今日の散歩は水道橋~本郷界隈(文京区)・元町公園と穴場のバラ園を歩く!
JR水道橋駅で下車し、外堀(お茶の水堀)に沿って本郷界隈を歩いてみましょう。
本郷1~3丁目の一帯。本郷は広く6丁目まであります。
水道橋の由来となったその場所へ。
本郷台の傾斜地を巧みに利用した元町公園は、関東大震災復興公園のシンボル的な遺構です。
かくれた、穴場的なバラ園があるのにもいやされます。
「東京都水道歴史館」で生活に欠かせない水道の歴史にふれることができます。
ということで、そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
水道橋 駅を出ると白山通りが通じています。左手の後楽園方向に歩くと水道橋が架かっています。橋幅が30メートルを超える広いもので、欄干に水の波流がデザインされています。昭和36年(1961)架橋されたもので、名は江戸時代に作られた神田上水( 水路橋)に由来しています。
橋北詰に吉祥寺があったことから「吉祥寺橋」ともいわれ、地名、駅名にも反映しています。
吉祥寺が記されています。
吉祥寺 長禄2年( 1458年)、太田道灌が城内(和田倉門内)に「吉祥寺「として開いたといわれます。
天正19年(1594)城内の拡張により、水道橋の北詰( 都立工芸高校一帯)に移り、明暦3年( 1657)の大火で焼失し本駒込に移転しました。今日ある大寺の吉祥寺です。
この大火のあと吉祥寺門前町に住んでいた人たちが五日市街道沿いを開拓し移り住みました。それが今日の武蔵野市の吉祥寺ということになります。
水色の線は「神田上水」。水戸藩上屋敷(後楽園)の中を流れていたことがわかります。
松平讃岐守とあるところは水戸光圀の兄・松平頼重(まつだいら・よりしげ)の下屋敷です。兄弟で隣接していたことがうかがえますね。
外堀通りに市電。金刀比羅さまもみえます。「給水工廠」が「東京都水道歴史館」
都立工芸高等学校 お茶の水坂の入口にある。明治40年(1907)、東京府立工芸学校として京橋区築地に開校しました。
大正12年(1923)、関東大震災で校舎が全焼し、昭和2年(1927)この地に新校舎が建てられました。平成4年(1992)まで使用されていましたが、平成9年(1997)、地上9階、地下2階の新校舎が落成しました。
市兵衛河岸跡 「一兵衛河岸」とも。水道橋から上流にかけての神田川の北側。物資の荷揚場。牛込橋(飯田橋)までは船が遡ることができました。飯田橋の近くに神楽河岸跡というのがあるのはそのせいです。
橋の両側の欄干にあります
「江戸名所図会」銅板 図会の一部をレリ-フした銅版。橋の下を船が行き交っています。
御茶ノ水坂 左側の広い道。水道橋交差点から順天堂病院前まで、外堀通りを上る坂。右手には神田川が流れています。
石組のオブジェは神田上水の流れた石樋をモチ-フにしたものでしょう。
江戸っ子の命の水だった神田上水が神田川に架かる水道の橋を流れました!
