散歩・徒歩・歩くこと~苦手!だったら、いずれも自分なりの実用に取り込めばいいいいでしょう!
散歩を実用化する散歩術、そのヒントとアイデア!(その2)
歩くのは人間の基本動作であり、移動手段として生まれたときから自然に活用しています。
ですが、いざ歩くとなると、歩くのはいゃだという。きついという。苦手だという。歩きたくないという。
総体的に拒否反応を起こす人が多いようです。
という以上に、現代人は総じて歩かなくなったといわれています。
ですがここにきて、歩くことが健康的にもいいということから、歩きたいという人がふえているといいます。
しかし、実際は歩きたくない、歩こうとしない、歩けない。
あげくは、どうしたら歩けるのですか?、と疑問を投げかけてくることになります。
それに対する結論は、残酷ですが、歩こうとしないかぎり、歩けません。
さて、そうとしたら、どうすればいいのでしょう。次の疑問になります。
このあたりになるとわたしも返答に窮します。
ということで、どうしたら歩こうという気になるのか、
そのあたりを考えてみることにしましょう。
気が起こる、その糸目になるヒントをさがしてみることにしましょう。
ちょっと長話しになるのですが、記憶をひもときながら、
かつてわたしが主宰していた「街道文化倶楽部」のお話しをしてみることにします。
チャンバラが好きで、股旅が好きで、旧街道を歩くのが好きになり、歩くことが生きる喜びになりました!
旧街道を「歩く」をテ-マ街道文化倶楽部を旗揚げしたのは昭和のおわり。
昭和62年(1987)、十年一昔といいますから、するともう三昔ということになるんですね。
街道を独り歩きしていたのは、大学時代ころからのことで、特別趣味といってないわたしには趣味のようなもので、歩きはじめたのは中山道の木曽路でした。
そんなわたしに力をくれたのが、以下の著書。
『街道今昔~趣味の街道めぐり~』(社会思想研究会出版部・昭和37年3月初版・上下)という書籍でした。
大学を卒業してしばらくしたころでしょうか、神田の古書店の棚でみつけたものでした。
このときは通じ合った同士に巡り合えたようで、熱い感激をおぼえました。
日本経済新聞社・婦人面に昭和34年8月から一年余りわたり連載された「趣味の宿場めぐり」300回のうちから150編を選んでまとめたものでした。
街道にかかわる宿場・遺跡・史跡などを全国にわたり取材したもので、その編集統括をされたのが婦人部長をやっていた今井金吾氏でした。
この本によって大小無数の街道があることを知り街道の知識を得ることができました。
で、決定打は以下の3冊でした。
歩くことは子供のころから慣れっこでした。というより田舎育ちのわたしには、歩くことは日常茶飯事のことでした。どこに行くにも歩いていました。
あのころは全国どこでもそうだったでしょう。
くわえて、時代は時代劇の黄金期でした。なかでもわたしは股旅ものが大好きでした。
颯爽とした股旅姿に憧れ、さらには時代劇の俳優にも憧れました。(実に馬鹿げた夢をみたものです!)
そこに出てくる街道の風景。もうたまりませんでした。当時の撮影はその多くが野外ロケだったといいます。
股旅については、生まれた東京高輪の近く二本榎に、長谷川伸(はせがわ・しん)という偉い作家さんか住んでいるということを子供ごころに教えられていたことが多少影響しているようにおもいます。のちに股旅小説の第一人者であることを知りました。
時代劇映画の撮影場所としてよく使われた近江八幡市の背割堤地区の松並木。昭和50年代初めまでは松並木でした。いまは桜並木にかわってしまいました(近江八市提供)
高校生になると街道の風景へのあこがれが沸騰するようになりました。
あの映画のすばらしい松並木はどこにあるんだろう。そんな思いにかられること度々。
そして、ついには三国街道・北国街道・中山道・日光街道と旧街道をツーリングすることになり、さらに昂じて、映画に登場した街道風景の現場などを歩くことにもなりました。
そうしたこともからんで、街道を歩くというテ-マは歩くことしか能のないわたしには、うってつけのものになりました。
でもそれには必然的に「歩く」ということがついてまわります。
しかしそのことは至極当然のこととして全然気になりませんでした。
つまり街道を歩くという趣味がここまで昂じてしまったわけです。
「街道を歩く」を通じた今井金吾先生との出あい。そして私流・実用の道へ!
