今日の散歩は早稲田の界隈(新宿区)・晩秋の早稲田は燃え盛っていました!
都の西北 早稲田の杜(もり)に…と「早稲田大学校歌」に歌われている早稲田ですが、
その早稲田とは、いったいどのあたり指してのことなんだろうと思うことはありませんか。
そういわれてみると漠然としてきて、とどのつまりが「早稲田大学」のあるあたりといった具合に集約されたり、
早稲田大学そのものが早稲田だと思ってしまっている人もいるかもしれません。
地図上でみると「早稲田町」(丁目がない)という、ズバリの町名はあるのですが、狭い町で、ほかに「西早稲田町(東がない)」があり、「早稲田南町」(北がない)があったり、さらには早稲田鶴巻町とか戸山、戸塚、喜久井といった単独町名のところも包括していて、広域には「高田馬場」あたりまでを含めて早稲田ととらえるのがいいらしいのです。
といってもやはり早稲田は早稲田大学あたりで、大学そのものが要となっています。
ですが、そのキャンパスもいくつかのエリアに広がっており、本部キャンバスのあるところは西早稲田町ですが、
道路ひとつ隔ててある大隈講堂・大隈庭園の歴史的な一帯は「戸塚」(1丁目のみ)となっていたりで、一括しにくいところがあります。
というわけで、以下、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします
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散歩でしのぶ早稲田の杜と早稲田田圃の今と昔!
地下鉄東西線「早稲田」駅の2番出口から出発することにしましょう。
ここは早稲田の学生がいちはん多く利用す最寄駅です。
このあたりは早稲田でも「馬場下町」という町名、丁番を持たない狭い単独町名になっています。
早稲田の町らしく、ズバリ「早稲田通り」というのが通じています。正面に穴八幡神社の緑の樹立と朱の鳥居がみえます。
早稲田通り 九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路です。途中、本天沼2丁目交差点で旧早稲田通りを分け、石神井から所沢へと通じているところから「所沢街道」ともいわれます。
まずは早稲田の氏神さまの穴八幡神社を参拝することにしましょう。神社に向かうと早稲田通りが二手に分かれ、右側が八幡坂です。
八幡坂 穴八幡にちなむもので早稲田通りの神社横の坂道です。
昔の道はもっと急坂で、坂の上り口には、「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止めたり、後押しの手助けをして賃金をもらっていたそうです。
馬場下町 「高田の馬場」から下る八幡坂の下に位置していたことからの町名。切絵図時代からの交差点で「牛込馬場下横町」と呼ばれていました。
馬場下町交差点(旧穴八幡交差点)の信号のところで左手に分岐するのが「諏訪通り」です。
諏訪通り 高田馬場の總氏神さまである諏訪神社(諏訪町)に通じていた古くからの道です。
穴八幡宮(高田八幡宮) 祭神:応神天皇・仲哀天皇、神功皇后の「八幡三神」です。
康平5年(1062)、源義家が奥州からの凱旋を祝い、この地に兜、太刀を納め京都の岩清水神八幡宮を勧請したのがはじまりとされています。
寛永18年(1641)、別当・放生寺の宮の草庵を作ろうと南の崖を切り崩したときに神穴が露出し、その中から金銅のご神像・阿弥陀如来像が現れました。このことから穴八幡とよばれるようになり、時をあわせご神木の松が瑞光を放ったことから、名も光松山放生寺となりました。
3代将軍・徳川家光はこの噂を耳にして、穴八幡宮を将軍の祈願所・江戸城北の鎮護とし、
慶安元年(1648)には、本社殿やその他の建物も完成し、この年、4代将軍・家綱が参詣しています。
以後、歴代の将軍がおとずれ、
中でも8代将軍・吉宗は世継ぎの疱瘡平癒祈願のため流鏑馬(やぶさめ)を奉納しました。
鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されました。
穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には、元文3年(1738))に奉納された竹千代(後の10代将軍・徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれています。
