今日の散歩は若林、松陰神社の界隈(世田谷区)・吉田松陰と幕末をしのぶ!

幕末、若い志士たちのこころをひきつけた吉田松陰。

その墓は意外にも世田谷区若林というところにあります。

そこは武蔵国荏原郡世田谷村若林といわれた、武蔵野の静かな村でした。

寛文12年(1672)、第2代長州藩主・毛利大膳大夫綱広が地主から買い取り、抱屋敷(別邸)を作りました。

毛利氏の官位「大膳大夫」(だいぜんだいぶ)に因み大夫山、あるいは長州山と俗称されたといいます。

安政の大獄で小伝馬町の牢獄で処刑斬首れた吉田松陰の亡骸は小塚原回向院に埋葬されたのですが、

それから4年後の文久3年(1863)、高杉晋作、伊藤博文などの手によって長州藩ゆかりのここ大夫山に改葬されたのでした。

そして明治15年(1882)、墓所の隣に松陰神社が建立され今日に至っています。

大膳大夫   律令制時代の宮内省に属する官司で、朝廷における臣下への饗膳を供する機関の長官。

というわけで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

本を聴く?どんなものでしょう。

最初の1冊は無料というから、試しに今すぐ聴いてみましょうか!

今日の散歩は若林、松陰神社の界隈(世田谷区)・吉田松陰と幕末をしのびましょう!

都会のロ-カル線として人気の高い東急世田谷線・松陰神社前駅。大正13年(1925)1月に 開業された駅です。

三軒茶屋駅 ~ 下高井戸駅間を運行しています。

全駅が無人駅で、全線が複線になっています。

松陰神社通り商店街    南の世田谷通り(大山街道)と北の世田谷区役所通りの間を結んでいる、ちょっとレトロな雰囲気が残る600メートルほどの一本道です。

伊藤博文のプレ-ト

この商店街通りの両側に、松陰と「松下村塾」の塾生たちのプレ-トが街灯のところに打ちこまれてあります。よそ見しているとつい素通りしてしまうかもしれません。

松陰はじめ、高杉晋作、伊藤博文ら計10人ほどのプレ-トがみつかるはずです。

松陰で盛り上がっていたんですが!

かつては松陰グッズの専門店もあったりしたのですが、どうしたのでしょう(移転し今もあるというウワサも…)。

商店街を進み、世田谷区役所通りにぶつかると、目の前に松陰神社の黒みがかった大鳥居が聳えています。

松陰神社のある地は大夫山といわれていました。昭和のはじめころまではそう呼ばれていたようです。

気持ちのいい参道がまっすぐ北に続いています。

かつては石鳥居がありました。いまの鳥居は東日本大震災のあとに建立されたものです。

黒とも青ともつかぬ色合いの鳥居が神社と調和し境内の趣をひきしめているようです。

それにしてもここに松陰神社が建てられるなど誰が予測しえたでしょう。

吉田松陰  毛利藩士・杉百合之助の2男として天保元年(1830)8月4日萩城下に生まれました。

幼名は寅次郎(とらじろう)、名は矩方(のりかた)、号を二十一回猛士と称しています。

幼くして叔父・吉田大助の養子となり吉田の姓を継ぐことになりました。

幼時より俊才にして、11才で藩校・明倫館の師範をおさめ、ときの藩主・毛利慶親公に武教全書というものを御前講義をおこなったといいます、

20歳以後は江戸に出て、各地を旅行するかたわら尊王の志士や著名な学者と交流。中でも佐久間象山の影響は松陰の思想と行動に決定的な指針を与えたといわれています。

安政元年(1854)、米艦による密航に失敗した後は捕えられ、萩に幽閉の身となりました。

のち、ふたたび江戸に出てきましたが安政の大獄に遭遇し捕縛され、牢送り。

安政6年(1859)10月27日、伝馬町の獄舎で斬首されました。時に30歳でした。

ブロンズ像の原形となった石膏像は、品川弥二郎によって何度となく試作がなされ、ようやく松陰親族たちの納得を得て完成されたものといわれます。

品川は吉田松陰に接触していた時間が最も長いひとりだったといわれます。

 

(左)道標    世田谷通り(大山街道)の松陰神社入り口に建てられていものですが、世田谷通りの幅拡事業で境内に移動されたものだそうです。明治45年(1912)乃木希典公により寄進されたものです。