昭和61年(1986)のある日、畏まって今井先生に手紙を出しました。
「街道文化倶楽部」というものを主宰したいという趣旨のものでした。
今井先生はひとつ返事で了承しくれました。
半年ほどして、今井先生から連絡をいただき、大手町の産経新聞社の近くの喫茶店でお会いしました。
先生はすでに退職し執筆に多忙な日々を重ねていたのですが、快く顧問をひきうけて下さいました。
わたしはこの時から今井先生と呼び、師と仰ぐようになり、以後10年ほど、ともに旅をし、多くのことを教えられました。
このあたりのことは、『今昔東海道独案内・西篇』(ちくま学芸文庫)の文庫解説・「今井金吾の言葉」に記してありますのでお読みいただければ幸いです
NHK「きょうの健康」誌上対談の一部。
今井金吾(いまい きんご)
大正9年(1900)7月5日~ 平成22年(2010)5月2日
ジャーナリスト、文筆家、江戸・街道研究家。日本経済新聞社、婦人部部長。『半七捕物帳』の研究でも知られています。
『江戸の旅 東海道五十三次物語』(河出文庫)、『東京の街道を歩く』(実業之日本社)、『「半七捕物帳」江戸めぐり 半七は実在した』(河出書房新社)ほか著書多数。(Wikipedia)
そのころわたしは新劇の劇団にかかわっていたのですが、なんともうだつがあがらないので、そちらはそっちのけで、アルバイトの金がたまるとひたすら街道の旅に出ていました。実にこまめに歩きました。
そうした旅のさなかで、演劇活動は潮時だなと悟ることになりました。
準備に一年ほど時間をかけ、正式に「街道文化倶楽部」を発足させました。
第1回・街道歴史観察ウォ-ク
先頭左・今井先生
街道文化倶楽部主催の第1回「街道歴史観察ウォ-ク」は読売新聞が報じてくれたことから、参加者は200名近くにのぼりました。
二回にわけで開催し、大成功をおさめました。
それからは月2回「街道歴史観察ウォ-ク」という例会をもちました。
趣味ではじめたものですが、いつしかわたしの実用活動となり、それにかかわる日々の連続となりました。
安い会費では間に合わず毎月のように懐から穴埋めする始末でした。
そのような折、NHKの月刊誌『きょうの健康』から仕事の依頼が飛びこんできました。
街道を歩くというシリ-ズもので、好評で、それは6年にわたりました。
そうした立場で街道歩きのブロと名指されるようになりました。
それではいっそ、そういうことにしょうと決めたものの、ということは、歩くことに責任が生じます。
何かと歩く機会が増え、歩かされるようなことも増えましたが、実際は楽しいことですから、これもよしとしました。
歩くことが人生の楽しみともなり、生き甲斐にも思えてきました。
このころ、わたしは歩くことを「実用」へと転じさせたような気がします。
「実用」といってもまずは自分にとって有益になればいい、そんな思いの実用です。
「街道文化倶楽部」は平成20年(2008)に幕をおろしました。
それを見届けてくださるように、今井金吾先生は平成22年(2010)5月2日に他界なされました。享年89歳でした。
ここで最初のテ-マにもどりますが、
考えたいのは、どうしたら歩くことを自分なりの実用にできるか、どう実用として取り入れるか。そのあたりにこだわって何か歩くことを試みるのもいいのではないかということです。それが短くてもいい、一生掛かってもいいじゃないですか。生涯、自らの足で歩けるなら。それが生き続ける人間のなくてはならない最大の価値とも言えるのじゃないでしょうか。
次回さらに考えてみることにしましょう。
新装版の『今昔東海道独案内』が東篇・西篇の二分冊で「ちくま学芸文庫」から出版されています。西篇の「あとがき・解説」をわたしが書いております。ポケットに入れて街道に飛び出してください。今日的なガイドブックと合わせて読むとその価値がわかるでしょう。