加賀藩主も深く崇敬していたことから、のちに金沢城内に分神されています。
一般庶民にも願いごとが叶うと信奉され、中でも特に蟲封じの祈祷は有名だったといいます。
〇蟲封じ 虫は「疳(かん)の虫」で、乳幼児の異常行動を指していう俗称。特に夜泣き、かんしゃく、ひきつけなどの症状を指す。
蟲封じとは、そうした虫気(むしけ)が起こらないように、おまじないで封じ、鎮めてもらうこと。
神社は明治以降やや衰微しましたが、明治12年(1879))、大正天皇が皇太子のとき蟲封じの祈祷を行ったことから崇敬者が増大しました。
今日では冬至から頒布される「一陽来復」の御札(冬至から節分まで)を求める神社として賑わっています。
昭和20年(1945))の東京大空襲で建物の多くを焼失し、のちに本殿、幣殿、拝殿が再建されました、
一陽来復御守 冬至から翌年節分までの期間限定で頒布される御守で、江戸元禄年間から始まったとされています。。
金銀融通の御守として人気が高く、拝受しようとする人の行列ができます。
御守は冬至・大晦日・節分のいずれかを選び、
24時きっかりに(大晦日なら1月1日、節分なら2月4日の午前零時)、文字を翌年の恵方に向け、
恵方とは反対側のなるべく高い位置に貼るという決まりがあります。(恵方は節分を境に切り替わります)
ちなみにここの御朱印は社号ではなく「一陽来復」と豪快に記帳されます。
〇一陽来復 易経では陽と陰が繰り返すとされ、どん底の状態にあってもやがて又いいことが巡ってくるという意味あいをもつものとされています。
男坂 小高い丘になっていることから、参道(男坂)の石段が長いです。小高いことから、ここを前方後円墳とみなすむきもあります。
女坂 坂のふもとから左に迂回し石垣沿いに緩やかに上る坂となっています。
隨神門(光寮門)は室町時代の様式で平成10年(1688)に造営されました。
楼門を抜けると右手に水屋があり布袋の形をした水鉢があります。
布袋尊の水盤(レプリカ)
慶安2年(1649)銘があり、3代将軍・家光が献上したといわれるもので、江戸城吹上御苑から移されたものだといいます。
放生寺に下る石段の右側に神武天皇陵の遥拝所があります。
〇神武天皇陵遥拝所 奈良県の橿原市にある橿原神宮に北接する神武天皇陵の方向を向いています。
石段を下り放生寺に向かいます。
階段の途中に城郭のような石垣があります。
旧放生池跡 石垣沿いの道のつきあたりに放生会(ほうじょうえ)のための「放生池」があったようです。
明治期の神仏分離により池は放生寺の管轄となり、その後、大正9年(192)頃に埋め立てられてしまいました。
放生会 魚等を池に放して供養し、生き物の霊を慰め、冥福を祈るもので、殺生を戒め、万物の生命を慈しむ儀式です。
放生寺 高野山真言宗準別格本山の寺院。山号は光松山。
本尊は聖観世音菩薩。寛永18年(1641)穴八幡の別当寺として神社の隣に創建されました。
こちらでも穴八幡と同様に「一陽来福」のお札が配られています。ただし「複」が異なります。
寺号が示す通り「放生会」(ほうじょうえ)で知られており、現在は本堂脇の小さな池が放生会に使われています。
儀礼は第二次世界大戦により中断していましたが、40年ぼどの歳月を経て復活し、毎年「体育の日」に放生会がとり行われています。
諏訪通りを馬場下町の信号へと下りましょう。
馬場下町の信号をわたり「早稲田南門通り」に進みます。入口の左手角に法泉寺があります。しばらく歩くと正面に大隈講堂がそびえます。
早稲田南門通り 早稲田駅から早稲田キャンパスへの通学路であり、早稲田キャンパス南門と戸山キャンパスを繋ぐ通りでもあります。
曲りくねっている道で、かつては田圃か畑の道だったのではと思われます。
途中左手の奥に一寺があります。早稲田大学にとっては恩あるお寺といえるでしょう。
宝泉寺 平将門の乱を平定した藤原秀郷(称:俵藤太)の草創と伝えられます。
承平年間(931~938)、藤原秀郷が戦勝祈願をしたと伝わる毘沙門堂が、明治30年代まで毘沙門山にありましたが火事で消失したといいます。
〇本堂 元来は早稲田大学構内の大隈重信の銅像あたりに「本堂」があったといいます。
