靴下(ソックス)の歴史と語源を遡るとメリヤス時代の日本がみえ隠れする!
靴を履くときは靴下が必然的に伴います。
最近は素足に履くという人もふえているようですが、それは人の好みということにしておきましょう。
通常、靴と靴下はセットというのが慣習といえるでしょう。
ですが、今日では靴をはかなくても「靴下」を履きます。
外出しなくても、寒いときは、部屋でも履くなど、生活するうえでなくてはならない必需品となっています。
ファッションアイテムとして、さまざまな素材やカラ-、華やかな柄物デザインのものが販売されています。
いまは靴下と呼ぶより英語表現で「ソックス」(socks)と呼ぶほうが多いでしようか。
これはラテン語でのスリッパを意味するソッカス(soccus)が英語に入ってsocksになったといいいます。(ウィキペディア)
その靴下ですが、
靴下が創案されるまでは、フランネルや麻、木綿などの布で足を包むことが一般的だったといいます。
それから必然的な流れともいえるのでしよう、次の段階として、その布を足型に断って縫合したものが足袋(日本の足袋の原形)となり、
袋状に加工したものが靴下ということになったと解してもいいかもしれません。
古代エジプトの遺跡から、加工された靴下が発掘されているそうです(「NAIGAI 靴下博物館」)。
て、日本では…。
ということで、日本の「靴下」まわりのコボレバナシをいくつかご案内します!
「靴下」はメリヤスといい、「莫大小」と書き、大小伸び縮みすること!
日本へ靴下が伝来したのは戦国時代、織田信長のころの永禄10年(1567)~寛永12年(1635)で、南蛮貿易で入ってきたものといわれます。
※南蛮 ポルトガル、スペインを含む南方諸国をさします。
新しいもの好きな信長が履いたという記録はありませんが、
ずっと時代が下り、こちらも珍品好きな水戸黄門の墓から靴下が発見されたといいます。
そのころ靴下は「メリヤス」と呼ばれていました。
語源は、ポルトガル語のメイアス(MEIAS)、あるいはスペ イン語のメディアス(MEDIAS)のどちらかであろうとされています。
古記録では「莫大小」。事をそのままに表した文字の組み合わせで、「大小莫かれ」、つまり、大きくなったり小さくなったりする、伸び縮みするシロモノとして表現されていました。
江戸時代、元禄4年(1691)に発行された俳書『猿蓑』(さるみの)には、
凡兆(ぼんちょう)の句で、
はきこころよきメリヤスの足袋
という一句があり、江戸時代にも一部に靴下を履いていた人もいたことがわかります。
「女利安」とか「女利夜須」、「女利弥寿」といった当て字、ズバリ「莫大小」などが使われてい たようです。
※野沢凡兆(のざわ・ぼんちょう) 蕉門人。芭蕉より推挙され向井去来と『猿蓑』の共撰を命じられました。『猿蓑』には芭蕉をぬいて門人中で最多の発句41句が入集されています。
文政9年(1826)ころ編纂されたと思われる石川公勤の『緩草小言』(しそうしょうげん)という随筆の中に、
メリヤスというものはのびちぢみありて、 人の大小あれどいずれへもよく合うものなり。さらば大小と莫く合うという義にてあ るべきや、
との記述があり、(「NAIGAI 靴下博物館」より)
メリヤスという言葉が靴下の意味で使われていたことがこれでわかります。
さて、江戸幕府が崩壊すると、明治となり、洋装文化がどっと日本に入ってきて、疑洋装文化が高まりをみせはじめました。
舶来品が巷に氾濫しました。靴も靴下もそのひとつでした。しかし高くて庶民が買えるものではありませんでした。
貴族は襪(しとうず/指股のない足袋) 、武士は足袋、庶民は裸足といった封建時代の「士農工商」の身分制度は廃止されました。
これによって一般庶民にも足袋が俄然普及したといいます。
それが、今日のようにスバリ「靴下」と呼ばれるようになったのは昭和25年(1950)以降と、あたらしいことなので、
このあたりはとても意外な靴下の歴史といえるでしょう。
それにしもこの「靴下」という文字も不思議です。
用途としては靴の「中」にはくものなのに靴の「下」、とはコレいかに?
