東京・池散歩案内~心が浄化する、緑濃い八芳園の池と畔を散歩します(白金台)!
白金、白金台
というと、エレガントでセレブの街、おしゃれで優雅な街といったイメ-ジが通り相場になっており、
都内における高級住宅街のひとつとして知られています。
ここに住む一部の女性たちを指してマスコミは「シロガネーゼ」と評したりします。
ですが、それが全部ではなくて、一歩裏に入ると庶民的な通りもあり、ここが白金?-と錯覚をおぼえるところも多々あります。
一帯は地形の起伏が大変に激しいところでもあり、歩いてみると、優雅さのイメ-ジを一転させられてしまいます。
「しろがねだい」と読まれますが正しい読みは「しろかねだい」です。
きょうはそんな自然地形があったればこその日本庭園を回遊してみましょう。
台地と低地の高低差が絶妙な風景をみせてくれます。
というわけで、以下そんな庭園と池畔を逍遥した一コマを写真と拙文でお届けします。
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ちなみに以下のコ-スと合わせて、ワイドにお散歩、どうですか!
ジョイントコ-ス☛「白金・白金台界隈」
地下鉄南北線の白金台駅から向かうことにしましょう。
表に出ると広い「目黒通り」が走っています。かつての目黒不動への参詣道です。白金台地の尾根筋を通っています。
この通りを北東に、日吉坂方面に歩きましょう。
古川(渋谷川ですね)の谷へ下ろうとする目黒通りの坂上が「日吉坂上」です。
かの日吉丸=木下藤吉郎=豊臣秀吉と連想してしまいますが、まったく関係ありません。
日吉丸という能楽師がこの近くに住んでいたことによるものといわれています。な~んだですね。
いうなれば、このあたりが白金台地の頂上ともいうべきところです。
日吉坂上で南東から上ってくる「桑原坂」が合流しています。
桑の畑が広がっていたことからの坂名といいます。この坂を下ってゆくと明治学院大学に至ります。
桑原坂を下るとすぐ左に、稲荷社が鎮座しています。小さ社ですがどことなく厳かさがあります。名前にも威厳があります。
古地老稲荷(こじろういなり)
文政12年(1829)の創建で、鎮座してからは一帯に火災が起こらなくなったので、このご利益から、火伏せの稲荷といみなされるようになったといいます。
名前がおもしろいですが、由来は調べたものの、わかりません。
関東大震災や第二次世界大戦の空襲の難をも遁れた威力のある稲荷だそうです。
稲荷社のさきが八方園入口です。
ここだけの風景に出会う、八芳園の優雅さのある園遊散歩!
八芳園の正門は桑原坂に面しています。
白金台の一角にある結婚式場・料亭・レストランをもつ「八芳園」には自然の地形を生かした1万2千坪の庭園があり、目白の椿山荘と並び称されるところです。
それでは、入ってみることにしましょう。
長屋門 長屋門はやや腰高で腰壁を黒い下見板張に仕上げています。上部の壁を白い漆喰にした外観は優美で、どっしりとした印象を受けます。
大名屋敷などに見られる格式張った装飾は見られず、どことなく素朴で豪農の館などに見られる長屋門のように感じられます。
この門は、明治時代にこの土地を所有していた渋沢喜作氏の屋敷の門で、もともとは茅葺の屋根だったと伝えられています。
長屋門を入ると前庭が広がり、広い砂利敷の中央に、マツを主木とした植込みがあり、車が回転する車廻しになっています。
長屋門をくぐった左手、そこはかつて久原氏の母屋であったといい、いまは「壺中庵」(こちゅうあん)があります。
屋敷地変遷~大久保彦左衛門・島津・渋沢・久原そして八芳園へ
それでは庭園に入る前に八方園の歴史的変遷をざっとかいつまんでみることにしましょう。
大久保彦左衛門屋敷 江戸初期には徳川家康はじめ3代の将軍に仕え、「天下の御意見番」と呼ばれた大久保彦左衛門こと旗本・大久保忠教(おおくぼ・ただたか)の屋敷があったと伝えられています。
いまある庭園の全域ということではなく一部だったといいます。
薩摩・島津屋敷 その後の変遷は不明ですが、弘化3年(1846)に薩摩の 島津式部の抱屋敷に、さらに嘉永7年/安政元年(1854)には松平薩摩守の下屋敷になったとされます。
幕末期の絵図によって薩摩藩島津家、松平薩摩守の屋敷だったことが確認できます。
白金八芳園の旧地は渋沢喜作(渋沢栄一従兄弟)晩年の余生を送ったところでした!
