今日の散歩は本郷菊坂の界隈(文京区)・一葉がいて啄木がいて賢治もいた!

文京区は都内屈指の文教の町です。種々の学校が数多あります。

中でも本郷はその要のような町です。本郷東大-東京大学があります。本郷台地の平らかで広大な一等地を占有し、

本郷といえばイコ-ル東京大学の街で、東側の本郷7丁目はほとんど校舎の敷地になっています。

しかし本郷台地は起伏に富んでいますから山の手とはいえ小さな窪地や谷や坂の多い町となっています。

きようはそんな本郷の中でも谷筋の町として有名な本郷菊坂の界隈を歩いてみたいと思います。

菊坂というと明治の女流作家・樋口一葉の住んだ菊坂時代が特筆され、

また石川啄木や宮沢賢治らが一時期を過したたところで、「文人の町」といった色合いもあったりして、、

それかどうかやや文学散歩のきらいがあります。

ということで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。



本郷3丁目交差点あたり・「本郷もかねやすまでは江戸の内」

地下鉄・丸の内線の本郷三丁目駅を起点にしましょう(大江戸線・本郷三丁目駅もOK)。

本郷三丁目駅は大通りから横丁を入った裏通りのようなところに設けられています。どうしてこんな風になったのでしょう。

駅前は建てこんでいますが、かつては蓋平館(下宿屋)の支店があったようなところで、作家・梶井基次郎が大正13年(1924)4月からしばらくそこに住んでいました。代表作の『檸檬』はここでの作といわれています。

改札を出て右に行くとすぐ本郷通り(国道17号・旧中山道)つきあたります。

国道を右手のほうにちょっと行ったところ、駅のちょうど裏側あたりになるでしょうか、歌人・若山牧水がしばらく滞在していた東雲館がありました。

このあたりはに多くの下宿屋がありました。

牧水はここから石川啄木の小石川の家にかけつけ彼の臨終に立ちあっています。

゛本郷三丁目の交差点は昔から街道の要衝でした。

左角の一角は江戸時代からその目安となったところでした。

かねやす   江戸市中と市外の境目で川柳に「本郷もかねやすまでは江戸の内」とうたわれていました。このあたりまでが実質的には江戸市中ということで、ここまでは土蔵造り瓦屋根の家並みが続いましたが、そのさきは木造や茅葺の家並みとなった。ガラッとではなく、何となくの差ということでしょう。

というのは、享保15年(1730)に起こった大火の復興に際し、町奉行であった大岡忠相は町人にも防災上、塗屋・土蔵造り、瓦屋根を奨励しました。そうしたことから街並みもその後変化がおきました。川柳はそうした動向を示しているのでしょう。

正式に江戸の範囲を示したものでなく、何となくの江戸の内でした。
幕府が正式に江戸の内(朱引)と決めた範囲はもう少し北で、決められたのは文政元年(1818)のことでした。

「かねやす」は口内医師・兼簾祐悦(かねやす・ゆうえつ)が享保のころ、ここで乳香散という歯磨粉の商をはじめたところといいます。いまは洋品店ですが暖簾はそのまま生きているというわけです。

樋口一葉の『よもぎふ日記』、明治24年(1891)8月3日に「かねやすにて小間物をととのふ、日暮れて帰る」
とありますから、一葉も出入りしていたことがわかります。

春日通りを渡ると左手の山門に提灯が掲げられ、その奥に赤いお堂がみえます。道は往時の参道でしょう。かつてはこの奥にお寺がありました。

本郷薬師   「薬師の縁日は本郷の花なり」といわれ、牛込神楽坂の毘沙門天の縁日と並んで、夜店が盛んだったそうです。

明治26年(1893)3月12日、一葉の『よもぎふ日記』に、「今宵くに子と共に薬師の縁日そぞろありきす。」とあります。

薬師は富元山真光寺の境内にあったもので、寺は戦後に世田谷の烏山へ移転しています。藤堂家が菩提寺にしていました。

お堂のさきを右手に折れ少し奥まった、袋小路のようなところに、雨ざらしの観音様があります。露座とは何ともったいない。

十一面観世音菩薩像   真光寺の境内仏で享保5年(1720)に建立されたものです。かつてここには処刑場があったことから、処刑者の供養のために造られた観音さまではないかと言われていますが、詳らかではありません。それにしても、お寺さんはどうして、これら貴重なものを残したまま移転してしまったのでしよう。

参道のつきあたりには天神様が祀られてあります。

隠れたパワースポットで、「サ・ク・ラ・サ・ク・櫻木天神」のキャッチフレ-ズが受験に霊験あらたかなのだそうです。天神様は梅ですが、ここでは桜で花を開かせてくれる。合格間違いなしを約束してくれそうな天神様のようです。