文明開化の時代にも用いられていたのですが、
今日の肌着を「下着」ともいうように、つまり靴の「内」に履く「下着」という意味あいで解されたようです。
靴下が軍足からおしゃれソックスに変化してゆきました!
日本での本格的な靴下の歴史は、明治3年(1870)に端を発します。
幕末になると幕府も西洋式の軍事制度を取り入れ、洋式歩兵が生まれました。
明治時代になると服装も洋式の軍服となり、軍靴と靴下を履くようになりました。
西洋風の軍靴に合う靴下も「軍装品」として大量に輸入されました。
しかし日本人にはとって靴も靴下もサイズがあわず、すぐに国産化にシフトしました。
それを指揮したのが大村益次郎で、動いたのが西村勝三でした。
さきに洋靴の話しのときに紹介しました、日本靴の生みの親ともいえる実業家・西村勝三(にしむら・かつぞう)が、イギリスから靴下編機を仕入れて生産を始めたのが靴下産業の黎明期といわれています。工場は靴と同じく日本橋入船町に設けられました。
洋靴・西村勝三
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のちに明治9年(1876)、メリヤス工場は深川、それから本所須崎町に移され、そこで軍用靴下か大量に製造されました。
こうした背景をもって墨田区一帯にメリヤス工場が根づくようになったといわれ、今日でも墨田区はアパレル産業の盛んな地域となっています。
軍靴と同じで、はじめは軍隊用の靴下「軍足」からはじまったもので、製品はゴワゴワした軍手編の靴下版のようなものでした。
最初は靴と同じでオ-ル手縫い作業でした。
時は鹿鳴館時代を迎え、軍足のほか、夜会服や舞踏会に参じる紳士淑女の足元を飾る靴下も作られるようになりました。
しかしまだ「絹の靴下」はなく木綿でした。といってもとてつもなく高価なものでした。お米1が3銭に対し靴下は1足が10銭だったといいます。
明治38年(1905)ころになり、ようやくシンガ-ミシン(米国)が大量に輸入され、それによって機械生産が一気に弾み、
日清・日露戦争による軍靴、軍足の需要と増産へとつながりました。
※シンガーミシン 世界で最も古くから広く知られているミシンブランド。嘉永3年(1851)、アメリカ合衆国生まれのアイザック・メリット・シンガーによって創業されました。
靴も軍靴一辺倒でなく、一般庶民の履く靴も生産されるようになりました。
あわせて靴下の需要も高まりました。
しかし、靴下といっても今日のように踵(くろぶし)のあるものではなかった。単なる筒状に縫製したもので、
よって靴の中でズレました。ナイロンや合成繊維もまだ生まれておらず、糸に強度がないのですぐに穴も開きました。
そうした靴下の穴を繕うのが女性の仕事のひとつだったといわれます。
ゴムなどの伸縮性の繊維も開発されていなかったため、フィット感はまったくなかったのではないかと思われます。
今日のような「靴下」になるにはまだそれなりの時間がが必要でした。
そのなかで、
靴も靴下も丈夫なものになり、快適さに美しさもくわわってデザイン的にも飛躍的な発展を遂げることになります。
今日では「軍足「もおしゃれソックスの仲間入りをして、オ-ソドックスな生成りを中心にいろんなバリエ-ションのものがあります。
明治、大正、昭和にかけナイガイ、グンセ、アツギといった企業が挙って「靴下」を製造するようになりました。
戦後はますます品質もよくなり、サイズモ豊富になり、需要はどんどんがのびてゆきました。、
女性は破れ靴下の繕いから解放され、「戦後強くなったのは女性と靴下」などの言葉も生まれることになりました。
そしてやがて今日にみる、おしゃれソックスの時代を迎えることになります。