お茶の水坂の神田川側を上ります。
江戸時代の飲み水のひとつ「神田上水」のシンボル的な遺跡まで行ってみることにしましょう。
途中にドデカイ自然石の碑があります。
お茶の水分水路 神田川のこの下あたに分水路の呑口があります。この分水路は地下水路で、水道橋下流で水道橋分水路及び神田川本川から分流し、昌平橋下流にて再び神田川本川に合流しています。つまり、増水のときの水の逃げ場ですね。
治水の安全を図ることを目的として整備した分水路の一つで、神田川にはこのほか、江戸川橋分水路、高田馬場分水路、水道橋分水路といった分水路があるそうです。
さらにさきをゆくと右手に目的の碑があります。やはり自然石を利用したものです。
神田上水懸樋跡 江戸時代、神田上水がここで木製の水路「懸樋」(かけひ)を通じて神田川対岸に流れ、神田、日本橋方面に給水していました。
これが「水道橋」という名の由来になったといいます。明治34年( 1901)まで飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たしました。
江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
平成8年(1996)3月 東京都文京区
『江戸名所図会』お茶の水水道橋。神田上水掛樋(奧に見える橋が今日の水道橋)
神田上水御茶ノ水掛樋(上水記七)(東京都水道歴史館蔵)
上水は水戸藩邸(小石川後楽園)を出ると暗渠となり、地中に埋設された「万年石樋」を流れ、この地点で上水道専用の橋である御茶ノ水の「掛ヶ樋」へとつながりました。
掛樋の上流には「水道橋」が描かれています。上水の管理、監視をする「見守番屋」が掛樋のたもとに記されています。
神田川を掛樋で渡った神田上水は、対岸へ渡った後も暗渠のままで神田、日本橋方面へと流れてゆきました。
暗渠下の配水の仕組みは「東京都水道歴史館」でじっくり観察して下さい。
神田川の風景ですね。船が行き交っているようすがわかります。人々の往来もうかがえます。
のどかな景色じゃないですか。何か江戸物語のひとつもできそうな情景ですね。
この景観からすると、石碑からだいぶ下ったところに懸樋があったことになりますね。
神田川の対岸、神田駿河台の皀角坂(さいかちざか) の途中にも「神田上水懸樋跡」の説明板があります。
そちらの散歩はコチラ☛「神田駿河台コ-ス」
さて、これから道路の向かい側にある「元町公園」にゆきたいのですが、お茶の水坂には信号がありませんので、いったん坂を下って白山通りの信号を渡ることにしましょう。
坂は「御茶の水坂」のお茶の水方面を望んだもの。茶の水橋近くまで横断信号がありません。左手の門柱のあるところが「元町公園です。
この説明板は元町公園の門柱の先を上った左手に建てられているものです。
ふたたびお茶の水坂をのぼると都立工芸高等学校の隣に建つのが昭和第一高等学校。
昭和第一高等学校 いまでは時代を象徴するような校名ですね。昭和4年(1929)に開校した男子校でしたが、平成17年(205)に男女共学になりました。時計塔のある校舎として知られる名建築のひとつです。
昭和6年(1931)竣工の鉄筋コンクリート造りの4階建てです。設計は木田保造(きだ・やすぞう)。はじめてコンクリ-ト寺院を作った建築家として知られます。施工は彼が創始した木田組です。
都内で見られる建築物を紹介してみます。意外に感じるものがあるとおもいます。
第一生命ビル、上野東照宮、上智大学1号館、神田明神といったもので、多種にわたっていますね。今井百貨店函館支店(現・函館市地域交流まちづくりセンター)など函館市内に多くの建物が現存しています。
昭和の香りのする昭和第一高等学校の隣に、これも昭和の息吹をとどめた公園があります。
さて、そのおめあての公園を観察してみることにしましょう。
震災復興52小公園~こんな公園が都内にいっばいあったことを顧みてみましょう~!
大正12年(1923)の関東大震災による被害状況を受けて、帝都復興院総裁となった後藤新平(内務大臣兼務)は政府主導で復興計画にいどみました。
それをうけて、東京市公園課による公園設計プランが建てられました。震災では火災での被害が甚大でした。そのことを集約して以下のようなこ結論となりました。
- 小学校を不燃化、耐震化された頑丈な鉄筋コンクリートの校舎にする。
- 小公園を併設させり防火帯と避難施設のふたつの役割を持たせる。
こうして小学校とセットになった小公園が東京市内52箇所に設けられ、各地域における防災都市としてのシンボルとなりました。
つまり小公園は隣接する小学校の校庭を兼ねるとともに、地域コミュニティの中心的存在として開かれたわけです。
焼失区域のすべての小学校区に公園を隣接させようとしましたが、半数に届かない52箇所に止まったといいます。
この差は何が原因だったのでしょうね。
元町公園 関東大震災の復興52小公園のひとつです。左手に「開園年月日 昭和五年一月二五日」のプレ-トがあります。
昭和5年(1930)に開園し、その後に改修されていますが、建設当時のデザインが随所に残され、復興公園としてもっとも原形をとどめている公園です。
