今日の散歩は八丁堀・下町ダウンタウン(中央区)・チャンバラ時代劇でおなじみ与力、同心の町!
江戸の八丁堀…。
といえば、町奉行所の組屋敷があり、与力、同心が住んでいた町として知られており、時代小説や、映画やテレビの時代劇ドラマの舞台として登場することが多い。
寛永年間(1624 ~1645)、通船の便をはかり江戸湊の河口より長さ八丁の水路を掘り割ったことから名づけられたもので、その八丁堀を中心とする一帯が俗に「八丁堀」と呼ばれるようになった。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文で届けします。
今日の散歩は八丁堀・鉄砲洲稲荷の界隈(中央区)・江戸湊に近い与力、同心の町!
ちなみにこのコースは他のコースとジョイントできます。ワイドで広域なお散歩もどうぞ!
*ジョイント①『霊岸島』界隈
*ジョイント②『兜町・茅場町』界隈
コースの各所からそのままジョイントできます。
八丁堀・人工の掘割でぐるり囲まれた江戸市中でも異色なダウンタウン!
このあたり一帯は芦の生い茂る遠浅の海が広がる江戸湊内の洲だったといいます。家康は江戸に入府すると、すぐ土地拡大のためこの洲を埋め、平らな土地を造成しました。
八丁堀 いまもある日本橋川と亀島川、首都高速都心環状線となっている元の楓川(もみじがわ)、それと八丁堀(桜川)。これらの川に囲まれた範囲が凡そ「八丁堀」の町域でした。
幕府は享保4年(1719)、それまで寺社地としていた八丁堀一帯に南北両組の与力・同心の組屋敷を集結させたといいます。それ以来、本八丁堀河岸から茅場町方向一帯にかけ、江戸町奉行所の与力、同心の組屋敷が集中するようになりました。
今日の町名でいえばいまの八丁堀に、日本橋茅場町と日本橋兜町の一部を含ませた広い範囲を通称したものでした。
地下鉄日比谷線・八丁堀下車。
与力・同心の組屋敷があった時代の目貫通りを歩いてみましょう。
と、いって格別に何があるわけでなく、何もないといったほうがいいかもしれません。
記憶にあるドラマ世界を引っ張りだすか、空想で埋めるか、自由度は100%あります。
八丁堀交差点 地下鉄日比谷線の八丁堀駅は、東西にのびる鍛冶橋通り(八重洲通り)と南北に走る新大橋通りの交差点付近に位置します。サラリーマンが多く行き交い、クルマの渋滞も激しいところです。
組屋敷エリアに行く前に亀島川に架かる亀島橋のほとりまでチョト足をのばします。
亀島橋 亀島川に架かる橋で、架橋は元禄15年(1702)ころだと考えられ、名称は亀島川に架かる橋なので亀島橋としたとの記載があるようです。橋の上を八重洲通りが通じています。
亀島川 日本橋川との分岐点にある日本橋水門から分流し、河口の亀島川水門で隅田川に合流しており、 約1キロメールの流路に5つの橋が架かっています。
橋向こうの新川は酒問屋を中心とした問屋の町として栄え、亀島川には全国からの物資を運ぶ船が往来し、繁栄を極めました。多くは埋立られた江戸の川。亀島川は江戸時代の名残りをとどめる貴重な川のひとつとなってい ます。
橋の南西詰の植え込みに以下が並んでいます。
芭蕉句碑 元禄6年(1693)秋、芭蕉50歳の句で、翌年大阪で亡くなっています。添え書きに「八丁堀にて」とあり、堀端の石屋の石材の中に咲いている菊の花を見つけた印象を詠んだもの。『藤の実』『翁草』『蕉翁句集』などに所収されており、『江戸名所図会』三ツ橋の挿絵に、〝八丁堀にて〟として載っています。
隣り合わせで「銀座の柳4世」というのが平成17年4月に記念植樹されています。
東洲斎写楽、伊能忠敬が八丁堀にゆかりを持ったという解説板。その近辺を歩くことになるが、予備としてこの説明板を読んでおくといいでしょう。
東洲斎写楽 江戸時代の浮世絵師。天明から寛政年間の人。
説明板より
一七九四年(寛政六年)五月から翌七年の正月までの十か月間で、役者絵、相撲絵の版画約一四○点を製作した。
写楽は、それまでの常識を覆す雲母摺りの豪華な背景と、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の一人として世界的に知られている。
写楽の生涯や正体は不明な点が多かったが、幕末の考証者・斎藤月岑は『増補浮世絵類考』(一八四四年)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。
