今日の散歩は錦糸町界隈(隅田区)・大横川暗渠とスカイツリーを望む横川、太平の寺町

JR錦糸町駅で降りて北側を歩いてみましょう。

錦糸町の界隈は全く起伏がありませんね。

さもありなん!古くに一帯は海面だったといいます。
広くが隅田川と荒川にはさまれたデルタ地帯でした。

のちに湿地と化し幾星霜して、江戸時代に入り湿地帯の開発が始まりました。
明暦3年(1657)の大火、振袖火事がきっかけだったといわれます。


万治2年(1659)の両国橋架橋により、開発はさらに拍車がかかりました。

開拓地は区画整備され武家屋敷を中心とした土地に生まれ変わりました。なかで顕著なのは掘割による水上交通の発達でした。

安政2年(1854)、大横川、横十間川、堅川、北十間川の人工掘で区切られた町の骨格ができ上がりました。

ということで、以下、そんなエリアの散歩コースを写真と拙文でお届けします。

今日の散歩は錦糸町界隈(隅田区)・大横川暗渠とスカイツリーを望む横川、太平の寺町

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。

ワイドにお散歩下さい!

ジョイント「亀戸西」界隈

*蔵前通りを東に、横十間川に架かる天神橋を渡ると亀戸天神につながります。

掘割を中心に江戸時代から発展した下町の新開地・ダウンタウン錦糸町

JR錦糸町駅  JR総武本線の停車駅。明治27年(1894)12月、 同年7月に開業済みだった総武鉄道市川~佐倉間を延長する形で開業しました。当時の駅名は「本所駅」といい、同30年(1897)に錦糸町駅になっています。

*明治37年(1904)4月5日に両国橋駅(現在の両国駅)へ再延伸するまでは総武鉄道の起点駅でした。

錦糸町 明治5年(1872)、播磨竜野藩脇坂家中屋敷・越前鞠山藩下屋敷・越前黒川藩柳沢家下屋敷・旗本、武家地ほか、亀戸村・柳島村・小梅代地町を統合して本所錦糸町が成立しました。当初はまだ商家は少なく大半を総武鉄道が所有していました。

錦糸町の名の由来は、JR錦糸町駅の北口の北斎通りに位置していた「錦糸堀」から来ているといいます。堀の由来については不明ですが、『本所七不思議』の「おいてけ堀」は錦糸堀のこととされています。

通り

北斎通り  駅前を東西に走る通り。通り沿いに葛飾北斎の生誕地があったことから現在「北斎通り」の名前がついています。

江戸時代、この通りの中央には掘割が通じていました。両国国技館や江戸東京博物館の場所にあった「御竹蔵」の東から発し大横川と交差し横十間川へ抜ける水路で、正式には「南割下水」(みなみわりげすい)と呼ばれていました。

*「南割下水」=錦糸堀 汚水を流していた訳ではなく、水はけの悪いこの辺りの排水のための用水路路でした。この南割下水の大横川から東側部分が「錦糸堀」と俗称されていたようです。凡そ北斎通りの錦糸町駅前辺りになるでしょう。

北斎通りを西に歩きます。

しばらくすると、 右手にスカイツリーをバッチリ真正面に望める通りがあります。

スカイツリーが目いっぱい

タワービュー通り  東京スカイツリーがほぼ真正面に見えます。業平1丁目10番から錦糸2丁目3番までのほぼ直線道路。錦糸町から東京スカイツリーとを結ぶ約1200メートルの道路の愛称です。

沿道の9町会の方々が選定したもので、電線類の地中化を図って整備し、「過去・現在・未来が出会う道」をデザインのコンセプトにして、地区ごとに道路のデザインを変化させています。

さらに行くと同じく右手に、華やかな旗竿をひらめかせた稲荷社があります。

津軽稲荷

津軽稲荷社  津軽藩下屋敷内にあったことに由来するもので、この一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったといいます。明治以降は管理がままならず、明治43年(1910)の大水害後に地元町会に払い下げられたのだそうです。

