今日の散歩は渋沢喜作(渋沢栄一従兄)が眠る祐天寺と中目黒の界隈(目黒区)!

三沢初子の銅像

目黒区の祐天寺あたりを案内してみます。

祐天寺には今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の登場人物の主役級のひとり、渋沢喜作(渋沢栄一従兄)が眠ってます。

その寺名をとった祐天寺駅(開業・昭和2年/1927)が東横線にあります。

しかし駅まわりの目黒区祐天寺の町内にお寺はなく、だいぶ離れた中目黒5丁目にあるんです。

祐天寺が有名だったことから駅名にしたのでしょう。昭和43年(1968)の新住居表示により生まれた新しい町名です。

祐天寺は「駒沢通り」を挟んで目黒区祐天寺と向かい合う形になっています。

一帯は、武蔵野台地の東南、目黒台と呼ばれる台地に広がっていて、目黒川沿いへなだらかに下る地勢をとっています。

江戸時代には田畑や原野が広がる長閑な純農村地帯でした。

というようなことで、以下、そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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渋沢成一郎こと渋沢喜作が眠る祐天寺へぼちぼち散歩しましょう!

祐天寺駅の東口からスタ-トすることにしましょう。

コ-スはざっとこんな感じて歩いてみたいとおもいます。参考にしてください。

ロ-タリ-の花壇にはいつきても季節の花が咲いてます。花てんこ盛りです。

ロ-タリ-を左に、少し先の左手にのびる「みよし通り商店街」を進みます。

みよし通り商店街は、栄通り商店街の南西の端あたりから東方向に伸びる商店街で、かつては祐天寺に向かう「祐天寺道」だったのでしよう。古くから賑わっていた通りだったようです。

しばらすると、びっくりするモニュメント。ドヒャ~ですね。

蒸気機関車主動輪   説明によると、昭和48年(1973)4月の宮崎植樹祭に際し、日豊線で昭和天皇のお召し列車を牽引したのがこのC57117号だったそうです。

車体は解体され、主動輪が国鉄より払い下げられここに保存されているというわけです。

うわさでは、鉄道マニアには知られたカレー屋がここにあったみたいで、その店のオ-ナの管理で保存されているんだとか。それにしても迫力ありますね。

小さいかしっかりと一角をいただいている戸田稲荷は、かつて屋敷神でもあったの゛しょうか。

ちゃんと保全がゆき届いているようすがうかがえます。

稲荷の真ん前が広い土の公園になっています。いまどき素朴ですね。土ですよ土。

近くにある平塚幼稚園は昭和24年(1949)に開園された私立幼稚園。廃校となった校舎を移築して使っているんだそうです。リサイクルってところですね。

思想っていうのか存在に哲学みたいなのがみえて、イイナ。

樹齢が140年ほあるというクスノキが鬱蒼とした枝を大きく広げて堂々と繁っています。

手前の枝垂れ桜もみごとだそうです。

一帯が自然ちっくで、いい雰囲気ですね~。

商店街はゆるい曲がりをもって300メ-トルほどで「駒沢通り」にぶつかりおわります。

中目黒  駒沢通りを挟んで東側は中目黒になります。

目黒村が江戸時代に上・中・下に三分され、そのうちの中がこの一帯。さらに東は下目黒村で、五百羅漢・目黒不動・林試の森などがあり、江戸時代はこっちが中心地をなしていたようです。 

駒沢通り(都道416号線)   渋谷区の渋谷橋を起点に目黒区を経由し、世田谷区上野毛で環八通りに接続する道路で、昭和39年(1964)の東京オリンピックの際に整備されました。目黒区と世田谷区を結ぶ道路で、ほぼ東急東横線の南側を並行するように走っています。