さらに、一九九七年(平成九年)埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に住み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が一八二○年(文政三年)三月七日に五十八歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衛が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた。
伊能忠敬
説明板より
一七四五(延享二年))~一八一八(文政元年)。
近代的日本地図作成の基礎を築いた人。下総国(千葉県佐原市)の名主を務めていたが、五十二歳の時に江戸に出て西洋天文学の勉強を始めた。五十六歳から七十二歳にわたり、延べ三千七百三十七日、約四万キロメートルに及ぶ徒歩の日本初全国測量を行った。その成果を編纂した「日本沿海輿地全図・実測録」はわが国の発展に大きく貢献し、海外でも高く評価された。一八一四(文化十一年)、深川の隠宅を八丁堀亀島町に移した忠敬は、地図作成を続け、四年後この地で没した。
二○○二年(平成十四年六月) 中央区土木部
八重洲通りを挟んだ橋の北詰めには堀部安兵衛の顕彰碑があります。
堀部安兵衛武庸(ほりべ やすべえ たけつね)之碑
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ。元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀齋道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳 法名 刀雲輝剣信士
解説板より
八丁堀十字路までもどり、新大橋通りの西側、ひとつ裏手の通りをゆきます。
鈴らん通り 鈴らん型の街路灯を付けた商店街。戦前は八丁堀仲町と称されました。かっては銀座以上の賑わいをみせ、映画館やダンスホールもあり、湊町や越前掘に入港する船員たちが上陸すると競って買い物をする商店街だったといいます。北は茅場町から、南は八丁堀3丁目まで、南北約350メートルに伸びています。
しばらくすると地蔵橋跡の交差点にさしかかる。
地蔵橋跡 八丁堀拝領地のほぼ中央に位置し、亀島川から西に向かっての堀割り(大下水)は地蔵橋の南で直角に曲がっていました。いまは日本橋茅場町2丁目と3丁目の境でさくら通りと鈴らん通りの交差点のところにあった。橋の名から往時のすずらん通りは「地蔵橋通り」とも呼ばれていたようです。
この橋の付近には、加藤枝直・千蔭父子、村田春海など江戸の文化人が住んでいました。
謎の東洲斎写楽ではないかと言われる斎藤十郎兵衛の居宅もあった。
東洲斎写楽住居地 地蔵橋近くに住んだといい、阿波公おかかえの能役者・斎藤十郎兵衛説があるが、今もって謎が多い浮世絵師。大伝馬町の蔦屋重三郎(耕書堂)によってデビュー。
村田春海住居跡 国学者・歌人。賀茂真淵門下。加藤千蔭とともに江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。
加藤枝直(かとう えなお) 幕臣・歌人。加藤千蔭(かとうちかげ)の父。大岡忠相配下の町奉行所与力で、300坪の邸宅に10人の奉公人を抱える身分だった。青木昆陽を上司の大岡忠相に推挙し、「蕃薯考」(ばんしょこう)の出版や薩摩芋試作のきっかけを作った。
加藤 千蔭 国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。江戸町奉行の与力であった父・枝直の後をついで吟味役となったが、のち与力を辞し、国学を賀茂真淵に学び、真淵の弟子・本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した。私塾「萩の舎」を主宰した中島歌子が千蔭流の書を嗜んでいるから、その門下生の樋口一葉も千蔭流の書を学んだであろう。
南北奉行所配下の与力・同心たちの組屋敷ゾーン!副業での余禄で実入りザクザク!!
いなせでかっこよく一目置かれたが、身分は下級武士だった与力と同心。片手間にサイドビジネスも!