関東大震災と空襲で2度全焼したものの、昭和35年(1960)に拝殿・社務所・会館、翌44年(1911)に鳥居が再建され復興しました。

大燈籠  昭和32年(1957)、講中により二基が奉納されています。上野寛永寺から移設したもで、よく見る燈篭です。天保2年(1831)、下野足利戸田氏、丹後峯山京極氏が献納したものです。

やがて大横川親水公園が左右にひろがります。かつての大横川の流路跡です。

地図

*大横川  江戸時代の埋立で造られた人口運河。墨田区の業平橋付近で北十間川から分流し南へ流れ,竪川、小名木川、仙台堀川と交差し、横十間川と合わさります。名称は江戸城に対し横に流れているからと言われています。

水路の完成により掘割を通じての水上交通が活発になりました。とくに江戸で不足気味だった材木を運ぶための重要な手段となり、材木問屋などを中心に商業や産業が発展していきました。

*大横川親水公園  大横川を埋め立てて造られた親水公園で、北は北十間川と合流していた付近、南は竪川との合流地点までとなっています。総延長は約1800メートル。平成5年(1993)4月1日の開園。

せせらぎや樹木がよく整備されており、幅は30~40メートル。

*駐車場:なし/開園時間:常時開園(一部区間除く)/料金:入園無料

橋
橋

大横川には、たくさんの橋が架かっていました。その遺構をいくつかめぐってみましょう

長崎橋跡 北斎通りに架かっていた橋で、昭和63年(1988)、大横川親水河川整備の際に撤去されました。

 元禄10年(1697)、当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢4丁目より同錦糸1丁目に架けられました。最初は長さ10間(18.0)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和46年6月には、鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。なお橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名づけられ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。 平成3年6月  墨田区説明板より

公園とスカイツリー

歩くほどに、仰ぐほどに、変化を見せながら常にスカイツリーが望めます。

橋の行こう
橋の説明

清平橋跡  亀沢4丁目と太平1丁目を結ぶ橋でした。平成24年(2012)に架け替えられました。かつて亀沢4丁目に清水町とい う町があったので、太平と清水の一字をとり清平橋と名づけたのだといいます。

スカイツリー
池

地元の方から教えてもらったのですが、溜まりの一帯はかつて水上生活者の船溜まりだったそうです。

水上生活者 船上(ハシケ)や水上の建物などが仕事場であり生活の場である人々。

池

人口河川も時とともに自然河川に風情をかえたのでしょう。

池
池
池
法恩寺橋

法恩寺橋跡  石原4丁目と太平1丁目を結ぶ蔵前橋通りに架かる橋で、現在の橋は昭和57年(1982)の架橋。最初の架設は万治2年(1659)といわれ、名前は東にある平河山法恩寺に由来するようです。

法恩寺橋

石造りでどっしりした佇まいをしています。

法恩寺橋
重量感といい
法恩寺橋
モダンさと
法恩寺橋
装飾さ

全体の一部だけを架け替えたもので、ほかは大正13年(1924)頃のままといいます。モダンですね。

紅葉橋

紅葉橋跡  石原4丁目と横川1丁目を結ぶ橋で、昭和5年(1930)に架橋されています。

紅葉橋の公園

紅葉橋という名は、この辺りに楓川という細い流れがあったので、それに因んで付けられたといいます。

紅葉橋の公園
紅葉橋の公園
紅葉橋の公園
紅葉橋の滝

紅葉橋の公園

横川橋をくぐる手前の広場はちょっと寛ぐのにいい。

紅葉橋の公園

宮部みゆきも小説のヒントにした「「本所七不思議」のミステリーが散らばる!

広場の小橋を渡り竹林を通りぬけると、「本所七不思議」をモチーフにしたレリーフがあります。

モニュメント

本所七不思議 江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。以下のような不思議があります。

「置いてけ堀」/「片葉の葦」/「馬鹿囃子」(「狸囃子」)/「送り提灯」/「足洗い屋敷」/「燈無蕎麦」(あかりなしそば)」/(「消えずの行灯」/「送り拍子木」/「落葉せぬ椎」/「津軽の太鼓」

興味と関心のある方は→本所七不思議でどうぞ!

