洋風公園のパイオニア、日比谷公園を楽しむ散歩。「心字池」と「雲形池」を結んで!
近代化をリ-ドした街に近代的な洋風公園が生れました。
「日比谷公園」と名付けられました。
都市公園のパイオニアとして、「首都東京にふさわしい近代的な公園を」という要請にこたえたものでした。
ドイツの公園をお手本に、芝生や花壇や噴水、遊歩道などの備わった都市公園の誕生でした。
その「日比谷公園」も開園からすでに百余年を数えています。
これほど歴史の痕跡をとどめ、その記憶をよみがえらせてくれる公園はないでしよう
いまではビジネス街の貴重なオアシスともなっています。
ということで、以下、近代公園の痕跡が色濃く残る日比谷公園、そのぐるり一周を写真と拙文でお届けします!
驚く勿れ!有楽町駅、日比谷映画街、日比谷公園、日比谷濠一帯は海だった!
ちなみにこのコ-スは「JOINT・SANPO」(ジョイント散歩)が可能です。近接のコ-スと合わせぜひワイドな散歩をお楽しみください!
JR有楽町駅の高架下はわりとごみごみしています。
夜になると屋台の灯りもついて夜なりの賑やかさを増すところとなっています。
線路際がかつては波打ち際だった!
ビックカメラのところは、かつて「そごう」デパ-トも入っていた「読売會舘」。三角地帯は昔のままですね。
幅の広い「晴海通り」。正面は日比谷交差点から「日比谷濠」、そのさきに皇居が広がります。
海底に潜ってゆくといった感じでしよぅか!
「日比谷公園」には、地下鉄日比谷線「日比谷」駅を利用するのもいいかも知れません。
ところで、日比谷公園に入るまえにちょっとお話ししておくことがあります。
いまでは想像しがたいことですが、このあたり一帯が海、江戸湾の入江だったということですね。
つまり、これから歩くすべてが海の歴史を有しているといっていいでしょう!
日比谷入江概念図
新橋あたりから和田倉門、大手町(A)のあたりまで海が入り込んでいました
↑『江戸の川・東京の川』鈴木理生著より↓
日比谷入江が埋め立てられ江戸城周辺に大名屋敷が拡大されました
入江の埋立て造成地に大名屋敷が建ち並んだ日比谷!
日比谷入江 江戸期に入るまで、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には「日比谷入江」といわれた遠浅の海が広がっていました。
銀座のあたりは「江戸前島」(えどまえじま)といわれ、砂が堆積し半島のようになっていました。
日比谷入江の埋立 徳川家康は江戸の街の大改造を進め、文禄元年(1592)、日比谷入江の埋立をスタ-トさせました。埋立には西の丸の築城工事で出た残土を用いたといわれています。
「日比谷濠」は「日比谷入江」の名残りをもっています。
左に「日比谷濠」をみての「日比谷通り」。左手にGHQのマッカ-サ-室で有名な「第一生命ビル」、「帝国劇場」もみえます。
遠くにみえ.るのは「和田倉橋」。「和田倉御門」のあったところです。
この和田は「ワダ」(海)を表すもので、「和田倉門」は、海に面して倉がたちならんでいたところの門、と解するのが妥当だそうです。
こうみるとこの一帯が「海」だっということが想像しやすくなりませんか?
