上野恩賜公園の不忍池(しのばずのいけ)ぐるっと–蓮の花と碑石めぐり!
8月の夏真っ盛り、不忍池をぐるっとめぐってみました。
ほかの季節に歩いたこともあるんですが、夏の日盛りはこれで三度目。
不忍池というと何んといっても蓮の花ですから見ようとするとこの時期になります。
ということで、
今回は碑石巡りを加えてみました。
最寄駅としては上野駅でもいいのですが、今回はJR御徒町(おかちまち)駅から歩きました。
では出発です!
上野恩賜公園の不忍池(しのばずのいけ)ぐるっと–蓮の花と碑石めぐり!
ふりがながないと読めない御徒町(おかちまち)は名の如く江戸幕府の下級侍の御徒(徒士)の組屋敷があったことに因むもの。馬に乗れない身分で徒歩で管理業務に奉仕するお侍。江戸のあちこちにありましたが断然ここが有名!
ちなみに、徒歩」は「とほ」とも「かち」とも読みますけど、大方は「かち」と読めない。それが近頃ようやく馴染めるものになってきたようです!
辞書などではその違いを下記のように説明しています。
徒歩 「かち」と読む場合は、「乗り物を使わないで歩くこと」「江戸時代の武士の身分で、騎乗を許されない下級の武士のこと」と。一方、「とほ」と読む場合は、「歩くこと」を意味するとしています。
御徒町に来るとついこんなことを思い出してしまいます。
関連記事:歩くこと=御徒(トホ)すること=徒歩(カチ)すること!
上野広小路に来ると「御徒町」の粋な垂れ幕がヒラヒラ!
上野御成道 火除け地の役割を持った上野広小路(下谷広小路)は名の通り道幅が広い。別に「上野御成道」(「下谷御成街道」)の呼び名もあります。将軍が上野の寛永寺の将軍家墓所に墓参のために利用したことからの名称とされています。
上野広小路には江戸以来の老舗・松坂屋があります。今も昔も変わらぬマーク。
六阿弥陀(ロクアミダ)通りなんてのが出来てたので、びっくり!前は無かった。
このところ、「六阿弥陀」がキーワードになりつつある気がしていた!七福神巡りのように、最近、巡る人が増えてきた。それの反映の証拠でしょう。
*六阿弥陀詣 春秋の彼岸の入りや中日、あるいは彼岸のうちの一日に、六か所の阿弥陀如来を巡拝する宗教的かつ娯楽的な行事。
「ABAB(アブアブ)上野店」のところが「六阿弥陀」五番目の常楽院のあとだった。戦後に寺は調布に移されたが、あまりに離れたんで不忍池近くの東天紅敷地に仮堂があるのですが、意外と知られてない!
三橋跡 不忍池を水源とする忍川(しのぶがわ)が西から東へ広小路を横切って流れ、この川に三つの橋が架けられていた。 三橋と呼ばれ、両側の橋は一般庶民が渡り、中央の橋は徳川将軍が上野寛永寺を参詣する際に通行する橋で特別に 「御橋」(みはし)とも称された。
三橋跡の近くにある「みはし」は橋名に因んだ甘味処の名店。うまさはどこにも負けない横綱級!
ここまでくると、つい舌が止まってしまいます。
忍川 時代を遡ると旧石神井川(=谷田川・藍染川)でした。それが不忍池に流入し、忍川として流出し隅田川へと流れ下っていたといいます。
上野の森方面。
江戸切絵図を見てみましょう。
びっしりと武家地。三橋がみえますね。普門院などのある細長い寺域がいまのJR上野駅に相当しま。
細かくなりますが、もっと周囲を広げると上図のようになります。
さて、ここから不忍池めぐりです!
上野恩賜公園 江戸時代には東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、明治6年に日本で初めて公園に指定された。大正13年(1924)に宮内省を経て大正天皇より東京東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いた。上野公園は、明治6年(1873)に公園の指定を受けた日本でもっと歴史ある公園の一つで、不忍池もその中にふくまれている。
龍門橋跡 江戸時代には池の周りに堀がめぐらされ、そこにはいくつもの小橋が架かっていました。ほかに月見橋・蓮見橋・花見橋などがあったそうです。昭和初期にほとんどその姿を消し、今はこの石碑にその名残をとどめるだけになっています。
朝倉文夫作・「誕生」
上野恩賜公園の噴水塔のところからここに移されたのだが、いまは、下町風俗博物館が長期のリニューアルに入ったことから板囲いの内になり鑑賞することができない。御注意!
下町風俗資料j館 江戸から昭和30年代までの、庶民の生活の諸々を収集・展示しています。ただいま、長期休館に入っていますのだ御注意!