モニュメント
レリーフのそれぞれに「七不思議」が概説されています

本所七不思議』のひとつで錦糸堀にまつわる「置いてけ堀」のミステリー

堀(水路)では魚がよく釣れました。非常によく釣れた日のこと。夕暮れて帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ、置いてけ」という奇妙な声がしました。

あたりを見回してみても人の姿はどこにもない。魚籠の中をのぞくと、釣ったはずの魚は1匹もなく空になっていた。気味が悪くなり一目散に逃げ帰ったという話で、河童の仕業説、ということになっています。

話転じて、これが「置き去り」を意味する「置いてけぼり」の語源とされています。

「本所七不思議」にまつわる七つの怪事件を岡っ引きの茂七が名推理する! 下町人情味溢れる連作時代ミステリ。吉川英治文学新人賞を受賞した宮部みゆき初期の時代小説です。

散歩の秋ですね! 読書の秋ですね!

ここらでちょっと一休み! そういえば食欲の秋でもありますね!

休憩所

ささやカフェ  水飴工場のあと倉庫として使われていた建物を改装したもので、天井が高く開放感のある広々としたスペースで寛げます。隣に「ささやギャラリー」を併設しています。

横川橋
春日通りを渡す横川橋

横川橋跡  本所4丁目と横川1丁目を繋ぐ橋で、昭和3年(1928)に架橋。
今は春日通りを通しています。かつての北割下水の流れていた通りでした。

つまり横川橋は大横川に架かっていたのではなく、割下水に架かっていたもので、関東大震災後の復興計画で割下水が取り払われた後 、大横川に架けられた橋が横川橋と命名されたようです。

横川橋
古橋の欄干
横川橋
趣があります

*横川 江戸城に対して横にあたる。柳島から深川に掘った堀川を横川と呼んだ。これに直交する竪川は、縦川の意。

どれも物資搬送のための運河で、横川は特に木場と北十間川に連絡し、材木を運ぶために掘られた運河でした。

公園から橋の東詰めに上がると橋畔にひっそりと大石の碑が建っています。

碑

大震災遭難者追悼碑  昭和9年(1934)の祥月命日の建碑と記されている。関東大震災では、横川橋下の船に避難した人々を含め3600人以上が此処で命を失い、「第二の被服廠」といわれたという。

「第二の被服廠」 関東大震災のとき、本所両国の陸軍被服本廠跡には多くの避難民が家財とともにあふれた。そこに火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに猛火の大旋風も巻き起こって、推定38.000名という犠牲者を生んだそうです。

スカイツリー

大横川の左岸。横川橋から紅葉橋、報恩寺橋にかけては本法寺、霊山寺、報恩寺などが町の一角を成しています。これから、それらの寺を巡ることにしましょう。

案内マップ

横川一丁目遺跡  東京都住宅供給公社トミンハイム横川一丁目の南面、春日通り側の植栽に説明板がある。

このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間(1688~1703)頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄2年(1689)に現在地(太平1丁目)に移転してきました。
 横川1丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図によると、太田道灌の一族である大竹の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本に於ける近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。
 平成9年(1997)、(略)横川一丁目遺跡調査会が発掘調査を実施しました。
 調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる大溝、太田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見されました。
 また、明治時代のものとして「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。
 このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地となっています。 平成11年(1999)2月 三田土会 墨田区教育委員会

説明板より

すぐ近く墨田区横川町になりますがちょっと寄り道します。

たばこと塩の博物館  かつて専売品だった「たばこ」と「塩」。その歴史と文化をテーマとす る博物館として、日本専売公社(日本たばこ産業株式会社)により、昭和53年(1978)11月渋谷の公園通りに開館しました。

平成25年(2013)9月1日に閉鎖されたのち、墨田区横川の日本たばこ産業の敷地にある倉庫を改装し、平成27年(2015)4月25日にリニューアルオープン。

現在、約30,000点の資料を収蔵しているほか、刊行物なども発行しています。

また、肉筆浮世絵83点、浮世絵版画1550点余を所蔵していることでも注目されています。

パイプ
喫煙具
喫煙具

たばこ アメリカ大陸の古代文明の中で、儀式用の植物として人類に利用された。嗜好品として世界中に広まり、各地に特色あるたばこ文化が形成された。日本へは、16世紀末に伝来し、江戸時代を通して庶民文化に溶け込み、独自のたばこ文化が生みだした。