この公園を観察することで、復興公園の取り組み、意気込みのいったんがわかるものとおもいます。
いろんなところに。きめ細かなデザインがほどこされているところをよく観察してみてください。
かかわった人々のセンスと苦労がしのべるとおもいます。
正面階段上部の突き当りにはアーチ模様の壁泉があります。
水があふれ落ちていたのでしょう。イマジネ-ションをはたらかせてください。
本郷台地の南斜面を活かした公園で、高台ですから、外堀が眼下に美しく臨まれたことでしょう。。
階段状に水が落ちるカスケード。俗に水階段ともいわれます。水が落ちていたらどんなにステキでしようね。
太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)が印象的です。神殿のようです。
石段と壁面のコントラストがいいですね。
斜面の高低差をうまく利用して作られてるのが、各種あった復興小公園の中では異色だったでしょう。
震災の傷がまださめやら時世なのに、デザインにゆとりのようなものを感じますね。
本郷台地の斜面に立地したテラス状の公園となっています。
贅沢すぎるほどのデザインがほどこされていますね。
全体的みると本郷台地の南斜面を三段階にレイアウトしているのが、歩くとよくわかりますね。
眺めただけじゃわかりませんね。
デザインの密度が非常に高いですね。
公園に隣接する旧元町小学校(廃校・順天堂元町ビル)と一体となっていたのですね。
公園より一足先、昭和2年(1927)に建てられたといいます。鉄筋コンクリート造り3階建てです。
公園を出ると坂道の途中です。
建部坂( 初音坂) 旗本・建部氏の邸があったことによるるものといいます。特別に特徴のある坂じゃないですね。
切絵図をみますと確かに、「建部六左エ門」の名がみえます。
初音坂ともあるように鶯の初音が聞こえるところから、そうも呼ばれていたようです。
まっすぐな道を100メ-トルほど歩くとT字路になります。そこを左折しましょう。
左側が昭和一高、右側が桜蔭学園の講堂になりますが、そのちょっとさきから急な下り坂になります。
坂上で、右手が桜蔭学園の講堂
このあたりにかつては丸橋忠弥の槍道場があったそうで、名前を坂名にしています。
忠弥坂 慶安年間( 1648~52)、由井正雪一味にくわわり、幕府転覆を図った浪人丸橋忠弥(まるはし・ちゅうや)の槍の道場(宝蔵院流)があったことから名づけられたようです。事件は実行する前に露見してしまい失敗におわりました。
左より、初代市川左團次の丸橋忠弥、四代目中村芝翫の宇治常悦(由井正雪)、二代目澤村訥升の金井谷五郎
このク-デタ-事件を河竹黙阿弥が歌舞伎に仕立てのが『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅう はなみの まくはり)、通称「慶安太平記」というもの。
坂上から途中緩く曲がりながら坂下まで150メ-トル-ほどの急坂。さぞかし、すばらしい眺めだったでしょう。
ゆるく西に下ります。
下りおえると右手に宝生流の能楽堂があります。
宝生能楽堂 能楽・宝生流の本拠地となっています。
宝生能楽堂のさきで 白山通りに出ます。
後楽園遊園地が白山通りはさんで西のほうに広がっています。
江戸時代には、水戸藩の広大な屋敷がありました。
近くに金毘羅さんがありますのでお参りしましょう。
金比羅宮東京分院東京分社 この地は高松藩松平家の上屋敷で邸内社として寛5年(1793)に金刀比羅宮が勧請され祀られていました。この社に昭和39年(1964)、深川にあったこんぴらさんが合祀したといいます。
その深川のこんびらさんは、文政2年(1819)神田和泉町の板橋市左衛門という人が屋敷神として金比羅大権現を勧請して祀ったことがはじまるというものですが、明治23年(1980)に深川に移され「 深川のこんぴらさん」として親しまれていました。ところか゜戦争で丸焼けになってしまい、昭和39年(1964)、高松藩松平家の邸内社だった水道橋の金刀比羅神社に合祀されることで今日に至ったといいます。
遷座以来、「 水道橋のこんぴらさん」として親しまれています。
東京のこんぴらさんと言えば、虎ノ門の金刀比羅宮が有名ですが、こちらが分社なんですね。
ちょっとかわった「金」の字ですね。
高松松平家 徳川御三家・水戸徳川家の支藩。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とした、讃岐国高松藩。
認知が疎かになった関係で、弟の光圀が世嗣に決定したことから、常陸国下館に5万石を経て、寛永19年(1642)、讃岐国高松に12万石で入封しました。
こうしたいきさつから、頼重と光圀は互いの子を養嗣子に交換することで筋を立て直したといいます。
金毘羅さんの隣には、水道橋稲荷神社。
金毘羅の前の道を白山通りに出て、右にまがり、一つ目の通りを越した右手ということになります、ここでちょっと昼食といたします。
ブログではグルメ、、スイ-ツなどのアアダ、コウダといったお口もと情報はいっさい取り上げないことにしているのですが、(但し、散歩土産でとりあげることあり)今回はゆえあって「菩提樹」でとんかつを食べます。うまさ絶品です!