駒沢通りのはす向かい浄桂院がみえます。

ここでちょっと離れていますが見応えある「庚申堂」がありますので寄ってみます。

信号を渡り駒沢通りを南に300メ-トルほど歩くと左手に小さなお堂があります。

小ぶりながらも堂々としています。彫刻の細工もみごとで楽しいです。

目黒区には庚申搭が多いようです。庚申講が盛んだったんでしょうね。

さわら庚申堂   60日に1度めぐってくる庚申(かのえさる)の日。これを3年(18回)続けた記念に建立したものだとされています。

名称の「さわら」は傍らに椹の木があったことによるものだそうですが、いまその樹はありません。

庚申信仰・庚申年・庚申講

旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日がめぐってきます。

庚申とは干支の庚(かのえ)申(さる)の日を意味しています。

人間の体の中にいる三尸(さんし)という虫が、庚申の夜に、寝ている人の体からぬけ出し、天帝(閻魔大王)にその人の悪行を告げるんだそうです。

悪行を告げられると、罰としてその人間の寿命は縮められるとされています。

こんなことから、庚申の日には徹夜をして三尸の虫が抜け出さないように、青面金剛を拝むようになったなですね。それが庚申信仰です。

中国の「道教」というものの教えによるものといわれています。

江戸時代に大流行し各地に「庚申講」という組織が生まれましたが、すでに平安時代に広まっており、そのようすは「枕草子」や「大鏡」などにも記されています。。

やがてこうした庚申の日の集いは庶民たちの心まちにする行事となり、その夜は飲食を交わしたりするリクリェ-ションの場となり、情報交換の場ともなりました。

庚申にはつきものの「見ざる聞かざる言わざる」は、庚申の教えによるもので「悪いことは、見たり聞いたり言ったりしない」という戒めの意とされています。

じっくり鑑賞しおえたらふたたび駒沢通りを浄桂院のところまでもどります。

指月山浄桂院  祐天寺の西隣に静かな佇まいをみせている浄土宗の小寺です。

慶長年間(1596~1615)、港区の芝西久保にあ天徳寺の塔頭(支院)として創建されたといいます。

天徳寺は浄土宗の江戸四ヶ寺の一つに数えられる名刹で、尾張徳川家、越前福井藩松平家の江戸における菩提寺として、寺格も高く、諸大名の帰依もあっておおいに隆盛しました。

天德寺の支院はいまも近くで寺町を形成していますが、浄桂院は大正12年(1923)の関東大震災で堂宇・寺宝など一切を焼失し、西久保での復興を断念し、昭和4年(1929)この地に移転してきたのだそうです。

本尊・阿弥陀如来   度重なる難をのがれた創建以来の唯一の寺宝とされ、檜の寄木造り、漆泊仕上げ、高さ3尺(約90センチ)ほどの金色立像で、鎌倉中期から末期のものと推定されています。

歌舞伎・浄瑠璃で有名な「累」(かさね)や江戸火消ゆかりの寺・祐天寺!

祐天寺の長板塀が美しいですね。

門前の自然石の石碑が目につきます。

新東京八名勝の碑   昭和7年(1932)に東京市が周辺5郡と合併し、いまの23区とほぼ同じ大きさになったことから、それを記念し報知新聞社が「新東京八名勝」を公募したといいます。

投票により祐天寺は6位に選ばれました。その記念に建てられたものです。ほかに「新東京八名勝」として選ばれたのは、西新井大師・赤塚松月院・日暮里諏訪神社・池上本門寺・洗足池・北品川天王寺・亀戸天神でした。それぞれに碑があります。

仁王門  享保20年(1735)建立の仁王像は、法橋石見( ほっきょういわみ の作で5代将軍綱吉の娘・竹姫による寄進とされています。

背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられます。

門額は第二世祐海上人によるものです。

蟇股(かえるまた)には方位を示す十二支が彫られています。部分的に修理・改修されていますが多くは創建当初の姿を保存しているそうです。

祐天寺   浄土宗の寺院で、本尊は祐天上人の霊像(本堂安置)です。

増上寺36世・祐天上人の弟子・祐海が、目黒の地に御廟を建立したいと望んでいた祐天上人のため、上人亡きあと、ここにあった善久院という寺を買い取り住職となって、享保3年(1718)、祐天上人を開山として創建したものだとされています。

德川吉宗により「明顕山祐天寺」の号が与えられ、以後、将軍家と縁ある寺として大いに繁栄しました。

祐天上人は芝増上寺第36代の大僧正として徳川家5代~8代まで、歴代将軍の帰依を受け、天下の名僧として知られました。

本堂   元々は常念仏堂として建立された堂宇を本堂として建て直したものといいます。

将軍綱吉の娘・松姫の寄進によるもので、享保4年(1719)に大仏師・法橋石見が手がけたとされる名作といわれます。ほかに木造・祐天上人坐像をまつり、祐天寺第2世・祐海上人の木造坐像なども安置されています。

賽銭箱には江戸・町火消しの纏の図柄がびっしり。第1区から第6区までの纏いが並んでいます。

ここからは境内の堂宇をいくつかみてみましょう。

祐天上人の知恵が生んだ江戸火消とのゆかりとかかわりを境内にみてみましょう!

