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今日の散歩は青山通り・246号の界隈(千代田区/港区)・大山詣での道!

江戸時代には「大山参り」という宗教信仰が関東一円で一大ブ-ムを巻き起こしました。
相模国(神奈川県)の大山に上り阿夫利神社(あふりじんじゃ)の下社・上社に詣でることが江戸ッ子のあこがれとなりました。

しかし、江戸っ子は信仰と同じくらいにレジャ-好き。江戸から2、3日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。つまり大山に参拝した後に江の島、鎌倉などへ行楽するプログラムがその旅程に組み込まれました。

こうした様子は古典落語「大山詣り」の中にも描かれています。

まあ、そんなことから信仰と行楽を背中合わせに、大山参詣は俄然、脚光をあびました。大山へ至る道は「大山街道」「大山道」と呼ばれ、各地からアクセスする道が生まれました。そんな数あるル-トのなかで、本道とされた街道が、「赤坂御門」(赤坂見附)を起点とした大山街道でした。
今日的には国道246が通称となっています。

というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

長い大山街道のちょこっと散歩、青山通り編です!

地下鉄・南北線の「永田町駅」(半蔵門線も乗り入れています)、9A出口から地上に向かいましょう。きょうの散歩はここから歩きはじめます。

地上に出ると「諏訪坂」が走っています。旗本・諏訪氏の屋敷のあったことが名の由来といいます。諏訪坂を右にちょっと下ると広い246号(青山通り)にぶつかります。

道を隔てた向かい側に見えるのは衆議院議長公邸です。地図を俯瞰するとえらい敷地を占有しています。江戸時代には出雲松江藩・松平出羽守の1万坪の上屋敷がありました。通称、「雲州屋敷」と呼ばれていました。

赤坂御門

右手にがっしりした石垣の遺構が残されています。丁寧な説明板も備えてあります。「赤坂御門」の石垣です。同じようなスタイルの石垣が左側にもあったわけですが、明治5年に門が撤去され、その後の道路整備で解体されてしまいました。

いまは国道になり、そのあたりは片側に残る遺構をもって補うしかありません。このように、歴史遺構を含みとるには大方が想像力ということになります。そんな想いでみると凄い構えだったことがわかります


四面を石垣で頑丈に囲み、出入り口を二ケ所設けた形の御門を「桝形御門」と称されていました。つまり、囲みの中が桝の形をしているからなんです。江戸城をとりまく御門(36見附とかいわれますが)は、大なり小なり、ほぼこの形式をとっていました。大手門、桜田門、半蔵門…然りです。コ-ナの一角に丁寧な説明板があります。

赤坂門御門は寛永13年(1636)に、筑前国・福岡藩主の黒田忠之が築いたものといいます。ここで江戸城の西の守りを固めたわけです。江戸幕府はこのように御門建設の多くを、各藩に割り振って工事を担わせていました。藩としてはかなりの財政負担となりました。

さあここで西のほう、赤坂見附駅方面をのぞむと国道246号は「赤坂見附駅」方面に下っています。これがかつての大山街道です。つまり「国道246号」。

大山街道はこの「赤坂御門」を起点に、青山、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て、「二子の渡し」で多摩川を渡り、溝口、厚木、伊勢原(大山)へと至り、さらには秦野、松田を経て、矢倉沢関所を抜け沼津で東海道に続く街道でした。時代をグ-ンと遡ると、古い東海道に重なる道だったといいます。そんなことから「大山道」「大山街道」のほか「矢倉沢往還」とも、青山を通るので「青山通り大山道」とも言われていました。

歩きはじめて下る坂ですが、正面遥かに富士山が望めたことから「富士見坂」ともいわれていました。また、「赤坂」の「坂」は、ここだという説もあります。右手下に「弁慶濠」がみえてきますが、この名称は義経・弁慶にはかかわりありません。大工の棟梁・弁慶小佐門の名からきています。江戸城の外堀として強固に整備されたものです。


この赤坂御門には他の御門にならうとひとつだけ違う面がありました。通常は御門を出たところに橋か堀が必ず設けられていたのですが、ここにはそれがありませんでした。

左手にあった溜池、右手の弁慶濠、このふたつの池を連結させたかったのですが、御門が高台にあることや、岩盤が堅かったことなどが相俟って開削が難しかったようです。そんなことから枡形門に付属する橋が架けられなかったといいます。