正面の看板がミソです。
かつて一世を風靡した『天狗煙草』、「岩谷商会」の商品看板です。
つまり、「菩提樹」の創業者・吉田吉之助の実父(現店主の祖父)である岩谷松平(いわやまつへい)が経営していた「岩谷商会」の商品、『天狗煙草』の看板なんです。ほかにも関連のものが飾られてあります。
これらを一見するために入ったわけです。
さて、そういうことで、食べ終わったら外へ出まして、さきを散歩しましょう。
菩提樹のふたつ先の横道に入り、次第に急坂になる坂道を右に、右にと進みましよう。
つきあたりを左にゆくと壱岐坂通りに出ます。ここから右へと喘ぎながら上ることになります。
壱岐坂 九州佐賀唐津藩6万石の大名である小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで「壱岐殿坂」と呼ばれていました。白山通りから上り、東洋女子短大の所で横町へと至る細い坂道。
上るごとに急傾斜を帯びてきます。
最後のとどめの坂です。
上りきると桜蔭学園の校舎のところに出ます。
校舎の間をぬけて、さきの「忠弥坂」に出るひとつ手前の道を左にまがります。すると左側に一寺があります。
静かな境内をもつすがすがしいお寺さんです。
昌清寺(しょうせいじ) 浄土宗、嶺松山弘願院といいます。
元和元年(1615)、徳川忠長( 家光の弟)の母「お江」が、高崎城で自害した忠長の菩提を弔うため、忠長の乳母お清の方( 昌清院電心譽妙安大姉)を開基として創建した寺といいます。
江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男。幼名国千代。従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたります。
父の秀忠や母の江は、竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発、聡明な国千代(国松)を寵愛していました。大伯父にあたる織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つともされていますが…。
将軍の座を巡る争いで、春日局による家康への直訴に及び、竹千代が座を得たこどはよく知られていますね。
残念なことに家光の怒りをかい高崎城で自刃してしましました。
忠長の遺骸は謀反人あつかいのため墓所を作ることも許されず、記しに松の木が一本植えられただけのものだったといいます。
忠長の正室・お昌の方(久姫・信長のひ孫)は夫の菩提のために、当寺を建立。公儀をはばかり忠長の乳母きよ(清)を開基に仕立て、お昌の方とお清の二人の名前をとって昌清寺と称するようになったといいます。
「昌清寺」にはひとまず葵の紋が許されたんですね。
花見塚・「桜狩り きとくや日々に 五里六里」
花見塚 芭蕉の句碑
江戸時代の『茗荷集』(文政五年)や『茗荷図会』(文政九年)に「花見塚本郷元町昌清寺にあり 寛政八年(1796)如月十二日靖彦これを建つ」とある。
句碑には松尾芭蕉が貞享五年(1688)に吉野で詠んだ俳句「桜狩り きとくや日々に 五里六里」が刻まれている。
往時の句碑は存在しないが、現在の句碑は昭和59年に『茗荷図会』の花見塚模写図にならって復元再建されたものである。
昌清寺の前か100メ-トルほどで公苑にぶつかります。一段高くなっています。
明治25年(1892)、東京市水道局がこの地を買収し給水場を建設しました。
配水池、ポンプ場の完成を経て、昭和49年(1974)配水池の拡張工事が完了したところで、その配水池上部の利用許可を得て、文京区が公苑を開設したものといいます。つまり屋上庭園といったところですね。
和風庭園と西洋庭園からできており、昭和51年(1976)12月に開園されました。
和風庭園 武蔵野の雑木林をイメージして作られており、池が配され、神田上水路の石樋が復原されています。
洋風庭園 フランス式の幾何学的模様でデザインされています。彫刻やパーゴラ、地球儀、時計などが配されたバラ園となっています
それではまず和風庭園を散歩してみましょう!