大らかにみると、「海」の痕跡が漂っているようにもおもわれます。
遠くの橋は「祝田橋」でしょう。
「祝田橋」は江戸時代にはなかった橋です。日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路として造られました。
古く遡ると鎌倉時代の鎌倉道の主道だったともいわれます。このあたりの「鎌倉街道」はちょっとした渚ラインだったんでしようね。
太田道灌の時代なら、道灌歌といわれる一首、
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る
といったところだったでしょう。ピッタリの風景歌ですね。
赤線で囲った範囲が「日比谷公園」
日比谷入江の埋立造成地にびっしりと大名屋敷が建ち並びました。
日比谷交差点。このあたりに「日比谷御門」の枡形があったのでしょう。
江戸城警護の「日比谷御門」も構えられました。
日比谷御門(日比谷見附) 寛永4年(1627)浅野長晟(あさの・ながあきら)によって石垣が築かれ、寛永6年(1629)、伊達政宗が枡形門を築いて日比谷御門が完成しました。枡形の構えをもった城門でした。日比谷交差点のあたりに相応したでしよう。
日比谷入江の埋立により造成地が拡大し、日比谷公園のところにも武家屋敷が建てられるようになりました。
広重「江都勝景」日比谷外之図(国立国会図書館蔵)
大名屋敷 上の広重の画は、右側が長州藩毛利家上屋敷、左側は辻番所、奥に見えるのが日比谷御門。このように、「日比谷公園」の場所には、江戸期を通じて大名の上屋敷が建ち並んでいました。
陸軍の町と化した時代の有楽町・日比谷
陸軍の統括地となった時代
明治になり大名屋敷が退くと、そこに明治4年(1871)に「陸軍操練所」が配備されることになりました。
明治18年(1885)、操練所は「日比谷練兵場」と改称されます。
明治19年(1886)、明治神宮外苑の「青山練兵場」へ移転しました。
このような経過のある時代を作家・田山花袋は記しています。(田山花袋 『東京の三十年』)
「日比谷は元は練兵場で、原の真申に大きな銀杏樹があって、それに秋は夕 日が さし、夏は砂塵、冬は泥淳で、此方から向うに抜けるにすら容易ではなかった。 ことに、今の有楽門から桜田門に通ずる濠に添った路は、雨が降ると路がわる く、車夫は串の歯の泥浮に埋れるのを滴 したところである。そ してそれが砂 くとも明治二十八年まで、さういふ風であった」と。
渋沢栄一に「俺の知恵袋」と言わしめた男、本多静六の登場!
日比谷公園造成計画
日比谷練兵所が青山に移されたことで日比谷に広大な空き地が生れました。
時まさに「市区改正」で都市の改造が進められていました。
そんなことから明治21年(1888)、「日比谷練兵場」跡地を公園にする提案が浮上しました。政府も乗り気でした。
造園設計図が決定
審議の結果、翌明治22年(1889)、「東京市区改正設計」が告示され、「日比谷公園」の整備が正式に決定しました。
切絵図をみると8大名の土地が充当されたことがわかります。
その後、さまざまな「日比谷公園」の設計案が作成・検討されることになりました。
日本でもはじめてとなる公園だったことから、決定するまでには紆余曲関がありました。
明治40年(1907)発行の『東京案内』より
で、取り上げられた設計図が、林学博士・本多静六氏の案でした。明治33年(1900)のことでした。静六まだ30代。
ドイツの留学経験があることから、ドイツの公園を範とし、花壇や噴水、音楽堂、運動場などが盛り込まれた設計案でした。
東京駅の設計で有名な辰野金吾氏のプランもあったが棚上げになり、お手上げで、それを本多にまわしたといエピソ-ドがあります。
本多静六はのちに「奈良公園」など国内に多くの公園を設計し、「日本の公園の父」と呼ばれるようになりますが、この「日比谷公園」がその第一歩でした。
≪渋沢栄一の知恵袋と言われた男≫、「蓄財の神様」とも崇められる男の、その力と魅力を知る!
本多静六が設計にかかわった公園をざっとひろってみました。参考にしてください!
春採公園(北海道釧路市)/鶴ヶ城公園(福島県会津若松市)/偕楽園(茨城県水戸市/群馬県立敷島公園(群馬県前橋市/大宮公園(埼玉県さいたま市)/清水公園(千葉県野田市)/養老公園(岐阜県養老町)/岡崎公園(愛知県岡崎市)/鶴舞公園(愛知県名古屋市)/和歌山城二の丸庭園(和歌山県和歌山市)/箕面公園(大阪府箕面市)/大濠公園(福岡県福岡市)/日比谷公園の開園など。
日比谷公園開園の図
こうして明治35年(1902)着工し、翌明治36年(1903)開園を迎えることになりました。
広場に花壇に噴水、音楽堂、シュロの樹等々。ハイカラな新天地に庶民の話題は尽きず。目をパチクリさせました。
誕生までに以上のような歴史の経過をたどって開かれた「日比谷公園」です。
日比谷公園をぐるり散歩しながら、ある々、野外コレクションをさがしましよう!