本尊は伝教大師・最澄作とされるものでしたが、大戦で焼失。現在の本堂は昭和41年に建立されたものです
勝負事に強いという謂れから江戸で最初の富くじ(宝くじ)が売られ寺として有名でした。
寺領は広大で、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が宝泉寺の境内だったといいます。
「江戸名所花暦」には、
毘沙門堂の小高き丘の上は、新樹空を覆いて涼しく、このあたりの森より時鳥なきそむるとなり
とあり、毘沙門堂は眺めが良く、他より早く鳴き始めるホトトギスが有名だったということが記されています
〇富塚 宝泉寺の境内裏手には「富塚」と呼ばれる古墳がありました。これが一説に地名「戸塚」の起源とされています。
早稲田大学9号館あたりで、近くに新宿区教育委員会の建てた「富塚跡」の説明板が設置されています。
このあたりは、昭和四十一年(一九六六)に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷地であった。
神社の境内には、富塚という古墳(円墳)があった。戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼
ばれたからとか、そのうちの一つである富塚に因んだ、とかいわれている。
水稲荷神社移転時に崩され、整地されたが、地名の由来を物語る史跡として貴重である。平成三年十一月 東京都新宿区教育委員会
のちに古墳の墳丘に溶岩を張り付け「高田富士」と評判を呼んだ「富士塚」か造られました。
〇富士塚(高田富士) 安永9年(1780)に築かれた江戸市中で最大、最古の富士塚され、水稻荷の境内にありました。
〇水稲荷神社 天慶4年(941)富塚の上に藤原秀郷が倉稲魂(うがのみたま)大神(稲荷)を祀ったのが縁起とされ、
「富塚稲荷」とか「将軍稲荷」とも呼ばれて信仰を集めていました。
そこに、元禄15年(1702)のこと、境内の大椋の樹の下から霊水が湧出しました。
それからは水稲荷と称されるようになり、湧き出た霊水が「眼病に効能あり」ということもあって江戸市中で評判となったといい伝えられています。
〇梵鐘 境内で唯一大戦の焼失を免れた銅造の梵鐘。正徳元年(1771)の鋳造(新宿区登録有形文化財)
宝泉寺の歴史が刻まれ、仏像がデザインされているもので、江戸鋳物師(いもじの)名匠・西嶋伊賀守藤原正重により鋳造されたものです。
正徳年間は江戸鋳物師の技術が頂点に達した時代といわれ、その面からも貴重な鐘となっておりますが、、
大晦日には除夜の鐘として早稲田の街に響きわたります。
広い境内を有していたく宝泉寺でしたが、昭和38年(1963)に早稲田大学の校舎建築の用地として買収され、古墳・高田富士は崩され、水稲荷神社とともに西方の甘泉園のそばに移転することになりました、
①旧幕時代(嘉永5年頃) ②東京専門学校設立当時、明治15年(1882) ③現時、明治42年(1909)
旧戸塚町 「戸塚町」は現在1丁目のみで、
その範囲も大隈講堂・大隈庭園とその南側の僅かな土地に限定されていますが、
かつては早稲田キャンパスも、さらにさきの高田馬場駅の西側一帯まで包括する広大な町名でした。
現在は大部分が「高田馬場(1~4丁目)、「西早稲田(1~3丁目)」の2つの町名に再編されてしまいました。
早稲田 地名の由来には諸説ありますが一般的には、
早稲(わせ)は早く成熟するイネの品種で早生(わせ)ともいい、早米(はやまい)ともいわれるもので、
つまり早稲田は早く収穫される稲が植えられた田があったことに因むもの、という説がいちばんのようです。
早稲田村 早稲の水田が大部分を占める江戸近郊の農村地帯でしたが、
東京専門学校(後の早稲田大学)の開学に伴い学生街、文教地区へと発展してゆきました。
古くは牛込村字早稲田でしたが、江戸時代の初期に独立し早稲田村になりました。
明治になり、南豊島郡牛込早稲田村となり、明治22年、東京市に組み込まれ
昭和18年(1943)、東京都制の施行により、東京都牛込区早稲田町、牛込区早稲田鶴巻町等になりました。
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大隈庭園~大名庭園を改造した芝生と池のある和洋折衷の大隈邸跡!