櫻木神社   この神社のあるところも真光寺の境内地だったといいます。

江戸築城の際、大田道灌が京都の北野天満宮より城内に勧請したものと伝えられています。

江戸時代に入り、江戸城の拡張で湯島台に遷座したのち、元禄3年(1600)、昌平坂学問所のを設立にあたり、翌年、本郷の真光寺境内に移され、以来、本郷の氏神様として、「本郷天神」とも称されてきました。

見送稲荷神社   見送り坂で見送った者たちか、さらなる稲荷の守護をお願いしたのでしようか。

春日通りを渡ると微かにですが道が下り、その先にかけては上りになります。傾斜とも言えないほどの短い上り下りです。

かつてはもっとはつきりした上り下りだったのでしよう。微かな傾斜はその名残りです。

見送り坂・見返り坂   上り下りする道の、このあたりで人は見送られ、見返りつつ(振り返り)江戸を離れてゆきました。人は旅人、追放の罪人の二説があるようでが、旅人とするほうが情緒があります。

燕楽軒(えんらくけん)跡   この一角にしゃれた西洋料理店がありました。東京大学の教師や学生たち、菊池寛、久米正雄、宇野浩二らの作家が利用したそうです、大正6年(1917)、文学を志して上京した宇野千代さんは、ウエイトレスとしてここで働いており、ここで作家としての足場を作ったといいます。

本郷通りを進むと左手に菊坂の名をもつ坂道ひらけますが、こではいったん素通りしてさきへ歩きます。

菊坂   このあたり一帯に菊畑が多くあっところから坂名となったといわれ、坂上は菊坂台町、坂下を菊坂坂下と呼ばれていました。幕末ころは窮乏する武士や浪人たちの生計の足しになっていたといいます。いまは菊坂の商店街になっています。

菊坂には坂に沿って※東大下水(ひがしおおげすい)といわれた用水の分流が流れていました。

※東大下水   下水と呼ばれていましたが、ここでいう下水は汚水を流したものではなく、農業用水・排水としてのもので、きれいな水が流れでした。東と対で西大下水というものもありました。

5分ほど歩くと東大の赤門が右にみえてきます。赤門信号の少し手前の左手、眼鏡屋のビルのあるところかつて印刷屋さんがありました。

宮沢賢治のアルバイト先   宮沢賢治もいっとき本郷に住んでいたことがあります。

文信社(現大学堂眼鏡店あたり)というところに校正係として勤務していました。筆耕がうまいのでガリ版切りをしていたとの説もあります。文信社は大学の講義を迅速に謄写して納める小回りのきいた印刷所だったといいます。

『銀河鉄道の夜』の主人公・ジョバンニの通 っていた活版所、あれは文信社での経験をもとにしたものかもしれません。

赤門  「御朱殿門」とも言いました。東大の玄関口としてのシンボルです。

德川11代将軍・家斉の娘・溶(14歳)が前田家に嫁ぎ「御守殿」となったことを象徴する門です。漆の朱塗りなので黒門(正門)に対し赤門といわれました。藩は加賀鳶という特別な火消を組織し防火を厳重にしたといいます。

東大赤門前の奥まったところに一寺があります。樋口一葉ゆかりの寺として知らる法真寺です。

法真寺   寛永4年(1627)、徳川家康の御台所頭・天野図書が下屋敷を寄進して開基したものといい、本堂は天保14年(1843)の建造だそうです。

桜木の宿   樋口一葉は明治9年(1876)から明治14年(1881)まで、5歳から10歳に至る5年間、法真寺の東隣に住んでおり、

その家を「桜木の宿」と名付けていました。翌年の明治10年(1887)4月、東京大学が本郷に開校されています。

困窮の続いた一葉の生涯ですが、この時期だけは、父親の事業も順調で生活も裕福でした。生涯で最も幸せな時代だったと言われています。

一葉は近くの私立小学校(吉川)へ通っていました。

一日中読書にふけり、2階の窓から法真寺境内の桜や、境内に鎮座する「腰衣観音」を眺めていたそうです。

後にその様子を、『ゆく雲』、』の中で、良き思い出として記しています。
「上杉の隣家(となり)は何宗かの御梵刹(おてら)さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」

法真寺では毎年、一葉の命日である11月23日に文京一葉忌が行われています。

きょうの散歩土産は、コレ!

本郷  扇屋/赤門もち

 文京区本郷5-26-5 地下鉄郷三丁目駅下車・徒歩5分

赤門前に暖簾をかかげた和菓子屋さん。

銘菓「赤門もち」はその赤門を商標にした人気商品。

わらび粉と沖縄産の黒砂糖を主原料にした独特な風味のわらび餅です。

黄名粉と黒糖のうす甘さがわらび餅にからんで豊穣な味覚をつくつています。

本郷にふさわしい銘菓としてこれ以上のものはないでしょう。

長崎のカステラ職人だった初代が始めた店といいますから、
技法を尽くした純長崎カステ-ラもお薦めです。

本郷通りを少しもどり右側二つ目の横丁に入ります。しばらく歩くとT字路になります。そこを左折し、緩やかに傾斜する道をひたすらまっすぐ歩き、十字路のところで右に進んだところの、ひとつめの路地が「金魚坂」になります。異色の坂道です。