与力 徳川将軍家の直臣で、配下の侍衆。与力(寄騎)は、200石、屋敷は300~500坪、馬一頭、槍一本の待遇であった。ドラマなどでおなじみの着流しに羽織姿で、帯に差した十手の朱房も粋な庶民の味方として「八丁堀の旦那」と呼ばれ、人々の信頼を得ていた。
下の領屋敷図をみると、家屋のほかに貸地や貸家がみえる。これが彼らの副業だった。
与力や同心が拝領地の一部またはまるごとを町人に貸すことは黙認されていたので、彼らは土地を小分けして貸地にしたり、自ら造作して貸家として収入を得ることができた。
とわいえ、商人に貸すことは憚られたので、医者や儒者、画家、手習い師匠、三絃師匠、剣術指南といった類の人に貸したようだ。だから八丁堀の住人にはこの手の職業の人達が多かったという。
「八丁堀七不思議」のなかに「医者・儒者・犬の糞」とあるのは、この地域にはそういったものが多かったことの言い回しであろう。
同心 与力の支配下におかれ、身分はお目見え以下の足軽。通常は城門の警備や庶民の取り締まりが任務だった。八丁堀の同心に限り、イザのとき俊敏に動けるよう、袴を着けず、巻き羽織に着流し姿が許された。
100坪内外の土地を割り振られ屋敷を構えていた。彼らもまた与力どうよう、敷地内の一部に借家を建て、家賃稼ぎをした。禄高は150~200石程度だったが、このような副収入も多分にあった。
八丁堀の旦那方をはじめ、江戸の岡っ引の大部分が、付け届けと役得で、要領よく贅沢に暮している中に、平次と八五郎は江戸中の悪者を顫え上がらせながらも、相変らず潔癖で呑気で、その日その日を洒落のめしながら暮しているのです。
野村胡堂『銭形平次捕物控』
町御組は言わずと知れた町奉行所の与力・同心の組屋敷のことである。江戸の人々は「八丁堀の旦那」という呼称で彼らに親しみを、時には皮肉を表していた。北町奉行所の定廻り同心、不破友之進の組屋敷もいわゆる八丁堀にあったが、そこは亀島町と呼ばれる地域で、亀島町はどちらかと言うと八丁堀の裏手、茅場町寄りになる。
作者、珠玉のデビュー作!
宇江佐真理『髪結い伊三次捕物余話 幻の声』
与力・同心の拝領屋敷図については~hairyouyashiki.pdf (fc2.com)~を参考-資料にさせていただいています。
ほどなくして、鈴らん通りは茅場町で永代通りにぶつかります。
右に行くと地下鉄・茅場町駅。そこの交差点の新大橋通り北詰め、地上口【1番】を出たところに「地図御用所跡」(伊能忠敬終焉の地)の解説板があります。意外なところですが、往時はどんなだったのでしょう。
永代通りでUターンし鈴らん通りのひとつ西側の路地を入ることにしよう。何も特色のない通りだ。
さきに鉄鋼会館があるから「鉄鋼通り」とでも言っておこうか。江戸時代には無かった通りだ。
その通りを150メートルほど行った、3つ目の十字路の西詰あたりになろうか。樋口一葉の父が同心の株を買った。その同心・浅井竹蔵の屋敷があったと推定されている。組の支配与力は南町の仁杉八右衛門だったので、彼の支配下に属した。
与力・仁杉八右衛門の拝領屋敷は,さくら通りと平成通りに囲まれた南側角地にあったようだ。
しばらく歩くと右手に鉄鋼会館がある。
鉄鋼の町 鉄鋼会館があるのは、鉄鋼相場が八丁堀で決まった歴史があるからなのだそう。
鉄の問屋街[東の八丁堀、西の立売堀]
日本鉄鋼連盟 【鉄鋼の一口知識】
東京の鉄鋼問屋街の中心は、明治末期までは、神田堀留であったが、その後京橋八丁堀、本所深川などに拡散していった。八丁堀が、艀の発着などに便利であったことから次第に問屋が集まりだし、関東大震災後、問屋街を形成するようになった。戦後、1969年に浦安鉄鋼団地に主要特約店が進出するまで、東の鉄鋼流通の中心地として繁盛した。
一方、大阪は東京と違いどこも水利が良く、場所には不自由しなかったが、立売堀に江戸時代からの老舗の鉄問屋があったため、自然と問屋が集まり、現在も鉄鋼問屋街の西の中心地となっている。
鉄鋼会館の先で道はT字路になる。そこを左に曲がると右手に小さな寺がある。
寺町八丁堀 さきにも話したように、八丁堀一帯は江戸時代の初めに「寺町」としてスタートしました。文禄4年(1595)の日蓮宗・大仙寺をはじめ、それ以降多くの寺院が創建されました。その数70ケ寺に及んだとか。しかし江戸城の拡張工事により、寛永12年(1635)から寺町の寺院は、玉円寺だけを残しすべて浅草や江戸の郊外などに移転させられました。
亀島山玉円寺 浄土真宗本願寺派の寺院。江戸初期に開創された寺のひとつ。もとは京華スクエアーの近くにあったという。八丁堀に残る唯一のお寺で、「八丁堀七不思議」の「寺あって墓なし」がここ。ほかの寺は浅草など方々に移転。享保4年(1719)ころから随時に寺の跡地は南北奉行所配下の与力・同心の組屋敷となってゆきました。
与力・同心は今風に申せば町奉行所へ通勤するサラリーマン。組屋敷は官舎といえるでしょう!