左手に「溜池」が大きくひろがっていた時代があったことを想像してみてください。いまは何の跡形もないです。地下鉄の「溜池山王駅」にその名が残るだけです。

德川家康が武蔵国に入った江戸の初期には、この溜池の水を生活用水・飲料水に用いていたといいます。ちょっと信じがたいです。人口の増加で、飲料水がたりなくなり、神田上水、玉川上水と開発されることになるわけです。

坂を下り終えると右手に、「弁慶橋」が架かっています。この橋の名もさきの弁慶小左衛門に起因しています。弁慶小左衛門の設計・築造による橋が神田の藍染川に架かっていたそうです。その橋が撤廃されました。

明治22年(1889)、その廃材をもって架橋したのが弁慶橋だといいます。現在の橋は昭和60年に架橋されたものです。欄干の擬宝珠がいまでは実にモダンですね。

江戸期には橋の向こう、右手に紀州・徳川が、左に彦根・井伊、ここからは望めませんが、四谷の上智大学のところに尾張・徳川の屋敷が隣接、三つ巴でした。つまり三家の頭文字をとって「紀尾井」で、「紀尾井町」の起こりとなっています。

相模の大山   伊勢原市・秦野市・厚木市の境にある標高1252メ-トルの山。関東百名山の1つでもあり、別名「雨降山」とも呼ばれていました。

古くから神が宿る霊山として崇められ、雨乞いに祈願されていましたが、五穀豊穣や商売繁盛にも御利益があるとされ、それにくわえ、帰りがけに江の島などの観光地を回遊しても、江戸から5日程度。レジャーも兼ね気軽に出かけられたことが、粋で遊び上手な江戸っ子たちの心を捉えjました。

江戸時代に入ると、大山に参詣する「大山講」(注)が関東の各地で組織され、大山の門前には参詣者を泊める宿坊が軒を連ました。最盛期の宝暦年間には、年間20万人が参詣したといわれます(江戸の人口は約100万)。

赤坂御門

赤坂御門跡から望むと、左手をまっすぐに延びるのが246号(大山街道)。坂を下ると「赤坂見附)駅前でS状で回り込む。昔の「鍵の手」です。

大山街道は弁慶橋のあたりで左にカ-ブ、それからまた右にカ-ブという形をとっていました。いまは雑然として、やや変則になっていますが、今も昔のように「鍵の手に」曲って青山通りを坂上るというようになっています。

しばらくすると左側に、「一ツ木通り」の商店街が続いています。古くは「人継」だったとか。いかにも人の往来を感させます。だとすると昔も今そうもかわらないようですね。

一ツ木通りを入った右手に、赤坂不動尊(池見)こと智劔山威徳寺があります。ちょっと前までは高台にありましたが、すっかりかわってビルの一階に鎮座しています。

元和8年(1622)開山された真言宗の寺。昔は眼下に溜池、その向うに星ヶ岡の緑、遠く愛宕山までのぞめる風光明眉な地だったようです。大山参りのつもりで、きょうの安全をお祈りしましょう。

由緒の栞によると、本尊の不動明王像は延暦寺の開祖・最澄(伝教大師)作。大震災や東京大空襲など古今の災禍を免れた霊験あらたかな不動尊で、厄除けの神様と崇められてきました。廷暦24年(805)大師が唐より帰国の途中、暴風雨のため船が沈みそうになり、自作の不動明王像を海に沈めて祈願し無事帰国したと伝えられています。

慶長5年(1600)、住僧・良台は本尊の夢のお告げにより、武蔵国荏原郡一継(一ツ木)の地に寺を移転、眼下に溜池を望む霊地であったことから池見山阿遮院と号したといいます。その後、紀州徳川家の祈願寺となり、広く人々にも信仰され大いに栄えたといいます。内陣には紀州家奉納の厨子や仏具などがあるようです。

