初詣・2021干支にゆかりのパワ-スポット~牛天神・牛嶋神社の二社詣り!
2020年は春先から降ってわいたようなコロナ禍におそわれ、
てんやわんやで月日を過すことになりました。
さて、このコロナの行きつくさきはどうなるのか、いまのところ不透明です。
モヤモヤした不安を解消してくれる、
スキッとして透明度のある解答がいっときも早くほしいものです、
そして、これまであった安穏の日々にもどれるよう、心から期待するばかりです。
初詣にもそのことを切にお祈りしたいものです。
江戸時代、「天然痘」(疱瘡)が猛威をふるいました。そんな中で「牛痘」(ぎゅうとう)がひとつの救いをもたらしたことがありました。
牛痘 牛がかかる痘瘡(とうそう)。その主因となる牛痘ウイルスは人間にも感染するのですが軽症で済み、人間の痘瘡への免疫をも獲得するので種痘に利用されました。エドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンの開発者として活躍しました。
そんな歴史もあったことを顧みて、早くいいワクチンが出ないものかと神頼みもしたくなります。
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さて、2021年は丑年です。
丑にちなみ、「神牛」の御利益が高いと古くから評判の神社をふたつあげてみました。
というわけで、以下、二社詣りの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
牛嶋神社の神牛パワ-で~コロナ終息、疫病退散、無病息災、厄除消除、家内安全~
ひとつは墨田区向島にある牛嶋神社です。
本所総鎮守と呼ばれ非常に格の高い神社で、いまは東京スカイツリーの氏神様にもなっています。
撫牛(なでうし) 古くは牛嶋の「牛いし」と呼ばれ江戸の名物のひとつに数え上げられていたそうです。
撫でに撫でられたせいで、顔、頭、足、腰の部分がテカテカと艶めいています。
撫でている人をみると、昔も今も、これらの部位の病に悩まされていることが推測できます。
また、子どもが生まれたときには、よだれかけを奉納し、それを子どもにかけると健康に成長するといういい伝えもあるそうです。
牛嶋神社 貞観年間(859~-879)のころ、慈覚大師(円仁)が建立したといわれ、「牛御前社」とも称されていましたが、明治の神仏分離により牛御前社から牛嶋神社に改名されました。
総檜権現造の社殿で細部の彫刻も見事です。
牛嶋 両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701~764)に官営牧場が設けられ「牛嶋」といわれていたことに由来しているといいます。
神牛鳳輦 5年に一度行われる神社の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子50町の安泰祈願をして巡行するそうで、この神幸祭では、今日では珍しい黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳くそうです。
祭神
- 須佐之男命(すさのおのみこと)
- 天之穂日命(あめのほひのみこと)
- 貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)清和天皇の第7皇子~
三輪鳥居(みわとりい) 鳥居の両脇に小さな鳥居が付いている珍しい形から、三ツ鳥居(みつとりいともいわれます。
平成30年(2018)の台風24号で倒壊し、令和元年(2019)再建されました。
縁起によると、あるとき慈覚大師が老翁(須佐之男命の仮の姿)に出会った際の、、
「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」
というご託宣により一社を建立したと伝えられています。以来、本所総鎮守として崇敬を集めてきました。
円仁(慈覚大師) 第3世・天台座主にまで上り詰めた高僧で、円仁の手によって開山、再興した寺院は、比叡山延暦寺の横川、浅草寺、中尊寺、毛越寺など何百社とあります。生誕地は関東の栃木県下都賀郡壬生。゜
神社にはたいてい狛犬がいろんな形相で座っています。