岩塩
細工が施された岩塩

塩 生命の糧とされる。岩塩等の内陸の塩資源に恵まれない日本では、縄文時代以来、海水を原料として、濃い塩水を作り、それを煮つめるという、独自の製塩技術が発達した。

塩

玄関前左手に大きな像。

ミュージアム
像

喫煙の像  昭和53年(1978)渋谷の「たばこと塩の博物」に建てたものを移設。

像の原型は19世紀の初め頃、スウェーデンのエスキルスッナのたばこ屋が室内用看板として使用していたもので、現在ストックホルムのたばこ博物館に展示されているそうだ。 

門柱
ガイド

親水公園側の入口に門柱が移設されている。

村井兄弟商会芝工場門柱   この門柱は、明治を代表するたばこ商の村井兄弟商会芝工場(旧東京市芝区柴田町2丁目)にあったものです。後に明治37年、工場が大蔵省専売局に吸収され、昭和14年5月の工場火災まで、たばこ工場の門柱として利用されていました。実際には中間部にレンガが入り、2m以上の高さになります。上部には図案化されたたばこの葉が浮き彫りされており、明治中頃の近代的たばこ工場の品格を現在に伝える貴重な資料です。

説明板より

これから歩く横川・太平町一帯は寺町と言っていいでしょう。

寺マップ
二つのブロックに寺がまとまっています

横川 1~5丁目。本所区時代の行政施設が集約された町。小梅村・柳島村に福山藩・龍野藩・亀山藩の各抱屋敷、それに霊山寺・本法寺境内などを含むもので横川橋町した。

現在の町域は昭和6年(1931)の区画整理で成立したもので、町名では旧称から橋の字を外しています。

錦糸町方面に向かって歩きます。

スカイツリー

途中、振り返ればスカイツリーが目いっぱいの高さで聳えています。

浄土宗の古刹・霊山寺とその支院が集まる墨田区横川の寺町めぐり!

本法寺  文禄4年(1595)神田に創建、慶安2年(1649)上野谷中へ、元禄2年(1689)に現在地へ移転してきました。かつては境内も広かったが区画整理で大幅に狭められているそうです。

通りを挟んで向かいに墓所。

墓

狩野元信の墓  室町時代の画家で狩野家の2代目。文明8年(1476)京都に生まれ、子供の頃から絵を志し、10歳で8代将軍義政に仕えました。

11代将軍・義澄を経て13代将軍・義晴の時、命により剃髪し法眼となり、永仙とか玉川を号としたといいます。

諸派の長所をまとめ山水・人物・花鳥などを描いていましたが、のちに大和絵の技法を加えて大成させ、永禄2年(1559)84歳で歿しました。

ここにある墓碑は、昭和30年(1955)、子孫の狩野文さんの再建によるもの。「善巧院殿元信法眼日到大居士 永禄二年十月六日歿 狩 野 元 信」と刻まれています。

墓
伊藤宗印の墓 本来は将棋の駒形をした墓だった          

〇伊藤宗印の墓   幕末に御城将棋(おしろしょうぎ)を務め、明治期には将棋再興に務めた。111世名人になり、明治26年に没した。坂田三吉との名勝負で有名な関根金次郎は宗印の内弟子だったといいます。

御城将棋 江戸時代に、年1回、御城碁とともに江戸城で行われた将棋の御前試合。将軍の上覧に供することから、御前将棋ともよばれた

本法寺には近世の将棋家・伊藤宗看や大橋宗桂の墓もあったそうですがいまは行方不明とか。ただ宗桂の墓は太田道灌の墓所として知られる伊勢原の洞昌院にあることが判明しているそうです。

