今日の散歩は上板橋、大山の界隈(板橋区)・渋沢栄一の福祉と川越街道宿場町の面影!
江戸時代、江戸と川越を結んでいたのが川越街道でした。
いまは国道254号線を川越街道と呼ぶのに対し旧道は旧川越街道」と呼ばれています
新旧ふたつの道路が重複したり分岐したりを繰り返しながら川越へと続いています。
その旧川越街道の江戸から一番目の宿場が「上板橋宿」でした。
都内iにある長い商店街のひとつとして知られている「大山ハッピ-ロ-ド」商店街。
この商店街通りが旧川越街道だったと知る人は少ないようです。
商店街を出はずれたところのちょっと先が「上板橋宿」の入口でした。
というわけで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
渋沢栄一が終世たずさわった近代福祉の源・「養育園」がここにあった!
改札を出ると目の前が「大山ハッピ-ロ-ド」商店街です。
東武東上線の踏切を介して、国道17号に至る「遊座大山商店街」が続いています。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一の息吹!
これから進行方向とは逆になりますが、ちょっと寄り道をします。かつて「板橋養育園」があったところに行ってみましょう。
踏切を渡ったらすぐ左にまがり、線路沿いを歩いてゆくと広い道路に出ます。そこを渡り右にゆくと左手に「東京都健康長寿医療センター」(旧養育院)の建物があります。大山駅から5分もかからないでしょう。
周囲に広い敷地をもっています。その一角に渋沢栄一の坐像(板橋区の登録有形文化財)があります。フロックコートでソファ-に座っている姿のものです
「子爵澁澤榮一像」と刻まれています。
渋沢栄一坐像。渋沢象には本人が除幕式に参列したものがあります、そのひとつ!
『渋沢栄一伝記資料』/大正14年(1925)11月15日(渋沢栄一85歳)
是より先、東京市長・助役・東京市会議員及び当院常設委員・当院幹事等相図り、栄一の銅像を当院の構内に建設し、是日除幕式を挙行す。栄一之に出席し謝辞を述ぶ。
養育院 渋沢栄一が発起人の一人として設立された日本ではじめての福祉施設です。
渋沢栄一が明治12年(1879)、初代院長に就任し、以後、昭和6年(1931)、92歳でなくなるまでの50年間この養育園の院長を務めました。
銅像は、関東大震災で崩壊した大塚本院が大正12年(1923)板橋分院に移転してきたことから、本院の完成とあわせ大正14年(1925)11月にi建立されました。
ほかにも渋沢栄一の銅像は(常盤橋公園)や(飛鳥山自邸)にもありますが、この銅像にはちょっと意外ないきさつがあります。
と、言わしめるのは、
銅像の除幕式に渋沢栄一本人が参列したといわれる異例な坐像のひとつだからです。
はじめは養育院事務室(板橋第一中学校内)のところに建てられ、その後に転々と移されされました。
昭和16年(1941)、戦争における金属供出にあい、代わりにコンクリート製の像が台座に据えられたのだそうです。
昭和32年(1957)、再度の移転にともない元の銅像に戻されたといいます。
平成23年(2011)、「東京都健康長寿医療センター」の開院を機に現在地へ移設されました。
青銅製なのでサビ防止をほどこしてあります。そのせいか艶のある独特な色合いをしています。
表情が非常に細かく、かたく結んだ口元や、目の表情などに技術のほどがうかがわれます。
サムライ時代から・明治,大正、昭和までの長い歳月を生きた人間の威厳と気迫を感じさせます。
彫刻家・小倉右一郎(おぐら ういちろう) の制作によるものです。
小倉右一郎 明治14年(1881)~昭和37年(1962) 彫刻家。
香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒業。
渡仏し近代彫刻の巨匠ロダンに師事する。、
散歩でみるほかの作品は、
東京駅前の丸の内にある、大正9年(1920)の建築で国登録有形文化財となっている「日本工業倶楽部会館」ビル。その正面屋上に、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にした二つの人物像が据えられたのを見ることができます。当時の二大工業石炭と紡績を示したものです。
ほかにもうひとつ、
両国の都立横網町公園に「震災遭難児童弔魂像」(しんさいそうなんじどうちょうこんぞう)があります。ちなみに、この像も渋沢栄一坐像とどうよう、金属回収の憂き目に遇っています。
この坐像は日本の福祉・医療の原点を示し、その運営の中心的役割を果たしてきた渋沢栄一の社会福祉事業への関与の原点をも示しているといえるでしょう。
[養育院・渋沢記念コ-ナ-]へどうぞ!