(中)旧鳥居石柱   旧鳥居の一部で説明板には、

松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十月五十年祭」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。

とあります。

(右)徳富蘇峰植樹の碑

徳富蘇峰(徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて同志社に学んだ。桂太郎と親交をもった。明治41年(1908)自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、あわせて碑を建立したといいます。

石燈篭32基    毛利元昭(もとあきら、長州藩・最後の藩主の長男)をはじめ、松下村樹の門下生の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典らにより奉献された石燈篭が左右にずらりと並んでいます。

明治41年(1908)、木戸、伊藤、山県、桂、乃木などの門弟たちが、松陰50年祭を営み、そのとき石の鳥居と石燈籠を寄進しました。

長州のオ-ルスタ-がそろっています!

神社の栞より

参道の左手の奥へと均一の燈籠が並んでいます。壮観ですね。

大きさ形は統一。井上馨の寄進。

参道左手、伊藤博文、山縣有朋…らの燈籠がゆかしいように立っています。

松陰神社は萩と東京の2か所にあります

松陰神社   神社の社地はかつて長州毛利家の別邸があった場所にあたっています。

明治15年(1882)に、吉田松陰の門下生・高杉晋作、伊藤博文ら旧藩士門弟らが中心となって、小塚原回向院にあった松陰の墓をこの地に改葬しました。

のちその場所に社を築いて松陰の霊を祀ったことが松陰神社の起源になっています。

祭神は、吉田寅次郎藤原矩方命(ふじわらのりかたのみこと)(吉田松陰)です。

昭和の初め社殿は大修理され、府社に昇格となりました。

祭神・吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)

松陰神社は萩とここ世田谷の2ケ所にあります。

松陰神社の冊子

吉田松陰は教育者でもあったことから、学問の神として崇められ、合格祈願や学問成就にご利益がある神社とされています。

松下虎図(しょうかこず)   水墨画家・土屋秋恆(つちやしょうこう)作の虎の額絵が奉納されています。

幼名の虎次郎にちなんだもののようです。

「何事もならぬといふはなきものをならぬといふはなさぬなりけり」
いい言葉ですね。口にすると、奮起させられます。
(何事であっても、できないということはない。できないというのは、やらないだけである)ウ~ン効くゥ~!

若き志士たちが集い、学んだ伝説の松下村塾が神社の一角に精緻復元されてます!

松下村塾(模倣復元)   山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を完全に模したもので、国士舘大学の寄贈になるものです。

吉田松陰の叔父・玉木文之進が天保13年(1842)に寺子屋を開き「松下村塾」の看板を掲げたのが塾の始まりとされています。

模倣復元の松下村塾は、昭和13年(1938)12月に、国士舘の構内(8号館北)に「景松塾」と称して建築され、昭和16年(1941)松陰神社へ寄贈・奉納された建造物です。

建築資材から大工・左官職人に至るまで、すべてを萩で調達し、東京に移送して建築されました。

吉田松陰顕彰のために、松陰にゆかりある幕末期の建物を解体し、それを主資材とし、建物周辺の大石、小石に至るまで、精巧に模倣して建てられたことがわかっています。(国士舘大学「国士舘創立と吉田松陰」より)

吉田松陰は野山獄(のやまごく)から出獄した後に玉木文之進より塾を引き継ぎました。

吉田松陰が子弟達に教育を施したのは安政3年(1856)8月頃より安政5年(1858)末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程だったといわれます。

萩の松本村にあったことから「松下村塾」と名付けられたといわれています。

身分の分け隔てなく誰でも入塾できる自由に開放されたものでした。こうしたところが若者の心を惹きつけたのでしょう。

多くの熟生が門を叩きまた。

松陰の姿勢は来る者を拒まず、去る者は追わずだったといいます。

松下村塾で吉田松陰の薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後でした。

そうした塾生の中から伊藤利助(博文)、品川弥二郎、山県狂介(有朋)、高杉晋作、久坂玄瑞)、山田市之丞(顕義)、佐世八十郎(前原一誠)、野村和作(靖)、吉田栄太郎(稔麿)など、のちの志士たちを輩出しました。