祐天寺の特筆されるもののひとつが、江戸火消とのゆかりです。

祐天上人は増上寺法主の時代、増上寺内に消防制度を設けました。

数多いた学寮の学生を「いろは四十八文字」にグル-プ分けし、寺内における消防の防火体制を敷きました。これによって増上寺は一度の火災も出さなかったといいます。

のちに徳川吉宗の「享保の改革」で大岡越前が主導した江戸町火消の制度がありますが、これは祐天上人のアイデアを基に確立されたものといわれています。そうしたゆかりが境内に色濃く反映しています。

地蔵門)  地蔵堂の前方に建つ薬医門。抜けるとき天井を仰いでみて下さい。

薬医門の天井には火消組のみごとな纏七種が彫られています。

地蔵堂が江戸町火消たちの信仰と密接に結びついていたことを物語っているものです。

地蔵堂  増上寺にあった天英院の御霊屋の古材を用いて建てられたものといいます。

正面寄棟造、背面入母屋造。内陣は折上格天井、外陣の格天井には江戸町火消の各組の纏が描かれています。

地蔵菩薩像  寛政9年(1797)に信州松本の光明院から遷座されたもので、一説には、祐天上人はこの地蔵菩薩の生まれ変わりだという伝えがあるそうです。延命と防火のご利益を授ける地蔵菩薩として親しまれていました。

お堂のまわりにのみならず、境内にはあちらこちらに江戸火消にかかわる石造物がみられます。

三番組とあります

鳶三番組碑   石碑の正面に祐天寺9世祐東上人の名号が刻まれています。明和7年(1770)から嘉永4年(1851)頃までの鳶の犠牲者を供養するために建立されたものです。

江戸時代の消化方法は出火場所の周囲にある家などを壊して延焼を食い止めるというものでした。

そのため能力の高い鳶職の者たちが町火消として組織されました。

享保5年(1720)に「いろは四十七組」が編成され、のちに本組(ん組)が加わって「いろは四八組」となりました。

組単位分かれており、三番組にはて組・あ組・さ組・き組・ゆ組・み組・本組がありました。

いつだったか訪れたときにはこんな光景もみられました。火消の半纏がいなせですね。

「南無阿弥陀仏」の六字名号塔ですが、溶岩の上に建てられています。新旧のもののようです。火消の人たちの供養碑でしょう。

親たちは幼子が「はしか」にかからぬよう、岩穴をハイハイさせたそうです

六字名号塔の下に妙な穴があります。くぐり穴です。これには上人伝説があります。

「はしか」(百日セキ)の厄病神が病にかかり、祐天上人に救いを求めてきました。

子供たちをハシカで苦しめるんじゃ救ってあげれないね、と上人がいうと、疫神はもう絶対にいじめないからと誓い、無事に救ってもらったというオハナシです。上人伝説のひとつですね。

穴は石机といわれ、迷信とはいえ、子供たちは信じて穴くぐりをしたといいます。珍しい風習ですね。

いつきても祐天寺の境内では子供たちが元気に遊んる光景をみます。遊び場として拒絶する寺院が多いなか、あえて解放しているようです。

それには、こんな祐天上人の遺徳があったからなんでしょうね。

子供のころ鎮守の境内で遊びまわった昔が懐かしく思いだされます。

近頃は許可なしで境内に入るべからずとか、写真撮影お断りなんて寺社のふえてきました。

こちらも火消たちの供養碑のようです。右碑には「惣町火消中」とあります。

消防組寄進の玉垣がくるりと配されています。中央にある石碑には、いろは四十八組、本所深川十六組の組織図が記されています。

境内にあるほかの建物もいくつかみてみましょう。

子供たちがごく日常的に遊んでいます。名刹にしては開放的です!

阿弥陀堂  寄木造の阿弥陀如来坐像が安置されています。享保8年(1723)、5代将軍・綱吉の養女・竹姫の寄進によるもので、快慶の作と伝わつています。胎内には、竹姫が書写した名号一万遍が納められているんだそうです。

お堂の右手にみえるのは、

五社稲荷神社  祐天上人の誕生の日に白狐が3声鳴いたという伝説のある「随身稲荷」をはじめ、松黒、富山、天白、妙雲の5社が、正一位五社稲荷大明神として祀られています。

翌年、阿弥陀堂も寄進され、須弥壇の下には竹姫の御髪(おぐし)が納められたと伝えられています。

 鐘楼・梵鐘   享保13年(1728)、6代将軍・徳川家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室・天英院が鐘楼とともに寄進したものといいます。

重量は1200キロあるそうで、目黒区で随一の巨鐘です。祐天寺の境内で鋳造されたものといいます。

祐海上人を導師として盛大な「鐘供養」が長期にわたり執り行われたそうです。

鐘には祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘併并記」をはじめ、偈および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用懸、鋳物氏の名などが刻まれているようです。