以下の文面は、上記の小冊子を参考にさせてもらいました。
明治5年(1872)に創立されて以来、日本の社会福祉事業の中で、先駆的・先導的役割を担ってきた養育院の創立から現在の東京都健康長寿医療センターに至るまでの歴史の変遷をおおまかに知ることができます。
松平定信が老中在任中に行った寛政の改革(1787~1793)。中に七分積金というのがありました。不時の災害時、江戸市民の救済のために積み立て金を運用するというもので、これか゜維新後、明治政府・東京府に引き継がれました。
明治の初め、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。
養育院の創立は、養育院設立時の東京府知事大久保一翁(忠寛)が幕府の目付だったときに立案した、西洋風の・幼院・病院設置プランにさかのぼります。
そのときに資金源とされ、養育院の設置資金にも使われたのが、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」でした。
明治になり、当時七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが「日本資本主義の父」渋沢栄一でした。
渋沢栄一は明治7年(1874)より養育院の運営に関与し、明治9年(1876)年5月に養育院事務長に任命されました。
養育院は明治23年(1890)、東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任しました。
以来91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、養育院廃止論の逆風を受けながらもちまえの手腕をもって養育院を存続させ、分院・専門施設を開設して事業を拡大しました。
松平定信・大久保一翁・渋沢栄一と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後もつづき、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながっています。
余談ですが。
養育園を含む隣接地にはかつて「板橋競馬場」が、明治41年(1908)~明治43年(1910)までありました。
さらに板橋競馬場の跡地は大正2年(1913))牧場となり、その牧場もやがて都市化の波に飲み込まれ、現在の地に競馬場だった面影はありません。
左側、白い建物。「板橋警察署養育院前交番」に「養育園」の名が残っています。
大山の名の由来 昔、養育院のあったあたりに小さな丘があってこれを人々は大山と呼んでいたというものと、相模の「 大山阿夫利神社」に参詣する「 大山詣」の道がここを通っていたからという二説があります。
踏切を渡り「大山ハッピ-ロ-ド」のほうに歩いてゆきます。
線路を渡ったさきは狭い商店街になっていますが、この道路はかつて流れていた「千川上水」の暗渠なんだだそうです。
暗渠道路は「大山ハッピ-ロ-ド」と合流します。
大山ハッピーロード商店街 線路を挟んで「遊座大山商店街」へと続く旧川越街道です。
戦前から自然発生的に街道すじに商店が並んでいた大山ですが、終戦後には朝鮮戦争の特需景気も加わって、闇市が駅周辺や商店街中央部にできて人が集まるようになったといいます。闇市は一時100軒を超え、やがて二つの商店街が合流し、昭和52年( 1978)にアーケードが建設されました。その長さ300メ-トルでした!
商店街は途中でカ-ブを描いています。
ここで散歩土産でも買い求めるのもいいでしょう。大福が有名です。
昔は宿場通りにあって伝馬の鍵を管理していたことから「鍵屋」という屋号になったんだそうです。
先へ進むとすぐに国道に出ます。
「大山ハッピ-ロ-ド」は国道の「大山西町」信号に出ておわります。
ここから旧道は国道にしばらく飲み込まれます。
ここで国道を東に100メ-トルほど歩くと右手からの広い道路とまじわります。
その道路を右にちょっと進むと左側に小さな社があります。千川水神祠です。
田崎病院のところで右に進みます。
江戸時代、水神様の横を千川上水が流れていました。
千川上水の説明板。
千川上水水神祠 千川上水の守護神として祀られたものでしょう。
いま来た道を「大山西町」の信号までもどることにしましょう。
そこまでゆき、ちょっと進むと右に道がひらけます。「大山福地蔵通り」で、右角に「大山福地蔵尊」の標柱が立っています。
20メ-トルほど歩くと左手に地蔵堂があります。
狭いながらも、整備された境内をもっています。
お福地蔵尊 大山福地蔵ともいいます。福というのは女行者の名前です。
文化文政の頃、鎌倉街道と川越街道の交差点辺りにやって来て、人々の難病苦業を癒し、地元の人々に大変慕われた行者だったといいます。
お福さん亡きあと、その善行を敬って福地蔵尊が建立されました。傍らに新しい「 御身洗地蔵尊」と「 大山福地蔵尊」の碑があります。
ふたたび国道までもどりさきを進みます。
「日大病院入り口」のある大きな十字路。鎌倉街道と川越街道の交差点です。
