今日の散歩は「谷根千」根津界隈(文京区)・根津権現はつつじの名所!

近年、もてはやされ過ぎではないかと思えるほどの「谷根千」。谷中・根津・千駄木の総称で、一言でいうのは簡単ですが、実際には広域です。

それに「下町」と、ひと括りしてしまいますが、千駄木などは下町という語弊があります。谷・根・千の町それぞれに個性があります。
そこが゜谷根千」の総体的な個性のようです。いい名称だと思います。

きょうはそんな「谷根千」のなか、「根津」にしぼっての散歩ということになります。

根津神社が根津の要で、江戸時代からツツジの名所としても知られ、徳川6代将軍の産土神となってました。根津はこの神社の門前町みたいな形で賑やかになりました。まさに谷間にある超下町です!
というわけで、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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江戸の人たちも心まちに楽しんだ四季折々の花散歩!

地下鉄千代田線・「根津」駅が起点です。構内の1番出口から地上階へ出ましょう。

出ると目の前を「不忍通り」が通っています。上野の不忍の池に通じている通りです。右をみると大きな十字路。「言問通り」が交叉しています。

不忍通りを千駄木方面に歩き、すぐの横町を入ります。

緩やかにくねった道が高台へと続いています。根津は大通りから一歩入ると古くて懐かしいような路地にであえます。典型的な下町の匂いがします。

根津   古代には谷中と本郷の高台の谷間で沼地だったといいます。沼は根津から千駄木方面に広がり、船で沼を渡ったとか。

「根津」は根っ子の「津」(湊)から来ているらしいです。つまり谷底地形で、俗に「根津谷」といわれていたといいます。

根津権現社の門前町として繁栄しました。中央を不忍通り(都道437号)が走り、その西側に1丁目、東側が2丁目で、南北にのびた長鉄砲のような形をしています。

根津に隣接した「谷中」、「千駄木」を組み込み「谷根千」(作家・森まゆみさんの造語)の愛称で近年とみに親しまれています。

中でも根津は外国人に人気のあるところだそうです。

不忍通りから一歩入ると古くて懐かしいような路地にであえます。典型的な下町の路地裏です。そんな根津のうら道を合わせて歩いてみましょう。

異人坂   明治時代、坂上には東京大学があり、近辺にはお雇い外国人教師の官舎がありました。

外国人の彼らがこの坂を通って不忍池や上野公園を散策したといわれています。

当時は外国人のことを「異人さん」とも言ってましたので、そこから異人坂と呼ばれるようになつたといいます。

坂上には東大の校舎がそこまで広がってきています。このあたりは本郷弥生町。
突き当ったところが東京大学農学部内のレストラン・アルブボアの裏口。
その角を右に曲がり道なりにゆくと下り階段があります。

お化け階段   幽霊坂ともいわれました。上りのときと下りのときの段数が違ってしまうと言い伝えられています。下から上ると40(死十)段、上から降りると39(三重苦)段。ゾゾ~です。道の幅が狭くて薄暗かったところだったといいます。

階段を下りると狭い路地裏につながり、その道はすぐ先で右に曲がり、まっすぐな広い通りに出ます。不忍通りまで150メ-トルほどの道路です。途中、右手に人目をひくモダンな建物があります。教会です。

根津教会
大正8年(1915)建築のクラッシックな建物です。洋風木造の平屋建てで、壁に板を貼っているのは「イギリス式下見板張」という様式だそうです。

トンガリ屋根を載せた角塔が印象的で、このあたりのランドマークになっています。

米国福音派系の礼拝堂で、震災、戦災をくぐり抜けた根津では貴重な建築物です(国有形文化財)。

根津遊郭
そうとう広範囲に広がっていた遊郭だったようです。
その起こりとなったのが根津神社でした。神社がこの地に社殿を新造することになり、大工や左官ら職が大勢集められました。

当時このあたりは湿地で凹凸のはげしい土地で、沼を埋め、材木で足場を組むところから始める大工事であったそうです。

必然的に職人相手の居酒屋や接客魚ができ、やがて遊廓もできる程に発展しました。といって私娼の集まる岡場所(非公認遊廓)でした。

のちに根津遊郭と称されるようになったといいます。

「天保の改革」でいったん禁止となり、新吉原に移され、のち慶応年間に幕府の許可のもとに再開されました。

しかし明治21年(1888)、埋め立て地の洲崎(すさき)へ移されました。のちの(※)「須崎パラダイス」がそれです。

東京大学(旧帝国大学)ができたことにより、風紀上ふさわしくないということで移転が強制されたといいますが、東大生にはとても人気があったようです。

大きな遊郭としては、大八幡楼、大松葉楼などがありました。

東大生だった、のちに文豪となる坪内逍遥は、この大八幡楼で見染めた遊女・花紫を妻に迎えています。

(※)作家・芝木好子に『「須崎パラダイス』がある。それを映画化したものに、川島雄三監督「洲崎パラダイス 赤信号 」(日活映画)があります。

根津遊郭の由来板   「根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊廓があった。

そして昔根津は不寝と書かれていたようだ。小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十有余年この根津に娼妓がいたことを記している。

