「歩く力」から「歩ける力」へ、その源にあった下駄の効用!!

高下駄(足駄)
高下駄(足駄)

ワタシは暇さえあれば常に歩いています。が、コロナ禍のときはままなりませんでした。
想像だにしなかった社会状況。まったくもって悪夢のようでした。

それでもそんな状態のなかで、少しは歩いていましたが、通常の歩行量からして、その一割にも満たない数値です。

そんななか、久しぶりに歩いたといえる歩きをしました。マスクをつけて!
相鉄沿線の「さがみの野駅」から「海老名駅」まで、
大山街道を10キロほど個人ペ-スで歩きました。

「歩ける力」が衰えてはいないかと悲観的になっていたところもありましたが、まったくの杞憂におわりました。
徒歩(カチ)、徒歩(カチ)ハッピ-でした。

というわけで、以下、ワタシの今も「歩ける力」の源みたいなものをひもといてお届けします。

大山街道
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「歩く力」→「歩ける力」へ、徒歩力へのギアチェンジ

肉体的なハンディがない限り、「歩く力」は、生まれながらに、だれにも一律に備わったものですが、
「歩ける力」というものはその「歩く力」をベ-スにして個人々で培うものではないかと思っています。

多くの人は「歩く力」はもっているのに「歩ける力」にシフトさせずにいます。
殆どの人がその力を放棄しているようです。
一個人として「歩ける力」をもっと養うといいのではないでしょうか。

少年時代
少年時代  足元は下駄!

今回、ワタシなりに「歩ける力」が養われた、そのル-ツをさぐってみました。
と、そこで行き着いたのが幼年時代であり、少年時代。
つまり田舎の時代でした。

時代的には昭和20年代~30年代初頭あたりになるでしよう。
戦後間もない時代ですから、日本全国、都会であろうが田舎であろうが、どこにも同じような生活ぶりがあったと思います。
そうした生活の中のありふれた一コマともいえるものでした。

下駄
木の温もりがあります

脳裡にうかんだのは「下駄」や「草履」での生活風景。そのことでした。
農事的にはまだ草鞋(わらじ)もあった時代です。

下駄には「アルク」と「ケル」という、ふたつの力学がバランスよく結合しているように思います。ちょっとギャグ的ですが、
つまりそれが「歩ける力」にシフトするのでしよう。ワタシはそのように解析しているわけです。

日常のちょっとしたお使いごとや、友達の家への往来、近郷の村や町への祭りけんぶつ。
遠い近いはものともせず、行きの道、帰りの道、その道程を何気もなく歩いていた記憶がまざまざと蘇りました。
足元はいつも下駄でした。
下駄で駆けるとき、早歩きするときは、まさに「アルク」と「ケル」が足裏で交互に作用して筋力を動かします。

そんな足元が短靴(短靴)になり、ズック、スニ-カ-へと移行していったのはいつころのことだったでしょう。
そのあたりの端境期となると何ともおぼろおぼろしています。

とはいえ、そんななかでも下駄はまだ履物の主流を成していたように思います。
高校一年生のころでしょうか、ほんの僅かな期間ですが、高歯(たかば)の下駄を履いて学校に通った一時期があったことを記憶しています。

高下駄(たかげた)ともいってました。普通の下駄より歯が少し高いものです。
新制高校にかわったものの、まだ旧制時代の風習が残っていたのかもしれません。
いまは板前さんが調理場で履く履物といえるでしょうか。

新潟県立 十日町高等学校
昭和30年代/校歌 作詞・堀口大学 作曲・団伊玖磨
高校時代
友人の庭野君は下駄ばき

あのような不安定さをおぼえる下駄で、砂利道、土道、石ころ道、鉄道線路の枕木のうえを平然と歩いていたわけですから、
いま思うと何んとも驚愕の思いがします。

道路
日本全国 地方道はまだ砂利道でした

下駄が日常の生活から消えていったのは、いつころのことでしょう。
歌舞伎役者や落語家さんほか、和装好みの人に愛用者がおりますが、そうした人たちをのぞくと、
普段に下駄を履く人というのは少数派になってしまいました。
ワタシもそのうちのひとりといえるでしょう。何かと下駄をつっかけています。

江戸時代、下駄は日本人の主流をなした履物のひとつでした。
それは明治になっても続きました。

下駄、200人がつっかけていた。その音の響きって?