さきほどの「お福さん」が慈善活動をしていたのしこのあたりだったでしょう。
ここで道が二又になりますが、左手が国道(254号)の川越街道。右手が旧川越街道で、「上板橋宿」の入口ともなります。
旧川越街道 江戸と川越の城下町を結んだ幹線道路。中山道の脇街道として整備されました。江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿のひとつ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城大手門に至る13里半の道中でした。
街道は川越から児玉街道が上野国藤岡に通じ中山道に合流しており、この二つの道を合わせて川越・児玉往還と呼ばれたりもしました。宿駅は板橋平尾宿・上板橋・白子・膝折・大和田・大井・川越の7駅がありました。
川越産の農産物などが運ばれた輸送道路で、なかで川越で有名なのがイモでした。「九里よりうまい十三里」とはやされました。その川越街道の最初の宿場が「上板橋宿」でした。
川越街道(国道254) 豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿j(あらじゅく)の北交差点までの通称となっています。
川越街道という場合は新道を指すことが多く、宿場がおかれた歴史街道は旧川越街道といいます。
上板橋宿 宿場の町並みは6町40間(約740メ-トル)、家数90戸の小さな宿場でした。江戸方より下宿・中宿・上宿に分かれ、本陣は置かれなかった。その代役を中宿にあって問屋場も取り仕切った名主・河原与右衛門家がつとめました。
鎌倉街道(中ツ道) 鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国の東部を経て下野国から奥州へ至る道でした。
鎌倉街道は川越街道を横切り北へと向かっています。
この鎌倉街道を迂回して、ふたたび宿場内にもどるかたちで歩いてみます。
馬つなぎ跡 国道を横切った鎌倉街道の右手角には、江戸時代、馬つななぎ場があったといいます。街道の輸送に使う馬がつながれていました。
100メ-トルほどすると右手に覆屋のかかった「庚申搭」があります。
仲町の庚申搭 宝暦6年( 1756)建立。右側面に「 奉造立庚申供養塔敬紀」。三猿が左右とも内を向いています。
さらに道なりにゆくと左手の一角に鳥居を構えたやや大振りな神社があります。
轡神社 江戸時代には轡権現(くつわごんげん)と呼ばれました。
轡(くつわ) 馬具の一種。馬の口にはめ,手綱につないで馬を制御する道具。
掲示板(板橋区教育委員会)には、
御祭神倭建命
もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。
社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。
寿永年間の鎮座と古老は伝える。治承の昔、源義経が奥州平和泉から鎌倉へ馳せ参ずる時、乗馬は疲れてゴホンゴホンと咳をしてたおれた。義経は新しい馬に乗って先を急いだが、村人たちは馬を葬り、そのくつわをはずしてまつったという。
又の伝説は、徳川家康が固めぐり際、この地に到つて馬の疲れを休めたが、後に残されたくつわを村人たちがまつったともいわれている。(「いたばしの神社」より)
馬が蹄(ひづめ)を守るために足につけた馬のわらじ。馬方や馬主たちが奉納したものでしょうか。
古くからの伝えによると、
子どもの守り神となっていて、特に百日咳の神様として有名だったそうです。
そのおまじないには、神社から馬のわらじと麻を借り、わらじは神棚に供え、麻は子どもの首に掛けたそうです。
お礼詣りには新しい馬のわらじと麻を、借りたわらじに添えてお供えするというものでした。『いたばしの昔話』より
そのまま街道を100メ-トルほど歩くと左手にひっそりとした一寺があります。
専称院 浄土宗で亀嶋山地蔵寺というお寺です。王子の荒川沿いに豊島七仏のひとつを奉安する地蔵堂として創建され、のちに※祐天上人が中興となり、そのとき専称院と改められました。
※祐天上人 祐天寺に名を残す江戸時代の名僧。多くの霊験談を残している。浄土宗大本山増上寺36世法主。
文化10年(1813)閻魔堂を合祀し、子育て地蔵と共に親しまれたといいます。
昭和7年(1932道路格調で、乗蓮寺の旧地に移転し、乗蓮寺の塔頭「香林庵」と合併しました。
香林庵は板橋学校(現・板橋区立板橋第一小学校)発祥の地でした。
荒川の水害溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても有名でした。
水難供養搭 左・地蔵菩薩坐像は寛政12年( 1800)の建立。塔の正面中央に「 溺水亡霊解脱塔」と刻まれている。その隣も「救世除水」の文字がみえる。
地蔵堂 豊島七仏と呼ばれ、豊島清光が行基に作らせたという伝説が残る7つの地蔵尊のひとつといわれます。
お寺の左手から入る横丁のくねくねした道を反れずにゆくと、稲荷社の裏手に出ます。