それではかつての「有楽門」から入ってみましょう。
日比谷公園には現在8つの門があります。公園のオ-プン時には有楽門、日比谷門、桜門、霞門、西幸門、幸門が設けられましたが、のちに中幸門、新幸門、祝田門が造られています。
公園内にはいろんな歴史を物語るモニュメントがたくさんありますから、そんなものをひとつひとつ見つめながら歩いてみましょう。
小路が多く、樹木も繁り、道に迷うようにおもえますが心配は御無用。道はみなどこかでつながって門へと導いてくれます。
日比谷門の門柱
有楽門 日比谷公園の門としては一番古いものでしよう。日比谷見附の石積の石が使われているそうです。
赤線の範囲を歩くことになります。
※御用屋敷 桜田御用屋敷とか「比丘尼屋敷」(びくにやしき)といわれました。将軍が逝去すると側室は大奥からこの御用屋敷に退くのが習いとなっていました。
この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。
心字池
心字池は日比谷公園ができる前は濠でした。
その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。
このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。
心字池は開園前の濠を偲び造られ、開園当初からの面影を残す伝統的な日本庭園です。池の周辺は、周囲の森と共にシラサギやカモなどの野鳥の生息場所になっています。また、6月にはハナショウブが咲き、冬には松の雪吊りが見られます。池の中央にはカメの形をした小さな『カメの噴水』があります。
心字池 東京名所写真帖 : (国立国会図書館デジタルコレクション)明治40年(1907)
写真をみると、今より池がもっと広かったようにおもわれます。日比谷濠とつながっていたのかな。右手が石垣でしょう。
池中、亀の噴水
日比谷見附の「石垣」や「心字池」をまわったら時計と逆方向まわりで歩くことにします。
すぐに目に飛びこんでくるのが「伊達政宗終焉の地」の案内板。
伊達政宗終焉の地(仙台藩外桜田上屋敷跡) 平成26年(2014)4月に仙台市によって設置されたもの。「仙台藩祖伊達政宗 終焉の地」。
東西が「心字池」西端から「テニスコート」東端まで。南北が「小音楽堂」付近から「日比谷堀沿いの道路」までとなるようです。
慶長6年(1601)、仙台藩祖伊達政宗が徳川家康より江戸屋敷を与えられました。
外桜田上屋敷ともいわれ、政宗から3代・綱宗の時代、慶長6年(1601)~寛文元年(1661)までの間、上屋敷として使用されていました。
政宗の時代には、徳川家康が3度、2代将軍秀忠と3代将軍・家光はそれぞれ4度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っているといいます。
政宗は、寛永13年(1636)年5月24日、ここで70年の生涯を閉じています。
旧日比谷公園事務所(旧東京都公園資料館)/東京都指定有形文化財(建造物)
日比谷公園の管理事務所として明治43年(1910)11月に竣工したものです。
長いこと「公園資料館」として公開されていました。
ドイツ風バンガロー様式の建物で、平成2年(1990)に東京都の有形文化財に指定されました。
現在では結婚式場として使われていますが、挙行されていない平日であれば、内部の見学は可能です。
松石 植物の松の木が化石となったもの。植物化石。
今から3~5000万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質(けいさんしつ)の液がしみこんだものを珪化木といいます。北九州の炭田では、炭素中に珪化木が含まれ、これを松石または松炭と呼んでいます。ここにあるものは、昭和初期、福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。
背後は明治36年の開園当時かの形状を色濃く残す第一花壇。本多静六が心血をそそいだといわれるところです。