神田川の「石樋」(せきひ)が復元されていますから、そちらを中心にみてみましょう。
神田川と神田上水
神田川 江戸時代は、井の頭池から大洗堰を経て江戸市中までを神田上水といい、大洗堰の余水が流れる川を江戸川、そして現在の飯田橋より下流は神田川と呼ばれていました。これが昭和40年(1965)、河川法の改正により、井の頭池から隅田川の合流地点まですべてが神田川と呼ばれるようになりました。
井の頭を水源から椿山下の大洗堰までの区間は、開削以降は「御留川」として立入が禁止されていました。
ただし、大洗堰から下流域の江戸川筋では、釣り、花見、舟遊び、泳ぎなどが許されていたようです。
神田上水 井の頭池を水源とする神田川が、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加え、関口の大洗堰かから取水し江戸市中に上水を供給していました。江戸時代初期の江戸っ子の飲み水として最大のものでした。だが、江戸の人口が膨張するにつれこれだけでは賄えきれないので、あたらしく「玉川上水」が開削されることになるわけです。
『東京市稿』には神田上水について、
「神田上水は府下三上水の一つなり、水源は多摩郡吉祥寺村の井ノ頭ノ池より流出するものを本流とす。また、上井草村善福寺の池より流出するもの一条あり。和田村において本流に合し。下井草村妙正寺池より流出する井草川あり。落合村に至りて本流へ合す。(中略)関口に至り別れて両派となり、一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門より目白台下を白堀に入りて、すなわち上水となる」
と書いてあります。
〇神田上水の石樋 本郷給水所公苑内に石樋の一部が復元されています。「白堀」とは蓋をしていない水路のことをいいます。
石樋(せきひ) 石で作られた水道管。昭和62年から平成元年にかけて、文京区本郷で発掘された神田上水の石樋を、移築・復元したもの。
木樋(もくひ) 石で作られた樋に対し、木で作られた水道管を木樋といいます。
神田上水旧白堀跡(現地)
神田川と並行する巻石通りを進むと文京総合福祉センターがあります。ここにに神田上水旧白堀跡の遺構の一部を復元保存してあります。
建設工事に伴い遺跡の発掘調査が行われ、ここで石樋遺構が見つかりました。
江戸時代には、井の頭池から流れ下ってきた水を関口大洗堰で左右に分け、左側を上水として水戸藩の江戸上屋敷(小石川後楽園)方面に流し、右側を余水として江戸川へと流していました。
井の頭の水源地より開渠であった神田上水は、水戸藩邸を出ると暗渠となり、地中に埋設された「万年石樋」により、前掲の神田上水懸樋跡へと流れてゆきました。
黒御影の刻字はまったく読みにくいですね。
神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成2年10月 杉本苑子誌(碑文)
作家・杉本苑子さんの作品に玉川上水に関した『玉川兄弟』というのがありますね。考証が効いてます。せっかくですから、読んでみるのもいいでしょう。
石樋と「東京水道歴史館」に展示されている木樋を頭の中で合体させ、上水が江戸市中を流れゆくさまを想像するといいでしよう。
玉川上水(たまがわじょうすい) 江戸市中へ飲料水を供給した上水で江戸の六上水の一つです。
承応2年(1653)、多摩川の羽村取水堰で取水し、武蔵野台地を東流し、全長42.74キロメートルの水路が築かれました。
上水は四谷大木戸に付設された「水番所」(水番屋)を経て、地下にうめられた木樋を通じて江戸市中へ分配されました。
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ここからは洋風庭園の散歩となります。春、秋はバラの苑です!