江戸の昔から12時の法音として撞かれ、今でも正午に時の鐘として撞かれています。

仏舎利殿  仏舎利を納めている大殿で、二重塔型をしており、上重は八角になっているものです。

壁には大絵馬が奉納されています。「累」の物語を絵で表したもので、昭和61年(1986)に日本美術院同人の月岡栄貴(つきおか・えいき)らによって制作されものです。

祐天上人が「」の怨霊を鎮めるため天から舞い降りてくる絵柄になっています。

累塚の建立60年を記念として作られた縦メ-トル、横10メ-トルの大絵馬

寛文8年(1668)の頃、上人が上総の飯沼弘経寺の住職をしていたころ、累一族の怨霊を鎮めたといいます。

その事績を、文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に仕立て上演し、天下の名作と評判をよび、よって上人の遺徳が広く高まったといわれます。

『累』は祐天上人の名を巷間に広めた伝説のひとつです。

下総国の羽生村(はにゆうむら)(現,茨城県水海道市)に、器量のわるい娘が住んでいました。その名を累といいました。

累は村の若者(与右衛門)と夫婦になりました。

だが田畑だけが目当ての与右衛門は、累を川に突き落として殺してしまいました。

与右衛門はさっそく新妻をめとりますが、累の怨霊がたたり新妻は次から次と死にさらされました。

5人目の妻が菊という娘を生んだものの、菊が13歳の時に死に、与右衛門は菊に婿をとりました

祝言の喜びも束の間、菊は病に倒れます。そこに累の怨霊がとりつきます。

菊は狂乱し与右衛門の罪業を罵りさらし者にしました。

与右衛門は村人の前で累の殺害を認め謝まりました。

そこへ祐天上人が通りかかり、村人に請われるまま一心不乱に念仏を唱えると、たちまち累の怨霊は鎮まり、菊は正常な元の娘に戻りました。

『法懸松成田利剣』(けさかけまつなりたのりけん)という芝居の中、二幕目序盤の踊りの場面『色彩間苅豆』(いろもようちよつとかりまめ)がもっともよく上演されます。日本舞踊の演目では通称『かさね』といわれているものです。

山門を入った右手に「かさね塚」があります、

この踊りは長い間絶えていましたが、明治末年に復活上演されました。

大正9年(1920)、6代目尾上梅幸・15代目市村羽左衛門・5代目清元延寿太夫らが歌舞伎座で上演して大当たりを取り、以来人気舞踊となった

大正15年(1926)、大入りの祝賀と歌舞伎宣伝の目 的で彼ら出演者が施主となり、境内に「かさね塚」を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳をしのぶものとしました。

爾来、演目上演のおりは、出演者がこの塚に詣で累一族を供養し興業の無事と、上演の成功を祈願することが慣わしとなっているといいます。

これから祐天寺墓地に入ります。

祐天寺墓地の中心をなしています

祐天上人墓   広い墓域のなかに開かれた参道のさきに祐天上人の墓と歴代上人の墓があります。

墓塔は祐天上人の入寂から6年後の享保9年(1724)に完成したといいます。

造立の際には墓塔の下には日本全国六十余州から5年がかりで集められた霊地霊山の土が納めらたそうです。

六角形の台石には祐天寺2世?祐海が撰文した上人の略歴や開創由来、の際の奇瑞といったものが刻まれているといいます。

周りの石垣は上人の百回忌の記念として文化14年(1817)に造立されたもののようです。

「祐天寺ころ柿一つ有りがたし」。江戸時代、祐天上人の人気には桁違いのものがあったらしいです。

祐天上人は磐城の大浦に生まれ、12歳で出家、愚心と名乗りました。その名の通りできのわるい小僧で馬鹿にされました。

そこで奮起した愚心は成田山新勝寺に赴き、21日の断食修行をしました。

満願の日、不動の剣をのむ夢をみて、愚心はどっと悪血をはき気絶しまいました。ところが正気にもどると愚鈍が嘘のように消え去り、頭脳明晰、難解な仏典もスラスラ解読できるようになったといいます。

以来精進をかさねに重ね、50歳を過ぎたころ、念仏を弘めるべく全国行脚を発心しました。

将軍の尊崇もあり、元禄12年(1699)、60歳の時、将軍・綱吉の特命で千葉生実(おゆみ)の大巌寺貫主となりました。

その後、水海道の飯沼弘経寺、小石川の伝通院と移り、最後には浄土宗大本山増上寺法王にまで上り詰めました。時に77歳でした。

晩年は麻布竜土町に隠棲し、念仏三昧と民衆強化に努めたといいます。

享保3年(1718)、82歳で遷化しました。その生涯は『祐天上人御一代記』となって語り継がれています。。

                            右側が第二世・祐海上人の墓

他に名のある墓へも参じてみましょう。

祐天上人の墓に至る参道の中ほど左手に柳原伯爵家の墓があります。

柳原家の墓と並んで柳原愛子の墓があります。

柳原愛子(やなぎはら・なるこ)の墓   明治天皇の典侍で、大正天皇の生母。

中納言正二位・柳原光愛(やなぎはら・みつなる)の次女で、伯爵・柳原前光(やなぎはら・さきみつ)の妹。柳原白蓮は姪にあたります。

昭和18年(1943)10月16日薨去。墓碑に一位とあるのは、薨去の際、従一位を追叙されたことによるもの。正一位は天皇陛下、従一位は皇后陛下、それ以外はすべて正二位どまりです。