墓
 紛うこと無き夫妻の墓

偶然に見つけた俳優・長谷川一夫の墓
谷中霊園にもれっきとした墓がありますが、ここはどういうものなんでしょう。

寺

霊山寺(れいざんじ) 常在山霊山寺江戸時代には法恩寺と肩を並べる大寺院でした。

慶長6年(1601)神田駿河台の拝地に創建。京都知恩院末。湯島、浅草と移転し、ここへきたのは元禄元年(1688)とされています。

参道左右の竜興院・徳寿院・霊性院は元の支院。浄土宗「関東十八壇林」の一つで学寮30坊も持っていたそうです。

右手にどっしりとした宝篋印塔が4基並んでいます。 

墓

八木氏宝篋印塔・五輪塔   寛文5年(1665)~貞享2年(1685)の3基が残されています。

八木 宗直(やぎ むねなお) 2代将軍・秀忠に仕え4,000石を知行する旗本に列し、のち山田奉行を9代歴任。

山田奉行(やまだぶぎょう 江戸幕府の役職。遠国奉行の1つで老中支配。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを職務とした。配下は与力6騎・同心70人・水主40人。

龍興院  浄土宗の寺。霊山寺の支院。元禄4年(1691)に霊山寺末の学寮としてこの地に創建されました。

関東大震災と戦災で焼失しましたが、昭和46年(1971)に復興。本堂には、宇治平等院鳳凰堂の雲仲供養菩薩の模彫の諸菩薩が奉安されています。 

寺

霊性院  浄土宗の寺。霊山寺内の支院の1つとして起立。明暦の大火で類焼し、浅草へ移転、その後、元禄元年(1688)に現在地に遷った。

*地蔵堂  開運地蔵尊(石造子育延命地蔵)。正徳年間(1711~20)に、井戸を掘った時に出土したと伝えられ、当時流行した赤痢にご利益があったといわれます。

徳寿院  浄土宗の寺。霊山寺支院の1つ。元禄3年(1633)、本郷の妻恋坂に草創。明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で浅草松葉町に移転、元禄2年(1689)現在地に移った。

太平の由来  慶賀の意味を持たせ太平の世を願ったもので、読みは「たいへい」です。太平1丁目から太平4丁目で成立。一説には太田道灌と平河山法恩寺のそれぞれの頭文字から一字を採ったとも。

太田道灌開基の日蓮宗・法恩寺とその支院でまとまる墨田区太平の寺町めぐり!

寺の碑
寺

法恩寺  平河山本住院法恩寺。日蓮宗の寺。

蔵前橋通りに山門があります。

長禄2年(1456)開山。開基太田道灌。江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に城内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされ、当時は本住院といっていたといいます。

大永4年(1524)道灌の孫の太田大和守資高が亡父六郎左衛門資康の13回忌に造営を加え、資康の法名「法恩斎道源日恵大居士」から寺号を取って法恩寺と改めたといわれます。

山号は下平河村からとっており神田柳原、谷中清水町を経て、元禄元年(1688)現在地に移転しています。

かつては20の塔頭、11の末寺を擁していました。

参道の左右にある4ヶ寺(陽運院・善行院・千栄院・法泉院)は支院です。

墓
墓
太田道灌家供養塔

境内左奥の墓地にある五輪塔。追善供養碑といわれています。

道灌の墓は、 伊豆玉沢の妙法蓮寺、鎌倉扇谷英勝寺裏の源氏山、日暮里の本行寺、埼玉県越生市の龍穏寺など数ヶ所にあります。

伊勢原にも2ヶ所ありますね。その一つは下糟屋の大慈寺の墓で「首塚」と呼ばれており、もう一つは上粕屋の洞昌院の墓で「道灌さんの墓」と呼ばれているもの。上杉館で謀殺された道灌の遺骸は、洞昌院の裏山に於いて荼毘に付されたといわれています。 

案内板

太田道灌家供養塔 所在 墨田区1丁目26番16号 法恩寺内

太田道灌公は室町時代の武将で、永享四年(1432)関東官領扇ヶ谷上杉氏の執事資清の子として相模に生まれました。歌人として、万里集九との交遊も知られています。幼名を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資(もちすけ)、資長(つけなが)と改め、備中守正五位下までのぼり、剃髪して道灌と号しました。道灌は、扇ヶ谷上杉定正に仕え、文武両道を修め、康正二年(1456)江戸城を築きここを居城としました。彼は築城にかけても名手で、河越、岩槻の二城も築きました。また足軽の用い方にも優れていたといわれます。文明十八年(1486)主君定正は、太田道灌の名声を妬んだ他の家臣たちに唆されて、相模糟屋の定正自邸に誘い出され、謀殺されました。享年55歳でした。この法恩寺はもと江戸平河町にあり、太田道灌が江戸築城のとき建立したものといわれ、太田道灌とゆかりが深く、子孫によって供養塔が築かれました。  平成18年3月 

