今日の散歩は自由が丘の界隈(目黒区)・トットちゃん(黒柳徹子)が通った街!

大蛇

奥沢神社の大蛇・ひょうきんな顔してますね。

「自由が丘」、いつ聞いても大らかで開放的な名前ですね。

「自由」、それを町名にした先人の優れた才知に拍手したいですね。街並みにもそんな自由ム-ドが漂っています。

この街はせかせか歩くのではなく、一歩一歩、自由という意味合いをかみしめなから散歩してみるのがいいでしよう。

道が縦横に自由に走っているんですが野放図というのではなくどこか整っていることがわかります。自由でありつつきちんとしてます。

自由で快活そうでバラエティ豊かないくつもの通りが走っています

マリクレ-ル通り、自由通り・メイプル通り・カトレア通り、すずかけ通り・学園通り・サンモア通り、椿通り、しらかば通り・・・どの通りにも、いろんなお店がひしめいています。ショッピング好きにはかっこうの町かもしれません。

というわけで、自由らしさのある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

東急東横線の「自由が丘駅」には、東横線とクロスするように東急大井町線も乗り入れており、地図上で俯瞰してもそれはとても印象的です。

出口は3つ(正面口・南口・北口)あり、ちょっと迷いやすいですが、降りたら正面口に出ましょう。

ここが散歩の起点となります。

江戸時代以来、緑が丘から自由が丘までの一帯には谷や田畑が多かったので、地元の人々は地名を「谷畑」(やばた)と呼んでいたといいます。明治22年(1889) 町村制の施行に伴い、一帯は碑衾村(ひぶすまむら)という、つまり碑文谷と衾村が合併して一村になった村に属するようになりました。

昭和2年(1927)に碑衾町大字衾字谷畑となり、昭和7年(1932)に目黒区が成立したとき、碑衾町大字衾の一部を「自由ヶ丘」に改称し初めて町名として名乗ったといいます。当初の表記は「自由ヶ丘」でしたが今は「自由が丘」です。

もっと裏を話すと、自由が丘駅は昭和2年(1927)の開業に際しては「九品仏駅」(くほんぶつえき)でした。近隣にある九品仏で有名な古刹・浄真寺にちなんだものでした。

ところが昭和4年(1929)のこと、大井町線に浄真寺参道の最寄駅ともなる「九品仏駅」というのがあらたに開設されることになったことから、こちらの駅名を改称する必要に迫られました。

電鉄側では「衾駅」(ふすまえき)と内定していたのですが反対する人が多く、「自由ヶ丘」駅に改称されたのだといいます。

このあたりの経緯についてよく語られるのは、だいたい次のようなことです。

昭和2年(1927)、欧米視察から帰国した手塚岸衛(てづかきしえ)という人が自由教育を提唱し、碑衾町に「自由ヶ丘学園」を開校しました。まずここに「自由」が出てきたわけです。

この自由に共鳴した舞踏家・石井漠らが運動をおこし、それを後押ししたのが碑衾村の村長・栗山久次郎翁で、東急の五島慶太氏と掛け合って、「衾駅」から「自由ヶ丘駅」に改称させたんだそうです。つまりは村長の押しと五島慶太の頷きがあっての駅名だったんですね。

当時、駅の利用者の大半が自由ヶ丘学園の生徒だったといいます。自由ヶ丘は学校名から駅名になって、さらに町名にもなったというわけです。

 

北と南を丘陵に挟まれ、かつてはその間を九品仏川(くほんぶつがわ)が流れていました。

自由が丘は九品仏川が作った段丘に開かれた町で、川の両側は雑木林のある傾斜地となっていました。斜径の名残りはアルクとよくわかります。

駅の周辺は低湿地で沼や田圃が広がり、そこを埋め立て造成したといわれています。

昭和3年(1960)に発表された武田繁太郎のベストセラー小説『自由ヶ丘夫人』(光文社)により、ちょっとステキナ住宅街としてのイメージがアップしたようです。全国に「〜丘」という地名が出来るきっかけともなった作品といわれています。

映画化もされました(東宝映画で監督・佐伯幸三。出演は新珠三千代・池部良・淡路恵子・加東大介・浜美枝・有島一郎・杉葉子といった豪華メンバ-)。それかどうか、いま全国に「自由ケ丘」とつくのは10ケ所くらいあるといいます。

自由に散歩したくなるルンルンさが「自由が丘」にはあります!