このあたりの路地裏は菊坂の谷すじなるのでどっちに行っても坂道になっています。

金魚坂   本郷には小さ湧水が養魚池となり、金魚屋さんが繁盛しました。加賀、水戸、阿部、小笠原といった大名の屋敷が数多くあり、そうした屋敷の鑑賞用として納めていたらしいです。

吉田晴亮商店   元禄時代に創業という金魚屋さん、錦鯉も扱う問屋さんです。釣堀があり、傍らに食事処・喫茶を設けています。ひらひら金魚に癒されます。ここでひと休みするのもいいでしょう。裏通りですが人気店です。 

金魚坂を下ると菊坂の商店街の途中に出ます。このさきで菊坂は上と下のふた筋に分かれます。樋口一葉が住んでいたのは下の道でした。

100メ-トルほど歩くとその地点になります。道が互い違いにクロスしています。ここから左手に下の道が分かれ、上の道(菊坂商店街)と並行して菊坂下まで400メ-トルほど続くことになります。

下の道は東大下水の川筋にあたり、通称、菊坂下道といわれ、商店街の道は菊坂上道といわれたりしています。

上下ふたつの道は進むほどに段差が生じ、ところどころ階段で結ばれるようになります。

筋違いの道を左右に上る坂が「本妙寺坂」という名高い坂道です。

本妙寺坂は本妙寺に由来するもので、北側の坂上に明暦3年(1657)に起こった明暦の大火(振袖火事)という江戸時代で最大の火災、その火元といわれた本妙寺がありました。

火元説は諸説紛々としていますが、これまでいちばん流布されてきたのが本妙寺説でした。そのあたりの細かいことはここでは省きます。

本妙寺跡   法華宗陣門流(総本山は新潟県三条市西本成寺の本成寺)の東京別院となっています。

徳川家康の有力家臣(久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らが)たちが浜松に開いた寺で、のち家康の江戸入城に伴い武蔵に移ってきたといいます。転々としたのち寛永13年(1636)に本郷丸山に移され、「丸山様」の異名で通った、塔頭12ヶ寺を有する大寺でした。

寺そのものは火災後もこの地に再建され明治末まで存続し、明治43年(1910)、現在の豊島区巣鴨に移されました。

墓地には明暦の大火の死者の菩提を弔うために建てられた供養塔があります。

北町奉行の遠山の金さん・遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代墓所、日本初の通訳森山多吉郎らの墓などがある寺として有名です。こちらは「巣鴨染井散歩」でご案内しています。

江戸は火災都市で、時代を通じ30回以上の火災がありました。なかで最大のものが、徳川家綱の時代の明暦の大火でした。

功罪としては江戸の町を大改造するきっかを作り、今日も広小路というネ-ミングで残る火除地の設けられるもとになりました。

一口メモ≪江戸三大火災≫
明暦の大火・明暦3年1月19日~21日)
目黒行人坂の大火・明和9年2月29日)
文化の大火(丙寅の大火)・文化3年3月4日)

標示板には、もうひとつここで発祥した学校のことが記されています。かの女子美がここにあったとは、ちょっと意外な感じをうけます。

私立女子美術学校菊坂校舎跡   明治42年(1909)、この土地に、私立女子美術学校(現女子美術大学)の菊坂校舎が建設されたといいます。女子の美術教育にしぼった専門学校として画期的ものでした。校舎の狭さから広い土地を求め昭和10年(1931)杉並区和田へ移転してゆきました。

本妙寺坂   菊坂の通りをはさんだ反対側に上る坂もふくめてそう呼んでいたようです。坂の正面に寺の惣門があったといわれます。十字路のあたりは本妙寺谷といわれるくらい、深い谷を刻んでいたといいます。

本妙寺坂を上りきったところで左の道に入ると、ずっとさきの正面にお寺の境内がみえます。

お寺の境内に入るちょっと手前で左側をみると空地があり、展望が開けています。

そこが「文人ホテル」といわれた洋館の建物があったところです。

文人の宿~本郷・菊富士ホテル

このあたりは本郷菊坂町で、晴れた日には富士山もみえたそうです。ここからは高台の雰囲気がよくわかります。

かつては隣接する長泉寺の境内地でした。そこに明治30年(1897)、美濃大垣出身の羽根田幸之助・菊江夫妻によって、菊富士楼(下宿)として開業したのがはじまりといいます。

大正3年(1914)、上野不忍池畔で開催された大正博覧会で外人客を客を見込んで、西洋館ホテルとして新築し、その景観から名も「菊富士ホテル」と改名されました。

大正博覧会といえば大正3年の7月18日より24日まで開かれたもので、演芸館で松井須磨子が芸術座の『復活』を1日2回の割安公演をして、これがあたり、その貢献度がみとめられ、博覧会の終了後に演芸館の建物を格安に払下げてもらえました。

