今日の散歩は大手町の界隈(千代田区)・将門塚のある超ビジネス街!
大手町という町名は城下町にはだいたいあります。
そして大手町には大手門がつきものでした。
お城に付属する大手門のあったエリアをさしてだいたいが大手町といっています。
江戸城の大手門といったらその最大のもので、その一帯がいまは千代田区大手町といわれています。
隣り合う丸の内と並ぶ日本一のビジネス街です。
仰ぎ見るほどの高いビが建ち並んでます。ビル、ビル、ビル、ビジネスマンたちが働くビルばかり。
どっち行ってもまっ平らでまったく坂のない街です。曲がりくねった道のない、
桝目を引いたような街並みです。
そんなビルの谷間のビジネス街の一角に「将門の乱」で有名な平将門の怨霊塚があるという摩訶不思議な町でもあります。
時代がどうかわろうとそこにあって、いまなお将門公の崇りがあると畏怖されているところです。
といわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
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「夕立を四角に逃げる大手町」(江戸川柳)~そのココロは?
地下鉄大手町駅のC13番出口から地上に出ることにしましよう。
いちばん大手門に近い出口です。
大手町駅は乗り入れが多く、それに構内が広く複雑ですから、迷わないように!
地下鉄千代田線で下車するのが理想的です。
地上に出ると永代通りに出ます。ビルばかりです。
江戸時代は四角ばった大名屋敷ばかりでした。
よって、夕立ちのときは四角に逃げるしかなかったのです。
皇居のほうを眺めるとまっ正面に大手門がみえます。
かつての江戸城の正面玄関、つまり「表門」です。「追手」と書くこともあります。
まさに、この門で追ッ手に王手をかける、そんな門といったらいいでしょうか(笑)
超厳重な警備が敷かれていました。
この大手門の前は、徳川と親密な親藩・譜代といった重臣の邸で固められていました
諸大名が登城するときの主要な門でした。
ちなみに裏門は「搦手」(からめて)で、大手門の反対側、半蔵門にあたります。
江戸時代の大手門は東京大空襲で焼失してしまい、いま目にするのは昭和42年(1967)に復元したものです。
江戸時代、パレスホテルのある永代通り側あたりには「赤門」がありました。
ちょっと意外外でしょう。
赤門というと東京大学にある加賀の赤門が有名ですが、それに比類するもので、下馬将軍(※)ともいわれた酒井家(酒井雅楽頭・さかいうたのかみ)の赤門でした。
いまは本郷にある西教寺に移築され、寺の山門として残されています。
将軍の姫君が大名に嫁ぐと、大名家では屋敷内に姫君のための御殿を特別に設けました。これを御守殿といい、
その入り口に構えた門を「御守殿門」と呼んだようです。
ここにあった赤門は、11代将軍・徳川家斉の喜代姫が姫路藩・酒井家(※)に嫁いだときに造られたものです。
※徳川家康の祖・松平親氏の子が酒井広親、その次男の系列が酒井家。
代々雅楽助を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていました。
(※)下馬将軍の「下馬」とは。
大手門の前には下馬札が立てられていました。
この札のころではどんな大名でも下馬、つまり馬を下りるのが習いとなつていました。
立札のまん前に邸を構えていたのが酒井家。老中・酒井忠清は将軍並みの実権を握っていたことから、
下馬札を比喩して「下馬将軍」と呼ばれました。
これから、その大名屋敷の広大さを歩測してみましょう。
ところで小噺のようなものです。