リュニュアールオープンは数年後らし。
不忍池 古代縄文ころ。一帯は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた海の入江であったそう。不忍の池から北の根津方面まで入り海だったのですが、海岸線が遠のくにつれ、取り残された部分が不忍池になったと考えられています。
上野恩賜公園の南西端に位置し、周囲は約2km、全体で約11万m2といいます。池は3つに分割され、北は上野動物園分園内の「鵜ノ池」、南は蓮の池、西はボート池となっています。
反時計廻りで歩いて行くと広いイベント広場があり、池畔には巨木の桜並木が続きます。
不忍池は江戸時代の頃から桜の名所としても、多くの人の目を楽しませる春のスポットでした。
そして夏ともなると、蓮の花!
延宝5年(1677)に出版された「江戸雀」という本には、不忍池のハスが詠み込まれた和歌が載っているそうで、この頃には不忍池にハスがあったことが想定できるようです。
~涼しやと 池の蓮を 見かへりて 誰かは跡を しのばずの池~
不忍池にいつ誰がハスを植えたかは分かっていないそうですが、
不忍池のハスを調査した大賀一郎博士は、「不忍の蓮」という文章の中で、
「不忍池にハスを植えたのは、上野桜ヶ丘に別邸があった林道春(林羅山)かと考えたが、彼の著作にハスに関する記述がないことから、寛永寺を造営した天海和尚か、不忍池の弁天島を作った水谷伊勢守ではないかと考えるようになった」
という趣旨のことを書いています。大賀博士の調査では、不忍池には、10品種のハスが生育していたことが確認されているそうです。
花鑑賞してみましょう。
ボート池を除く部分にはハスの繁殖が著しい。
夏になると池はほぼ蓮の葉で埋め尽くされます。圧倒される広がりです。
江戸時代には色とりどりの花のハスが植えられていたと言われますが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮の二系統だけだそうです。
広いイベント広場の一角に詩人・西城八十の碑。
近くに西条八十の住まいがあった縁によるもの。
かなりや碑 童謡「歌をわすれたカナリヤ…」は大正7年の秋、不忍池畔にあつた上野倶楽部というアパートの一室を仕事部屋にしていた西條八十があたりを逍遥する中で得た詩という。
弁天橋の際に駅伝発祥の地碑が建つ。
大正6年(1917)4月27日から29日までの3日間。
初の駅伝競技大会、「東海道駅伝徒歩競走」が京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。大正博覧会の記念イベントでもあった。博覧会場の正面玄関がゴールであったことも記載されており、盛り上がっていたことが窺い知れる。
この「東海道駅伝徒歩競走」が高い評価を受けたことにより、開催の3年後、大正9年(1920)には現在も続く箱根駅伝が開催される運びになったのだという。
さきにも記したように、上野山の全山は江戸城の鬼門を鎮護するために建てられた寛永寺の境内。
辨天堂 寛永2年(1625)、上野山に東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)が建立されました。寛永寺を比叡山延暦寺になぞらえ、不忍池を琵琶湖に見立て竹生島(ちくぶしま)を模した小島を築いて弁財天を祀り、京都のような景色を再現しました。原案者は天海僧正。
*天海僧正 慈眼大師とも。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した怪僧。
弁天島 かつては弁財天の中島への両側には家が建ち並び、明治5年(1872)には不忍天竜町という町名さえありました。はじめ弁天島へは小船で渡っていましたが、寛文年間(1661~1672)に石橋が架けられ徒歩で往来できるようになり、それから弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わうようになったといいます。
広重・「江戸名所百景」・上野清水堂不忍池 清水堂の真下、不忍池の中島弁財天に下りる石段の近くにこの松がありました。まるで形が、月のような円形をしているところから、「月の松」と呼ばれました。円形の中、遠くは本郷台の町並み。右下に見えるのが弁財天。
円弧の幹は明治時代の台風で失われたのですが、平成24年(2012)に復元されました。補助として小振りの「月の松」も植栽されています。
不忍池由来 上野山が忍ヶ岡(しのぶがおか)と呼ばれていたのに対して、ここを「不忍池」と命名した、とするのが最も有力な説とされています。
往古、この辺りは茅やススキが生い茂ったところで、道の境すらよく分からないのに池だけがはっきり見えた。そんなことから「忍ぶにも忍べない」という意味で名付けられたのだとか。
辨天橋 寛永寺が建立されたことで不忍池は江戸の名所となり、春は桜の花見、夏の蓮見、秋の月見、冬の雪見と、四季折々に江戸の人々を楽しませる憩いの場となりました。
ところで、あまり知られてないことですが、弁天橋のあたり。その痕跡すらありませんが、以下のような風景もあった時代がありました。
竜宮門 大正3年(1914)。伊東忠太(いとうちゅうた)設計のもと近代的な竜宮門が建てらました。残念ながら昭和20年の空襲により弁天堂とともに焼失。弁天堂は昭和33年9月に再建されたものの竜宮門は復活しませんでした。
大黒堂 縁日に豊太閤護持の大黒天尊前にて護摩供養を執り行い、人々の信仰を集めている
琵琶の碑 弁天は芸能の神様。琵琶を持った姿で描かれる。
宇賀神 蛇神。弁才天と習合あるいは合体したとされ、宇賀弁才天とも呼ばれる。
由来碑 弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。
不忍池の中央にある弁天島の弁天堂周辺はユニークな石碑が多いことでも知られています。
主立ったものをちょっと丁寧にみてみましょう。
中根半僊碑 江戸時代の医師・書家の碑。
めがねの碑 1968年 東京眼鏡懇話会。東京の眼鏡業界の組合によって建立。デザインされているメガネは、徳川家康が所持していたものらしい
長谷川利行碑 そう名高くはないですが日本のゴッホとうたわれた画家だったんですね。この碑で初めて知りました。筆が独学というのも、凄い!