和歌に優れており宮中歌会始に3回撰歌されています。

真意のほどはわかりませんが、住まいは宮城内にも赤坂御用地内にも開かれず、市中の四谷左門町に宮邸の扱いをうけない質素な邸宅を構えていたのみだったといわれます。 

昭和18年(1943)10月16日に亡くなられました。お墓の両脇に春になるとみごとな紅梅・白梅が咲きます。

大正天皇の皇太后、貞明皇后さまからいただいたものだといいます。

寺村左膳(日野春草)   本名は寺村 道成(てらむら みちなり)。明治維新後は日野春草と改名しています。妻は板垣退助の姉。

土佐藩の重鎮で、藩主山内容堂の側用人として活躍しましたが、土佐藩の戊辰戦争)への参戦に反対したため失脚させられました。

明治維新後は旧藩主山内家の家令を務め、明治29年(1896)、65歳で亡くなっています。

墓所の近くには5代、9代、12代の藩主の妻ほか童児・童女の墓がみうけられます。それにしても、どうして藩主とは別々にあるのでしょうね。

歌橋の墓  十一代将軍家斉の正夫人・茂姫付の老女で13代将軍・徳川家定の乳母。

家定の没後は落飾して法好院と号しました。明治10年(1877)没。享年71歳。戒名は「法好院殿蓮誉樹光操心法尼」。

森川君故紙冢    地蔵尊が中空に聳えて異彩を放ちます。故紙冢(こしちょう)と称される、生前の原稿を埋めて祀る供養塔です。二児の戒名が刻まれていることからすると墓でもあるようです。千葉県にあった生実(おゆみ)藩主・森川家に帰属するものです。

江戸・明治・大正を生きた渋沢栄一朋友、渋沢喜作(渋沢栄一従兄)の墓!

渋沢喜作の父(文左衛門)の弟・元助(市郎右衛門)の子が渋沢栄一で、つまり栄一は喜作の2歳ちがいの徒弟にあたります。

渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう)  天保9年(1838)~大正元年( 1912)。

渋沢栄一と同じ武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農出身です。

元治元年(1864)、一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867)に慶喜が将軍になると奥右筆(書記・秘書)に任じられました。

幕末、彰義隊頭として活躍し、果ては榎本武揚率いる旧幕府の脱走軍とともに蝦夷地に赴き、箱館戦争にも参戦しましたが、新政府軍に投獄されてしまいました。

渋沢栄一を身元引受人として赦免され、それからは幼名の喜作を名乗り、栄一の仲介で大蔵省に入りましたが、しばらくして栄一にならい大蔵省を退職しました。

以後は従弟の渋沢栄一の計らいや協力もあり、栄一同様さまざま事業にかかわりました。

明治8年(1875)、深川に居を構え渋沢商店(屋号:マルキ)を開業しました。

米穀の物流再編に栄一と協力して取り組み、東京への廻米や委託販売などを行ったほか、荷物の為替決済や運送保険などの近代的な制度創設にも取り組みました。

明治11年(1878)、渋沢栄一の「東京商法会議所」設立に発起人として参加しています。

奥は妻の墓

明治15年(1882)、栄一の深川・横浜における日本最初の倉庫会社の創設に協力しますが、明治16年(1883)、栄一の勧めで家督を長男・作太郎に譲り、作太郎を渋沢商店店主とし自分は一線から身を引きました。

明治17年(1884)、米相場が投機的となり価格が乱高下する弊害を除こうと、明治政府は、喜作と有力廻米問屋に対し、米取引の正常化への取り組みを委嘱しました。

喜作はそのリ-ダ-となって深川廻米問屋組合を組織しました。

これによって明治19年(1886)、同組合が深川佐賀町に米の現物市場として「深川正米市場」を創設しました。喜作は初代の理事長に就任しました。

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渋沢作太郎  喜作の長男。作太郎と次男の義一は栄一の指導のもとで事業を発展させ、渋沢商店を生糸貿易で茂木、原と並ぶ横浜屈指の生糸商に成長させ、横浜財界で重きをなすようになりました。作太郎は横浜生糸取引所理事、横浜火災海上運送保険取締役を務めました。

明治30年(1897)、栄一が深川の自邸Kに倉庫を中心に澁澤倉庫部を創業することになったとき、作太郎は渋沢商店の深川にあった倉庫を栄一にゆずり、業務は横浜での生糸商一本に絞ることにしました。

