかり!
展示といっても多くはパネルによるものが多く、実物にどの展示物に関しては北区の「渋沢史料館」にはかなわないものがありますね。
折りあるなら、渋沢栄一の本邸・飛鳥山邸と合わせ「渋沢史料館」を見学するのもいいでしょう。
ここ「東商渋沢ミュージアム」は、ぐるっと回っても数十分で、渋沢栄一とは、を凝縮して知るには格好の展示室です。
で、不足の場合とか、もっと知りたいというときに、以下にあげたものなどをちょっと読んでみたらどうでしょう
東商渋沢ミュージアム
東京商工会議所 本部ビル 6階
平日 9:30~16:30(土日祝休館)、平日 9:30‐16:30(土日祝休館)、 無料、03-3283-7857
JR「有楽町駅」国際フォーラム口から徒歩5分、
JR「東京駅」丸の内南口から徒歩10分(ビル直結の地下通路)