北町奉行所・呉服橋御門(東京駅八重洲口)まで約1キロメートル。
南町奉行所・数寄屋橋御門(有楽町駅)まで約1.5キロメートル。
出勤する彼らの足便を配慮して「八丁堀」が与力同心の組屋敷として選ばれたという。そんな事情があったようである。イザ事があっても十分駆けつけられる距離だった。
玉円寺の裏道を抜けて平成通りに出て、八重洲通りに架かる久安橋まで歩こう。
久安橋 かつての楓川に架けられていた。明治元年(1868)「久安橋」と改称。江戸時代、付近に御茶坊主・久安の拝領地があったことに因むとか。関東大震災後の復興橋梁である。
楓川(かえでかわ) 八丁堀と合流し日本橋川に注いでいた人工河川。八丁堀一帯は遠浅の海でした。そこを埋め立てて陸地化するとき、海辺を埋め残し運河としたのが楓川といいます。江戸初期は江戸城の大石を陸揚げする河岸で利用されたようです。
松平越中守屋敷跡 伊勢桑名藩(11万石)の上屋敷跡。跡としての面影は微塵もない。徳川家康の母於大の方が再婚した久松俊勝の三男定勝の家柄で、家康の異父弟にあたります。
久松松平家の本家は、伊予松山藩松平家で、桑名藩松平家は、その分家筋になる。桑名藩の最後の藩主は、松平定敬(さだあき)で、京都守護職・会津藩主松平容保の実弟。
このあたり、どことなく下町らしさが漂う。
八丁堀の町民地の名残を引いているのか、雑居としたビルの間に一社がひっそり佇んでいる。
天祖神社 かつての伊雑(いそべ)大神宮。元和9年(1623)建立で、 元宮は伊雑宮( 三重県志摩市)。内宮(皇大神宮)の別宮。
「北八丁堀、松屋橋より一町ばかり、艮の方、塗師町代地町屋の間にあり。(當社ある故に、此所を字して、磯邊横丁と呼べり。)土俗磯邊大神宮といふ。伊雜の御神は、天照皇太神宮の別宮にして、祭神は伊佐波登美命と玉柱屋姫命二座なり、寛永元年甲子、伊勢長官出口市正某、伊雜宮より移しまゐらせ、通三丁目に宮社を営めり。(今神明長屋と唱ふるは則是成。)同十年葵酉今の地に移し奉るといへり、例祭は六月廿六日に修行す。」
『江戸名所図会』より
八重洲通りで平成通りを渡った東西の一帯。江戸の屋敷割であろう。整然とした長方形の町並みが残されている。実にすっきりしている。
同心間米藤十郎家屋敷跡 「慶安の変」で丸橋中弥召し捕りに活躍し、その功によって玄関造りを許されたという。
北町奉行所与力・都筑家屋敷跡 文久2(1862)の「八丁堀細見絵図」(尾張屋版)では末之進。火事装束などの遺品の一部が江戸東京博物館に寄贈されているそうだ。
二丁目遺跡 鈴らん通りに面した西側の一帯。与力同心屋敷地遺跡。
鈴らん通りに出て南に向かうと八重洲通りに付きあたった右手に京華スクエアがある。
与力・同心の組屋敷は、京華スクエアあたりを南端として、北は兜町から茅場町一帯までに立ち並んでいたようだ。南北で約700メートル、東西約300メートル、総面積は約32,800坪(約108,000㎡)あまりで、与力と同心の屋敷の割合はほぼ半々だったという。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡
所在地 中央区八丁堀一~二丁目日本橋茅場町一~三丁目の一帯江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。
説明板より
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。 平成13年(2001年)3月 中央区教育委員会
旧京華小学校の校舎
昭和4年(1929)竣工。大正から昭和にかけて活躍した建築家・関根要太郎と山中節治による設計で、昭和モダンのデザインが特徴的な校舎。
元は京華小学校だったが、現在は中央区のシルバー人材センターや早稲田大学エクステンションセンターになっている。
辺りは商業地域。
八重洲通りを挟んで南側、京華スクエアの斜めむかいのビル群。一帯が豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡という。
紀伊国屋文左衛門屋敷跡 江戸の豪商。通称は紀文。紀伊国の生まれ。貞享年間(1684~88)、20歳のころ、江戸に出てきて八丁堀に居を構え,材木問屋を開き,材木置場を深川の木場に置いた。