東京・横浜の「澁澤商店員」が奉納した石の燈籠。「渋」が旧字体になっており、「沢」も「澤」になっており、合わせて「澁澤」。

といった通りで、本来はこちらを商号として使っていたようです。

明治45年(1912)、東京・横浜の「澁澤商店員」が寄贈したもの

明治36年(1903)全ての公職から退いた喜作は、白金台の邸宅(現・八芳園)で余生を送ることになります。

八方園についてはこちら

喜作は、作太郎亡きあとを継いだ義一の活躍に満足しつつ、大正元年(1912)8月30日に世を去りました。75歳でした。

葬儀には喜作に世話になった多くの米穀商、生糸商が参列し弔意を表したといわれています。

境内にあるほかの遺蹟もみまわしてみましょう。

山門の左手の奥にめずらしい供養搭があります。

白子組海難供養塔  遭難した白子港(三重県鈴鹿市)を拠点とする白子回船問屋に所属していた船の遭難者慰霊のために、江戸白子組が文政4年(1821)に建立したものです。白子組は木綿問屋、呉服問屋の総称です。

灘目の海難供養塔  「灘の樽廻船」の遭難者慰霊のため、寛政8年(1796)に建立されたものです。

江戸時代に回船が江戸に向かう途中に相模灘や駿河湾、遠州灘で台風などに遭い、たびたび沈没することがありました。その遭難者のために江戸の問屋仲間が建立した海難供養碑です。類するものが両国の回向院にたくさんあります。、

ここにある碑は、いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東、自筆の名号が刻まれていることから、はじめから祐天寺に建てられたものと推定されています。

本堂右手に安住敦の句碑があります。

安住敦の句碑  久保田万太郎の「青燈」を創刊し、のち主宰。俳句における個の抒情を確立したといわれる俳人。昭和63年(1988)に死亡、81歳でした。この句碑は7回忌に建立されました。 てんとむし一兵われの死なざりし

さて境内を出ることにしましょう。

墓地と境内の間の道を150メ-トルほど南東方向に下り、祐天寺裏という五差路の交差点を左にまがります。

道は「中町通り」になりのます。100メ-トルほど歩くと左手に墓地があります。

墓地に入る狭い路地の入口に説明板が建てられています。

菅沼権之助の墓   目黒駅の前から目黒川に向け有名な「権之助」があります。その坂を開削したのが権之助でした。

権之助は中目黒村田道の名主でした。

権之助坂が開かれるまでは、重荷を運ぶ人は急坂の「行人坂」を使うしかありませんでした。

その苦労をみかねて緩やかな権之助坂を開いたんですね。人情家だったんですね。また別説もあり、貧しい百姓が重たい年貢の取り立てにあうのを不憫に思い、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれます。

ともかく掟破りということで刑死に追い込まれました。そんな義人ともいえる権之助を慕う農民たちが新坂に権之助の名を付けたといわれています。

中町通りをちょっと先に進むと左手に上り坂があります。

その坂を上りきると左手に「なべころ坂緑地公園」があり、その公園入口の一角に立派な庚申搭が祀られています。

藤の庚申搭

2基の庚申塔は古くから「藤の庚申」とよばれています。昔、ここに藤の大木があったことからつけられた愛称でしょう。今も稗のうしろに小さな藤の木があり、春には美い花をつけています。左側の駒型の碑は1米以上もあり、合掌六臂の青面金剛と日月、二鶏、三猿の図柄が彫られています。また、「両親二世安楽の為に」という願文や貞亨元年(1684)の銘が刻まれています。右側の小さな板碑型のものは元禄元年(1688)の造立で両肩に素朴な形の日月が陰刻され、額縁の下端に「申ノ形」という文字が3行並べて彫ってあります。これらの石造物は私どもにとってはなつかしい心のふるさとであり、 祖先の信仰や生活の様子を伝えてくれる貴重な文化財です。この前の道は古くから庚申道と呼ばれています。道沿いに様々な庚申塔が並び、江戸時代にこの辺りにかなりの農村集落があったことが偲ばれます。また、この道はもっと古い時代から 目黒不動方面と世田ケ谷城方面を結ぶ幹線道路であったといわれています。    平成元年3月  東京都目黒区教育委員会

この通りも古い通りだったようで、道沿いに庚申搭がたくさんあるようです。

なべころ坂  

中目黒4丁目13番と14・16番の間の急な坂道。昔、鍋が転がるほどの急坂であったことからこの名がつけられたとする説と、「なべごろ」とは赤土が水で柔らかくなった状態を示す目黒の古い方言とする説がある。「なべごろ坂」とする説によると、坂道の両側には耕地があり、坂道は狭く曲がっていた。用途が比較的少なかったため、改造されることもなく、昔ながらの道路面は表土の黒土層が洗い流されて、赤土層が露出していた。そのため夏の乾燥日には赤土のかたまりがごろごろしていたし、冬の雪の日や春の霜解け、入梅期の雨の日などには赤土がぬかっていたという。