外国人がみた下駄生活のユ-モラスな一面を披露してみましょう。

明治11年(1878)イギリスからひとりの淑女が来日しました。その名はイザベラ・バ-ド。
編上げの西洋靴をはき、さっそうとマントをひるがえし、馬にまたがるレディトラベラ-。

そんな恰好で北東北から北海道、はたまた関西方面へと長旅をしました。

後日、著したものが『日本奥地紀行』(高梨健吉訳・平凡社刊)という紀行文でした。

その中の一節。
イザベラ・バ-ドが横浜に上陸したのち、はじめて東京の英国公使館に向かうところのワンシ-ンです。

「江戸はどこにあるか」と私が尋ねているとき、汽車は終点の新橋駅に入り、とまると、二百人の日本人乗客を吐き出した。
合わせて四百の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった。

この人たちは下駄を履いているから三インチ背丈がのびるのだが、それでも五フィ-ト七インチに達する男性や、
五フイ-ト二インチに達する女性は少なかった。しかし、和服を着ているので、
ずっと大きく見える。和服はまた、彼らの容姿の欠陥を隠している。

その当時、和服と下駄はセットのものでしたから、和服姿や下駄履き姿の批評はともかく、ここで重要なのは「下駄の音」です。
新橋ステ-ションの広場はまだ砂利道だったでしよう。

それを念頭において「下駄の音」というものを想像してみてください。
下駄といえば「カランコロン」というのが一般的ですが、ここでの音はそんなものではなかったはずです。
とても再現しょうのない音です。聞くに聞けない消え失せた歴史の音です。

乗客全員が下駄履きだった。日本人にとって下駄というものはそれほどまで日常に溶け込んでいました。
ワタシの幼年、少年、青年時代を通じても、そういうものだった記憶があります。

「歩く足」は足指の挟むチカラで「歩ける力」を高めます!

ここまで書いてきて、下駄がどうして「歩ける力」の源なのか、
それで何を言いたいのかといいますと、下駄のもつ効力についてです。

歩くための道具としての足と、下駄という履物とのコンビネ-ションです。
ちょっと下駄の履き方を想像しみてください。
下駄を履く基本は親指と人差し指で鼻緒の前坪(まえつぼ)をキュッと挟むことに尽きます。

それぞれにかっこいい履き方とかか履きグセはありますが、基本は足指で挟んで歩くことです。
それによって特に親指が鍛えられ、足全体の筋力が自然にパワ-アップするといわれます。

さきほどの高下駄などは、まさに足指で鼻緒をわしづかみするといった履き方になります。

ワタシはこのことを体感的にも納得できます。
きっとそうだったのでしよう。下駄によって足が育てられたのだといえます。
これはあくまでワタシの知見すぎないもので、
何んとも陳腐で素朴すぎると指摘されるかもしれませんが、「歩ける力」の、自信の源がそこにあったように思うのです。

さらに医学的な見地から補足すると、五本の指関節が正しく使われると足首、ひざ、股関節、腰、肩、首と全身の関節へもその動きが伝わり、いい肉体的効果をみちびくそうです。

また、足指がのびのび開けることの効果や、第二の心臓と呼ばれるふくらはぎの筋肉を動かすことへの効果など、
いつかそのあたりのこをさぐってみたいとおもいます。

ともかくワタシには幼いころ培われた下駄の生活がありました(いまの生活でもずっと下駄を愛用しています)。
とはいうものの、ここまでは多くの人にあったことかもしれませんが、その後に訪れた社会変革が分岐点でした。

クルマ社会の到来です。
歩くことをやめクルマで移動する社会生活です。

クルマを足代わりとして使うようになりました。
あいにくワタシはクルマに乗る生活を選びませんでした。
無残な、クルマによる姉の事故死をきっかけに免許取得を放棄しました。
いま歩けているのは、そのことのお蔭もあってのことだと信じています。

よく人から「江戸時代の人は足が丈夫だったんですネ」と尋ねられるのですが、
確かにそうしたところはあったと思います。
その根底には下駄の効用がもたらすものがあった、それも一因だったかもしれません。

生活の中にちょっとだけ下駄を取り入れてみるのもいいものです。
「歩ける力」が自然に涵養されると思います。

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