幕末から明治維新を通じ近代日本の原動力となった多くの逸材たちです。

熟内には屋根裏部屋がありました。

松陰が休憩したり昼寝をしたり、書を読み、心を鎮めたところといいます。

塾生の控え室。

熟生は先の講義がおわるまでこの部屋で控えていました。

意外と小さな講義室。

塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳の増築がおこなわれたといわれます。

この十畳間の柱に傷が残っています。

松陰が幕府の沙汰をうけたとき、塾生が怒って柱に傷をたてたといわれるもので、こうした細部まで忠実に模倣しています。

下段は英文になっています

上記ボ-ド文のおこし。

松下村塾(模造)(
松陰先生の叔父である長州藩士の玉木文之進が、天保13年(1842)萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。

玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衛門(松蔭の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引継ぎました。

更に、松陰先生が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治25年(1892)頃まで続きました。

松陰先生は、安政2年(1855)26才の冬に出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから、実家である杉家で親戚の子弟などに教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。

しだいに塾生が増えたため、安政4年(1857)11月5日には、杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実際教育を行いました。

さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が熟成に教育を施したのは、僅か2年半程でありましたが薫陶をうけた総勢90名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。

当神社にある模造松下村塾は、昭和13年12月に隣接する国士舘校内に松蔭先生顕彰のため建築 されたものです。

当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。 (現在でも建材の多くは当時のものが残っています)。

その後、昭和16年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成28年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。

玉木正之の碑  玉木正之は玉木正誼(たまき・まさよし)の子。玉木家は乃木家からの分家で、正誼は乃木希助の実弟。松陰の叔父にあたり、はじめに松下村塾を開校した玉木文之進の養子です。

松下村塾の敷地にあるもうひとつの松陰像。こちらは実に穏かな顔をしています。

製作者がどなたか刻銘を失念してしまいました。

吉田松陰・五十年祭、百年祭の記念碑

神楽殿   昭和7年(1932)、松陰神社が旧府社に昇格されたとき、毛利家より寄贈されたもので、平成12年(2000)に改修・増築が行われています。

吉田松陰墓~小伝馬町の牢獄で斬首された松陰は小塚原をへてここに眠る!

境内西側にある鳥居のある参道にむかいましょう。

鳥居をくぐるとつきあたりで参道は右に曲ります。

次に桂小五郎(木戸孝允)が寄贈したという鳥居をくぐります。

墓域の入口に建てられている鳥居で、墓所の修復の際、木戸孝允によって奉納されたもの。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれています。

墓地の配置図

吉田松陰先生他烈士墓所・説明文

文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰生生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。

松陰神社の冊子より

※安政の大獄   大老・井伊直弼や老中・間部詮勝(まなべ・あきかつ)らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印すると、松陰はそれを激しく非難しました。

幕府は安政5年(1858)から安政6年(1859)にかけ反対するものたちを弾圧し捕縛しました。連座するものは100人以上にのぼったといわれます。

松陰もそのひとりでした。

間部の暗殺企てを自供した松陰は伝馬町送りとなり、ついには沙汰が下り、即日処刑。安政6年(1859)10月27日、獄舎で30歳の若さで打ち首となりました。

首斬に立ち会ったのは7代山田浅右衛門吉利(首切り浅右門)でした。

関連記事  山田浅右衛門吉利の墓はコチラ四谷左門町・須賀町

よく評されるのは、吉田松陰の死に際して浅右衛門の語ったコトバですね。

「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、
役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

というもの。

松陰、最後の言葉は、

「吾れ今 国の為に死す 死して君臣に背かず 悠々たり 天地の事、 鑑照 明神に在り」

でした。辞世の句はあまりにも有名ですね。

遺骸は弟子たちの手で千住小塚原の回向院に埋葬されました。

吉田松陰辞世の句

質素な墓石が松陰を取り囲むように建てられています。

右から福原乙之進大江信冬墓・吉田寅次郎藤原矩方墓・頼三樹三郎某姓醇墓

文久3年(1868)正月。高杉晋作、伊藤博文らによっては松陰の亡骸は千住小塚原回向院より、長州藩ゆかりの世田谷若林大夫山に改葬され、正式な墓所となりました。

「吉田寅次郎藤原矩方墓(中央)」/「頼三樹三郎某姓醇墓(右)」、/「福原乙之進大江信冬墓(左)」ほか、「小林民部少輔墓」、「来原良蔵多々良盛功墓」、同士6人が眠っています。まず松陰と頼、小林の3人が改葬され、後に来原と福原の墓が建てられました。その後も関係者が大勢ここに埋葬されています。