お殿さまが大手門から登城したときには、お伴した家臣のものはこのあたりに設けられた腰掛けて殿の帰りを待ったといます。
切絵図にある「腰掛」とか「御畳蔵」とあるのが、そうした待合施設です。
うろうろとして時間をつぶつ輩もいたでしょう。
大名総登城のとはきなどは、ともかくごった返したようです。
この待ち時間に各藩のものが入り混じってガヤガヤ、アレコレいろんな評判をいいあいました。
「下馬先でする評判」ということから、それが「下馬評」という言葉のもとになったといいます(笑)
そんなとき、いつも目にしたのが江戸城のお堀だったでしょう。
お堀は語らずですが、何千何万という武士たちが、この溜りで眺めたお堀です。
永代橋通りを渡ると正面に並木のある歩道が続いています。
ここか東京で最初の並木。初はニセアカシアだったですがいまはエンジュ(槐)です。
明治7年(1874)のことでした。蘭学者・津田仙、つまり津田塾を開いた津田梅子(女子教育の先駆者)のお父さんですね。
彼がウイ-ンから持ち帰った種子を育成し、ここに植えたのだそうです。
そういえば余談になりますが、令和6年(2024)に発行される新紙幣iには、樋口一葉にかわって津田梅子が5千円札の顔になります。
並木の下を通って進み、次の通りの右角が旧内務省跡です。
内政をつかさどる明治政府の要がここに設けられました。大蔵省も置かれました。
ここも酒井藩邸のうちです。
創設したのは初代内務卿となった大久保利通。明治6年(1873)のことです。
これによって、大手町や丸の内の一帯が官庁街となりました。幕府崩壊後の大名屋敷を各省の庁舎に転用して使っていたといいます。
ちょっと予想外です。
そんな時代を経て昭和8年(1933)、霞ヶ関に大移動、やがてあちらが巨大官庁街となってゆくわけです。
「内務省跡」から道路を隔てた斜め向かいが将門塚( しょうもんづか)です。
散歩で祈る、ビルの谷間に息衝く将門の都市伝説よ永遠なれと…!
いつきても、新鮮できれいなお花が手向けられています。神社、仏閣のない大手町の聖なる拠り所になっているのかもしれませんね。
ビシットして陰翳を帯びた石塔婆。つい手を合掌たくなりませんか。
石碑の奥にちらっとみえるのが、実際の「将門塚」なんでしょう。
これは徳治2年(1307)のこと、時宗の真教上人が将門の霊を供養するために建てたものといいます。
真教上人のやさしいさと強い意志を感じますね。
時の流れの中で幾度となく焼損、破損をくりかえしているそうですが、そのたびに復刻されてきているといわれます。
これもまたミステリアスですね。
「将門の乱」(天慶の乱)は承平5年(935)に鎮圧され、
ここに将門伝説が生まれることになったわけです。
その伝説によると、
捕えられた将門の首級は京都に送られ獄門に曝されましたが、その三日後のこと、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちたといいます。
大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになりました。
村人は恐怖して塚を築き埋葬したといわれます。
つまり、その伝説の地こそが、この場所であり、ここにあるものがその将門の首塚であるとされています。
真意はともかく、確かにここに、こうして匿われていることがミステリ-ですね。
それに、平将門を祭神とする神田明神も、本来はこの一角に建てられた社であり、
浅草に移転した日輪寺(神田山日輪寺)もここにあった一寺といいます。
そんなことを合せると伝説以上の真実の歴史がここにあるようにおもわれてきますね。