ペリカン噴水 創設当時からのもので、第一花壇のシンボル的存在です。
向かい合った2羽のペリカンのくちばしの先から水が噴き出しています。
池には季節によりいろんな水生植物が彩ります。周囲も季節ごとの草花で彩られます。
ある日はこんなかわいらしい風景もみられました。
このあたりに切絵図にある「桜田御用屋敷」が設けられていたとおもわれます。
馬の水飲み場に使われていた台座のようですね。
当時はまだ馬が常用されていたことがわかりますね。公園のあちらこちらに設けられていたようです。
馬の水飲み場跡 鋳鉄製の馬の水飲み。公園開設当時のもので、照明灯(アーク灯)と同じデザインで作られ、重厚ななかに細やかな装飾が施されています。
この水飲みは、日比谷公園開設当時〔明治36年(1903)〕のものです。
鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。
また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。
アーク灯 馬の水飲み場と同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっています。解説板をみると、開園当時の公園灯で、園内に10基設置され、1200燭光の明るさがあったといあり、これ以外はガス灯70基が灯されたとあります。
さきに進むと「祝田門」に出てしまいますので、ここでUタ-ンして、ふたたび時計と逆まわりで歩きましょう。
正面にこんもりとした築山のようなものが目にとまります。
三笠山 公園の造成時に池などを掘った残土で作られた人工の山でした。
本来は三つあって、それが、どれも笠をふせた形に似ていたのでこの名が付いたといわれます。テニスコートの造成や周辺の整備に伴い大半は崩されてしまいまししたが、、この小山と、三笠山の名だけは残ったのだそうです。
日比谷公園庭球場 大正9年(1920)に開設された最古参のテニスコ-ト。
三笠山の真向かいに鐘を吊るした長方形の塔がみえます。
自由の鐘 安永5年(1776)、アメリカが独立宣言をした際に全世界の人々の自由を願い「自由の鐘」が打ち鳴らされました。その鐘を複製したもので、第二次世界大戦後、アメリカの市民たちから、日本の国民の幸福と平和を願い贈呈されたものだそうです。
青銅製で高さ約1メ-トル、直径約ヌフ1.2メ-トル、重さ約1トン、仏パッカード社(第56号)の製造。
碑文(塔裏面))
自由の鐘は1776年米國の獨立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。併しこの鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての國とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米國民間の匿名有志はその複製を連合軍總司令官リツジウエイ大將に託し、これを廣く日本國民に贈りたいと申出た。よつてリツジウエイ大將は自由の擁護者たる新聞を通じ廣く日本國民に贈ることが最も寄附の趣旨に副うものとして昭和27年4月日本新聞協會に寄贈された。日本新聞協會は日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し廣く國民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。 昭和27年10月 社團法人 日本新聞協會
歩いてゆく途中にふたりの子供が獣のオッパイを吸っている像があります。オオカミ少年の伝説かなと…。
ルーパ・ロマーナ(ローマの牝狼)像 イタリアから寄贈されたという狼像です。
ローマ建国の祖、ロムルスとレムス兄弟が、牝狼に育てられたという伝説に由来するものといいます。やはり伝説に基づくものでした。
本多静六が精魂こめた「三つの洋」のひとつ「第一花壇」。季節ごとに洋花が咲き誇ります!