昔は鍋がころがるほどの急坂であったので、なべころ坂とよぶようになったといわれます。また、道に粘土が露出した状態を方言で「なべころ」といったことから、それが坂名になったともいわれています。

公園横の道を350メ-トルほど歩くと駒沢通りにぶつかります。

そこを右折し、ものの2分ほと進むと左側に天祖神社の参道があります。

天祖神社  古くから伊勢森といわれたこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀っています。、

創建の年代は不明とされています。境内には樹齢が数百年と推定される老樹が多く繁っています。

現在の社殿は昭和8年(1933)5月に新築されたもので、毎年9月の第1土、日に例大祭が行われています。

庚申塔   境内に宝永5年(1708)と、道標をかねた享保元年(1716)の2基の庚申塔があります。超りっぱ!

この2基の庚申塔は駒形で、宝永、享保の頃の建立、両碑とも駒型、合掌六臂、日月二鶏、三猿の青面金剛像。右側の享保の碑は彫像碑にはめずらしく道標を兼ねていおり、区内の道標碑としては最古のものという。

左側の碑は宝永五年の銘があり、講中九人の名が掘られている。道標には、「これより町さき四辻 大道、九品仏道 右せたがや道 左ふどう道」と銘文。町はずれの道をそのまま進めば浄真寺の九品仏へ、右は世田谷方面、左は目黒不動へというわけ。はじめ辻前の街道の際にあったもの。  東京都目黒区教育委員会

神社前から少しさきに進み右手にみえる恵泉教会の横町を下りましょう。

このあたりは目黒台地が目黒川沿いへなだらかに下る地勢が色濃くよみとれます。

坂を下ると左手に社があります。

中目黒八幡神社   中目黒村の総鎮守です。度重なる火災で資料が消失したため創建は不詳とされています。

誉田別命(応神天皇)を主神として、天照大神を合祀しています。

建物は堂々とした八棟づくりで、昭和11年(1933)に落成したものです。

昔から十二座の神楽を奏する神社として有名で、今でも毎年9月の例大祭(第3の土、日)には演目十二座の神楽が奏されています。

傾斜地のなかの平坦地に鎮座しており、どことなく、かしこみたくなるような厳さをかもしています。

神泉  かつては湧水が絶え間なく湧き出ていたといいますが、いまは地下をポンプで汲み上げているのだそうです。

裏参道の雰囲気がする坂道を200メ-トルほど上ると駒沢通りに出ます。

正面に新しい目黒区役所の建物がそびえています。

このあたりから北方向、中目黒駅方面にかけ、道が急傾斜しています。いかにも切り開かれたといった雰囲気のする坂道です。

さもあらんで、古くから何回となく急な個所を切りくずす、切り通し工事が繰り返されてでき坂道なんだそうです。

けこぼ坂  

この道は昔の祐天寺道で祐天寺を経て碑文谷衾に向かう目黒の主要道路だった。嘗てこの辺りは急坂であったため、斜面を切り開く切通しの工事が何回となく繰り返された。その結果道の両側の土手はますます高くなり、風雨にさらされた土手からは赤土のかたまりがざらざらこぼれおちた。この状態を目黒の古い方言で「けこぼ」といい土地の人々はこの坂を「けこぼ坂」と呼んでいた。  東京都

けこば坂を50メ-トルほど下ると右手に正覚寺の山門がみえます。

歌舞伎・浄瑠璃で有名な『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』ゆかりの寺!

正覚寺  実相山正覚寺という日蓮宗寺院。

元和5年1619)、法泉院日栄を開山に、三沢初子(仙台藩主伊達綱村の生母)を開基として創建されたといわれます。

三沢初子は4世日猷、5世日登両上人に深く帰依し、諸堂を建立したとされます。、

境内に入ると右手にある三沢初子の像がまず目に飛びこんできます。

三沢初子像   仰ぎみるほどの三沢初子の像が境内に偉観を添えています。

昭和9年(1934)に建てられたもので、制作は「長崎平和像」の彫刻家・北村西望、建畠大夢(たてはたたいむ)、新田藤太郎(にったとうたろう)の三人のメンバ-構想を練り、新田が主として制作を進めたといわれます。新田は「肉弾三勇士像」の原型製作者で、それに北村西望ですから、いささか意表をつかれますね。