都市伝説として、
ともかく、ここではさまざまな事変があったという。事故死や不審な死。そのどれもこれもが、祟りとされてきました。
ここでなにか事をおこすと将門の祟りがあると、
いまもって信じられている。
時の為政者もそう信じていました。
なぜ「故蹟保存碑」といったものかあるのか。
仰々しく大蔵大臣の名前が刻まれています。かつてここが大蔵省の敷地となったときがありました。
やはり将門公の崇りがあったといわれています。
そのときの怨霊を鎮めるために建立されたのでしょうね。
土一升金一升の一画にこうして丁重に隔離され続けるミステリ-。
地霊そのものが将門の怨霊なのか、異次元の世界を思わせられる異空間です。
そうそう、ここも酒井邸のうちで、中庭の一部として使っていたようです。
伊達騒動で伊達安芸・原田甲斐が殺害されたところでした。
これもまた、将門の怨霊がなさしめたものだったんでしょうか。
それにしてもあっちにもこっちにもと、同じような説明板が多すぎるような気がしますね。
将門塚のさきを行くと緑の回廊があります。大手町の貴重な緑のある道です。
緑をぬけて、
日比谷通りの交差点を渡り、通りを右に歩いてゆくと右手に、
「日本歯科大学発祥地」の説明板が立ってます。
歯科医の中原市五郎によって明治40年「私立共立歯科医学校」としてこの地に創立されたとあります。
さらに永代通りを進み、大手町駅の交差点まで行くと、目の前に時計塔をもったちょっと時代色を帯びた建物が目に飛び込んできます。
幾何学的な壁面に重厚さを感じますね。最近はやりの「瘡蓋保存」(そうたいほぞん)という形のもので、部分保存を併合した「かさぶた建築」と揶揄される建造物になつています。
「旧日清生命」が昭和7年(1932)に建てたもので、東京都選定歴史的建造物になっています。
いまは27階建ての「大手町野村ビル」の名称で、一階ロビ-に旧建築の写真などが展示されている一角がありますから寄ってみましょう。
大手町野村ビルの裏道に入ると右手に「道三堀跡」の説明板があります。
江戸時代の初期に開削された人工堀の第1号。
日本橋川からいまの大手町を横切って和田倉門へ通じていました。
江戸湊までダイレクトにつながる輸送の水路で、近くに架かっていた橋が銭瓶橋です。
幕府の侍医・曲直瀬道三の拝領屋敷が近くにあったことから、道三堀と呼ばれていました。
明治43年に埋め立てられたようです。。
そのまま進むと右手にア-バンネット大手町ビルというのがあり、そのⅠ階スペ-スに赤いフレ-ムの状のオブジェガあります。
「東京市外電話発祥地」のモニュメントです。
明治25年7月から、ここで日本の電話交換業務がはじめられたといいます。
近くですので、もうひとつ寄ってみましょう。
すぐ先の広い通りに出たら左にまがり、大きな十字路を右に渡ります。右手大手町プレイスというビルの一帯が越前福井藩の上屋敷跡です。
敷地内の植え込みの中に説明板があります。
藩祖は徳川家康の次男・結城秀康。親藩の雄藩として、幕末には藩主・松平春嶽が活躍していますね。
この邸には坂本龍馬も江戸に出てきたときに出入りしてますね。
ここから線路方面に歩いてゆきましょう。
歩いている左側の全部が越前福井藩の屋敷でした。
線路下をくぐり江戸通りを過ぎると左手に常盤橋公園(昭和8年に東京市の公園となる)があります。
ここでひときわ目につくのが渋沢栄一の銅像です。日本資本主義の父ともいわれ、多くの企業の設立にかかわりました。
津田梅子と同じく、福沢諭吉にかわり1万円札の顔になります。
日本資本主義の父・渋沢栄一が大手町の一角、常磐橋のたもとでみつめる!