魔よけを意味しているものですが、牛嶋神社では、大きくて色んな表情をした狛犬がたくさんみられます。
もとは隅田公園に北側に鎮座していた社でしたが、墨田公園の開設にあたり、昭和7年(1932)、現在地に再建されたもので、
旧地には常夜灯と記念標石が建っています。
『江戸名所図会』には、「牛御前宮」「長命寺」として3ページに渡り描かれています。
で、この『江戸名所図会』には由来として、
ある人云く、当社を牛御前と称しまゐらすは、この地、いにしへ牛島の出崎にてありしゆゑ、牛島の出崎といふべきを略して、牛の御崎と唱へたりしならんを、後世誤りて崎を前に書きあらため、またそれを御前と転称せしにやといへり
の説明が付されています。このような説もあったわけです。
つまり、牛嶋の出崎にあることから「牛嶋の御崎」と称したのを、「御前」と転じて称したものであろうとの推察です。
源頼朝~渡河伝説~
治承4年(1180)伊豆で旗上げした頼朝ですが、あえなく敗れ房州に逃れました。
そこで追っかけ再挙をしかけました。
大軍を率いて下総国から武蔵国へと隅田川を渡ろうとするとき、、折からの豪雨で渡河が難しい状況でしたが、千葉常胤が牛島神社に祈願したことでことなきを得たといいます。
よって翌年、頼朝は社殿を造営し、神領を寄進したと伝えられてます。
牛嶋神社
例祭日 9月15日
所在地 〒131-0003 東京都墨田区向島1-4-5
TEL 03-3622-0973
最寄り駅 都営浅草線「本所吾妻橋駅」/徒歩3分
東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー駅」/徒歩3分
東京メトロ「浅草駅」/徒歩10分
今日の~散歩土産~あれこれ目移りしてしまう老舗・和菓子スイ-ツ・四選!
向島でもこの一帯は古くからの老舗・和菓子の激戦区です。お時間があったら、散歩がてらどうぞ!
①牛嶋神社②言問団子③長命寺さくら餅山本④青柳正家⑤埼玉屋小梅⑥牛嶋神社旧地・常夜灯
さて、次は文京区にある北野神社です。祭神・菅原道真公
古くはこの地が「金杉」と呼ばれた事から「金杉天神」とも称されていました。
一方で、頼朝と牛石の伝説から「牛天神」と愛称される事が多く、現在も「牛天神」の名で親しまれています。
北野神社(牛天神)の神牛パワ-で~コロナ終息、疫病退散、無病息災、厄除消除、家内安全~
撫牛(なでうし) 牛の形をした撫牛を撫でると願いが叶うと信じられてており、とくに牛の口のほうから撫でるといいそうです。
この「撫石」には由来があります。
源頼朝~腰掛け伝説~
鎌倉時代のことです。
源頼朝がが奥州へ東征の途中、当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」とのお告げがありました。
まさにその翌年、その喜びが実現(頼家が生まれ、平氏を西に追うことができた)、頼朝公はこの岩を特別なものとして祀り牛天神を創建したのだそうです。
牛の形をした岩(「ねがい牛」)を御神体とし、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられています。
これが撫で石の発祥であり牛天神の始まりです。
そもそも、創建時の牛天神は現在よりやや東側、現在の小石川後楽園や東京ドームシティあったのですが、
寛永年間(1624~1644)、社地一帯に水戸藩邸が造営されたため現社地に遷座したといいます。
とはいえ、切絵図をみると、やはり水戸屋敷に隣接しているのがわかります。
約3.000坪もの社地を有していたといいます。別当寺は「龍門寺」(廃寺)でした。
水戸藩邸が隣にあった縁から、水戸藩2代藩主・徳川光圀(水戸光圀)が当社へ5本の桜の木を奉納しており、今日でも1本の木が枯れずに残り春になると花を咲かせています。
①北野神社(牛天神)②萩の舎③牛坂
切絵図のうちブル-は「神田上水」です。いくつもの橋が架かっていたことがわかります。
上水は関口の堰で神田川から分水され、まずは水戸藩邸の後楽園の池にそそいでいました。
「竜門寺門前」町家から「安藤坂」をまっすぐに上ると伝通院につきあたります。
その安藤坂を上った右手に樋口一葉が通った、中島歌子主宰の「萩の舎」がありました(説明板があります)。