ふたたび246へもどりましょう。120メ-トルほど歩くと左にカ-ブして上る坂道があります。「牛鳴坂」という名称がついています。

明治以降、街道が直線に改修されたとき残ったもので、赤坂から青山へ抜ける旧大山道で、薬研坂(赤坂7丁目)付近まで続いていました。

悪路で荷を引く牛が鳴き苦しんだと伝えられ、別名「さいかち坂」ともいわれたようです。サイカチ(皁莢)が繁っていたのでしょう。さほど難儀な坂ではない。逆に牛がのどかに鳴くような牧歌的な坂だったのではないでしょうか。400メートルほどで246に合流しています。

ここで牛鳴坂へは進まず、直進した先の246をまたぐ歩道橋を渡り「豊川稲荷」にお参りしましょう。

門の横丁から下る坂は「九郎九坂」(くろくざか)。江戸時代に一ツ木町名主・秋元八郎左衛門の先祖・九郎九が住んでいたことからと説明されています。鉄砲練習場があったことから「鉄砲坂」ともいわれたとあります。

赤坂の(※)「豊川稲荷」は、愛知県豊川市にある妙厳寺が直轄する東京・赤坂豊川稲荷別院となっています。
北町奉行・大岡越前守忠相は、妙厳寺(愛知県豊川市の豊川稲荷)の第19世・哲翁萬牛禅師に帰依し、自邸内に豊川稲荷社を祀り深く信仰し、政務を遂行したとされます。

(※)順徳天皇の第三皇子・寒厳禅師が最初に感得されたという、稲穂を荷い白狐に跨った豊川咤枳尼真天(とよかわだきにしんてん)という霊験あらたかな仏法守護の善神。

稲荷

豊川閣妙嚴寺豊川稲荷東京別院   曹洞宗で正称は「豊川閣荼枳尼真天堂(ほうせんかくだきにしんてんどう)といいます。徳川吉宗に登用され大岡越前守忠相は、三河西大平(愛知県岡崎市)を知行しました。

文政11年(1828)、忠相の子孫が歴代の武将に尊崇された妙嚴寺(豊川市)の山門鎮守として祀られていた茶枳尼真天の分霊を、赤坂一ッ木の下屋敷内に勧請したのが赤坂豊川稲荷のはじまりとされます。

翌年から邸外一般の参詣にも応えました。虎の門の金比羅・赤羽橋の水天宮・新橋の塩竈社などと同様、当時の流行に従ったものでした。。本尊は千手観世音菩薩ですが、鎮守の「荼枳尼真天」、稲荷の方が有名になっています。神仏混交のまま残った稀な寺院です。

本殿には本尊は豊川荼枳尼真天を祀り、左右に十六善神、愛染妙王、摩利支天を配す。奥から内陣、般若殿(祈祷殿)、施主殿、拝殿と四つの部屋に区切られている。拝殿には大黒天も祀られている。

一般的にお稲荷さんというと、伏見稲荷(神道系)の「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」が多いですが、それとは違うので混同しないように。こちらは仏教系のお稲荷さんです。

境内は様ざまなポ-ズをした石造りのお狐さんと小ぶりの稲荷社で埋め尽くされています。ざっとみると、
「融通稲荷」(金銀財宝の融通が叶えてくれる)、「叶稲荷」(すべての禍事災難を取り除いて、開運招福を授けてくれる)、「太郎稲荷」(健康を守ってくれる)、「徳七郎稲荷(円満な対人関係をもたらしてくれる)とあります。

融通金の袋の裏に記されてある「融通稲荷縁起」
「御本体は豊川吒枳尼真天の左御手にお持ちになっておられる如意宝珠で一切の願いが意の如く叶うという摩訶不思議な宝珠でであり、尊天様の福徳自在のお働きをお役目とされております。

「抜苦与薬」と申して苦しみを排して楽しみをもたらし其の上に諸々の融通が叶えられるところから、これを称して融通稲荷と申すのであります。お受けになられた融通金は、後に礼金を附して奉納するならわしになっております。常に財布の中へ入れて大切に祈念してください。」