八丁堀駅交差点で新大橋通りを南に歩くと左手に広い公園がある。
桜川公園 水路「八丁堀」は、明治16年(1883)に改名され「桜川」となりました。
その堀も昭和35年〔1960〕から昭和41年〔1971〕ころにかけ埋め立てられ、跡地は「桜川公園」として整備され、堀割があったことをしのばせています。
八丁堀には、新桜橋、桜橋、中ノ橋、八丁堀橋、稲荷橋の五橋が架けられていたが、埋め立てと共に廃橋された。このあたりには中ノ橋が架かっていた。
八丁堀駅交差点を過ぎて100メートルほど先の信号の左手にはかつて隆盛を極めた八丁堀の寄席があった。
寄席・住吉亭跡 いまの八丁堀東急ビルがその跡。浪花節(浪曲)がかかることで有名な寄席だった。広沢虎造、寿々木米若、東家浦太郎、木村若衛など浪曲師の大物がズラリ。歌手・三波春夫が浪曲師『南篠文若』の名披露興業をやったところで、同期の村田英雄もよく出演したそうだ。浪曲の全盛期で、八丁堀の賑わいがこの時代にかぶさるといえよう。ダンスホールもそうだ。住吉亭は昭和50年ごろに廃業されたようだ。
信号で右横丁に入ると、このあたり切絵図では町人地。その名残を引くのか、ごちゃごちゃした一角をなしている。入ってすぐの左手は八丁堀ダンスホールの跡。
国華ダンスホール跡 東京建物東八重洲ビルのところ。三越と肩を並べるほどの大店だった「中島屋」呉服店があった。その4階建てビルの最上階にダンスホールが開かれ連日大盛況だったそうだ。モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)全盛の時代だ。
横町の一つ目の路地の左手に不思議を発見です。奇妙な構えのお稲荷様がありました。
今村幸稲荷 もとは寺地だったらしい。「幸」は江戸時代から昭和6年(1931)ころまで続いた町名の「幸町」に因むもので、外堀の幸橋門外にあった幸町(新橋駅北側)の町屋がここに移されたとき町名も引き継がれたのだとか。そのころ支配方にあった今村家が屋敷神として奉斎したものじゃないかと。
次の十字路の右詰めあたりにあたろう。
栗崎道有屋敷があった。
栗崎道有(くりさき どうう) 蘭学医。松の廊下事件では吉良義央の手当を行っている。吉良が赤穂浪士に斬られた際には首と胴体の縫合を行ったという。屋敷内には兵学者*山県大弐(やまがた・だいに)の私塾 「 柳荘」があった。
*山県大弐 八丁堀長沢町に 私塾・「柳荘」を開き、儒学や兵学を講じた。初期の尊王論者。明和4年(1767)、幕府による尊王論者弾圧事件(明和事件)にひっかかり、処刑された。山県大弐を祭神として、山梨県甲斐市篠原に山県神社がある。
まっすぐ亀島川のほとりまでゆくと、赤い鳥居が立つ。
日比谷稲荷神社 日比谷入江の埋め立てで移転してきた。日比谷公園の辺りにあったのが日比谷村、有楽町にあったものが日比谷本郷村。この二村の氏神が日比谷神社だった。のち日比谷村が八丁堀に、日比谷本郷村が新橋に移ったので神社がそれぞれに二分され、それぞれに 新しい土地の地主神となった。
日比谷河岸跡 亀島橋から高橋までの八丁堀側は、日比谷村の地名から日比谷河岸と呼ばれた。対岸の新川側は将監河岸(しょうげんがし)と呼ばれた。
川沿いの鉄砲洲通りを行く。
これから鉄砲洲稲荷にお参りにゆきましよう!八丁堀からはちょと外れるのですが、八丁堀の河口にあるんで。往時は堀の守護神でもあったでしょう。
高橋(たかばし) 江戸時代の橋は船の運航に配慮し丈の高い太鼓橋であった。それが名前の由来らしい。
赤穂義士の47名が吉良邸の討ち入りを果たし高輪泉岳寺に向かう折り、この橋を渡ったことでもしられている。明治15年(1882)10月架橋されたのは吊橋式の鉄橋で史上二番目だった。
高橋を過ぎると整備された川べりの遊歩道を歩ける。対岸は新川(旧霊岸島)。正面の橋は南高橋。
南高橋 亀島川最下流の橋。関東大震災の復興事業の1つとして架橋されたものだが、橋の部材は明治37年(1904)架橋の旧両国橋のもの。震災で破損の少なかった中央部分が用いられているのだそう。明治時代の鉄橋がしのばれる橋である。
やがて目的の社に到着!