ここには常盤橋御門があり外堀に常盤橋が架かっていました。
江戸城大手の外廓の正門にあたり、大手口ともいわ重要な桝形の御門でした。
公園の場所はそのときの枡形の跡だったところです。
橋は明治10年に石橋に架けかえられれたのですが、
大正12年(1923)の関東大震災で崩壊し、当時の「渋沢青淵翁記念会」により復旧整備されました。
渋沢栄一の銅像がここに建つのは、そういう経緯からなんです。製作者は朝倉文夫です。
惜しいことに戦争中の金属回収に遭っており、いま立つのは昭和30年(1955)に再建されたものです。
渋沢栄一は経済、商業、福祉といったもののほかにも、このような面での活躍も少なくなかったわけです。
この銅像は渋沢栄一のそうした側面を物語ったものといえるでしょう。
以下に渋沢栄一の銅像をふたつあげおきましょう。ひとつは栄一の還暦を祝したもの、
もうひとつは「養育園」院長の貢献に感謝するもので、こちらは除幕式に本人が参列したという異例のものです。
公園の近くではどでかい再開発が進んでいます。
懐かしい東京ビルデング(旧第三大手町ビル)も壊されてしまいます。
なぜ懐かしいかって。
ワタクシごとなんですが、
大学生のとき、このビルのエレベ-タ-(昇降機といっていた)運転のアルバイトをしていたときがありました。
昭和40年代のことです。
丸の内、大手町にある三菱地所所有ビルの昇降機は朝、昼、夜とすべて大学生が手動で動かしていました、
三菱地所からの給料(アルバイト料と言わなかった)はすこぶるよくて、とても助かったものでした。
アルバイトながら福祉も充実してました。
返りみれば、まさに青春のひとときでした。みんな、どうしているかな。ひとりひとりの顔が浮かびます。
石橋に架け替えたときの常磐橋の建設には、肥後熊本の石工たちが大勢かかわったようです。
このほか、明治に架橋された多くの石橋(日本橋、浅草橋、江戸橋、神田橋、旧万世橋)は、だいたい肥後の石工の手によるものだそうです。
が、さて今日、彼等に勝る石工といった者がいるでしょうか。
というのもこの旧常磐橋。
さきの東日本大震災で大きく損傷したことから、全体を解体して組み直すという修復工事にとりかかっているのすが、
震災からずいぶん時間がかかっているのですが、いまだ完成にこぎつけていません。
石組みに難渋しているのでしょうか、
それとも再開発に足並みを揃えているのでしょうか。、
ところでいま常盤橋といわれる橋は3つ架かっています。
江戸期以来の旧常磐橋の両側に常盤橋、新常盤橋とあります。どれも千代田区の重要文化財になっています。
橋を渡ると目の前が日本銀行。ここは江戸時代の「金座」の跡。建物は東京駅を設計した辰野金吾による名建築です。
このあたりは日本橋エリア散歩で詳しくふれますので、ここではこれくらいで省略しておきます。
ちょっと小耳にはさんだ小噺のようなものをちょっと。
明治時代、木橋から石橋に架け替えたとき、
常盤橋の「盤」であるが、
「皿」ではもろい、「石」のほうが堅固でいい、ということから、常盤橋から常磐橋となったという話があるようです(笑)
さて常盤橋からは、外堀を左に眺めながら竜閑橋跡から鎌倉橋、神田橋へと向かへばいいのですが、
こっち側は中央区側でして、今回の大手町エリアからややはみ出るということもありますので、
ひとまずさきの「大手町プレイス」の角までもどり、そこから鎌倉橋の方へ向かうことにしましょう。
さて、鎌倉橋ですが、
その橋がどう鎌倉と関係するのかといいますと、
江戸城を築くときに鎌倉から運ばれてきた石材がここで陸揚げされ、その河岸場を「鎌倉河岸」(内神田側)と呼んだことによるもものいわれています。
がっしりした橋ですね。関東大震災後の復興橋の一つで、昭和4年(1929)に架橋されています。
下を流れるのは日本橋川江戸城(外堀)。
よくみると橋の欄干などに、戦時中の焼夷弾の傷痕が残っています。
昼時になるとお弁当販売のワゴン車が数珠つながりです。
高速道路が川の天井になって上空を遮ってるので、どうしても川面がうす暗いです。
鎌倉橋のところからは、
「大手町川端緑道」を歩きます。歩行者専用の遊歩道です。
このさきの錦橋から後方にあるJR線の高架橋まで780メートルほどでしょうか。とてもよく整備された緑道です。
神田橋のところには「神田橋御門」がありました。
首都高速の出口あたりでしょうか。江戸城の外郭門の一つで、寛永6年(1629)に築かれました。
将軍が上野の寛永寺などへ参るときに用いられた御成道の出入り口でした。