それによって島村抱月と須磨子は神楽坂にふたりの小劇場をもつことができた、というようなエピソ-ドもある博覧会でした。
このことは『きょうの散歩は矢来町界隈です(新宿区)・1町まるごと大名屋敷、だった!』でふれています。

見込みの外国人より、いつの間にか作家・文化人・芸術家といった人たちが長期滞在したところから、当時は「高級下宿ホテル」といヘンチクリンな名で通っていたといいます。

昭和19年(1944)、経営難で人手に渡り社員寮となり、翌年の空襲で焼けた(近藤富枝『本郷菊富士ホテル』)

つまり、ホテルとしては大正3年の開業から、昭和20年(1945)戦災によって消滅するまでの間、約30年間にわたり稼働したことになります。

宇野浩二は6年間、広津和郎は10年の長逗留をしたといいます。

それにつけても一箇所の建物の中でこれだけ密度の濃い日常が発酵され続けていたというのは、日本の文学史のなかで空前絶後のことでした。

宇野千代、尾崎士郎はここから馬込に転居し、さらに「馬込文士村」を形成する、その端緒となったところでもあります。

跡地には昭和52年(1977)、羽根田家により止宿者の名を刻んだ石碑が建立されています。

その石碑から、ここに泊まった人の名前を列記してみましょう。
石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中条(宮本)百合子、湯浅芳子、大杉栄、福本和夫、伊藤野枝、三宅周太郎、兼常清佐、菅谷北斗星、下村海南、青木一男、小原直、月形龍之介、片岡我童、石井漠、伊藤大輔、溝口健二、高柳健次郎、エドモンド・ブランデン、セルゲイ・エリセーエフ、といった止宿者の名が彫られています。

近藤富枝著『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)というのがあります。著者はホテルの経営者と縁続きだったといいます。

そこには、「大正時代を暗黒時代と考える人はもういない。それどころか昭和初頭へかけて、文学史的には最高に豊饒であり、「青鞜」の運動や、築地小劇場の開場もあり、労働運動も台頭し、あらゆる面での近代化が進み、さらにモダニズムヘの移行の見られる楽しい時代であったことが、いまは証明されている。そして菊富士ホテルの住人たちの間でかもされた雰囲気も、またそうした時代の豊かさを反映してか、自由で放縦で、ずぼらで混沌としていた。」
と、あります。
ここは明治と大正が融合し連続しながらさらなる新しいものが醸成されてゆく足場となっていました。

そのような時代、同じ敷地内に、金田一京助の下宿していた「赤心館」があり、そこに石川啄木が転がり込んできました。空地の入口右手に標示板があります。

石川啄木ゆかりの赤心館跡

長泉寺

左側が赤心館跡、正面に長泉寺

明治41年(1908)4月、石川啄木は家族を函館に残し、北海道の放浪の旅から上京、金田一京助りのところに同宿し、文学を目指して躍起となって執筆活動を開始したところです。京助26才、啄木22才のときでした。
標示板から拝借すると、

『・・・赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、「菊池君」「母」「ビロード」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。・・・収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿『蓋平館別荘跡』に移っていった。

たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず(赤心館時代の作品)』
と、あります。

長泉寺   曹洞宗の寺院です。永禄3年(1560)小石川の安藤坂の近くに開かれ、寛永13年(1636)当地へ移転してきました。壮大だった伽藍は山門を残し総て戦災で焼き尽くされたといいます。
境内が台地の突端にありますから、往時はさぞ見晴らしがよかったであろうことがしのばれます。

長泉寺の東側の道を130メ-トルほど進んだところのT字を右にとります。台町児童遊園の所で本郷児童館の前の道に進み、つきあたったら右折し、すぐまた右の路地に入ると、左手に塀をめぐらし緑をもつ木造平屋の家屋がみえます。

徳田秋声旧宅跡・終焉の地   同郷(石川県金沢)の泉鏡花の勧めで尾崎紅葉の門下に入りました。秋声は鏡花より2つ年上で、小学校は同じでした。のちに泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに覘友社の四天王、紅門の四天王と称されました。またのちには、自然主義文学の巨匠ともいわれました。

明治38年(1905)ここに一戸を構え、以後、没するまで住み続けました。『新世帯』、『黴』、『あらくれ』などといった庶民の日常茶飯を写実的に描いた作品を多く残し、未完の名作といわれる『縮図』が川端康成に絶賛されたのを最後に、昭和18年(1943)11月18日、73歳で没しました。