※頼三樹三郎墓   学者・頼山陽の三男。勤皇志士として活動するが、安政の大獄で捕えられ福山藩邸にて幽閉、のち小塚原にて処刑されました。

この墓地はのち「禁門の変」や「長州征伐」などの摩擦により幕府によって破壊されたのですが、明治元年(1868)木戸孝允等の手によりに修復されました。

この墓所修復の快挙を聞き届けた徳川側から謝罪の意をこめ墓所前に「石燈籠」と「水盤」が奉納されました。

松陰の墓は全国に4ケ所存在します。

  • 斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。
  • 後に小塚原回向院から改葬し、遺骸が眠る東京・松陰神社内のこの墓。
  • 山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。
  • 山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の招魂場)。

長藩第四大隊戦死者招魂碑    明治37年(1904)、桂太郎によって建立されたもの。

桂太郎率いる第四大隊は戊申戦争で約200名のうち戦死者41名、負傷者53名と、不甲斐無い死傷者を出してしまいました

桂はそうした悔恨もふくめ彼らを招魂する意味をこめこの碑を建立したとされます。

 

松陰墓地の鳥居を出るとまん前が墓地になっています。

著名人が眠っていますから香華を手向けてゆくのもいいでしょう。

滝川政次郎の墓   日本の法制史の第一人者。一説には高橋和巳の長編小説『悲の器』の主人公・正木典膳のモデルといわれています。

早川雪舟の墓   千葉県出身。21歳で単身渡米し、1910年代、草創期のハリウッドで映画デビューし一躍トップスターとなった。晩年の『戦場にかける橋』(1958)でアカデミー助演男優賞にノミネートされる。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期の人気女優でした。法名「顕優院釈雪舟大居士」。

人見東明の墓   人見 東明(ひとみ とうめい)。教育者。昭和女子大学(旧日本女子高等学院)の創設者

恩賜の墓・同窓の墓からなっています。

人見氏は北原白秋や志賀直哉などと交流した詩人でもありました。人見東明はペンネームで、名は圓吉。ある時、筆を折り、子どもたちの心に詩を遺したいと昭和学園を創立したと伝えられています。

広沢真臣の墓   松陰神社参道の西側からしかのぞめません。高い塀越しに鳥居と神道碑がみえます。

広沢真臣(ひろさわ・さねおみ)。長州藩士。木戸孝允と並ぶ長州の「維新の元勲」。明治4年(1871)私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39歳。長州藩の菩提寺、芝区の青松寺に設けられたが、後にここに改葬された。萩にも墓があり、こちらは分霊墓とおもわれます。

桂の遺言により墓は吉田松陰墓地の傍らに!

桂太郎の墓  長州藩士。毛利元徳の小姓役をつとめ、井上馨とは義理の親子の関係にあたります。

母の実家・中谷家は180石どりで、叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサー的な存在でした。

松陰が刑死したとき桂は13歳だったので松下村塾には入門していません。

明治新政府では、台湾総督、陸軍大臣、内閣総理大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、外務大臣など歴任しています。

明治34年(1901)首相に就任すると、日英同盟を締結し、日露戦争では日本を勝利に導きました。

西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」をつくり、第2次桂内閣時には韓国併合を行いました。

桂太郎の墓所をすぎると道はそのまま若林公園になだれこみます。

一帯は武蔵野の雑木林、大夫山時代の名残りをみせています。

若林    若林という地名は名の如く若い木を植え林にしたことによるもので、一説には、新田に刈り取った稲束を架け干しにするための若木を植えたところからいうもの。

秋の紅葉

区役所通りをゆき、公園の西詰めに進むと、世田谷区役所前の十字路北側に国士舘大学のキャンパスが広がっています。

ちょっとカレッジ散歩しましょう。雄々しい名前の国士舘大学です!

※ 現在はコロナ禍のためしばらくの間、校庭内、建物、記念館ともに関係者以外は通行及び観覧などは禁止ということです。ご注意ください。

秋の紅葉時のキャンパス
校舎の敷地はかつては広大な毛利邸で占められていました。

国士舘大学
大正6年(1917)、柴田徳次郎にによって麻布笄町(現・南青山)に創立した私塾の国士舘が基になっています。
大正8年(1919)、学校の発展にともない、広い土地を求め吉祥寺への移転を決めていたところ、幸いにも松陰神社の仲立ちにより神社の隣に移転することになりました。
これでさきの「松下村塾」の精密復元の建築経緯がわかりますね。

国士舘大学校庭のシンボルツリ-。

緑がまぶしいほど!