日比谷公園の核心部分となる花壇。開園当時のデザインの幾何学文様の洋風花壇。日比谷公園のシンボルです。
管理棟があり、近くにあるパネル板では古い花壇の写真をみることができます。
日比谷園が目指したものに「三つの洋」がありました。そのひとつかが見たことのない「洋花」でした。それに応えたのが洋風花壇でした。
パネルの写真を拡大したもの
日比谷公園が目指したものに「三つの洋」がありました。そのひとつが聴いたことのない「洋楽」でした。それを実現したのが音楽堂でした。
小音楽堂 初代の音楽堂が建てられたのは大正12年(1923)7月。現在の大音楽堂のところに建てられました。
関東大震災で倒壊しため現在地に再建されました。
日本最初の野外音楽堂といわれています。
小音楽堂の最大の特徴はすべての催しが無料ということです。
大噴水 古いものではなく、昭和36年(1961)に完成したものですが、やはり日比谷公園の最大のシンボルはこれでしょうね。噴水池は上中下段の三段構造で、池の直径は30メ-トルです。
噴水は毎日8:00~21:00まで作動し、28分周期で噴水し24景みせてくれます。
噴水の高さは12メ-トルにものぼり、夜間にはライトアップされています。
大規模なイベント 日比谷公園では、噴水広場が会場となり、季節に合わせ様々なイベントが開催されています。
毎年11月には大正3年から開催されている我が国屈指と評される「東京都観光菊花大会」が開かれます。これはみごとです。
ある日には「錦鯉の品評会」が開かれていました。毎年開かれているようです。その年の一番を決めるんだそうです。
盥にビニ-ルシ-トがかかっていましたから、ちょっとブキミ!
日比谷公園で有名なもののひとつが「松本楼」ですね。
渋沢栄一の揮毫した扁額が残る日比谷松本楼
日比谷公園が目指したものに「三つの洋」がありました。そのひとつが「食べたことのない洋食」でした。
本多静六が「ヨーロッパの公園にはレストランが公園の中央にある。日本にもあって良いのではないか」と提案したことから、洋食店の入札が行われました。
それに応えたのが小坂梅吉でした。
明治5年(1872)、銀座の大火後、小坂梅吉は銀座に「小松食堂」を開業していました。
明治36年(1903)、日比谷公園の開園に伴う東京市の公入札で小坂梅吉が「日比谷松本楼」を立ち上げました。創業元年です。
そのときの松本楼は3階建ての洒落た店舗で評判を呼び、木々々に囲まれていたところから「森のレストラン」とも呼ばれたといいます。
「松本楼」には渋沢栄一の揮毫した扁額が残されています。
ある日のランチ
「松本楼」の扁額は渋沢栄一が揮毫しました!
昭和20年(1945)9月に、日比谷公園がアメリカ軍に占領されたことから、松本楼はアメリカ軍憲兵司令部の宿舎として接収されました。
接収解除となったのは同26年でした。
昭和46年11月19日夜、松本楼は当時吹き荒れていた学生デモで焼き討ちに遭ってしまいました。
全国からの支援と義捐金。それを基にして、昭和48年9月26日、松本楼は復活しました。
松本楼がその恩に報いる形で開いたのが、記念行事となっている「10円カレーチャリティーセール」です。
毎年9月25日に先着1500名にサービスしています。
会いにゆきたくなる樹のひとつになるにちがいない日比谷公園の銀杏!
首かけイチョウ そのネ-ミングもいいですね。はじめて聞く人は、ン?しばし考えてしまいます。
時は明治32年(1899)。日比谷十字路の近くにあったイチョウの大木は道路拡張のため、伐採される寸前でした。本多博士は心を痛めました。なんとかしてこの木を救おうと動き出しました。東京市参事会議長の星亨(ほしとおる)に直談判し、イチョウの移植を乞いました。
移植不可能と植木屋がサジを投げたと返されたが、博士は「俺の首を賭けても移植させてみせる」と言って、ついに本意にこぎつけました。
移植の場所は園内の「松本楼」のところ。そこまでレールを敷き、慎重に25日間かけて移植を遂行したんだそうです。
この本多の度量からそのネ-ミングがついたといわれています。
運搬の途中に新芽が出たというエピソ-ドもあります。
松本楼に通ずる道の途中、植え込みに埴輪があります。どうして埴輪が、と思ってしまいます。
埴輪(はにわ) 人の形をした埴輪が2体と、家の形をした埴輪があります。疑問はも説明板によってみましょう。
昭和40年8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体を東京都に贈られました。宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ沢山の古墳がありますが、その古い宮崎を偲ぶため造られたのがはにわ園で第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園の中にあります。 昭和40年8月21日
宮崎県知事 黒木博
石橋 「雲形」から北にのびた水路上に架けられています。
そもひもは増上寺の旧御成門前を流れていた桜川に架かっていた石橋で、市区改正における道路建設のとき、ここに移されたのだそうです。
雲形池に沿ってゆくと、またまた頭をかしげたくなるものがあります。
京橋の欄干柱
この石柱は、明治8年(1875)築造された京橋の欄干柱(らんかんばしら)で、大正11年(1922)架け替えの際にここに移されたものです。
当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年(1934)京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。
逍遥というコトバが似合う 「雲形池」、「鶴の噴水」が似合う池!