更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊廓も禁止した。

明治維新となるやこの根津の遊廓復帰は声高く叫ばれ公然と開業された。ところが東大、一高が本郷向丘に開設されるに及び、再びこの根津遊廓廃止論は大きく起こった。

そして遂に明治20年(1887)12月限りで廃止。その殆どは洲崎に移り、また一部は吉原に移った。

明治 15年(1882)当局の調査によると吉原(娼妓 1,019人)、根津(娼妓688人)、品川(娼妓588人)と記され、その盛況ぶりが偲ばれる」

かつの遊郭の建物のうち、玄関部分を残している斬新なおうち。とても壊せなかったのでしょう。あたりには、それらしい名残りをもつ家屋がいくつかみもえます。

まっすぐ行くと不忍通りですが、教会のところから50メ-トルほど戻り、右手の道を入ると根津神社がすぐです。突き当りで東大農学部のほうから下ってくる道に出ます。その道は根津神社の鳥居の前あたりから緩やかにくねっています。

S坂(権現坂)   坂がS形に曲っているので「S坂」の名が付けられたといいます。本郷通りから根津谷への近道として開削された新しい坂のため「新坂」とも呼ばれたようです。

また根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので「権現坂」とも称されていました。(※)森鴎外の小説にこの坂が取り入れられています。

(※)森鴎外『青年』   「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。」

季節の花散歩・文京区の花名所~つつじの・根津神社

根津神社のつつじ
つつじの花が満開

根津神社   この地はそもそも甲府藩主・徳川綱重(綱吉の兄)の江戸下屋敷があったところです。

境内のツツジは綱重が屋敷の庭に植えたこに由来するものといわれています。

江戸時代には(※)「根津権現」といわれ屋敷の氏神さま。日本武尊が千駄木(団子坂上)に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建した記録があるそうです。

(※)権現とは「仏が権(か)りに神として現ずる」という思想。権現の称号は明治初期の廃仏稀釈、神仏分離の際に使用を禁止され衰退しましたが、いまは復活し、根津も地元では「根津の権現さま」で呼んでいるようです。

ある日、つつじを見ようとその日を狙って訪れましたら、人が少なくゆっくり鑑賞できました。幸運でした。花は花時が見ごろですが、満開のときは花より人をみることが多多ありますから、花日を選ぶのはむずかしいものです。

江戸名所図会
『江戸名所図会』根津神社

中央にあるのが楼門でしょう。右側の透塀で囲まれたところが本殿。下部に橋と惣門。惣門を入るち門前町が神社に向かってのびていました。

燈籠
藤堂高虎寄進の青銅の燈籠

拝殿前にある一対の青銅製の灯篭は、伊勢国・津藩の第5代藩主だった藤堂和泉守高敏が奉納したものです。

上野の東照宮などにも高虎寄進の青銅の燈籠がありますが、こうした奉納品は忠義のあらわれとみなされておりましたから、いかに忠誠心の強い武将だったかがわかります。

 

德川綱豊(6代将軍・家宣)誕生の流れ

現在の社殿は宝永3年(1706)に創建されたものです。
宝永2年(1706)、五代将軍・徳川綱吉は御世継ぎ(兄綱重の子・綱豊、のちの6代将軍・家宣を養嗣子に定める)が定まったことを祝い神社を徳川家宣の産土神とし、この屋敷地を神社に献納しました。

そこに天下普請の号令をかけ、日光東照宮と並ぶ権現造り(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の社を造営しました。

そのときの社殿・唐門・楼門・透塀等7棟が昭和6年1931)に国宝(現重文)に指定されました。

広重
広重・雪の根津神社境内 白い雪と透塀の赤

透塀(すかしべい)   木製というのが見応えです。社殿周囲を囲む塀。名称の由来は格子部より向こう側が見透せることによるものという(国指定重文)。

水飲み場   森鴎外が明治37年(1904)に、戦利品の砲弾(台座付)を神社に奉納したのだそうです。

そのときの台座だけが戦火を免れ、それを水飲み場として利用しているもので、名案というより迷案のようです。

裏側に「陸軍医監 森林太郎」の銘が刻まれています。戦争と鴎外と神社の時空的なものがしのばれます。

文豪憩いの石   夏目漱石、森鴎外らがこの石に腰掛けて創作の想を練ったと言われています。文豪も文豪ならざるときには、神参りにきて、神さまにに祈ったのかもしれません。

境内社の「乙女稲荷」・「駒込稲荷」は、境内の一段高い所に祀られてあり、そこに行く途中にもいくつか目にとまるものがあります。

胞衣塚(えなづか)   6代将軍・家宣の胞衣(臍の緒)を埋めたところと伝えられています。

塞大神碑   説明板によると、本郷追分(東大農学部前の中山道・日光御成街道の分岐点)に祀られていたものという。

稲荷
根津神社境内の乙女稲荷

根津遊郭で働く遊女たちが、もろもろの願い事が叶うようにと、大勢お参りにきたといいます。乙女心をもったやさしい遊女もいたことでしよう。

乙女稲荷   綱重邸の造成前から鎮座した古い稲荷社。祭神・倉稲魂命。明治以前は「穴稲荷」と呼ばれていたという。

稲荷
根津神社境内の駒込稲荷神社

駒込稲荷神社   徳川綱重(家宣の実父)の邸内社とされていた。祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・倉稲魂命・級長津彦命・級長戸辺命。水舎の屋根には「三葉葵」の紋が入ってます。朱塗りの建物が多いなか、ここだけはモノクロの社となっています。