神田上水の橋を渡ると「表門」の鳥居があり、そのさきに急な石段があったことがわかります。いまはかつての「裏門」が「表門」になっています。
葛飾北斎 富嶽三十六景「礫川 雪の旦」(こいしかわ ゆきのあした)
富嶽三十六景のなかで唯一の雪景を描いたものです。
当時、牛天神境内の西側にあった茶屋より、遠く富士を眺望した構図と考証されています。
境内をみまわすと…
桜の木 水戸光圀公から五本の桜の木が奉納され、そのうちの一本が枯れず今もなお境内に健在しています。
ご神木 樹齢100年を越えるという木斛(もっこく)。この木に願掛けをすると、願いが叶うとのこと。
中島歌子の歌碑 「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」
(訳)雪の降り積もった中で、深く根をはっている若竹が、すくすくと光り輝くように伸びている
※中島歌子(なかじまうたこ)/天保15年(1844)〜明治36年(1903)
北野神社の近くで和歌と書を教える私塾「萩の舎」を主宰していました。その門下には、梨本宮妃、鍋島や前田候夫人などの上流・中流層の婦人たち。
かの樋口一葉と友人の三宅花圃も門弟のひとりでした。樋口家は貧乏だったので一葉は「萩の舎」で住み込みで下働きをしながら勉強していたといわれています。
貧乏神が福をくれるという摩訶不思議な御利益のある神社!
太田神社 もともとは、弁財天の姉・黒闇天女(くろやみてんにょ)をお祀りしていたのですが、江戸時代にあったある出来事から、人につく貧乏神を追い払って、福の神を招き入れてくれる神様として庶民の信仰を集めるようになったといます。
その福の神伝説とは。
ある夜、小石川の三百坂に住んでいた清貧旗本は、夢枕に立った一人の老婆からお告げをいただきました。
~わしはこの家に住みついていた貧乏神じゃが、居心地が良いものだから長いこと世話になってしまった。
そこで、お礼をしたいのでじゃ。毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを敬えば福を授けよう~
というものでした。
正直者の旗本は夢のお告げ通りに実行しました。
すると、たちまち運が向き、万事よいことづくめで豊かになりました。
旗本は神像を彫り牛天神に納めたと伝わっています。以来、この「貧乏神」の話は江戸中に広まったといいます。
ただし、明治に入ると神仏分離令が発せられ、祭神が芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と、道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)にさしかえられてしまいました。で、いまは芸能上達、開運招福のご利益があるとされ、歌舞伎、芸能人の信奉を集めています。
高木神社 元々は、第六天町( 小日向1丁目)にあった第六天社というものでした。
道路の拡張によりここに合祀されたたもので、やはり神仏融合の神様だったことから分離され、
いまの祭神は、稲荷神の「宇迦御魂命」(うがのみたまのかみ)となっています。つまりお稲荷さんです。
※太田神社・高木神社 例祭祭日/3月31日
牛坂 北野神社の北側の坂。牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれています。
かつての裏参道で、古くは潮見坂・蛎殻(かきがら)坂・鮫干(さめほし)坂など、海に関連する坂名でも呼ばれていました。
というのも、中世ころまでは、今の安藤坂の坂下あたりまで入江が迫っていたと考えられています。
ですから牛天神の鎮座する高い崖っ淵、波が削った海食崖だったことがわかります。つまり牛坂は海岸に出る坂だったのでしよう。
北野神社(牛天神)
例大祭 5月24日・25日
所在地 文京区春日1-5-2
TEL 03‐3812‐1862
最寄り駅
東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」駅より徒歩10分
都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩10分
JR中央線・東京メトロ東西線・有楽町線・都営地下鉄大江戸線「飯田橋」駅より徒歩10分