大隈庭園 早稲田大学のキャンパス内にある大学附属の庭園で、大隈重信の邸宅跡に残された明治期に作庭された庭園です。
江戸時代には高松藩松平家、彦根藩井伊家の下屋敷だったところで純然たる大名庭園で「池泉回遊式庭園」でした。
明治20年(1887)、大隈邸が築かれた際に、作庭師・佐々木可村(鈴木柯村)、庭師・諏訪の銀次郎、渡辺華石(画家)などが加わって造園されたといわれます。
この庭園で花やメロンなどいろいろな植物を栽培して楽しんだそうです。
大正11年(1922)1月10日、大隈重信はこの早稲田の自邸で死去しました。85歳でした。
大隈が没した後、その遺志により屋敷と庭園は早稲田大学に寄贈されました。
昭和20年(1945)の空襲では壊滅状態になりましたが,その後徐々に昔の姿に復元され今日に至っています。
それでは、大隈庭園を散策してみましょう。
中華民国獅子像 早稲田大学創立100周年を記念し台湾校友会から寄贈されたものです。
台湾で獅子像は守護像であることから、「これからも早稲田大学を守る」という願いが込められているのだそうです。日本でいったら狛犬というところでしょうか。
童子石 朝鮮後期(19世紀初~中期)の作。
墓前に立てる石像で墓の守り主として、また死者の世話をするといわれています。
文人石 陵墓を守る守護像で朝鮮初期(15世紀)の作。
童子石とともに早稲田大学創立125周年を記念して寄贈されたものです。
孔子像 平成20年(2008)、中華人民共和国政府から寄贈されたもの。早稲田大学は明治32年(1899)に、はじめて清国人留学生を受け入れています。
エミレの鐘・韓鐘閣 韓国の慶州国立博物館に国宝として展示されている、新羅(しらぎ)の聖徳大王神鐘(通称「エミレの鐘」)の1/2の複製品。昭和58年(1983)、韓国校友会から早稲田大学創立100周年記念として寄贈されたもの。
沓脱石 庭に入ると広い芝生の中央に大石が望めます。
この細長い大石は大隈邸の大書院(邸宅を訪れた貴賓を接待した部屋)の沓脱石。
建物との段差を和らげるために設けた踏み台といったところでしょうか。自然石というのが風格です。
大隈庭園内に建っている銅像は早稲田大学第4代総長の田中穗積(1876~1944年)銅像と、田中穗積銅像は1957(昭和32)年に早稲田大学創立75周年記念として、校友会により建立されました
大隈重信夫人の大隈綾子(1850~1923年)銅像の2体で、。大隈綾子銅像はキャンパス唯一の女性の銅像で、1927(昭和2)年の創立45周年にあたり、嗣子(しし)大隈信常氏より寄贈・建立されました。
どちらも彫刻家・朝倉文夫作です。
完之荘(かんしそう) 飛騨高山の古民家を移築してきたもので、
昭和27年(1952)、校友で実業家の小倉房蔵氏から寄贈されたものといわれます。
飛騨の山村に残っていた推定600~700年前の古民家の一部を自身の邸内に移築し茶室として愛用していましたが、
大隈邸の茶室が焼失したことから、そのかわりとして早稲田大学へ寄贈。名称は氏の雅号「完之」に因んだものといいます。
かつて大隈邸の茶室があったところに移築されています。
柱は天然の栗材で、全てが直に礎石上にのっかっているのが建築上の特徴とされ、
いろり、火鉢、自在鈎(かぎ)、縁先の手水や石門などは昔のままだといいます。
旧大隈邸門衛所 早稲田大学で一番古い建物です。木造1階建ての簡素な造り。
昭和20年(1945)の空襲で全焼した邸宅のうち、唯一焼失を免れた遺構となっています。
大隈重信手植えの楠 大隈重信が熱海より実を持ち帰り最初は雉 子橋邸の庭に植えられ、早稲田に移転したときに移植したものといれれています。
開園日:授業実施日(天候不順日は閉園します)
開園時間:4月~9月 9:00~17:00、10月~3月 9:00~16:30
(※入学式・入試実施日・卒業式の他、大学で特に認めた場合は開園します)