この庭園が建物の上にあるとは思えないですね。
洋風庭園には約50種400株あまりのバラが植えられてあるそうです。
バラの花壇のまん中にはカルメン像
全体をみると左右対称にデザインされています。それがひとつの特徴かもしれません。
フランス式の幾何学的模様でデザインされているせいか、明るく開放的ですね。
本郷給水所公苑 開苑日(コロナ禍で変則の可能性あり)
4月から9月まで/午前7時から午後7時
10月から3月まで/午前9時から午後5時
休苑日:12月28日から1月4日
散歩のひと時を憩う「東京都水道歴史館」。おいしい水が飲めますヨ!
東京都水道歴史館 東京都水道局が運営するPR施設。西新宿にあった「東京都水道記念館」が閉館され、それが基になって、本郷給水所に隣接する東京都水道局本郷庁舎2号館に、平成7年(1995)4月15日に「東京都水道歴史館」としてあらたに開館しました。
多摩川の清流のしぶき
江戸時代から現代までの東京の水道の歴史を、歴史資料、映像を用いて紹介しています。神田上水、玉川上水に関する歴史資料が充実しています。
1階は近現代水道、2階では江戸上水の歴史などを展示、3階のライブラリーには水や水道に関するさまざまな資料が揃えられています。
木樋(もくひ) 展示で目をみはるのはやはり木碑です。木で作られた水道管。こうした排水管が江戸市中の地下にはりめぐらされていたわけですね。
江戸幕府が開かれてから、江戸の人工は爆発的に増えてゆきました。
生活用水・飲料水が不足し水の確保に悩まされました。江戸は海沿いですから井戸を掘っても塩分が強く飲み水には適しませんでした。
そこで天正18年(1590)、井之頭池を源泉とする日本最初の上水、神田上水(小石川上水から発展)が、承応3年(1654)には玉川から四谷の水門まで43キロメートルに達する玉川上水が開削されました。
石樋と木樋を頭の中で合体させて上水の流れゆくさまを想像するといいでしよう。
江戸時代の水道の記録『上水記』(東京都指定有形文化財[古文書])をはじめとした貴重な水道に関する資料を保存・公開しています。
無料、9:30~17:00(入館は16:30まで)、休館日・ 第4曜日(祝日または振替休日にあたるときは翌日休館)、年末年始(12月28日から翌年の1月4日まで)、 03-5802-9040
水道歴史館の垣根沿いに江戸の水道に関する生活風景が陶板に描かれています。
外堀に下る坂道。
油坂(揚場坂) 神田川で荷物の揚げおろしをする荷あげ場がありました。その揚場に通ずる坂を揚場坂道と呼んでいたのですが、のちに揚場坂となったというようです。
長谷川 泰(はせがわ たい)/天保113年(1842)~ 明治45年(1912)
越後長岡の長岡藩医漢方医・長谷川宗斎の2男として生まれる。
成長して江戸に出て英語、西洋医学を学ぶ。その後、転じて佐倉藩の佐藤泰然の順天堂に入門Rする。
のち長崎にゆきポンペから外科手術学を修得し、帰ってきた佐藤尚中に西洋医学を学んだ。
さらに、松本良順の幕府西洋医学所で外科手術を修めた。
慶応4年(1868)、戊辰戦争の勃発により、北越戦争で河井継之助に雇われ故郷の長岡藩に藩医として従軍し、河井継之助の最期を看取った。
済生學舎発祥の地 長谷川 泰は明治9年( 1876)、本郷元町に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎)を開校しました。 医学の予備校のようなもので、ここに学んだ人に野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らか゜います。
順天堂大学の敷地に新しい「済生學舎発祥の地」の碑が建立されています。
聖橋の辺りから御茶ノ水橋を望んでいます。手前右手の階段は聖橋の基礎工事のいったんとみえます。
橋上より医科大・順天大方面
御茶ノ水橋 震災復興橋梁です。それまでの橋が関東大震災で崩壊したため、昭和6年(1931)、に震災復興事業として完成しました。
御茶ノ水駅前に到着です。
本郷台地の散歩ですからどっちに向かっても坂道でしたですね。
隠れたバラ苑は都心にしてはちょっとしたものでしょう。
それではここで〆にしましょう。
ではまた。