つまり38年間この家に住み、あらゆる代表作ははみなこの家で書かれたということになります。

ここには、日常愛用の蔵書・調度品・日記・原稿などの遺品が数多く保存されているそうです。

ちなみに、数多ある文学碑の第1号は、金沢の卯辰山の山上にある「徳田秋声文学碑」です。

秋声の旧宅を過ぎて道なりにゆくと森川児童遊園のところに出ます。ここを左に向かい「新坂」を下ると菊坂下に出ます。

新坂に下る寸前の右手に、啄木の下宿した蓋平館(がいへいかん)がありました。

蓋平館別館跡・啄木旧居跡   啄木はさきの赤心館を下宿代の滞納でわずか4ケ月で追い出されるはめになれ、金田一京助の資金援助で、明治41年(1908)、新築間もない蓋平館に移りました。3階の3畳の部屋でした。啄木は「富士が見える」と大喜びしたといいます。
当時の写真をみると、どんなにか見晴らしがよかったであろうことか想像できます。

金田一京助が自分の蔵書を売り払っての引っ越しであったという話は有名です。啄木の日記から明治41年9月6日の部分をみてみます。

「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかと言ふ。(中略)予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。
予は唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!

本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなってから荷造りに着手した。(中略)午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦らかな石甍だ。

家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。
三階の北向の室に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が店から直ちに入つてくる。」
金田一京助の友情に心底恐縮している啄木の様子がうかがえる。部屋代は4円だったといいます。

日露戦争で蓋平(中国瀋陽市)の戦場で手柄を立てた主人が、その記念に東大赤門前に蓋平館という下宿屋を始めたのが由来で、ここは蓋平館別館と呼んでいたといいます。
蓋平館は昭和10年(1935)旅館太栄館と改名したのち、啄木当時の建物を昭和29年(1954)火災により焼失してしまいました。再建されたものが近年まであったのですが、それも時代の波には勝てずということでしょうか、いまはマンションになってしまいました。

ここで啄木は創作のかたわら文芸雑誌『スバル』の発行名義人となりました。
北原白秋、木下杢太郎、吉井勇なの面々が出入りしていたといいます。
そんな日々ですが、もがきながらも赤裸々な『ロ-マ字日記』をひそひそつけていました。
すでに結婚をしていましたが家族を呼び寄せれる状況ではありませんでした。
その後運がむいてきます。朝日新聞社に夜勤の定職がみつかったことから、本郷の「喜之床」の2階に移り住み、一家団欒が実ります。
啄木にとって束の間の平安が訪れることになります。

石川川啄木の歌碑   啄木の代表歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」
赤心館時代に作った『一握の砂』所収の一首が刻まれています。

新坂を下ると広い言問通りに出ます。さらに下ると「菊坂下」の信号があります。

菊坂下信号

手前からの菊坂が菊坂下で言問通りに五流する

菊坂下の信号から菊坂が本郷3丁目のほうに続いています。

ここから菊坂の上の道を行くと左側に一葉が出入りした伊勢屋質店跡があります。

一葉ゆかりの伊勢屋質店・菊坂の家

伊勢屋質店跡   永瀬家の営んでいた質屋さんの跡です。糊口を凌ぐため生涯質屋通いをした一葉でしたが、21歳の日記にはじめてそれが登場しており、それから幾度となくあったのでしようが、最後は、死の前年の23歳の日記に記されています。

一葉は度々この伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりしました。明治26年(1893)に下谷龍泉寺町に移ってからも、ふたたび近く(本郷丸山福山町・終焉の地)にもどってからも、伊勢屋との縁は続きました。
一葉が亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことがその繋がりの深さを物っています。

質店は万延元年(1860)に創業し、昭和57年(1982)に廃業しています。店舗は明治40年(1907)に改築されていますが、土蔵は一葉のころのままだそうです。蔵と座敷に挟まれて小さな坪庭があります。

質物台帳が公開されています。

一葉の日記から伊勢屋質店での質草の様子を少しみてみましょう。

明治26年4月3日 /「空晴れに晴れて、いと心地よし。(略)この夜、伊せ屋がもとにはしる。」
このときはじめて「伊勢屋質店」の名が登場します。

明治26年5月2日/「此月も伊せ屋がもとに走らねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて…蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ」