大隈講堂 正式には「早稲田大学大隈記念講堂」。早稲田大学のシンボル(国重要文化財)。
その名が示すように早稲田大学の創立者である大隈重信を記念した講堂で、昭和2年10月15日に竣工しています。
ここは新宿区戸塚町1丁目104番地。「旧大隈邸跡地」であり、大学にとっての発祥地で、大学設立以来の本部所在地となっています。
大隈庭園・大隈講堂と道を隔てた西側の台地上(いまの西早稲田)に、明治15年(1882)、早稲田大学の前身の東京専門学校の校舎が建てられました。
今日、早稲田(本部)キャンパスといわれるところです。早稲田大学の本部機能はこちらに集中しており、政治経済学部・法学部・商学部など社会科学系の伝統学部もここにあります。
大隈重信の夢が実った東京専門学校の旧地を散歩してみましょう!
明治23年(1890)ころ、東京専門学校(早稲田大学の前身)の周辺にはまだ田んぼが広がっていました。
早稲田の校歌(都の西北)ができた明治40年(1907)には、まだまだ早稲田の杜が残っていたことかわかります。
それから幾歳月を経て今日の発展をみるわけです。
それでは早稲田キャンパス内を歩いてみましょう。
正門を入ります。
高田早苗 安政7年(18609)~昭和13年(1938)
江戸深川の生まれ。法学博士。東京大学文学部を卒業したのち、縁あって東京専門学校の設立に参加。講師などを歴任し、明治40年(1907)から総長をつとめ、学長制を敷くと初代学長(総長は大隈重信)となりました。
一方で読売新聞主筆となり、衆議院議員として6期(立憲改進党)勤め、貴族院議員、第2次大隈内閣で文相となりました。
稲田大学には「高田早苗記念研究図書館」があります。
高田早苗像の右横の通りから正面にモダンな建物が見通せます。
早稲田演劇博物館 正式名称は「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」。
昭和3年(1928)、坪内逍遙の古希と「シェークスピア全集」の完結を記念して建てられたもの。
シェークスピア時代の劇場「フォーチュン座」(ロンドンにあったイギリス・ルネサンス演劇の劇場)を型どって建てられています。
日本では数少ない演劇・芸能専門博物館。能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎、新劇などに到るまでの演劇に関するたくさんの資料を収集展示しています。
博物館のところから左にめぐると古い校舎の下をぬけ早稲田大学南門の通りにぬけれます。
三連アーチが印象的です。
南門を出ると大きな下り坂が通じています。
グランド坂 名前の通り、早稲田グランドの名残りをとどめている通りです。「下戸塚球場」とか「早大戸塚球場」といわれていたグランドがありました。いまは早大の中央図書館と国際会議場やホールなどになっています。
グランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになったといわれます。昭和62年(1987)まで存続していました。
グランド坂を下ると荒川線の走る大通りに出ます。
近くを神田川が並行して流れています。
そのさきは関口台から目白台に続く高台のつらながりになります。
ちょっと歩くと右手に荒川線の「早稲田」駅があります。
かつては近くに大きな都電の車庫(早稲田車庫)がありました。
東西線が開通するまでは、早大生はJR高田馬場駅か、この都電(荒川線)の「早稲田」駅で乗降して通学していました。
いまは早稲田駅が荒川線の終点であり始発駅となっています。
5分ほど歩くと左からくる大きな道路に交わります。
信号を越えたちょっと先で左の路地に入りましょう。ここは甘泉園への裏通りになっています。
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散歩で四季の自然と風流が楽しめる甘泉園公園の回遊式庭園をぐるりと!
