今日の散歩は浜松町から竹芝の界隈・芝離宮と竹芝、日の出桟橋

お台場とはちがう!桟橋のある海べりへ行ってみましょう!
浜松町、というとビジネスマンの多い街とか、東京モノレ-ルといったイメ-ジの強いところですが、

少し離れると芝浦運河や竹芝桟橋、日の出桟橋といった東京港の盛観がみられるところです。
出船、入船の港町です。

駅からすぐのところには、街の喧騒から隔絶されたような「芝離宮」の静かな一画があったり。

というわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

まさに駅から散歩といった芝離宮。数歩で都心のこの静けさは貴重!

JR浜松町駅で北口改札を出ることにしましょう。
浜松町駅はごちゃごちゃしていますから迷わないように注意してください。

ここで改札を出る前にちょっと3・4番ホ-ムにまわってみましょう。
どうして?

それは、浜松町の、キャラの強い、コレ!小便小僧を見るためです。

JR浜松町駅の3・4番ホ-ムに建つ小便小僧のブロンズ像(昭和27年建立)。
季節や時代を反映させながら毎月、コスチュ-ムがかわる浜松町駅の知る人ぞ知るシンボルキャラクタ-。

小僧がマスク!を着けるのは今回だけでしょう。
新型コロナウイルスの感染予防を乗降客に呼びかけているんだそうです。

以下は駅舎構内の通路にあるモニュントから。

浜松町の由来  元禄9年( 1696)、遠江国(静岡県)浜松出身の権兵衛という人がこの地の名主役を勤めたことに由来するもので、そのまえは増上寺を取り仕切っていた代官・奥住久右衛門が名主役を勤めていたことから、「久右衛門町」といっていたそうです。

東京モノレ-ル   浜松町駅前のモノレ-ルタ-ミナルのあるところは、かつて都交通局の資材置き場だったところでした。
もはや隔世の感があります。

羽田空港と都心部の交通緩和をはかるため、東京オリンピックを期して建設されたもので、世界で最初の実用モノレ-ルだったといいます。
すでに歳月をかぞえますが、しかし、今にしても沿線からの展望もよく、乗り心地もいいですね。

超高層で一斉を風靡した浜松町のシンホルタワ-だった「世界貿易センタービル」(昭和45年・1970竣工))も古色を帯びて来たなと思っていたら、再開発によって、令和3年(2021)に解体が着手される予定なんだそうです。コレ、壊すの!おそろしいのは再開発ですね。

大門通り
東京タワ-のみえる大門通り

浜松町駅から東、竹芝桟橋へ続く「竹芝通り」が通じています。西は増上寺の大門へと続く「大門通り」です。線路の高架下をくぐると右手に芝離宮の入口があらわれます。

駅と直結したような公園ですが、
入ったとたんに騒音がかき消されます。

正式には「旧芝離宮恩賜庭園」。
離宮、恩賜の文字が由緒を物語っています。

ですが、はじめは大名屋敷の庭園でした。

旧芝離宮恩賜庭園   一帯は遠浅の干潟で土地らしきものは全くなかったといわれます。
明暦年間(1655~58)この一帯の海の埋め立てがはじまりました。

延宝6年(1678)、4代将軍・家綱の時、老中・大久保忠朝(おおくぼ・ただとも)が完成した土地を屋敷地として賜り、8年の歳月をかけ「楽寿園」と称するみごとな庭園を完成させました。庭園はこれが原形となっています。

このあと、目まぐるしく所有者が変遷しています。長くなりますが羅列してみます。

  • 文政2年(1818)、佐倉の堀田家に譲ったものの、2年後に焼失しいっときは幕府用地となりました。
  • 文政6年(1822)、隣接していた御三卿・清水家と敷地を交換。
  • 弘化6年(1846)、清水斉彊(しみず・なりかつ)が紀州徳川家の養嗣子となったたことから紀州徳川家の下屋敷となりました。
  • 明治3年(1870)、有栖川宮が譲り受けましたが、すぐに宮内庁が買い上げました。
  • 明治9年(1876)、英照皇太后(孝明天皇后)立退所の必要から皇室が購入し、ここで「芝離宮」となりました。
  • 明治24年(1891)、迎賓館として園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴賓を迎えました。
  • 大正12年(1923)、関東大震災で洋館等が焼失しました。
  • 大正13年(1924)、皇太子殿下御成婚(のち昭和天皇・裕仁親王殿下・久邇良子王女)記念として東京市に下賜されたことから、震災からの復旧と整備を施し、4月か「旧芝離宮恩賜庭園」として一般公開されました。