それでは、かつて農村地帯だった「谷畑」の中心ともいえるところに行ってみることにしましょう。自由が丘のヒルズ(丘)エリアということになりましょうか。

駅前ロ-タリ-の 一角に「女神像」があります。彫像の制作は彫刻家・澤田政廣氏の作品で、昭和36年、街のシンボルとして設けられたといいます。「自由が丘女神まつり」が毎年10月に開催されています。

それでは駅前の「しらかば通り」から入ってみることにしましょう。
100メ-トルほど歩くと大きな通りにぶつかります。通りに面してピ-コックストア-があります。

残念ですが「トモエ学園跡の碑」はしばらくみることはできません。

ストア-の前に「トモエ学園跡」の碑があったのですが、残念なことにストアの店舗建て替えに伴い、撤去されてしまいました。一時管理者が保管し、再建したらまた敷地内に再建するという話しです。

ということで、写真は旧態のままにしておきます。

黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』の舞台。徹子さんが幼いころに通った学校がありました。

『窓際のトットちゃん』は自由が丘駅での印象的な場面から展開してゆきます。

トットちゃんが大井町線の自由が丘駅の改札で、駅員に、

「この切符もらっちゃいけない?」

と聞くと、駅員さんの返事は

「ダメだよ」でした。

その時、トットちゃんは、

「私、大人になったら、切符を売る人になろうとおもうわ」

と考えちゃうんですね、

そして「トモエ学園」での生活が始まります。それから、どうしてこの「トモエ学園」に転校してきたのかが記されてゆきます。


入学は昭和15年(1940)のことでした。そのころトットちゃんは洗足池のそばに住んでいたといいます。

そのトットちゃんこと黒柳徹子さんが、この「トモエ学園」で過ごした日々の生活、沢山の出来事や、珍事などが、解りやすく丁寧に描かれてゆきます。挿絵は、有名ないわさきちひろさんです。この挿絵がまたいいですね、

トモエ学園は「自由ヶ丘学園小学校」の跡地の約半分ほどの敷地に昭和12年(1937)に小林宗作(リトミック教育の第一人者)により創設されました。

トモエ学園はリトミック(自主的感性)教育というのものを日本で初めて実践的に取り入れた学校とされています。

昭和20年の東京大空襲により校舎が焼失。戦後に幼稚園のみ再建。同21年小学校廃校。小林宗作は理想の学校を再び作ることを果たせすして同38年に69歳で亡くなりました。そして幼稚園が閉園となり、以後休園となってしまいました。学園には黒柳徹子のほか津島恵子、・池内淳子といった有名人たちが学んだといいます。
『窓ぎわのトットちゃん』には、
「この本を、亡き、小林宗作先生に捧げます。これは、第二次世界大戦が終わる、ちょっと前まで、実際に東京にあった小学校と、そこに、ほんとうに通っていた女の子のことを書いたお話です。」
と書かれてます。
小林宗作の教育方針は、
「どんな子も、生まれた時には、いい性質を持っている。それが大きくなる間に色々な周りの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、はやく、この『いい性質』を見つけて、それを伸ばしていき個性のある人間にして行こう」
というものだったといいます。
校長先生がいつも「トットちゃん」に言っていたコトバ。それは、
「君は、本当はいい子なんだよ」
だったといいます。黒柳徹子さんはよくこのコトバを口にしますね。


ピ-コックストア-の前の通りは南北に通ずる「学園通り」。学園とは、この通りのずっとさきにある、「自由が丘学園」のことでしょう。
この通りを北に歩いてゆきます。300ほどすると「すずかけ通り」と交叉します。そこを左にゆくと「白山神社」がありますからお参りしましょう。往復で400メ-トルくらいでしょうか。途中に「谷畑坂」があります。

150メ-トルほどのところで交わる道の右手の坂が「谷畑坂」です。まっすぐに上るやや急な坂です。旧衾村の字「谷畑」にあるったことから谷畑坂と呼ばれました。

この坂下はかつて湿地で「鷺草」が自生していたといいます。二子道(現目黒通り)から九品仏方面への古道といわれます。坂下で西に折れ、白山神社前を通って九品仏川を渡り、浄真寺に至っていたそうです。