神輿
神輿の宮入り

例祭(9月21日)   6代将軍・家宣は幕制をもって根津神社の祭礼を定めました。正徳4年(1714)のこと。江戸の全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行しました。現存する大神輿三基は、この時に家宣が奉納したものといわれています。
同じ格式による山王祭、神田祭とあわせ江戸の三大祭と言われているものです。

ある年の根津神社に参ったら偶然、例祭日でした。

根津裏門坂   北口に出ると、向ヶ丘から通じている広い通りにでますが、根津神社としては裏門にあたります。千駄木との境になっている坂です。

近くにある説明板には、「「根津裏門坂  根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。」とあり、「坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(猫の家)がありました。

『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。」とあります。

夏目漱石『道草』

「その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。」

「こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。」

さて、坂を下り「根津神社入口」の交差点までゆき、不忍通りを向こう側に渡りましょう。通りをはさんでこちら側は根津2丁目。かつては藍染町・根津片町・清水町・八重垣町と宮永町の一部がありました。渡ると「旧藍染町」です。

大昔の「石神井川」はこのあたりから不忍池方面に流れていたといいます。

近世になると上流では「谷田川といい」、このあたりでは「藍染」といわれた川が流れており、根津の先で不忍池に落ち、そこで分かれた支流は池の周りをぐるっと囲って台東区の「三味線堀」から隅田川に流れていたといいます

有名な「ヘビ道」はその一部です。三崎坂の入口からこのあたりまでが特徴的な曲がりをみせる「ヘビ道」です。15の曲折があり、台東区と文京区の区境であり、谷中と千駄木の境となっています。つまり境川でした。

千駄木側ではへびのようにくねっています。藍染川の川筋としてそうならざるを得ない地勢の条件でもあったのでしょうか。先が見えない曲がりがいくつも続きます。都内でも珍しい地形といえるでしょう。

ヘピ道

根津2丁目では直線的で、千駄木側ではくねっていた藍染川も、根津側に入ると、割合まっすぐな流れになったようです。

これから川の暗渠道を歩いて、かつての藍染川と下町の匂いをしばしかいでみましょう。狭い通りですから下町の生活が直に感じられます。

昔ながらの町家が軒を並べ下町らしい風情があります。かつてはここを藍染川という小川が流れていことを心にとめて歩くといいでしょう。

祭り太鼓
旧藍染町の太鼓

夏目漱石の『三四郎』に藍染川が登場しています。

「谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」

二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。 二人の足の下には小さな川が流れている。

秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒(せきれい)が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。」

このあたりの風景です。のどかな昔があったことがしのばれます。

まっすぐに流れていた藍染川が想像できますか。川に沿っていた町なので根津藍染町といわれました。川筋に染物屋が多かったそうです。.いまも 明治28年創業の染物屋「丁子屋」さんが老舗をはっています。

根津神社の祭礼は、神輿が旧町内をねり歩きます。

ワッサワッサした荒かつぎではなく、わりと品のいい担ぎ神輿です。

ほぼ直線的に流れてきた藍染川はここで「言問通り」にぶつかります。いまは左角に老舗の「焼せんべい屋」さんがあります。

ここを右に歩いて行くと根津駅です。江戸時代の藍染川もここで流れを右にかえ、不忍通りのちょっと手前で今度は左へ流路をかえ不忍池方面に流れ下っていたようです。

昔はこのあたりで(根津交差点)で支流が分岐し、そこに橋が架けられたといいます。

根津遊郭・惣門跡   明治 3年(1870)、弥生坂下の藍染川の支流に、欄干つきの橋が造られ「藍染橋」と名付けられたといいます。ちょうど根津交差点のところでしよう。

ここを遊廓の惣門とし、根津神社にむかって、いまの不忍通りの両側に遊郭が立ち並んでいました。

通りの中央に桜の木を植え、その樹間に雪洞を立て、灯りを入れ、新吉原に見立てたようです。まるで幻想世界のようです。

根津交差点から不忍通りを上野方面に歩くと左側に有名な串揚げの店「はん亭」が、完全木造の三階建の構えをみせています。

ここは根津駅のもう一方の入口になります。

「谷根千」と言われるうちの「根津」は、根っからの下町で、根津神社の門前町であり、遊郭の街でもあったこと、おわかりになりましたでしょうか。

「根津」はこのさき不忍の池近くまでのびているのですが、きょうは「根津散歩」ですので、ここで〆たいとおもいます。
それでは、また。

ぼくの江戸・東京案内 目次

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