緑の季節し紅葉の季節
松本楼と図書館にはさまれたあたりは、木立ちが密集していて[都心の森」を感じさせてくれます。
春には池のまわりが桜色に変化します!それもまた日比谷公園の春の楽しみのひとつです!
洋風公園のなかで、唯一桜が「和」を感じさせてくれます。
雲形池
心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。
池内にあるはばたく姿の『鶴の噴水』が有名ですね。中でも翼からいくつものつららが下がる姿は公園の冬の風物詩となっています。
池の形が決りきってなくて明確に説明できない、どことなくアンバランス。それをして千変万化の雲の形になぞらえ、そう命名されたといいますが、そんな説明はいらない、自由に想像するのがいいようです。見る人の心の中のカタチでいいのでしょう。
日比谷公園・紅葉の季節のハイライトな彩り!
鶴の噴水
鶴の噴水
この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声 両氏に依頼製作したもので、公園などでの装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。(1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園)
当初は、鶴と台座とも銅製でしたが、戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。
雲形池のまわりは紅葉が色づくと満艦飾の華やかさです。池の脇にはベンチも置かれているのでゆっくり景色を楽しむことができます。
大音楽堂 昭和17年(1942)、現在の音楽堂のところにはじめて建造されました。
「日比谷野音」とも呼ばれていることは一般化してますね。
昭和57年8月、老朽化のため一時閉鎖されましたが、翌58年8月、いまある音楽堂が建造されました。
ここは毎年5月1日、メイデーの集会所となり、その他いろんな集会でも使われています。
大音楽堂の裏手にまわると「かもめの広場」というのがあります。
噴水中央の水面からかもめが飛び立つオブジェ
かもめの広場 公園の南西角にある広場で、かもめの噴水があることから、そう呼ばれています。
昭和61年(1908)に開かれた広場で、かつては東京地方裁判所分室の建物があったそそうです。
鴎かもめ うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻。 1986 作者 淀井敏夫
とあるのは、作者からのメッセ-ジでしようか。
カモメの広場は日比谷公園のなかでもっとも桜の花が華やぐところです。
郷土の森 広場を囲むように全国各県の県木が植えられています。
南西詰めのこの広場から「日比谷門」のほうにもどることにしましょう。
日比谷公会堂の近くに公園内では珍しい和風の民家造りの建物があります。
南部亭 七代目東京市長・後藤新平氏が「市民のために」をコンセプトにこの地に出した蕎麦屋「新平」が前身といいます。現在はフランス料理店になっています。
天井の太い梁は手斧削り、特別誂えの京瓦、漆喰の壁。純日本式建築の粋を尽くし、当時の政財界人、文化人に親しまれたそうです。
途中、「幸門」の左手に平たい大石が立てられてます。
鳥帽子石 もともとは江戸城の外堀「市ヶ谷御門」の石垣として使われていもので、形が烏帽子(えぼしという、昔の元服した男子のかぶりもの似ていることから、縁起のいい烏帽子石と呼ばれて珍しがられていたそうです。
明治時代、道路拡張に伴い石垣が取り壊された際、ここに移されたようです。
この烏帽子岩の表面には明治の初期にだけ使われた「几号水準点」という、測量記号が刻まれています。これは「心字池」の「亀石」にも刻まれています。
建築物の北側部分が「日比谷公会堂」、残りが「市政会館」という構造になっています。
母校の早稲田大学大隈講堂の設計者としても知られる工学博士・佐藤功一氏による設計。(東京都選定歴史的建造物)
日比谷公会堂・市政会館 東京都選定歴史的建造物 設計者 佐藤功一 建築年 昭和4年(1929)