何んともあわただしい移り変わりですね。これほどの変遷をもった庭園はおそらくここだけでしよう。

〇大久保 忠朝   大名・老中。肥前唐津藩主、下総佐倉藩主、相模小田原藩主。本多正信、正純父子との政争に敗れ失脚した大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)の孫。従兄の大久保忠職(ただもと)の養子となり、延宝5年(1677)老中となりました。

貞享3年(1686)、祖父・忠隣の領地であった小田原へ執念の復帰を果たし、以後代々小田原城を固守し明治維新に至っています。

 同族におなじみ天下の御意見番がいますよ。
〇大久保彦左衛門   大久保忠員(ただかず)の8男に生れ、16歳のときに初陣し、武功をあげ旗本に列せられました,それ以来徳川家康に気に入られ、数々の功績をあげました。大名になることを固辞し,「天下の御意見番」として家康の諮問、護衛に終始しました。

散歩しやすい回遊式の、海水を流入した「潮入り庭園」でした!

それでは、庭園をゆつくりと回遊してみましょう。

小石川後楽園はその代表ですが、ここも江戸初期の大名庭園の一つに挙げられます。
広いですね。面積は42.035.40平方メ-トルあるそうです。

池を中心とした庭園の縄張りや石の配置などが非常に優れているといわれます。
作庭家はだれだったのかわかりませんが、小堀遠州のような作庭に長けた人がきっと近くにいたのでしょう。

いまはどちら向いても借景にビルが入りこんできます。
そうしたまわりの背景はともかく、全体的には「楽寿園」時代の風光をほぼ維持しているそです。
そんな思いで鑑賞してみましょう、

海水取り入れ口   江戸の大名庭園としては稀有な潮入の池を庭園の中心部に配し、干満の差で変化する景色を楽しめるように工夫されていました。

引き潮の時は中島から浮島に渡れたり、潮の干満により州浜や島々の風景が劇的に変化したといわれています。

残念ながら今は海水の取り入れができなくなり、淡水の池になっています。

池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、白帆の行きかう沖合の海の展望を築山から眺める、そんなことにも意を注いだ造りになっていました。

西湖の堤(せいこのつつみ)  中島へ渡るための通路となっています。
園内最大の見せ場でした。

江戸では多くの大名が庭園に取り入れ、1つの流行のようになっていたようです。ここより小ぶりですが、水戸黄門(水戸藩上屋敷)さまの後楽園にもあります。

実際の堤はだれも見ていないので想像の創作。石組みでアーチ橋は格調が高いものとされていました。

※西湖の堤   中国の上海市から新幹線で1時間ほどの距離にある杭州市(現・浙江省)にある湖。風光明媚なところで、古来から詩歌や絵画の題材として珍重されてきました。

富士溶岩   泉水の護岸や石垣には富士の黒朴石(クロボクイシ)、つまり富士の溶岩が用いられています。高級な石として珍重された溶岩石を贅沢に配しています。

石組  数々の名石を用いた庭造りが個性になってもいます。
根府川山や中島の石組はひと際の趣をもっています。

とくに大久保家の藩地であった小田原から、多くの根府川石が運ばれ、石組や飛石として豊富に使われています。

歩く視線、見る視線、歩く移動によって石の見え方が違う。その変化を楽しむ造りになっていました。

鯛橋   なるほど、言われればお魚の鯛にみえますね。遊び心でしょうか。
鯛形の根府川石の橋を渡ると右手に豪壮で圧倒されるような築山があります。その山麓に根府川石の飛石が端正な形で敷かれています。

枯滝石組   枯山水の醍醐味。道を流れの河床に見立て、両側を屏風のようにそそり立つ山峡(さんきょう)の景観に模した石組の造形美。流れ落ちる滝をイメージしたものといいます。

往時の武士たちはこうした造形を愉しみつつ、おしゃべりをしながら散策したのでしょう。

石柱  これまた4本の石柱がどっしりと立つています。忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもので、茶室の柱として使われたのだろうと推定されています。

大山の近くに「10月サクラ」がやさしい色香を放って咲いています!