さらに50メ-トルぼの右手に「白山神社」があります。せまい石段を上ります。石段を上がった高台に神社があります。目黒区八雲の東光寺にあった白山堂が分離してここに祀られたものといわれます。このあとでゆく熊野神社の兼務社となっています。

御祭神は白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)、また菊理媛尊(くくりひめのみこと)ともいわれます。「くくる」「くくりつける」という意味合いから、結びつけるに御神徳を持つ神様、縁結びの神様ともいわれます。

さて、学園通りまでもどり、さらに北へ歩きます。ゆるやかな上りの坂です。少し曲がるだけで、あとはまっすぐな道路です。さきほどの谷畑坂とほぼ並行しています。途中に「自由が丘公園」があります。公園の中央に桜の巨木があります。

250メ-トルほどで、「緑小通り」と交叉します。そのまままっすぐ100メ-トほどゆくと「自由が丘学園高校」です。

道路

緑小通り

この交叉点で右に「緑小通り」をゆきます。閑静な住宅街の通りです。3分ほど歩いた先で交叉する道路は「カトレア通り」の名がついてます。そこを右に曲ると右に「ラ ヴィータ」という洋風なメルヘンチックな建物があります。

女性雑誌などでは自由が丘のベニスと呼ばれるスポットになっています。

煉瓦造りの建物を配したオープンテラス、ヴェネチアを模したような運河に浮かぶゴンドラ。ちょっとした異国情緒が人気のようです。建物にはインテリアやアクセサリーショップ、雑貨屋、レストランなどのお店が入っています。

はす向かいには、古桑庵(こそうあん)という、昭和初期に建てられた民家を利用した甘味処があります。店名は桑の木を利用した茶室からとったものといいます。中庭には緑がいっばいです。お座敷に招かれて寛ぐという感じでしょうか。自由が丘では人気のお店です。

「古桑庵(こそうあん)という名前は夏目漱石の長女筆子の婿である小説家の松岡譲さんがつけてくださいました。当主の祖父で大正末期にこの家を建てた渡辺彦と松岡さんとはテニス仲間で、隠居後の楽しみにと二人で茶室造りを計画しました。そのときに渡辺の好きな桑の古材を松岡さんが郷里長岡から調達され、茶室「古桑庵」は昭和29年に完成しました。」(案内の栞から)

ふたたび「緑小通り」をゆきます。すぐ右手に「熊野神社」があります。参拝することにしましょう。

旧谷畑(自由が丘・緑が丘)の権現様といわれた村の鎮守さまです。

熊野詣でが盛んな頃、この村の講の人々が建てたといわれます。大きな熊野講が組織されていたんでしょう。

いまの社殿は昭和42年(1967)に新築されたもので、かつてのものは茅葺の質素ながら重厚な社殿だったそうです。

例大祭には民俗芸能の「目黒囃子」が奉納されています。

境内に「栗山久次郎翁銅像」が建立されています。栗山氏は、世田谷吉良氏の家臣筋に当たる由緒ある家柄といます。

碑衾村の村長さんで地域に貢献した人とされています。何といっても「自由が丘」の改名に奔走した人です。東急の五島慶太氏と駅名交渉を重ね、結果として「九品仏」という駅は「衾駅」ににならず「自由ケ駅」となりました。駅名の恩人といえるでしょう。

昭和10年(1935)の建立と記されています。

神社のさきの「自由通り」を越えると、線路の手前の右手に「谷畑弁才天」が祭られています。
めずらしい「馬霊魂」という碑があります。馬頭観音などと同じ意味合いをもつ馬供養の碑です。いまは交通安全の守護神とされています。昭和12年(1937)の建立となっています。

ここに清泉がこんこんと湧き出していたといいます。池はその名残りということなのでしょうか。いまも湧水があるとは思えませんが、かつて村人はこの湧水に助けられたようです。

由緒としては、この一帯を所有してい安藤与四郎氏のご先祖が、この地が弁天様の聖地であると悟られ、自由が丘の守護神として一社を建立したといいます。

通り

自由通り

自由通りまでもどり、その道を駅のほうに向かいましょう。

この自由通りは120メ-トルほどで東横線の線路を渡りますが、ここでちょっと寄り道をします。そのまま進む道は「女神通り」となっています。小さな路地を二つ過ぎたさきの道を右に曲ってほんの数分、十字路の向こう右手角、「セザーム自由が丘」の地下一階に「一誠堂美術館」(有料)があります。