明治26年8月6日/「夕刻より着類三つよつもちて 本郷の伊せ屋がもとにゆく 4円50銭かり来る」

以後、伊勢屋質店との付き合いはずつと続くことになります。

通常、11月23日の一葉忌のみ一般公開されていましたが、平成27年(2015)に学校法人跡見学園が取得・保存するようになり、広く一般公開されるようになりました。

無料、金曜日、土曜日、日曜日公開、12:00~16:00、03-3941-7420

樋口一葉「菊坂の家」

古めかしいボンプがみえます。路地の奥まったところに一葉の住んだ菊坂の家がありました。当時はもちろん釣瓶井戸だったでしょう。

忍び入ると、時代がタイムスリップしたような錯覚をおぼえます。
朝、昼、夜と、それぞれの生活の音や人声やつぶやきがもれてくるような一隅です、

一家が暮らした家は庭付きの一戸建てだったそうですが、当時の姿をとどめてはいません、が空想や想像がしやすい空気は濃厚に残っています。

桜木の宿の時代を経ると、樋口家は跡継ぎの兄を亡くし、父が事業に失敗し多額の借金を抱えたまま亡くなりました。

一気に生活が傾くことになりました。一葉の貧苦時代のはじまりでした。

しばらくは次兄・虎之助の下に身を寄せていましたが、母と虎之助の折合が悪く、

明治23年(1890)、一葉は母たき、妹くにの女3人で、菊坂下の借家に引っ越してきました。一葉、18歳の初秋でした。

一葉の日記はここに住んだ明治24年4月1日から書きはじめられています。

つまりは、この菊坂の家が一葉文学の発祥地と考えていいのでしょう。

『よもぎふ日記』の明治26年3月12日に、
「我が家は細道一つ隔て、上通りの商人どもが勝手とむかひ合居たり。されば口さがなきものどもが常にいひかわすまさなごとどもいとよく聞ゆる」
とあります。「上通り」とは菊坂上道の商店街のことをさしているのでしよう。

不足は借金や質入れで補った。近くの『伊勢屋質店』はなじみで、店主によく面倒を見てもらったという。ちなみに、崖上の常磐会にいた正岡子規は松山藩の給費生であったが、月額7円が給付された(明治25年)。

一葉は戸主として大黒柱となり、よそさまの洗濯や針仕事を引き受け生計を立てました。

当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15銭から20銭で、収入は3人で月5円から6円程度と計算されています。

家賃は2円50銭といいますからその生活ぶりが想像できます。たりないところは伊勢屋質店でやりくりしたということでしょう。

そうしたかたわら時間を惜しんで中島歌子の「萩の舎」へ学びを求め、小説家として一家を支えようと半井桃水に弟子入し、やがて短編『闇桜』を発表し、この地から作家をめざしました。

しかしトントン拍子には行きませんでした。このあとさらなる貧窮の時代、下谷竜泉での生活が続くことになります。

古い家屋が軒を並べる路地の奥に急な石段が、舞台の書き割りのようにあり、それを上って表へぬけられるようになっています。

上ると狭い不安定な形でそこにも家がならんでいます。背後は崖ですから異空間にいるようです。まったく日陰の町です。

庇下の狭い道をすりぬけるようにして表に出ると、そこは明るい急傾斜した坂道になっています。

坂

高台から低地に下る「鐙坂」

坂に出てほんのちょっと左手に上ると金田一親子が住んだ貸家がありました。

金田一京助・春彦旧居跡

盛岡中学時代、下級生に石川啄木がいました。

啄木は中学を卒業すると、文学をめざして盛岡から上京し京助をたずねました。

京助は啄木の無二の相談相手となり、物心の理解者ともなり、金銭的にも精神的にも、類まれな援助者となっています。

啄木と金田一京助の友情は生涯続きますが、金田一京助の助けがあったからこそ、啄木のその後の活動もあった。

逆説的にみると金田一京助がいなかったなら、石川啄木という歌人は世に生まれ得なかった、であろう。ふたりの交友を追うと、実にそれが正解のようにおもわれます。金田一京助という人間の思いやりの深さに熱いものを感じます。
金田一京助の長男春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれています。

一葉日記より
明治27年2月/「ひるは少し過ぎたるべし、耳なれたるとうふうりの声の聞ゆるにおもえば菊坂の家にてかひなれたるそれなりけり。あぶみ坂上の静かなる処ぞ真砂町32番地と人をしゆるままに、とある下宿屋のよこをまがりて出ればやがてもと住ける家の上なり」
と、記しています。一葉が菊坂から下谷竜泉に転居したのち、金策のため真砂町の久佐賀良義孝を初めて訪ねた折の記述です。

鐙坂(あぶみざか)   菊坂の狭い谷に向かって下る坂で、坂の先端が右にゆるく曲がっています。この曲がり具合が(※)鐙の形に似ているところから鐙坂となったという説と、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とかの説があります。坂の上の西側一帯は上州高崎藩・大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれ高級住宅地です。

※鐙   馬具の一つ。鞍(くら)の両わきにさげて足を踏みささえるもの。

鐙坂を下り、菊坂の下の道を歩いて、一葉菊坂の家を通り越すと、右手に炭団坂」(たどんざか)にゆく狭い道があります。

そこを通り越して少しさきにゆくと、左手に上の道にのぼる石段があります。

石段下の南蛾にあったのが下宿屋の稲垣家でした。

宮沢賢治旧居跡   大正10年(1921)1月23日午後5時12分発の夜行列車に乗って、25歳の賢治は岩手の花巻を着の身着のまま、家出同然に出奔して上京、ここに下宿を定めました。