甘泉園公園 区立で唯一の回遊式庭園で、湧き水がお茶に適すると評判だったことから「甘泉園」と呼ばれました。
江戸時代の宝永年間(1704~1711)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、
その後の安永3年(1774)に御三卿のひとつ清水家の江戸下屋敷がおかれました。
明治になり、相馬子爵家の邸宅となり、
昭和13年(1938)、早稲田大学が付属泉園として譲り受け、
戦後は東京都に売却され都立公園となり、昭和44年(1969)新宿区の管轄となり区立公園となりました。
雪釣りは甘泉園の冬の風物詩となっています。今年もきちんと冬支度に入りました。
秋の紅葉のほか、桜、ツツジ、アジサイと四季折々の花鑑賞ができる日本庭園として人々に親しまれています。
さまざまな木々が豊かな自然の風景を演出してくれます!
毎年の雪釣りを楽しみにしている人も多いそうです。
徒然石が敷かれた踏み石をのぼって水稲荷に参りましょう。
やはりこのあたりも早稲田の杜だったのでしよう。その面影が色濃く感じられます。
いくぶんきつい坂を上ると平坦地になり水稲荷の参道につながります。
水稲荷神社 旧称は「冨塚稲荷」。特に眼病に効験あらたかなほか、水商売および消防の神様としても有名です。
さきにも話したように、本来は宝泉寺の裏手にかけてが水稲荷神社の元社地であり、冨塚及び高田富士もそのあたりありました。
昭和38年(1963)、 当時大学が所有していた甘泉園の一部と土地交換を行い、現社地に遷座しました。
神社裏には、
富塚古墳の石室の石材を利用した小稲荷などが移されていますが、どれも模擬的なもので往時のスケ-ルがわかりません。、
参道をもどると右手に大きな石碑が建てられてあります。
堀部武庸(たけつね)加功遺跡 中山武庸、のちの堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされる碑。
本来は「高田馬場」の茶屋通りにあったもので、昭和46年(1971)ここに移設されました。
高田富士 加功遺跡碑立つはすむかいの緑の茂みの中に、富塚古墳を流用して築造されたという「高田富士」が移されています。
普段は参詣できませんが、例年7月に行われる「(高田)富士祭り」の2日間だけ公開されています。
境内を出ると大きな坂通りに出ます。
坂を上り「高田馬場」へと向かいましょう。
5分ほど歩くと西早稲田交差点にさしかかります。そこから東側に2分ほどの所に旧跡「高田馬場」があります。
享保年間(1716~1753)ころ馬場の北側に松並木が造成され、8軒ほどの茶屋があったといいます。
土地の農民が人出の多いところを見て茶屋を開いたものと思われるます。
直線の道が馬場だったといわれます高田馬場(たかたのばば) 寛永13年(1636)、将軍・家光の命により旗本達の馬術の訓練、流鏑馬などの練習のための馬場が造営されたといいます。
かつては戸塚村の中で、早稲田通りと茶屋町通りに挟まれた一帯にあたりにあたり、広さは東西へ6町(約650M)、南北へ30間(約55M)で横長の形状をしていたとおもわれます。
馬場の一角、茶屋町通りに面したところは、
堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたところといわれます。
西早稲田交差点から、
早稲田通りを500メ-トルほどで地下鉄東西線・早稲田駅。
早稲田通りを反対に高田馬場駅には約900メ-トル。
荒川線の早稲田駅に約500メ-トル。
といった具合になります。
ここでは早稲田通りを下り東西線・早稲田駅にもどることにしましょう。
穴八幡の早稲田通りをはさんだ反対側に一寺があります。
日蓮宗寺院の法輪寺です。日賢上人が開山となり創建したといいます
ということで、
早稲田はもっと広いのですが、
それはまたの散歩でご案内しましょう。
ではこれにて〆ます。
それではまた。