秋の黄昏どきのキャンパス!

校庭の中に際立つ建造物があります。

古建造物で国士舘大学の貴重な建築遺産のひとつです。

校章入りの屋根瓦

学生たちはここから大講堂に入り、正座して学びました。

「国士舘創立者 柴田徳次郎 生誕120周年~教育者 柴田徳次郎の生涯」パンフレットから

国士舘大学・大講堂 大正8年(1919)9月に建設された木造校舎。戦災からも免れた、国士舘創立期の唯一の建造物となっています。

そうした価値がみとめられ、平成29年(2017)、国の文化財に指定されました。

柴田徳次郎銅像   大講堂前に建つ創設者・柴田徳次郎氏の銅像。なかなかシャイな感じをうけます。

※柴田徳次郎   日本の保守思想家で教育者。国士舘創立者。総長・理事長・学長を歴任した。

福岡県那珂郡別所村(現:那珂川市別所)生まれ。苦学して学び、あわせて各界の名士と出合うことによって思想的な芽生えをもちました。

早稲田大学に入学し、緒方竹虎・中野正剛・中山博道といった知遇を得て、大正2年(1913)青年大民団をを組織し、大民団の私塾として国士舘を創設しました。

以下、大講堂の建物内部を見学させてもらったときの写真でご案内します。

明り取りの窓がステキですね。

格天井と日の丸が印象的です。

すごい! この大太鼓!おもわず唸ってしまいました。

どこからみても身の引き締まるきっちりした大空間ですね。

畳がなんとも清々しい。

国士舘大学に隣り合うように一寺があります。

勝国寺の山門・幕末の文久~元治ころのものと推定されています

勝国寺   世田谷の寺院の多くが世田谷吉良氏にかかわりをもっていますが、ここもそのひとつ。

真言宗豊山派、開基は吉良政忠。世田谷城の東北に当たり、鬼門の方角であるので、吉良家5代目政忠が鬼門除けとして創建したのだそうです。

本尊の不動明王の目が金色のため、『目金不動』、とも呼ばれているのだそうです。木造薬師如来立像は世田谷区の指定有形文化財になっています。

※吉良氏   清和源氏で足利義氏の庶長子長氏に始まる三河吉良氏と長氏の弟義継より出た奥州吉良氏(のちに世田谷吉良氏)があります。

地蔵立像    表門前の左側に置かれている。享保17年(1732)造立とさています。

勝国寺からふたたび国士舘大学前の区役所十字路までもどり、南にむかい国士舘大学付属の「柴田会館」に寄ってみましょう。

国士舘大学の資料館が併設されています。

いまのところ、コロナ禍で残念ながら入館できません。

昭和58年(1983) 4月に竣工されたもので、創立者・柴田 徳次郎 の功績をたたえて創設された記念館です。

1階が同窓会本部事務局、2階が国士舘史資料室、4階が国士舘史資料室(展示室)になっています。

大講堂の前の銅像と同じ鋳型で造られたようです。

いまのところ、コロナ禍で残念ながら閉鎖中です。

展示室・閲覧室

月曜日〜土曜日/10:00~16:00/日曜祝日、 本学の定める休業日を除く)
観覧は無料

散歩の途中で知りました。教育関係において、ここでも渋沢栄一が活躍しています!

前列左より頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰。後列左より花田半助、海辺海旭、柴田徳次郎。

大正16年(1926)、国士舘維持委員会が開かれ、国士舘の教育に賛同する各界の名士が参集しました。

そのとき撮影された記念写真には、国士舘大学の支援者として渋沢栄一の顔もみえます。

記念館からそのまま南に、世田谷線を越え世田谷通りまで歩きましょう。

世田谷通りに出たら左にまがり、そのまま500メ-トルほど進むと左手の木立ちの中に説明板があります。

北原白秋旧居跡  詩・童謡・民謡など多くのジャンルですぐれた作品を生み,短歌の世界でも大きな足跡をのこした北原白秋は

昭和3年(1928)大田区の旧馬込町からここ若林に移転してきました。

世田谷通り(大山街道)に面した広い瀟洒な洋館でしたが、街道に面し騒音がうるさかったようです。

ここでは若林時代の歌を集めた「世田谷風塵抄」と題する一連の短歌を詠んでいます。[歌集『白南風』(しらはえ)収録]