庭内の最大の築山、大山への石組みの石段。
頂上から裏側に降りると枯滝の石組につながります。

迎賓館の遺構   明治24年(1891)、迎賓館として園内に洋館が新築され、以来、多くの外国の貴賓を迎えました。
庭園を入って右手あたりに建てられていたそうです。

さて、庭園めぐりはこれでおわりとしましょう。
これから竹芝桟橋に向かいます。

芝離宮を出て竹芝通りを海浜のほうに向かうと、大きな海岸通りが横切ります。

海岸通り   名前のとおり、かつてはこの通りまで海が迫っていたといいます。つまり、渚でした。芝離宮が潮入りだったというのは海あってのものだったことがわかります。

江戸時代、芝浦全域は遠くまで干潟をなし、住めるような土地はありませんでした。
このあたり歩いているところ、見渡すところはすべて海の埋め立て地ということになります。

埋立地のデータによりますと、

  • 明治期~大正期    100万坪
  • 昭和元年~昭和9年 304万坪
  • 昭和10年~平成8年   1353万坪

明治45年(1912)、隅田川口の改良工事が始まり、そのとき浚渫された土砂を使って芝浦地区のはじめての埋め立てが開始されたといいます。

大正8年(1919)2月、芝浦の埋立地が完成し、翌3月に芝浦町1 – 3丁目が成立、東京市芝区に所属しました。

浜松町駅、田町駅、品川駅の海側( 東側)は全て埋立地です。
これは鉄道敷設のとき、海岸沿いに土堤を築いて線路を敷いたことによるもので、つまりJR線路の東側は全て埋立地ということになります

芝海老・「芝肴」の宝庫    江戸時代には芝浦は雑魚場(ざこば)と呼ばれて漁村として栄えていました。芝浦でとれた魚は芝肴(しばざかな)と称され江戸に広く出回り、将軍にも献上されました。つまり「江戸前」です。

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文政年間の記録『御府内備考』の「本芝一丁目の書上」には、次のような特産物をあげています。

「~当浦にて魚漁之品左の通。冬春は、貝類、鰻、夏秋は、芝海老、こち、黒鯛、ざこ」

これらの海産物は、芝浦沿いの料理屋に配達され、獲れたてのものをすばやく調理し客に提供したことから、江戸っ子の性質にあい、江戸前の生きのよい肴を「芝肴」と称するようになったといいます。

芝肴のうちでも「芝海老」は珍重されるべき芝浦の特産となっていました。

竹芝通りを散歩すると、伊豆七島、島への憧れが高まります!

海岸通りをこえると、歩道の左手に、伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)の植物や火山の石などいろんなモニュメントが配されています。島の息吹を強く感じさせられます。

そうしたものを眺めながらゆくと、やがて道は「竹芝桟橋」エリアにぶつかります。

この「竹芝」は大正時代、埋立地に新たにつけられた「竹芝町」に由来するもので歴史的地名ではありませんが、
しかし竹芝そのものの由来は、『 更級日記』の中の「 竹芝伝説」に基づくものとされています。
次がそれです。

みかど、后、皇女( みこ)失せたまひぬとおぼしまどひ、求めたまふに、

「 武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香かうばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうににげける」

と申し出でて、このをのこを尋ぬるに、なかりけり。ろんなくもとの国にこそ行くらめと、おほやけより使つかひ下りて追ふに、瀬田の橋こほれて、え行きやらず。三月みつきといふに、武蔵の国に行き着きて、このをのこを尋ぬるに、この皇女おほやけの使づかひを召して、

「 われ、さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率ゐて行けと言ひしかば率て来たり。いみじくここありよくおぼゆ。このをのこ罪し、れうぜられば、われはいかであれと。これも前さきの世よに、この国に跡を垂たるべき宿世すくせこそありけめ。はや帰りて、おほやけにこのよしを奏せよ」

都の姫が武蔵野の男に恋慕し、二人は逃避行して武蔵に。都から追っ手がきたけれど姫は帰るのイャといったとか…、そんな伝説ですね。

※更級日記(さらしなにっき)   平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標(すがわら・たかすえ)の次女・菅原孝標女(すがわら・たかすえのむすめ)。

母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母といわれます。

作者13歳~寛仁4年(1020)~康平2年(1059)、52歳ころまでの約40年間が綴られており、平安女流日記文学の代表作の一に数えられています。江戸時代にはすでに広く読まれていたようです。

※済海寺   港区三田4丁目にある浄土宗の寺院。『更級日記』に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の、「竹芝寺」の跡地にあたるといわれます。

芝浦一帯   中世から東京湾の重要な海運拠点で、戦国時代には後北条氏の水軍の要所であったとされ、北条氏の縁戚である吉良頼康と玉縄城主・北条綱成の管理下に置かれていたといいます。

芝浦  江戸湾(東京湾)の浅瀬でした。芝の浦の意で、芝一帯の海辺を指す言葉。「 芝」は芝で、芝が茂った地。
その沖の海岸部分を「 芝浦」と呼ぶようになったといわれますが、やや疑問詞されます。

また一説に「 芝」は芝沖の海苔養殖に用いる木枝で、それを「 ひび」(といい、その「 ひび」が並んだ海だから「 芝浦」となったとするものもあります。こちらのほうが妥当でしょう。日比谷の「ヒビ」も同様のようです。

芝浦1~4丁目まであり、広義には港区海岸・港南全体を指してそう呼ばれています。

竹芝ふ頭の散歩道~海に面して公園と港が一体化したプロムナ-ド!