大正9年(1920)に東京市長に就任後、東京市政のための中世独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正11年(1922)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計をもとに、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和4年(1929)に竣工した。全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。一部の窓に使われた黄色テラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけている。 東京都
明治41年(1908)、「東京市立日比谷図書館」として開館。以後、東京市立図書館のリ-ダ-格としての機能してきました。
昭和18年(1943)、都制の施行により「東京都立日比谷図書館」と改称されました。
昭和20年5月25日の東京大空襲で全焼しました。一部蔵書は疎開されてはいたものの、209040冊(東京都調査)の蔵書が焼失したといいます。
昭和32年10月に新しい図書館が落成。
平成21年3月31日を以て休館となり、同23年11月4日に「千代田区立日比谷図書文化館」としてリニューアルオープンしました。
独立してあった「千代田区立四番町歴史民俗資料館」の機能をこちらに移行しています。
常設展示室、特別展示室、カフェ、ショップ、地下1階は日比谷コンベンションホール(大ホール)、レストラなどとなっています。
日比谷通りに沿って公園内は日比谷御門跡のところまで歩きましょう。途中にいくつかのモニュメントがみられます。
石枡 江戸時代の上水道の木管の石枡。園内の三か所におかれています。
巨石を四角にくり貫いたもので、内側に所在を記したものもある。この枡は江戸市内大通り(銀座通り)のところ設けられていたものの遺構のようです。
南極の石
この石は、南極昭和基地から4kmの地点にある、東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取しました。重さは150kgの片麻岩です。
南極観測船「ふじ」が持ち帰り、昭和41年4月14日、この公園に設置されました。
石貨(せっか)
この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。
一般に、1.直径の大小 2.表面が滑らかか粗いか 3.形のよしあし 4.運搬の難易によって価値が決められました。
この石貨は直径1.35m短径1.00mのほぼ円形で、大正13年(1924)頃、1000円位で通用したと言われています。
大正14年(925)1月 ヤップ島支庁長寄贈心字池の近く、石垣の奥まった裏手、道路側に外国人紳士の銅像が建てられてあります。
セ・リサール博士胸像 スペイン支配下のフィリピン人の間に独立への機運を高めたが、スペインの総督府により処刑された。フィリピンの国民的英雄とされている。
Dr. Jose Rizal
NATIONAL HERO OF THE PHILIPPINES
STAYED IN 1888
AT TOKYO HOTEL
LOCATED AT THIS SITE
UNVEILD JUN 19, 1961フィリピンの国民的英雄
ホセ・リサール博士
1888年この地東京ホテルに滞在す
1961年6月19日建之建立 東龍太郎 神保信彦 木村毅 比国駐日大使 マヌエル・アデバ
古代スカンジナビ碑銘譯 昭和42年(1967)スカンジナビア航空が北極航路開設10周年を記念して建立したものです。
スカンジナビアの人々が、1957年2月24日ヨーロッパより北極経由で、日本への空路を開拓しました。この碑は、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑を模したものです。
季節の端境期にはこんな光景もみられます。
刻印がみえます。工事を請け負った大名の印でしょう。
江戸幕府は多くの工事をそれぞれ各大名に請け負わせていました。
「亀の噴水」
日比谷御門跡の反対側、石垣の最奥からも石段があります。こちらのほうが石垣に趣きがあります。
「日比谷門」からスタ-トして、ふたたび「日比谷門」にもどってきました。
「日比谷公園」を隅から隅まで、ざっと一周したことになります。
さて、ここからですと、地下鉄「日比谷」線の「日比谷」駅がすぐそこです。
ではここで〆といたします。
お付き合いありがとうございます。
それではまた。
日比谷公園
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index037.html