江戸湊を目の前にした平安時代創建の古社。京橋ッ子の産土神!
鉄砲洲稲荷 平安時代の承和8年(841)、荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成太神( いなりのおおかみ)として祀ったことに始まるという古社。
波を収めた来歴から俗に波除稲荷とも称された。江戸湊に位置することから、全国から来る船乗りの崇敬を集めたといいます。
いくたびか移転し、寛永元年( 1624)、ようやくこの地に遷座。もとあった八幡神社を摂社とした。いまの社殿は昭和10年( 1935)建造のもの。
鉄砲洲富士 『江戸名所図会』などでは本殿より大きく描かれており、当時かなりの威容を誇ったと思われる。それにしても変遷がすごい。明治3年(1870)移築、明治7年(1874)の再築、明治18年(1885)、昭和3年(1928)、昭和11年(1936)と境内内で移築されている。富士山の山開きに合わせ7月1日のみ登拝が可能とされている。
浮世絵にみる正面の橋が八丁堀に架かる「稲荷橋」。大型通船のためやはり太鼓橋ですね。船の帆柱の間の南手に朱塗りの社、その遠方に霊峰・富士。
八丁堀河口の繫盛ぶりが沸々とします。船積みされた大量のたるは灘からの「下り酒」でしょう。
中央大橋 隅田川に架かる橋としてはで平成時代の架橋。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。主塔および欄干部分に日本の「兜」が特徴的な意匠で施されている。
亀島川は河口で隅田川に合流するが、江戸時代にはこの辺りまで江戸湾だった。江戸湊の賑わいがあった。江戸繁栄の喉元でした。
*鉄砲洲 砂洲が細長く鉄砲の形をしていた、大砲の試射をしたことなどに由来すると言われ、江戸時代は鉄砲洲から芝浦までが広く「江戸湊」と呼ばれていました。
稲荷橋跡 第二ポンプ所の前。八丁堀の一番東に架かっていた橋。八丁堀がこのあたりで亀島川に合流していたと思われる。
稲荷橋の南側の一帯は古くは「南八丁堀」と呼ばれたところ。かの長谷川平蔵が住んでいたともいわれている。
ちょっと東京都下水道局桜橋第二ポンプ所にある桜川屋上公園に上ってみましょう。
桜川屋上公園 桜川(八丁堀)廃川の跡で、いまは東京都下水道局の桜橋第二ポンプ所となり、建物の屋上は人工的に作られた公園となっている。平成5年(1953)4月1日 に開園され、屋上庭園のきっかけとなったものらしい。ちょっとした緑のオアシスになっている。
時 間 9:00~19:00
休業日 無休
入場料 無料
交 通 東京メトロ日比谷線、JR京葉線八丁堀駅B4出口から徒歩2分
連絡先 03-3546-5435
帰りは亀島川沿いを戻りましょう。
時間と足に余裕があれば、せっかくだからもっと「寄り道」散歩するのもいいでしょう!
*寄り道①『霊岸島』界隈
*寄り道②『兜町・茅場町』界隈
さあ。もどりました!ゴールは亀島橋です。
日比谷線・八丁堀は目と鼻のさき。
それでは、ここで〆にいたしますね。
では、また!
八丁堀同心たちがはちゃめちゃ燃える剣劇シリーズ第一弾!
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