渋沢喜作邸 明治時代になり渋沢栄一の従兄で実業家の渋沢喜作の所有となりました。
渋沢氏の時代に池が造成されたとみられています。
明治42年(1909)の地形図を見ますと、現在の八芳園の土地にあたるところに「渋沢邸」という書き込みがあって、台地の下には池らしきものがみえます。
渋沢邸に隣接する土地に屋敷を構えた藤山雷太氏(政治家・藤山愛一郎の父)は、渋沢氏より少し早く明治30年(1897)に麹町区の平河町から移転してきています。
※渋沢喜作(1838-1912)
渋沢成一郎。喜作は幼名。渋沢栄一氏の従兄弟。德川慶喜の片腕となり、戊申戦争、函館戦争に参戦。
のち渋沢栄一の仲介で大蔵省に入り、以後は栄一と並び実業界で手腕を発揮し、渋沢商店を経営し、深川の正米市場の理事長もつとめました。
晩年は隠居の地として白金台に居を構えたました。それは明治36年(1903)の前後のころではないかと思われています。
全ての公職から引退した喜作はこの邸で余生を送りました。
喜作から渋沢商店を継いだ、長男の作太郎と二男の義一(明治43年(1910)に作太郎が病没し家督を継ぐ)が栄一の指導のもとで事業を発展させ、渋沢商店を生糸貿易で茂木、原と並ぶ横浜屈指の生糸商に成長させ、横浜財界で重きをなしました。
喜作は義一の活躍に満足しつつ、まるで明治という時代が終わるのを見届けるかのように、元号が変わった大正元年(1912)8月30日に亡くなりました。享年75歳でした
渋沢喜作の墓は目黒の祐天寺にあります。
渋沢喜作が余生を送った邸宅を譲り受け最後の主となった!
久原房之助(くはら・ふさのすけ)
大正4年(1915)、新興財閥で久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名をもち、日立製作所の創業者でもあった久原 房之助の別荘となりました。このとき屋敷地がさらに拡張され、庭園もこの時代にしっかり整備されたといいます。
「四方八方どこを見ても美しい」ことからと「八芳園」と名付けられたといいます。
久原は自然との調和を何よりも重視し敷地の造作を重ねたといいます。
昭和40年(1965)この八芳園の自邸にて95歳で死去しています。
八芳園の誕生 終戦後の昭和25年(1950)、個人でこのような場所に居住するのは相応しくないと判断した久原氏は、当時、料亭などの経営者であった長谷敏司(のち長谷観光株式会社)のかねてからの頼みにより屋敷と庭園の一部を使用することに同意しました(のち譲渡)。
久原氏は「一木一草たりとも勝手に動かしたり切ったりしないこと」という厳しい条件を付した上での同意だったといいます。
同社は株式会社八芳園を創立し、結婚式場や料亭、レストランなどを敷地内で開業し今日に至っています
さ、ここから八芳園の庭園散歩はじめます~その癒やされる景色のいろいろ
壺中庵 明治時代に渋沢喜作氏が建てた数寄屋風の建物に、それを譲り受けた久原氏が大正5年(1916)に増築を加えたもので、現在は料亭として使用されています。
ややスロ-プのかかった広い芝庭が望めます。庭には旗本・大久保彦左衛門が家光より直々に下賜されたと伝えられる山茱萸(さんしゅゆ)の木が今も残されています。
風流な木戸門から庭園に入ります。
木戸門を入ると、ずらっと並んだ盆栽に迎えられます。背景の建屋がが壷中庵です。
盆栽の多くは樹齢100年以上のもので、古いものでは樹齢520年のものもあlり、樹齢500年以上のものがあります。
樹齢もさることながら、ひとひとつの枝ぶりに凝視させられます。
ワタシもベランダで盆栽をふたつほど育てていますが、日ごと、月ごとに変化する枝葉の妙に楽しみをおぼえます。
全敷地の中央部分に造られた庭園はほぼ三段に造られ、徐々に低地へと下って行く形になっています。