表は旧川越街道に面しています。このあたりが上板橋宿のちょうど中間にあたります。
豊敬稲荷神社(とよけいいなりじんじゃ) 祭神「宇伽之御魂神(うがのみたまのかみ)。
案内板には、、
「この旧道は江戸時代から明治初年にかけ川越と江戸を結ぶ主要な街道で川越道又は脇往還とも呼ばれていた。弥生町一帯は当時伝馬役を負担していたため上板橋宿といい、宿内は三宿に分かれていた。伝馬とは街道の貨客を運ぶ際宿から人夫や馬を提供するもので、江戸から上板橋また次の宿下練馬村までが上板橋宿の負担であった」
と書かれています。
さらに、
「民家の片隅に追いやられていた神社を福本芳太郎なる人物が現在地に土地を購入して遷座させた」
とあります。
旧三春屋 宿場時代は米穀商を営んでいた、いまでは宿内唯一の古民家となっています。
大正末期から昭和初期にわたり出没した※※説教強盗の侵入したところとして有名になりました。
※説教強盗 昭和初期、都内一円に説教強盗なる泥棒が出没しました。その強盗が三春屋にも入りました。
「あなたの家は強盗に入られ易い」から「犬を飼いなさい」などと説教をたれたらしいです。
だが、迂闊にも三春屋で付けた指紋がもとで足がつき、お縄御用になったといいます。犯人は妻木松吉( 29歳)という男で、逮捕され無期懲役となったものの、模範囚だったことから仮釈放となったといいます
三春屋の前あたりの路地奥に万福寺があります。
万福寺 真言宗豊山派。無住の寺で本尊は薬師如来。狭い境内のわりに石造物が多い寺です。
文政6年(1823年)の古文書に「 無住、西光寺兼帯」と記されているそうです。
宝仙寺(中野区)の末寺ですが、江戸時代からすでに無住の寺で、旅僧などが宿泊するところとなっていたようです。
いまも西光寺( 板橋区大谷口)が管理しており、無住職のお寺となっています。
ふたたび街道にもどります。
中板橋駅入口の街道左側あたりが、河原与右衛門宅跡。名主であり、上板橋宿の本陣的役割も兼ねたていました。
上板橋宿には特に本陣・脇本陣は設置されておらず、必要なときは河原家がそれを代行していました。
このさき川越街道は下頭橋にかけて緩い下り坂となります。
下頭橋(げとうばし) 石神井川に架かる橋でです。上板橋宿がここで終わります。
橋名の由来には、川越城主が江戸に出府の際、家臣が頭を下げて出迎えたからという説があります。
橋は寛政10年( 1798)の架橋で、それまでは杉丸太を2本並べただけの橋でしたが、半永久的な石橋に架け替えられたのだそうです。以来水難事故が無くなったとか。
架橋の費用は、橋の畔で頭をさげて金を恵んで貰っていた六蔵という乞食が死んで残したお金を基にしたのだとか、これも由来のひとつになっています。。
六蔵祠( 下頭六蔵菩薩之塔) 六蔵の遺徳を讃えて建てられたもの。
他力善根供養塔 六蔵の冥福を祈るため寛政10年(1798)2月に建てられたもの。名主河原与右衛門の名が刻まれていることから、村を挙げて完成させたものとおもわれる。
境内はいつきても清々しく守られています。
擬宝珠付の橋は昭和54年(1979)に架橋されたもの。
石神井川 小平市小金井南町に源を発し、北区で隅田川に合流する延長25.2キロメ-トルの一級河川。荒川の支流のひとつ。
このあたりかつては、石神井川の氾濫地帯でしたが、いまは護岸がしっかりし、いまは春になると桜が咲きしだれるので有名なところとなっています。
橋のたもとから川沿いに左へ歩いて最初の路地を左に入ると左手に稲荷の赤鳥居がみえます。小さな稲荷ですが伝説が凄いです。
日箭稲荷大明神( しらさきいなりでいみょうじん) 大田道灌が敗戦寸前に守護神・白箭稲荷大明神を丘上に祭り、戦勝を祈願しました。
すると運気がまわってきたのか、敵軍を四散させ、江古田・沼袋原の決戦にも大勝し、石神井城を落とすことができたといういうふうに伝えられているそうです。
ぐるっと裏路地をまわって街道にもどり、中板橋駅にむかいましょう。
家屋の密集した路地の奥に窮屈そうに鎮座しています。
上宿稲荷 上宿の稲荷さま。古くから上宿の商売繁盛を守ってくれた稲荷とされています。
ここから中板橋商店街を中板橋駅へとむかいます。
駅のすぐ近くに、もうひとつ稲荷があります。いつも白旗がたなびいています。
最後にこの稲荷をお参りしておわることにしましょう。
山中稲荷神社 さしたる由来はありませんが、山中村の鎮守だったのではないでしょうか。かつてこのあたりは山中村といわれところですから、、それを冠せたのでしょう。石神井川に山中橋もありますから…。由来がわからないからどうでも推理というところです。
中板橋駅 そのころ石神井川にプ-ルがあり、夏期間だけ停車する臨時駅でした。それが常設駅に格上げされ、駅名は「下板橋」駅と「上板橋」駅の間にある駅ということで「中板橋」駅と命名されました。昭和8年(1933)のことらしいです。
さて、その「中板橋」駅が目の前です。
ではここで〆ることにしましょう。
それではまた。
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