横浜みなとみらいの日本丸メモリアルパークに保存展示されている帆船・日本丸のマストのレプリカだそうです。

竹芝ふ頭の入口ゲートの両側では「モヤイ像」が出迎えてくれます。
タヒチ島で有名なモアイ像にヒントを得て新島特産の加工しやすい岩を利用して制作された像。
渋谷駅前にも同様のモヤイ像が設置されています。

像は、新島で産出される抗火石(石英粗面岩)を用いて島の人によって彫られた「モヤイ像」です。新島の方言「もやい(催合)」は、皆で力を合わせて一つのことを成し遂げる協同・協力・共済を表した言葉で、地域の今後の発展を願うと共に、港区と島との交流の絆として新島本村から当区へ寄贈されたものです。昭和59年4月  東京都港区

竹芝客船ターミナル   伊豆諸島(東海汽船)、小笠原諸島(小笠原海運)の定期航路の玄関口となっており、東京湾のクルーズ船も発着してします。

古くからある港の一つで、竹芝再開発によって公園と港が一体化した眺望豊かな場所に生まれ変わりました。

江戸時代の芝浦は『江戸名所図会』に、

 「月に、雪に、あるひは風に、浦曲の景色、天美なるか、地美なるか、人美なるか、まことに飽きもせぬながめなり。さていつはなけれど、夏の納涼には、尤も適した地なれど、芝といふものの候夏ざしき 梅翁」

とあるように、「夏ざしき」(座敷)が繁盛するような風光明媚な海浜リゾ-ト地だったようです。

竹芝埠頭   隅田川の河口部にある埠頭。昭和7年(1932)、芝浦町1丁目に外国・国内の貨物船専用桟橋である芝浦桟橋(芝浦埠頭)が完成しました。
北東へ465メートルの長い岸壁が続いています。荷降ろしを行う大きなスペ-スが3つ設けられています。
バースと呼ばれるもので、5000トン級の船の進水に対応しているといいます。

プロムナードデッキ   たくさんの船とレインボーブリッジの光景。夜になると臨海副都心の夜景やライトアップされたレインボーブリッジが美しく、インスタ映えのするエリアへと変貌します。

月島、佃島方面

竹芝桟橋
竹芝桟橋 こういう撮影風景もよく見られます。背後にレインボ-ブリッジ

桟橋の外れ右手に聳えるほど大型の建物があります。、

ホテル インターコンチネンタル東京ベイ  平成7年に竹芝桟橋再開発プロジェクト「ニューピア竹芝」のランドマークとして開業した地上24階建ての高層ホテル。

ホテル左手の石段を下ると小さな船だまりがあります。

竹芝小型船発着所   竹芝埠頭の南側、古川(渋谷川)の河口部にある小型船発着所。各種小型船、遊覧船、、視察船「新東京丸」などが発着しています。

これから日の出桟橋に向かいます。

古川に架かる「浜崎橋」を渡り首都高速一号線に沿ってゆきます。左手を「ゆりかもめ」が走っています。

東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)   東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、愛称・「ゆりかもめ」。沿線には沿線にはお台場や有明地区、フジテレビ本社、アクアシティお台場、デックス東京ビーチ、パレットタウン、ダイバーシティ東京、大江戸温泉物語、日本科学未来館などが目白押しドル箱の観光路線になっている。、

日の出桟橋専用線   かつては、浜松町から専用線が桟橋まで延び、倉庫が立ち並ぶ、寂寞としたところでした。倉庫群だけが往時をしのばせのます。

桟橋倉庫   大正14年(1925)に建てられたもので、東京港で最も古い倉庫となっています。夜はその倉庫がライトアップされ水上観光に一役買っています。

出航
日の出桟橋からシンフォニ-の出航

日の出桟橋  一般には台場・有明方面への水上バスや東京湾クルーズの発着所。

日の出桟橋と浅草を結ぶ隅田川ライン、お台場海浜公園を結ぶお台場ライン、東京ビッグサイト・パレットタウンを結ぶ東京ビッグサイト・パレットタウンライン,ハトバス・シンフォニークルーズなどが運航されています。