上段庭は壺中庵の前からゆるやかに下る斜面で、のびやかな雰囲気の芝庭が広がっています。
渋沢氏の時代に玉名川をせき止め、まわりの湿地をもふくめ池とし、それなりの庭園が造られていたのではないかと思われます。
それをより趣のある形に改修したのが久原氏のようです。
斜面にそって大小さまざまな名木が植えられ、多くの名石が配されています。、
中段の庭はやや急な斜面に配され、低く刈り込まれたサツキやオカメザサの中にアカマツの大木などが立ち、そこを園路が巡っています。
どこからでも池の水面を見下すことができるようになっています。この仕掛けは地形の妙あってのことで、八方園ならではの庭園構成になっています。
中段は上段と下段の庭と庭をつないで、全体を融和させ調和させる役割を果たしているようです。
一千年以上の歴史をもつという古代朝鮮の仏塔、十三層塔が確然とさりげなく聳え、点々としつらえてある石造物が風景をぐっと締めています。
庭園内には横浜で生糸の貿易商を営んでいた田中平八の建てた茶室が移築されています。 通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれた実業家です。
渋沢喜作とは生糸商のお仲間ですね。
平宗清が平家滅亡後に一族の供養のために自ら刻んだという石灯籠。
地形からすると、八芳園のあるところは南東と北東にはさまれた谷間といえるでしよう。
斜面を下りきった平坦なところに造られた下段の庭は、池をめぐる回遊式の庭となっています。
谷底は水を湛えた池が広がっています。
池の畔の説明板によれば、「その昔、この付近の丘陵地帯に沼があり、そこから流れていた川の跡を池にしたものです。昔は、農業用水として使われており、池の上方には水車小屋があったとも言われています」ということです。
その沼とはかつての今里村(白金台1丁目付近)にあった玉名池(玉縄池)とおもわれます。そこは湧水池だったそうで、現在は埋め立てられています。
その玉名池から流れ出た玉名川の水をここでせき止めて池としたのが八方園の池ということのようです。
玉名川は古川(渋谷川)の支流でした。新古川橋付近で古川に合流していました。
この近くにある国立科学博物館附属自然教育園(旧白金御料地)の中にも「ひょうたん池」や「イモリの池」といった自然の池が点在していますが、同じような条件のものでしょう。そこはいまも古川の支流のひとつになっています。
こうみてみると、かつての白金一帯の野生や、開発される以前の自然の姿が浮かび上がってきます。
玉名池には玉川上水の分水である三田用水の水も流れ込んでいたそうですから、遥か遠い、多摩川溪谷の水がここまで流れてきていたのだと思うと、自然の結びつきの凄さをおもいますね。
回遊する園路の途中から変化に富んだ庭園景観が一望できます。
水音が耳元をかすめると、一瞬、滞っていた雑念が消え、都会にいることさえわすれてしまいます。
この滝が玉名川の名残りでもありましょうか。と、思ってみるのもいいでしょう!
足音に吸い寄せられて集まる鯉。優雅に泳ぐ色鮮やかな錦鯉に天然の美を感じます。
銀色の鯉を見つけるといいことがあるといわれています。
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※水落石 石の表面の肌合や立て方、並べ方によって無限ともいえる水の落ち方が決まる、庭造りの仕方のひとつだそうです
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八芳園hp
帰途は、日吉坂上まで出ましたら、あとは左に「白金台駅」か、右に「白金高輪駅」か、どちらも地下鉄南北線で、いずれも5分くらいです。
というようなことで、ご案内の〆となります。
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