ここで夢幻ともおもえるようなひとときを過ごすことにしましょう。

時計・宝石で有名な一誠堂が運営している、アール・ヌーボーのランプを中心にしたガラ ス工芸美術館です。

自然や草花、昆虫などをモチーフにした優美なガラス工芸品には眼が吸い込まれてしまいます。併設されている「カフェ・エミール」には、アール・ヌーヴォーの調度品、アルフォンス・ミュシャのポスターなどがはられています。

自由が丘駅方面に進み、二つ目の十字路を左にゆくと、線路を渡った先にさきほどの「自由通り」が走っています。この通りを大井町線を越え、九品仏川の暗渠をを越え、どんどん進みましょう。この「自由通」はずっと駒沢まで続いています。

暗渠

九品仏川の暗渠(緑地公園)

九品仏川緑地   昭和49年(1974)に暗渠化される際に、その上に造られた幅13メ-トル、長さ1657メ-トルの遊歩道です 。

九品仏川   元々は谷沢川(やざわがわ)の本流でしたが、自然の氾濫で取り残されてしまった河川でした。

水源は浄真寺の裏手でわずかな開渠があり、水源はそのあたりでと推測されています。

九品仏川の奥深い沢、つまりこれが「深沢」の名の起こりなのだそうです。

九品仏川が世田谷区との区境で、世田谷側は「鷺ノ谷(さぎのたに)」と称していたといいます。世田谷の花は「鷺草」ですね。

区界

自由通り。目黒区と世田谷の区境

地番が世田谷区奥沢にかわります。道が長く傾斜しています。ずっと先が見通せるほどの上り坂です。

自由が丘駅がいかに低地にひらけているかが実感できるでしょう。

区境から3分ほど歩いた左手の「奥沢教会」のところを曲がります。一帯は奥沢2丁目。このエリアに俗に「奥沢海軍村」と称される一画がありますので寄ってみましよう。

海軍村    開かれるきっかけは、東横線の開通によるところが大きかったといわれています。つまり横浜経由で海軍鎮守府のあった横須賀に行ける。目黑の海軍大学校、中目黒の海軍技術研究所、霞ヶ関の海軍省などにも行ける。こうした交通の利点が魅力とされたようです。

また危急時には一箇所にまとまってあるほうが都合がよいとういう、海軍側の思惑もあったのかもしれません。

海軍村がこの地に形成されたのは定説はありませんが大方、大正のおわり昭和の始めにかけてといわれています。

この一帯の大地主・原家が独力で区画整理を行い、海軍士官たちに借地として貸し与えたのがはじまりといわれます。

昭和に入るとその数は30戸にふえ、主に主計関係の海軍士官が住んだことから奥沢の「海軍村」と呼ばれるよになったといいます。すごいのは原家が独力でというところですね。

説明板

「土とみどりを守る会」説明ボ-ドより

聞くところによると、関東大震災直後で、建築資材が不足のこともあり、多くはスレート屋根に輸入材で建てられたといいます。

海軍村の一画をぐるるりとめぐり、つぎは「奥沢神社」をめざしましょう。

海軍村をコの字型に歩いて奥沢神社が正面に見える大通りに出て、150メ-トルほとで神社の鳥居にたどりつきます。

おもわず、「ワ~ッすごい」とだれもが笑いともつかぬ悲鳴笑をあげるでしょう。

江戸中期、疫病が流行した時、この地の名主さんの夢枕に八幡様が立たれ、藁で造った大蛇を祀るとよいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今もその伝統は続いているわけです。

鳥居をくぐって、すぐの左手に立つのが如意輪観音。道標をかねています。
観音の下部に「右品川ミち」「左めくろミち」と刻まれています。天明6年(1786)の銘がみえます。裏面には「左九ほんぶつえ」「右ふすまミち 」と標されています。
神社の南側の細い道路は九品仏(浄真寺)へ続いてます。おそらくそれを示す道標だったのではないでしょうか。
由緒によると、奥澤神社の創建年代は不詳ですが、世田谷城吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城(九品寺一帯)を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられています。