「大岡越前守忠相公御廟」の説明板から  本尊・豊川荼枳尼真天(大岡家所仏)/脇尊 大聖文殊菩薩/大乗普賢菩薩/中央 大岡越前守真牌
大岡越前守忠相公(1700~1751)は、三河豊川妙巌寺十九世万牛(哲翁)に参じて禪義を證得、邸内に豊川社をまつり深く信仰し、常に霊告により公明なる裁断をを下し名奉行の名、今に伝う。明治九年赤坂一ツ木の大岡家より妙厳寺へ豊川社を奉納、明治二十年現在地へ移転、愛知県豊川閣妙厳寺直属別院となる。昭和二十年五月大東亜戦争戦災に罹り、諸堂焼失す。昭和五十二年九月小野崎公吉翁の大願を発し信心を披歴して廟堂壱宇を建立寄進す。乃ち大岡家所在の豊川荼枳尼真天をここに遷座し、中央に公の真牌をまつり、両脇に文殊普賢の二尊を安座す。これ大岡公奉持の信徒をして、大智具足、願行圓滿ならんことを祈るのみ。行年75歳。

境内にはこんな植樹があります。

花の高三トリオ卒業記念植樹(山口百恵・桜田淳子・森昌子3人が人気絶頂期に植樹)
山口百恵 卒業記念植樹  昭和52年1月3日 山茶花

桜田淳子  卒業記念植樹  昭和52年1月9日 木蓮

森昌子 卒業記念植樹  昭和52年1月9日 泰山木

お参りが終わったら裏門から246の通りに出ましょう。すぐ右手の下り坂は「弾正坂」。坂の西側に代々にわたり弾正大弼(だいひつ)に任ぜられた吉井藩・松平氏の屋敷があったことから坂名となったと説明されています。

この坂を境に迎賓館が青山方面に延々と続いています。かつては紀州徳川家の江戸中屋敷でした。

赤坂警察署前の信号で246をわたると、左手角に羊羹で有名な「虎屋」、虎屋黒川があります。虎屋は京都で皇室御用達となっていた老舗で、いまもも宮内庁御用達です。

虎屋の後背ビルに美喜井稲荷」(みきいいなり)という小さな稲荷の社が、外階段から上る二階の狭い一角に窮屈そうに鎮座しています。掲示には「ご守護神は京都の比叡山から御降りになりました霊の高い神様です。神様にお願いする方は蛸を召し上がらぬこと。」とあります。

正式には「 美安温閣美喜井稲荷大明神」。通称「ネコ稲荷」と申すらしいです。建物名は『美安温閣』(みやおんかく)とか。ニャオ~ンの響きがします。こだわってるようです。それにしてもどこのどなたが管理しているのか。稀なるお稲荷さんです。

弾正坂を上ると「山脇学園」の降車にぶつかります。牛鳴坂の旧街道すじです。ここから左へ150メ-トルほど歩くと、校門があります。山脇学園の中学校・高等学校・短期大学の正門です。

ドイツ法学の第一人者であった山脇玄(ドクトル、法学博士)によって「高等女子實脩学校」として明治36年に創設されました。創立者山脇玄は、日本で最初の婦人参政権に関する演説を行い、婦人の地位向上に努めた人でした。

正門として「志の門」(武家屋敷門)があります。
建物は大名小路(千代田区丸の内)にあった岡崎本多家の表門でした。

明治になり、司法省の門、海軍予備校の門(海城中学校)、藤山雷太の自邸表門(現在は都ホテル)と再々にわたり移築され、最終的に千葉県九十九里町に移築されていました。実長120メ-トルにも及ぶものでしたが、門と左右の番所のみが移築されました。平成26年12月工事着工、同28年9月28日竣工しています。
構造は入母屋作り片流れの長屋門、両出番所付き総本瓦葺き。通常は通り抜け出来ませんが節目となる学校行事に際しては正門として使用しているそうです。

正門から校舎に沿って100メ-トルほどのT字路で左折してまっすぐ歩くと「丹後坂」の角に出ます。急な石段が谷側に続いています

元禄(1688~)のはじめに開かれたとされる坂。坂名は坂の東北側に武蔵金沢藩主・米倉丹後守の邸があっことによると説明されています。

石段を下りるとT字路で、幅の狭い通りが左右にが通じています。この通りは古く「黒鍬谷」といわれた谷間でした。黒鍬谷とは、(※)「黒鍬組」の組屋敷があったことから呼ばれた地名で、坂の上を丹後台、坂下は黒鍬谷と呼ばれていたようです。