稲垣方の2階の6畳間。ここから東大赤門前の印刷屋に通い、筆耕、校正の職を得て自活。余暇には日蓮宗の街頭布教に精を出したといいます。

『床屋』、『どんぐりと山猫』などの童話はここで書かれたものといわれます。

しかし8ケ月のち、最愛の妹(トシ)の病状悪化という緊急な知らせで花巻に帰ることになりました。

手提げたトランクには一杯になるほどの原稿が入っていたといいます。

家出の理由は父の浄土真宗的世界と、賢治の日蓮宗的行動との確執といわれています。

炭団坂

炭団坂 坂下が菊坂下の道

賢治旧居跡から少しもどり、さきの「炭団坂」への道に入ります。

仰ぎ見るような段々を上る雁木坂です。菊富士ホテルのときもそうでしたが、まったくあそこと相対する光景です。

ここでも菊坂の低地と高台との落差が如実にみられます。菊坂がいかに谷間の町であるかが俯瞰できます。

炭団坂   本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりに転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。

※炭団   炭の粉を丸めかためた燃料。火もちがよい。「豆炭」、「豆炭あんか」などというものもありました。今では懐かしいもののひとつです。

坪内逍遥邸

右手が坪内逍邸跡

坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から明治20年(1887)まで住んでいました。菊坂が見下ろせる高台です。

坪内逍遥新居兼寄宿舎跡   当時、東京専門学校(のち早稲田大学)の講師であった坪内逍遥はここ住宅兼寄宿舎を新築しました。世に知られる「小説神髄」や「当世書生気質」(とうせいしょせいかたぎ)はここで創作されたもので、シェークスピアの翻訳にも取り組んでいました。

旧伊予藩久松氏の育英館「常磐会」跡   逍遥が引っ越したのちは旧伊予藩久松氏の育英館「常磐会」という寄宿舎になりました。つまり官費による一高・東大をめざしす若者たちの寄宿と支援です。猛烈な受験勉強をがここで行わました。

俳人・正岡子規は明治16年(1883)、17歳のとき上京し明治21年(1888)この寮に入り、翌年、ここではじめての吐血をしました。「泣いて血を吐く不如帰、子規の雅号はそれ以来のことといわれています。

上京時は親類のところで寄宿していましたが、「常磐会」ができると、松山藩の給費生となり、寄宿生として転居してきました。

明治24年(1891)、駒込に移るまで、ここで過ごしています。

それから翌年の明治25(1892)年に下谷の根岸に移り、かの「根岸庵」で本格的な活動をすることになります。

一葉のライバルで「萩の舎」の親友に田辺花圃(たなべ・かほ)がいました。
花圃は明治21年(1888)、21歳のとき、坪内逍遥の指導のもと「藪の鶯」という作品を発表し、才媛として名を高めてゆきます。一葉の心中に穏やかならぬものがあったでしよう。

『藪の鶯』は逍遙の序文、中島歌子の序文をつけ出版されました。原稿料は33円20銭だったといいます。当時としてはすごい大金です。
一葉の心にもただならぬ揺らぎがあったことでしょう。
そんなとこから、明治24年(1891)4月15日、一葉は妹の友人・野々宮起久(ののみや・きく)を通じ、半井桃水(のちに恋人)に指導を依頼することになります。
このあたりは「駒込・吉祥寺散歩」のときにゆっくりご案内したいとおもいます。

以下は、少しばかり長くなりますが、司馬遼太郎著『街道をゆく』の「本郷界隈」によるものです。

『逍遙にとっても、日本文学にとっても、この家での三年間は重要であった。明治17年に入居して、 その翌年に、近代文学の理論書ともいうべき「小説神髄」を書き、さらにその理論の実例ともいうべき「当世書生気質」を書いた。
ついで、訪ねてきた二葉亭四迷(1864-1909)に対し、言文一致の小説を書くようにすすめ、四迷がそのとおりにして「浮雲」が世に出た。この家は、明治の近代文学の揺籃(ゆりかご)だったといっていい。』

「春のや(春廼舎)」と呼ばれた。逍遙は東大在学中二度落第した。その頃は、八畳一間の神田猿楽町の下宿に住み、受験生を預かって教えていた。その教え方が丁寧で、それが縁で、受験生の親が、「先生、ぜひ一軒の家をお持ちください」と寄宿学校のような家を建てて、逍遙に無償進呈した。それが、他ならぬこの家である。
この家で、逍遙は根津遊郭大八幡楼の遊女「花紫」を落籍して、奥さんとして終生変わらぬ愛をもち続けた。長谷川如是閑が、この周辺を「春さきには谷間の鶯の声が聞かれて・・・」と自伝に書いている。

明治22年、逍遙は牛込へ転居した。逍遙が去った後は旧松山藩の育英組織である「常磐会」が買い取り、旧藩出身の書生のための寄宿舎とした。そこへ正岡子規が入舎して 「梅が香をまとめておくれ窓の風」と詠んだ、・・・」

高台を先に進むと真砂中央図書館のはす向かいにレンが塀のある日本家屋があります。

諸井邸   大正・昭和期の大実業家、諸井恒平(もろい・つねへい)邸です。門の脇に長屋が附属しているので、いっけん武家屋敷かとおもう。木造2階建、寄棟造、瓦葺。建築年代は明治39年(1906)ころといわれます。