「雄大な木立と雑草の原が多く、随所にまだ田園の野趣があふれて」

いたという若林でした。

「その家は赤瓦の洋館で、邸内は広く、離家は数奇の和風であり、石の多い幽雅な奥庭もあった」(歌集『白南風』巻末)

と若林の邸宅の様子も記していますが、歌集の末尾に、

「風塵と騒音が耐えがたかった」

とも記しています。そこで「世田谷風塵抄」名付けたわけですね。

霾(つちふ)らし嵐吹き立つ春さきは代々木野かけて朱(あけ)の風空

風面(かざおもて)朱に吹き立つ春真昼ゑぐき埃(ほこり)に食(じき)いとふなり

木檞(もっこく)の しづけき空へ ちりかけて 桜はしろし 光る花びら

風たまゆら 土しづけき 花びらの ひとつ舞ひ立ち はらら皆立つ

57年の生涯のうち、44歳から55歳までの12年間を若林で過しています。

近くの信号で世田谷通りを向かい側に渡り渡りましょう。

渡ると町名は上馬になるのですが、ほど近くに常盤塚と駒留八幡があるので寄ってみることにします。

100メ-トルほど歩くと右手に入る細路地があります。

そこを進むとすぐ右手にごく狭い公園があります。世田谷区では有名な常盤姫伝説の地です。

フィクションですが、登場する社寺や地名の多くが実在するため真実味をもって語り継がれてきました。

常盤塚   古くからの塚があったのですが、「常盤塚顕彰協賛会」によって昭和58年1月に今の塚に再建されたと記されています。

伝説は中世の世田谷城主・吉良氏にまつわるものです。

世田谷城の吉良頼康には13人の側室がいました。

吉良氏の重臣で奥沢城主大平氏の愛娘・常盤姫は頼康の寵愛をうけ子を授かりました。

他の側室たちは嫉妬のあまり、あらぬ噂をでっちあげ、城中一のイケメンと密通、懐妊の子はイケメンの云々、と頼康に吹き込みました。

信じた頼康は怒り狂い、ただちにイケメをン誅すると、常盤を捕らえるように命じました。

身重の常盤は間一髪のところで城外に逃れるも、もはやこれまでと観念し、愛鷺の足に遺書を結び奥沢城の父のもと飛ばしました。

しかし鷺は雨にうたれ文の重さに耐えきれず落命してしまいました。その地から鷺草が咲いたといいます。

頼康は事の真実を知り、12名の側室をみな処刑しました。

かつては常盤塚の近くに12名の側室全員を処刑し埋葬した「十二塚」と伝えられるものがあったといいます。

鷺草  世田谷区弦巻の曹洞宗・鶴松山実相院(開基は吉良氏朝)の境内にて

常盤の解き放った白鷺が力尽きて落命した土地に、名も知れぬ可憐な花が咲くようになりました。

その形、まさに鷺ですね!

の花は白く、まるで鷺が羽ばたいているように見えたところから、人々は“鷺草と呼ぶようになったということです。

常盤塚から150メ-トルほど進むと、左手に神社の境内が広がります。

駒留八幡神社
上馬一帯(旧馬引沢村)の鎮守社とされていました。本殿は木造八幡造。
鎌倉時代後期のこと。
このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬が留まったところに社殿を造ろうと誓いました。これが現在の場所で、馬が留まったところから駒留と名付けたといわれます。

常盤亡きあと。

吉良頼康は常盤と男児を深く悼み、男児を「若宮八幡」として駒留八幡の相殿神として祀りました。

また、常盤が死後怨霊となって現れたため、精霊供養として弁財天を祀ったと伝えられています。

戦前までは境内に池があり中島もあったのですが、後に池は埋め立てられたそうです。

さて、神社をあとに、来た道すじを「松陰神社前」駅まで戻ることにしましょう。800メ-トルほどです。

または、近くの環状7号線に出て、ひたすら歩いて600メ-トルほどで世田谷線の「若林」駅に到着します。

ということをご案内してひとまずここで〆といたします。

それではまた。

そうだ、きょうの散歩土産だ!

地元の老舗パン屋さん、ニコラス精養堂。「松陰饅頭」の看板も掲げてあります!

松陰饅頭

松陰饅頭

右・アンパン

ニコラス精養堂

東京都世田谷区若林3丁目19−4

東急世田谷線・松陰神社前駅 徒歩1分

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