像の姿は、6代目・名優尾上梅幸の弟子・尾上梅朝が演じた先代萩の政岡をモデルにして作られたものといわれます。

初子は伊達藩の3代藩主・伊達綱宗の側室で第一子亀千代君(綱村)を産みました。

綱村が2才の時に藩主の綱宗は隠居、そこに寛文事件(伊達騒動)が発生します。

初子は浄瑠璃や歌舞伎で有名な「伊達騒動」を描いた『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の「政岡」のモデルとされています。

政岡はわが子を犠牲にして幼君を守護し御家の安泰を図ったという物語です。

本堂 伊達綱村も生母初子の菩提を弔うため当寺へ特別の保護をしたといいます。

鬼子母神堂  伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が安置されています。

三沢初子が深く帰依したところから、「開運子安鬼子母神」と呼ばれています。

祖師堂」  「国柱法窟」の額が掲げれています。「法窟」とは修行道場ということです。

11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されています。

客殿や庫裡などは三沢初子の居宅のものを移築したものといわれており、墓所入口の建物はそれらしくおもえます。

墓所に入って、ざっと見渡すと二つの五輪塔が目にとまります。

三沢初子の母娘の墓です。

三沢初子の墓
三沢初子の墓

三沢初子(浄眼院)の墓  生前から正覚寺の鬼子母神を深く信仰し、我が子亀千代の平穏長久と子孫繁栄を祈り続け、 貞享3年(1688)、48歳で歿しました。法号は「浄眼院了岳日厳大姉」。

墓
                             三沢初子の母の墓

三沢初子は山陰の名族・尼子(あまこ)氏の重臣だった三沢清長の長女で、主家が滅亡したのち江戸に移りました。

初子が13歳の時に父が亡くなったことから、伊達家に仕えていた叔母の斡旋で伊達家に仕えるようになりました。

3代藩主・綱宗の側室・浅岡局となって亀千代(4代藩主・綱村)含め3子の母となりました。

瘡守稲荷神社   瘡守(かさもり)」とは、疱瘡、天然痘から人々を守るという意味です。江戸時代は(天然痘)が恐れられていました。

浄行菩薩     日蓮宗には多い浄行菩薩。身の汚れや厄病を洗い流してくれるという菩薩ですね。

橋本牧場畜牛供養塔   橋本牧場は、明治20年(1887)から大正12年(1923)頃まであった大牧場でした。

その経営者の橋本寿吉が牧場の廃業時に敷地に建てたもので、再開発などで移転をしたのち、平成19年(2007)に現在の場所に安置されました。

目黒には明治中頃から昭和初期にかけて数多くの牧場があり、地域の人々に新鮮な牛乳を供給していました。しかしそれらも目黒の都市化とともに姿を消し、今日では全くその姿とどめていません。橋本牧場は明治20年頃から大正12年まで上目黒4丁目あたりに3000坪(約1万㎡)ほどの敷地で存在した牧場で、畜牛供養塔は経営者の橋本寿吉により牧場廃業時に敷地の片隅に立てられたものです。その後、開発等により慰霊碑は移転を繰り返しましたが、平成19年に現在の場所に。区内に牧場があったことを物語る数少ない貴重な資料です。      目黒区教育委員会

駒沢通りを少しもどり、ひとつめの信号で通りをわたり、「けこぼ坂街かど公園」脇の道を中目黒銀座通りまで歩きましょう。

150メ-トルほどで銀座りに合流しますから、そこの信号を向かい側にわたり、すぐ左にまがり、30メ-トルほどのところで右の路地に入ります。

すると正面に提灯のぶらさがったお堂がみえます。そこだけちょっと華やかです。

目黒銀座観世音  「目黒馬頭観音」と墨書された提灯がかかっています

昭和のはじめころまでは、このあたりに牧場や馬力運送の業者が多かったことから、「目黒恵比寿畜舎運送組合」というものができました。その発起人たちが牛馬の息災を願い、亡くなった牛馬の霊を弔うために建てられたものだとか。

武州東松山の妙安寺から馬頭観音を分霊したのだそうです。

社殿は昭和10年(1935)にできたものであり、同31年に「目黒銀座観音」と称されることになった。

狭い境内には道路改修などで行き場のなくなつた馬頭観音の石碑がたくさん集められています。

ふたたび銀座通りに出て中目黒駅にむかいます。ものの5分です。

中目黒駅、東口に到着です。

東口は空間スペ-スが広くとってあるので気持いいですね。

ふたつの大寺で建物群が目白押しでした。

ブログでは写真もバンバンあげることになってしまいました。

で、いつもながらの中だるみありの、長編!となってしまいました。

最後までお付き合いしてもらえるか、ちょと心配です。

ということで、ここで〆とします。

それではまた!

ぼくの江戸・東京案内 目次

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