碑の文字は熊谷守一。毎年10月12日の命日に供養祭がおこなわれているそうです。30周忌を迎えた昭和44年(1969)10月15日建立。歌碑には二首が刻まれています。歌詠みでもあったそうです。
己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光りてすべる/人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず
ぎりぎりの魂と心情がにじみ出ていて、さりげなく胸に突き刺さる、いい歌ですね。そいう人だったんでしょう!
ふぐ供養碑 昭和40年(1965)建立。 東京ふぐ料理連盟の會員有志の協力で建立。岸信介謹書
杵屋六三郎の碑 長唄三味線の名跡。
八橋検校顕彰碑 生田流、山田流などの箏曲の祖。昭和41年( 1966)建立。
芭蕉翁 芭蕉塚。句はない。
魚塚 東京魚商業協同組合。1976年建立。
スッポン感謝之塔 料理、滋養にも利用されてきたスッポンに感謝を込めた石碑。
いと塚 三味線や琴などの芸事にはかかせない糸に対する感謝を表した塚。
東京自動車三十年会記念碑 昭和50年(1975)建立。
真友の碑(英語) 昭和51年(19769建立。
藤棚 棚下が休憩広場。
暦塚 全国カレンダー出版協同組合連合会等によって建立。影で時間がわかる日時計になっている。中曽根康弘による揮毫。
櫛淵虚冲軒之碑 幕末の剣豪。1978年 利根郡月夜野町。剣豪・櫛淵虚仲軒之碑。神道一心流の創始者。
包丁塚 上豊調理師会。調理師会により建立された、包丁を納める塚。包丁は料理人の魂。
鳥塚 東京食鳥鶏卵商業協同組合と東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合有志が昭和37年(1962)建立。弁天島で一番大きな碑。東龍太郎筆。
ここで、不忍池の池畔の変遷をちょっと見てみよう。
明治・大正時代には湖畔が博覧会場・競馬場などとして利用され、大勢の人で賑わったことがあるんです。
そんな不忍池の変化・変遷をみてみましょう。
明治時代の初期あたりまでの池の形は現在のものとはかなり異なっていたようです。
特に池の北側は今よりもかなり広く、藍染川(谷田川)も注いでいたことから、地味がじくじくしていたといいます。
まずは明治時代。
東京都立図書館蔵
競馬場 不忍池の全周が競馬レースに利用されました。明治17年(1884)、共同競馬会社による競馬場の建設に伴いそれように埋め立てが行われました。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には明治天皇御臨席のもと第1回の競走が行われ、以降、明治25年(1892)まで春と秋に競馬が行われたそうです。
博覧会場 さらに、明治40年(1907)には、東京勧業博覧会が行われました。
このとき西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。
博覧会は大正3年(1914)にも池畔をメーン会場に」東京大正博覧会が開催された。
不忍田圃 こうした不忍池ですが、敗戦後、池の一部に稲が植えられ「上野田圃」「不忍田圃」の異名がついた時代がありました。食糧難の時代。水田として利用さたわけです。
観音堂の裏、ボート場入でで道が右と左にわかれる。
左手の道をゆく。
右手の道をゆく。
近年、あたらしくできたオブジェ。スカイツリーが正面に聳える、撮影の穴場!
野外ステージまでの間は桜の巨木が多い。
池に張り出したウッドデッキを歩いてみた。一面が蓮の葉の群落。緑に染まりそう
最後に不忍池に咲く蓮の花、その由緒、由来をおさらいしてみましょう!
最初の起点に戻ってきました。
人工土堤で3つの池に分けられていますが、全体を合わせると外周は2キロ弱です。
いつの季節にいつ来ても、気持ちが健やかになる不忍池です。
蓮の花が終わると晩夏から秋へ。不忍池もモノトーンに装いをかえます。
今度来るのはいつになるでしょう。
不忍池よ!それまでアバよ!
上野不忍池のことが面白く!もっとよくわかる本!
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