説明板より
墓
旗本太田資同墓碑
鐘
鐘楼三重塔
銅像
日蓮立像

鐘楼三重塔  下層部に梵鐘を提げています。経石塔と呼ばれ、昭和7年に鉄筋コンクリートで建立された。三重塔と鐘楼が合体されています昭和7年(1932)に建てたコンクリート造り。

平河清水稲荷社  江戸城の平河門と清水門の間にあったものといいます。

平川清水稲荷縁起  当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い太田道灌公も是を愛でゝ

  武蔵野の小川の清水絶えやらで 岸のねせりを洗いことすれ

と詠まれています。当時その小川の畔の本住院の側に稲荷の詞が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていたそうです。

法恩寺の前から参道が蔵前通りに向かい100メートルほど続き、両側に支院が配されています。すべてに「平河山」の山号が付いています。

法泉院  平河山法泉院。法恩寺の塔頭。 

寺

千栄院  平河山千栄院。法恩寺の塔頭。法恩寺第3世日喜上の創建。祖師像及び大曼荼羅を本尊とし、痰病守護道晴尊の木座像を安することから「たんぼとけ霊場」の名によって知られています。

たんぼとけ  2メ-トルほどの石碑に、たん・ぜんそく・百日咳・守護と刻まれている。

墓
狛犬
陽運院の狛犬,怖可愛い!ちょっとないユニークさ。

陽運院   平河山陽運院。日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。大永元年(1521)日新上人の開山。

寺の額

日朝上人秘伝という眼病の護符を出す寺で「めぼし霊場」として知られています。表に「日朝上人めぼし護符所」の札が出ています。

お会式の万灯(まんどう)でしょうか。

善行院  平河山善行院。法恩寺の塔頭。

*万灯 日蓮聖人が亡くなられた時、庭先の桜(お会式桜)が時ならぬ華を咲かせたという故事から、紙で作った造花でお会式桜を模し、お会式のとき灯明輝く宝塔に飾ります。

山門

蔵前通りが参道の入り口。

太田道灌公開基之寺

蔵前通りに出たら、ここからはタワービュー通りを歩いてゆきます。 

振り返れば正面にスカイツリーが目いっぱいに聳えています。

学校
さりげない木製の校銘板がいいですね!

錦糸小学校 タワービュー通りに小学校がありました。王貞治、いかりや長介、三遊亭円楽、大場政夫、木の実ナナさんらが卒業していますね。

ここから錦糸町駅前まはでもうすぐです。

駅に着いたらちょっとばかり錦糸町駅の南側に出ます。

ビル
楽天地ビル

江東楽天地跡(こうとうらくてんちあと)

錦糸町駅南側。かつてそこには大きな娯楽街が開けていました。昭和12年(1937)、阪急阪神東宝グループの株式会社東京楽天地によって運営されたもので、東宝創始者・小林一三の発案によるものでした。

というようことは別仕立ての折にしまして、ひとまず、山田家へ!

歩いて3分。

店

下町にある「人形焼き」の名店。

菓子
「本所七不思議」がデザインされています。ボリュームのある人形焼き!
サイン

みゆきさんの大好物らしです。わたしもとりこ。どこの人形焼きより軍を抜く美味しさ!

人形焼き
餡入りと餡なしがあるよ~ポンポン

散歩みやげを買ったらおしまい。ポンポン!

じゃここで〆にしますよ。

それじゃまた!

人形焼き
こちら山田家の紅葉饅頭~

おススメ特報!! 軽快な散歩力を生み出す、フットワークのいいリュック!

ガッチリ詰めても肩に軽さ。

特選・特報

by

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

独占!わたし時間~時空の旅みやげget!!!