(※)黒鍬之者   「黒鍬同心」とも呼ばれた。本来は黒鍬を使い道路の土木工事に携わった御家人であるが、平時は江戸城の整備・防火・土普請・掃除・荷物運搬・雑役などに専従にしていた下級の武士のことです。

T字路を右にまがり一つ目の左路地を入り、くの字曲がりにゆくとやや広い道にぶつかります。「圓通寺坂」の通りです。ここを右にゆき一つ目の横丁(鈴降横丁)をはいると「鈴降稲荷神社」という稲荷社があります。ビルと民家の間にある小さな社です。でも由来をみると創建の歴史はすごいです。

「花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。

又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。

家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。」(掲示より)

元禄8年(1695)、四谷仲殿町から、ここ一ツ木に遷座されたといいます。当時の別当・鈴降山神宮寺願性院は、毎年正月4日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上するため登城する慣わしがあったといいます。大正14年(1925)に赤坂氷川神社の境内稲荷社へ合祀されてしまいました。

圓通寺坂を上って行きましょう。南に長い一方通行で「薬研坂」へと通ずるきつい坂です。

このあたりも谷間だったことが左手の階段をみてもわかります。

坂の途中に「円通寺」があります。「切絵図」をみると、圓通寺のほかにもいくつものお寺があったことがわかります。

日蓮聖人が滞在中、日法上人が作られたという日蓮の等身大に近い木像三体が安置されています。江戸三祖師のひとつで、江戸時代から「願い事がかなう寺」として信仰を集めてきました。また「時の鐘」を撞いた江戸7ケ寺の一つでした。鐘楼に吊されている鐘は、昭和18年に金属供出にあい、その後方不明になっていたのですが、昭和50に発見され、奇跡的に戻ってきたものといわれます。

江戸時代に(※)日朝さまを祀る「日朝堂」が境内に建っていましたが、今は本堂(祖師堂)にま祀られています。
(※)日朝さま   生涯を身延山のために尽くされ、昼夜絶え間なく精進したため眼病を悩まされ危うく失明するところでしたが、法華経の功徳を積んで、清浄の肉眼と心の眼を開かれたので「眼病守護の日朝さま」と崇められるようになりました。

以来、日朝堂は「目の神様」「学業の神様」として親しまれました。乃木大将は住いがほど近くでしたので、学習院長のこは圓通寺へ日参されたと伝えられています。

圓通寺はまた、落語『景清』(かげきよ)」の舞台ともなっています。要約こんな感じです。八代目 桂文楽の噺、「景清(かげきよ)」落語の舞台

腕のいい木彫師の定次郎はふとした事から目が見えなくなってしまった。
通院していたがお医者さんにも見放された。

そこで、信心で治るものならと、赤坂の円通寺の日朝さまに日参し、今日が満願の日、確かに御利益があったとみえて、
眼にっすら光を感じるようになってきた。一生懸命「南無妙法蓮華経」を唱え続けた。

すると、隣にひたすら願掛けするご婦人。そこであれこれちょっかいを出したものだから、信心が浮いてしまった。
と、する間に、見えかけていた目が真っ暗になって、前より悪くなってしまった。

「エイッ、ヤキモチもいい加減にしろ」と、啖呵を切って帰ってしまう。というような一席になります。

薬研坂

円通寺坂の坂上あたりからの薬研坂。青山通り方面。

圓通寺坂を上りおえると、「薬研坂」(やげんざか)にぶつかります。ここから246方面へと急な坂が下って上っています。交通量も多いためドライバ-泣かせの坂道となっています。

中央が凹み、漢方の薬種を砕く薬研という道具に似ているところから、その名がついたといいます。さきの黒鍬谷のV字谷を横切る形になっています。

坂名標柱の説明には「付近住民の名で何右衛門坂」とも呼んだ」とあります。この「何右衛門」て何者なんでしょう。

黒鍬谷へ

黒鍬谷へ下る

黒鍬谷へも道が下っています。こうみると黒鍬谷がいかに深かったかがわかります。その坂の途中右手に「末広稲荷神社」があります。元は江戸城の吹上御苑に祀られていた火伏稲荷だったのですが、この一帯に居住した黒鍬同心に与えられ、ここに遷座したのだそうです。

青山通りを15メ-トルほど歩くと「草月会館」が左手にあります。。

草月会館は草月流の本部。美術館では創始者・勅使河原蒼風の遺作とか、生前蒐集したピカソ、フォンタナ、ウォ-ホ-ル、岡本太郎らの現代美術コクションも収蔵している。

草月会館の隣には「高橋是清記念公園」があります。高橋是清(嘉永6年・1854~昭和11年・1936)の私邸でした。面積約5.320平方メートル.