日の出駅
日の出駅

日の出桟橋まで来たらここ「日の出駅」から浜松町駅にもどるのがいいでしょう。
レインボ-ブリッジの入口も近いですから、そこまで足をのばすのもいいですね。

竹芝桟橋から浜松町駅へ出る散歩コ-ス

日の出桟橋はカットして、竹芝小型船発着所のところから浜松町駅に向かうこともできます。ここでは途中、ふたつほどの史跡に立ち寄ってゆくことになります。

竹芝小型船発着所の階段をのぼり、まっすぐ海岸通りまで出ましょう。

「東京ガス前」の信号をわたると、東京ガス本社がそびえています。その敷地の一画に忽然と石垣が復元されています。

大名屋敷の石垣の一部で、護岸に使っていたものらしいです。ひょっとすると、波打ち際の護岸用だったでしょうか。

江戸時代の石垣   東京ガス浜松町本社の海岸通り側の内庭。

ここに復原されている石垣は海岸1丁目特定街区建設工事の際に発堀された石垣を保存のために移築したものです。石垣が発堀されたこの地は、旧芝離宮恩賜庭園に南接し、江戸時代前半に埋立てられた築地で、永井佐渡守や丹波左京太夫の屋敷あるいは松平越前守陣屋として用いられたものです。保存された築地石は、築地の北側と東側の護岸用に使われていました。
(文・東京都港区教育委員会)。    案内板設置者 東京ガス株式会社

東京ガス本社ビルを右にまくように歩いてゆきます。

左手の道路をへだてた向かい側のビルが東芝本社ビル(現・東芝浜松町ビルディング)でした。
東芝や東芝グループ各社の本社機能が全部入居していました。

東京芝浦電気の発足45周年にあたる昭和59年(1984)に竣工。その年に「東芝」へ社名変更するなど、東芝の経営刷新を象徴してきた建物です。

これまた、かの「国家戦略特区」で解体が予定されています。アアこれまた、もったいない!

今日この一帯では、
東急不動産・鹿島建設が共同で進めるプロジェクト「竹芝地区開発計画」が黙々と進行中です。

最寄りのJR浜松町駅などとの動線を確保するため、首都高都心環状線をまたぐ歩行者デッキの架設が進められています。完成すると竹芝桟橋がぐっと近くになるというハナシです。

東京ガスの敷地のはずれで右にまがりましょう。
ここからの道はすぐ浜松町駅の跨線橋にぶつかります。つまり東京ガス社員の玄関口です。
右側は公園でそこに一基の大きな石碑が建てられています。

東京瓦斯創業記念碑   

帝都瓦斯事業ハ、其初メ官営トシテ計画セラレ、此地芝浜崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタルハ、明治六年十二月ニシテ、瓦斯供給ヲ開始シ、銀座街灯ニ瓦斯燈ヲ点火シ、行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ事ナリ。後民営ニ移サレ、明治十八年十月ニ創立セラレタル我社ハ、此地ニ於テ事業ヲ継承セリ爾来物換ハリ星移リ、我社ハ他ニ移転シ瓦斯製造所モ廃毀セラレタリ。本年創立五十周年ヲ迎ヘ、此地ノ嘗テ瓦斯供給ノ本源地ニシテ且ツ我社創業ノ地タリシヲ憶ヒ、当時ノ構内一隅ニ此碑ヲ建テ由来ヲ誌シテ記念トス 昭和十年十月一日     東京瓦斯株式会社 取締役社長 井坂孝

日本で最初に都市ガスを供給したのは、明治5年(1872)といわれます。

横浜の豪商・高島嘉右衛門が横浜瓦斯会社を設立し、横浜において最初のガス灯を灯しました。

東京ではここ芝浜崎町に工場を建設し、明治7年(1874)、銀座~京橋の間などに85本のガス灯を点灯したといわれます。
後に工場は吸収され、明治18年(1885)、渋沢栄一らが東京瓦斯会社を設立しました。

このころになるとガスの用途も街灯から生活燃料用に転換され、生産量も急増していったといいます。

東京ガス本社の高層ビルのところがその跡地といいます。

ペデストリアンデッキ    浜松町駅は、東京ガスビルディングと東芝本社ビルとを結ぶ長いデッキで結ばれています。こうしたデッキの魁となったものです。長い長~い。

というような散歩コ-スでした。

では、ここで〆ることにします。

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