※諸井恒平   秩父セメント(現太平洋ケメント)の創業者。セメント王といわれます。渋沢栄一(青淵)とは縁戚関係にあり、渋沢栄一らによって設立された「日本煉瓦製造株式会社」の取締り役に推薦され、めきめき頭角をあらわしたといわれます。のとに秩父セメント(現太平洋ケメント)の創業者となり、日本の「セメント王」といわれました。

恒平の子・作曲家の諸井三郎、孫の諸井虔らもこの家で育っています。指揮者の尾高尚忠・惇忠・忠明一家とも遠縁にあたる家系です。

そのさきにあるのが、

文京ふるさと歴史館   平成3年(1991)開設された。文京区の歴史や文化財などを多面的に公開、紹介しています。キャラクタ-の「ブンタ」はタヌキ。なかなか可愛いです。

100円・団体(20人以上)70円、10:00~17:00、毎週月曜日、毎月第4火曜日(祝日にあたるときは開館し翌日休館)、03-3818-7221

旧真砂町   由緒のある町名でしたが昭和40年(1965)に消滅し本郷5丁目になりました。以下、説明標示に頼ります。

「寛永(1624~44)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。明治2年、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。浜の真砂のかぎりないようにと町の繁栄を願って命名した。明治5年には、松平伊賀守(信州上田藩・5万8千石)屋敷や、松平右京亮(上野高崎藩・8万2千石)の屋敷などの武家屋敷跡を併せた。右京亮の中屋敷跡は右京ヶ原(右京山とも)といわれ長らく原っぱであった。富田常雄 の名作『姿三四郎』の三四郎と源三郎の対決の舞台となった。真砂町は、泉鏡花 の『婦系図』恩師酒井先生の”真砂町の先生”でよく知られている。」

道は広い春日通りに出ます。信号は「真砂坂上」です。

信号を渡った左手に理髪店があります。かつて「喜之床」という理髪店がありましたり。

石川啄木ゆかりの「喜之床」

明治42年(1909)の3月1日、23歳の啄木は朝日新聞社(校正係)に入社、『二葉亭全集』の校正を行うことになり、生活の安定が得られようになりました。

そこで心機一転という気持ちで、
明治42年(1909)、さきの蓋平館から、新築間もない床屋「喜之床」の2階2間の貸し間に引越してきました。
これまでの引っ越しとちがうのは、ひとりでなく、一家団欒のはじめての家族生活でした。

明治43年9月にはここに本籍を移しています。それほどのものでした。
同月、朝日新聞に「朝日歌壇」が設けられるとその選者を務めることにもなりました。

10月には長男真一が生まれました、がその喜びもつかの間、生後24日で夭折してしまいました。

悲しみの中で、12月1日、東雲堂書店より啄木の名を不朽にした処女歌集『一握の』」が出版されました。

我が子の死を哀惜した歌を「真一八首」を最後に挿入しました。挽歌です。

「夜おそく つとめ先よりかへり来て 
今死にしてふ児を抱けるかな」

「おそ秋の空気を 三尺四方ばかり吸ひて わが児の死にゆきしかな」

「真白なる大根の根の肥ゆる頃 うまれて やがて死にし児のあり」 『一握の砂』

長男真一への哀切極まりない啄木のふるえと深い慟哭が伝わってきます。

歌集の冒頭は、
「函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君」ではじまり、
「この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。」
となっています。

歌集は評判をよびました。

旧制盛岡中学校の後輩であたる宮沢賢治は、そのときだ学生でしたが、この時期に短歌創作を始めており、おおよそ啄木の影響と推察されています。

啄木にとっては充実した一時期でした。生涯の中で最も優れた作品が次々と生まれたところでした。

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」

こうした心中流転するところに、明治44年2月、若山牧水が尋ねてきたりしています。

しかし平安は長くは続きませんでした。
自分と母と妻の病(結核から)で2階の上りおりがきびしく、また病が露呈、家賃滞納などがおり重なりここを出てゆかざるをえず、急ぎ小石川久堅町に貸家を求め移り住むことになります。
明治44(1911)8月7日のことでした。

これからさきは啄木終焉の地に続くのですが、それは「小石川・播磨坂散歩」でご案内いたします。

※『喜之床)』は明治末期の典型的な店舗家屋として貴重なことから、昭和53年(1978)、岐阜県犬山市の明治村に移築されました。

大正10年(192)年6月に執筆された『床屋』は、傍題に「本郷菊坂町」と記された小品ですが、中でのセンダート市の床屋はこの「喜之床」の床屋に通 じるものがあるようです。そんなこしも想像してしまいます。

さて、いくぶん長い文学散歩のようなものになりました。それにしてはまだまだ案内たらずのところがありますが、ご勘弁ください。

ここからの最寄駅はスタ-ト地点の地下鉄・「本郷3丁目」駅です。

では、きょうの散歩はこれにて終わりにいたします。

それではまた。

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