明治11年(1878)ここにに赤坂区役所が設けらました。明治24年に役所が移転したあと、明治35年(1902)に高橋邸が建てられました。

昭和11(1936)2月26日の「二二六事件」で暗殺されました。ここは高橋是清終焉の地でもあります。

昭和13年(1983)、死後、私邸と敷地が高橋是清記念事業会により東京市に寄贈さりれ、昭和16年(1941)に記念公園として開園されました。

昭和16年、主屋部分は多磨霊園に移築され、休憩所「仁翁閣」として使用された後、平成5年(1993)「江戸東京たてもの園」に移築されました。ほかの建物は空襲によりほとんど焼失しています。

昭和25年(1950)、港区に移管され今日に至っていますます。

風貌が達磨さんに似ていたことから「だるま」宰相として親しまれた。大正時代から昭和初期にかけ第20代総理大臣、蔵相を7回務めた。銅像は昭和30に建造された。

小さな池、石橋、石灯籠、石碑などが配置され、日本庭園の趣があります。

2・26事件の暗殺現場
昭和11年2月22日、第1師団所属の青年将校の中に、政治家・官僚・軍幹部・財界の腐敗堕落に業を煮やし、昭和維新を叫ぶ者たちがいた。彼等をして秘密裏に計画されたたク-デタ-が決行された。2・26事件である。

事件は失敗におわるが、このとき高橋是清は自邸において青年将校に暗殺されました。享年81歳。

園内ではあじさいが初夏を彩ります。秋はイロハモミジ・ケヤキなどの紅葉がみられます。あちらに、こちらにと朝鮮の(※)石人像の配されている。高橋翁がコレクションしたものでしょう。

(※)朝鮮石人像  朝鮮における、墓の守護神。

高橋是清記念公園の左手から庭園の裏をコの字型にぐるっと回ってみましょう。さこのあたりの地形がよくわかり、都心とも思えない静けさに出会えます。

公園の西南角で「新坂」(にいざか)の通りに出ます。元禄12年(1699)に新しく開かれた坂ということで新坂というのだそうです。

新坂を下らずに青山通りのほうに向かいましょう。

青山通りに出る右角に「カナダ大使館」があります。大使館もかつては高橋邸の一部でした。

青山は大名の青山家の広大な下屋敷があったことに由来しています。のちに屋敷の北部は町屋となり、各町が青山家に敬意を表して青山を町名に冠したことから地名としての青山は始まったといわれます。

青山忠成は幼少のとき徳川家康の小姓を努め、後には秀忠の養育係として徳川家に仕えた。天正18年(1590)小田原役の時には江戸に先発して家康の江戸入府の準備に力を尽くした。

ある日忠成が家康の鷹狩りに随行ました。そのとき家康は忠成に向かって「馬に乗って一回りして参れ。その輪内の地を屋敷地として与える」といった。そこで忠成は馬が瀕死してしまうのではないかと思うくらい駆けまわり、広大な土地を賜った…と語り伝えられています。
新宿一帯を賜った内藤清成にも同様の話が伝えられています。が、大方はどちらも疑問詞つきの伝説のようです。

青山一丁目交差点に到着しました。すぐそこが地下鉄「青山一丁目」駅です。
青山ツインタワ-ビルがあります。ワタシが講師をつとめている「NHK文化センタ-」の本部と「青山教室」がこのビルの中にあります。

さて、今日の散歩はいかがでしたか。「大山街道」のほんのさわりのコ-スですが、このような信仰文化の道が国道246であったということは認識いただけたのではないかと思います。

では、きょうの散歩はここで終わりにいたします。

PR・「毎日新聞旅行」

2020年1月から10回で「大山街道」を歩いております。ご興味があったらご参加ください。(コロナの関係で行程がそれぞれ先のばしになっております)
9月・10月・11月と復活しております。

まいたび

 連絡・お問い合わせ 03-6265-6966

 

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