水琴窟やエコ・ミュ-ジアムといったのもあります。
大手町フィナンシャルシティ・ノースタワーの敷地の植え込みの中に、
「庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡」の標柱が立ってます。「致道博物館東京友の会建立」となっていますから、つまり国元有志の建立ということですね、
サンケイビルなどを含む一帯が庄内藩の上屋敷でした。
庄内藩酒井氏についてちょっとふれておきましょう。
さきの「酒井雅楽頭」とは同族で、
徳川家康の祖・松平親氏の子・酒井広親が家祖。ここまでは同じ流れです。
この広親の長男・酒井氏忠の家系にあたるといわれています。
こちらは代々「左衛門尉」(さえもんのじょうけ)を名乗っていました。
なかでも光のが酒井忠次ですね、
家康の駿府での人質生活をホロ-して家康からは絶大な信頼を寄せられていました。
側近中の側近で、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)のひとりです。
余談ですが、
幕末に庄内藩は、かの新撰組からの分裂組ともいえる「新徴組」(しんちょうぐみ)を預かり指揮しました。尊王倒幕派の取締りです。
その新徴組を江戸庶民は「御回りさん」と呼んだんだそうですね。これが今日言う「お巡りさん」の語源になっているらしいです。
さらに余談ですが、
庄内鶴岡市出身の小説家に藤沢周平がおりますね。
ワタシの好きな作家のひとりです。
庄内藩の歴史に取材した作品のいくつかあげてみます。
〇長門守の陰謀~初代・忠勝の実弟・長門守忠重が画策した世継ぎ騒動を描いた短編です。
〇義民が駆ける~三方領地替えを阻止すべく立ち上がった義民を描いた小説です。
〇回天の門~庄内藩出身の幕末の志士・清河八郎を描いた小説です。
藤沢周平の時代小説で、その多くが映画化されていますが、そこに出てくる「海坂藩」は庄内藩がモデルとされています。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」(ともに山田洋次監督)、
「蝉しぐれ」(黒土三男監督)
ともに記憶にのこる作品です。
このあたりから気象庁がみえます。
通りの一帯が緑化されています。
生物季節観測のための紅葉や桜の木がたくさんあります。
気象庁は、
生物季節現象(日照や季節の変化で生物が示す反応、現象)の観測もやっているんですね。
直接、目や耳で観測する。
同じ生物現象を毎年定点観測し、一般的には季節の進み具合など、広くは温暖化への影響な゛とを調べるんですね
気象庁の歴史について。
明治4年7月、工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を開始。
同8年5月内務省地理寮(のち 国土地理院)に東京気象台を設置。
同年6月1日から観測開始。
大正12年1月1日この地に移転。
昭和17年6月1日、「東京気象台」設置。この日)を「 気象記念日」とする。
同31年運輸省(国土交通省)の外局となり「 気象庁」と改称。
なお、気象庁の庁舎は2020年のうちに移転する予定になっています。
庁舎内にあった「気象科学館」も同様のようです。
気象庁の敷地のはずれ、右手に錦橋があります。そちらを眺めるとアスリ-ト食堂というのがみえます。
ここで外堀からはなれ内堀のほうへ向かいましょう。
気象庁前という交差点に出たら、そのまま交差点を内堀のほうへ渡ります。
堀に沿って歩道があります。小さな公園の中に和気清麻呂像が建っています。
女帝・孝謙天皇(重祚し称徳天皇)に寵愛をうけ、天皇家を略奪しょうと画策した道鏡の野心を打ち砕き、皇統を護った忠臣とされています
この像は昭和15年(1940)の皇紀2600祭を記念し、大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会とによって建てられたとあります。彫刻家・佐藤清蔵の作品とあります。
この小公園のところは、ただいま何やら整備中で、囲いがされています。この銅像のあたりでがギリギリ大手町です。
ここからちょっとさきで一ツ橋へと地番がかわります。
皇居を一周するマラソンランナ-が急に多くっなってくるところです。
すぐ近くには地下鉄東西線・竹橋駅の入口があります。
ではここで〆ることにします。
それではまた。
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