古くは八幡神社と称され、明治期に近隣の神社を合祀した際に奥澤神社と改称したとあります。

社殿は昭和45年(1970)に完成されたもので、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない社だそうです。

祭神・譽田別尊(ほんだわけのみこと)と合祀の稲倉魂命(うがのみたまのみこと)。

奥沢神社か東急電鉄目黒線の「奥沢」駅も近いのですが、ここからふたたび「自由が丘」駅にもどることにします。

自由通りを歩き出してすぐの左手に旗がひらめいており、それには(※)「魚籃観音」(ぎょらんかんのん)と染め抜かれています。石造りの観音が庭先に立っています。お花も供えてありますから、たんなるオブジェではなさそうです。
わざわざ旗も立てられているんですから、仏さまをお参りしてくださいということなのでしょう。だが、どうしてここに建立されたのかが疑問です。あまりない石仏ですからよけい気になります。

港区高輪に「魚籃観音」(寺前の坂「魚籃坂」)を本尊とする、それもズバリ「魚籃寺」(ぎょらんじ)という大寺がありますが、それはやや特別で、全国的にみて「魚籃観音」そのものは、他の観音様に比べて断然少ないようです。
それがここに立つとは。めぐり合せがいいということになりましょうか。ひとまず合掌。ありがたゃありがたや。
(※)「魚籃観音」は三十三観音の一つ。魚を商う姿をした美女観音、魚を入れる「魚篭」(びく)を手にしているのが特徴です。漁業や航行安全に御利益をもたらすといいますが、一般的には厄除け観音として親しまれています。

200メ-トルほど下ると「九品仏川緑地公園」のところに至ります。

黄昏の自由通り 自由が丘駅方面

「九品仏川緑地公園」は自由が丘駅付近から東急大井町線の緑ヶ丘駅までの約1.7ギロの遊歩道です。
遊歩道には春ですとソメイヨシノやウコンザクラなどがきれいな花を咲かせます。桜期間は通年では3月下旬~4月上旬とされています。

 

緑道のひとつ先は、ここも桜通り。しかしこの街路樹の通りはおしゃれに「マリ・クレール通り」と名付けられており、自由が丘でいちばん人があふれるところとなっています。両側にはアパレルショップや雑貨店、カフェ、飲食店がぎっしりと並んでいます。

おしゃれな街に桜並木がのびているので、ショッピングとお花見、一挙両得のメインストリート。

桜期間は通年では緑道と同じく3月下旬~4月上旬とされています。

ベンチもありますから、ちょっとここで寛ぐのもいいですね。

遊歩道を越え、大井町線の踏切をわたりましょう。30メ-トルほど先の十字路を左ゆき、東横線の下をぬけて次の十字路の右手に、自由が丘の顔のひとつともいえる、洋菓子の「モンブラン」があります。

ここに入ってお茶を飲むのもよし、モンブランをお土産にするのもいいでしょう。

東郷青児の美人画がシンボルです。包装紙や詰箱や袋ものにも装飾されています。昭和8年(1933)創業という、洋菓子では老舗中の老舗です。

店内に入るとワイドな美人画が迫ってきます。やはりオ-ダ-は、モンブラン(MontーBlanc)ケ-キでしょうね。日本におけるモンブランケーキ発祥の地ということになっています。。巨大な東郷青児の絵がかけられ広い喫茶室です。

目の前にある「自由が丘デバ-ト」のビルに沿ってゆくと自由が丘の駅です。

自由が丘駅正面口を出るとぱっと目につくのが、この「自由が丘デパート」。名前も外観もレトロです。

どこか昭和の郷愁をさそうデパートですが、そのはずで、昭和28年(1953)建てられた商店街ビルです。

戦後の「闇市」の名残りをかすかに秘めている、古くからの「自由が丘」の顔といえるでしょう。

約10平方メートルほどの小さな店舗が100店ほどぎっしりといった感じで並んでいます。

ワタシはこの一角を目にすると、「ああ、自由が丘だ」と、ほっとします。

さて、ふたたび自由が丘駅にもどりました。

駅周辺のショッピング街を敢えてはずしまして、自由が丘の「郊外散歩」いった感じになりました。

ではここで〆にしましょう。

それではまた!

 

 

 

 

 

 

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